灰を越えて風になる   作:雷光123

14 / 34
見られる痛みと、寄り添う呼吸

 湖畔の浅瀬に、朝の光が薄く落ちていた。水面は揺れず、空気の温度だけがほんの少し沈んでいる。

 

 この湖は昔から、街の“揺らぎ”を最初に映す場所だった。

 

「……アリス。この湖、昔から街の“揺らぎ”に敏いんだ」

「揺らぎ?」

「時間がズレるんだよ。風が吹いてるのに影だけが先に動いたり……子どもの頃に一度だけ見た」

「そんな……本当にあったの?」

「誰も信じてくれなかったけどな。今日の静けさも、その前兆に近い」

 

 誰も信じてくれなかったけれど──湖は、街の呼吸が乱れると真っ先に反応する。

 

 今日の静けさも、偶然ではない。

 

 朝の光は落ちるのに、湖は息をしない。

 その沈黙だけが、今日の異常の輪郭を先に描いていた。

 

 その沈みに合わせるように、白い影が震えていた。

 光の線が触れた瞬間、彼女は胸を抱えるように身体を縮める。

 

 触れられるのが、ただ怖いだけ……そんな震えだった。

 

「……逃げるっていうより、怯えてる感じだね」

 

 隣で足を止めたアリスが、小さく息を落とす。

 薄桃色の髪が朝光で淡く透け、首元のリンク跡がかすかに灯った。

 その微かな灯りが揺れるたび、彼女の不安も同じ速度で揺れているように見えた。

 

「触れられたくないんだろ」

「ううん……“見られたくない”んだと思う」

 

「……ねえ、リオ」

 

 アリスが声を潜める。

 

「あの震え……人に見られるの、すごく怖がってる。まるで“視線そのもの”が痛いみたいに」

「痛い……?」

「うん。誰かに見られると、形が削れる感じ……そんなふうに聞こえるの」

 

 胸元の布を押さえたアリスの指先が、少し震えた。

 リンクの反応が、湖面の薄さへ溶けていく。

 

 浅瀬の縁に立ち、光に触れない位置で声をかける。

 朝光が髪を撫で、黒いはずの髪が青灰へ沈んだ。

 影の薄さが、自分の輪郭だけを静かに浮かせていた。

 

「……傷は、大丈夫か」

 

 返事はなかった。

 代わりに光の粒だけがぱらりと散り、声が“触れた”ことへ怯えたように揺れた。

 

「……見ないで」

 

 細く震えた声。風よりかすかな声だった。

 

 彼女は“見られる”ことそのものが痛いのだろう。

 

「……フィリア」

 返事はない。それでも言う。

 

「見ないでと言われても……俺は、お前を“見失う”方が怖い」

 

 アリスが横目で俺を見る。

 

「それ……優しすぎるよ。でも、届いてる」

 

 白い輪郭は、光の角度で簡単に崩れてしまう。

 人の視線はただの情報ではなく、“観測の刃”になる。触れた部分から彼女の形が削げ、震えが強くなるのを、目の前で見て分かった。

 

 けれど俺の声だけは、なぜか彼女を傷つけない。

 理由は分からない。距離のせいだけでもない。

 

 光の縁が俺へ伸びかけ、すぐに怯えて引いた。

 その一瞬に、ほんのかすかな“痛み”が混じった。

 

 存在が壊れそうな痛さ。

 それでも逃げきれないみたいに、こちらへ視線が吸い寄せられていた。

 

 

 その瞬間、背後の森で“セル”の気配がひとつ走った。

 草の葉が揺れず、音だけが遅れて届く。あの異質な波だ。

 

「今の……聞こえた?」

 

 アリスが震えた声で言う。

 

「ああ。セルだ。距離が近い」

「うそ……なんでこんな場所に……」

「理由はあとで考えろ。まず隠れる」

 

 白影がさらに縮こまる。

 

「フィリア、動くな。大丈夫だ」

 

 白影がびく、と震える。

 

「怖いのは分かる。でも、俺のそばにいれば大丈夫だ」

 

 その乱れの中で、初めて彼女がこちらをまっすぐ見た。

 

 恐怖で曇った目だったが、それでも助けを求めるように揺れていた。

 

 風もないのに、白い薄片の髪だけがほどけるように漂う。

 肩先の輪郭はかすれ、まばたきの遅れと同じ速度で震えていた。

 その遅れが、恐れの形をそのまま映している。

 

「……大丈夫だ。今は俺が近くにいる」

 

 偽りのない声が出た。

 拒絶されても寄り添うしかない。

 こんな震え、放っておけない。

 

 胸が沈むたび、掌の温度がひとつだけ逃げていく。

 それが、彼女の震えと同じ速度だった。

 

(……聞こえる?)

 

 耳奥に小さな振動。通信越しのリナの声だった。

 

(彼女の“位相”、今……安定してる。さっきまで乱れてたのに)

 

「何もしてない。距離だけだ」

 

(……本当に。あなたのそばだけ、安定してるみたい)

 

 言葉は湖面へ吸い込まれ、光だけが薄く揺れた。

 

 俺の影が浅瀬へ近づくほど、彼女の光は揺れを失っていく。

 その変化に気づいたアリスが、胸の奥でそっと息を整えた。

 三人のあいだだけ、空気が別の位相で静まっているようだった。

 

 フィリア──そう呼ぶしかない白影は、まだ身を縮めていた。

 だが“逃げる動き”だけは完全に消えていた。

 

 光の断片が肩から落ち、湖へ触れた。

 断光が円を描き、静かな波紋を広げる。

 

 波紋の中心で、白影に淡い“影”が生まれた。

 影を持てないはずの存在が、自分の近くでだけ輪郭を得る。

 その影は、彼女自身が驚いたようにふるえた。

 

 音はなかった。ただ光だけが淡く揺れた。

 

 一歩、浅瀬へ踏み出す。

 

「……守る。今は、それだけでいい」

 

 胸の奥で脈がひとつ沈む。

 その沈みに、彼女の震えがそっと重なった。

 

 湖畔の風がまだ動かない。

 揺れているのは彼女だけだった──

 

 ──その時。

 

(っ……逃げて!)

 

 通信が跳ねた。リナの声が震える。

 

(灰羽セルが近づいてる! 弾道反応……銃撃よ! 隠れて!)

 

 同時に、森の奥で乾いた破裂音。

 光の線が木々の間を走り、地面の砂を細く跳ね上げた。

 

「アリス、気づいたか……影が先に動いてる」

「うん……あれ、セルの“遅れ”でしょ?」

「ああ。音よりずっと早く空気が裂ける。近いな」

「こんな場所に……どうして……」

「理由は後回しだ。まずは隠れろ」

 

 風より先に空気が裂け、匂いより先に“揺れ”が届く。

 

 彼らが追っているのは温度でも足跡でもない。

 世界の膜に走る、ごくわずかな歪みだ。

 

 そして……その揺れは、フィリアの震えと似ている。

 

 同じ種類の波が湖畔へ近づいてくる。

 銃撃は威嚇ではなく、探知の一部だ。射線の方向より、空気の裂けかたがそれを示していた。

 

 

 空気の膜が一瞬だけ裂け、光の裂け目が細く走った。

 音より先に空間だけが割れる、あの異常な感触。

 

 銃撃だ。

 

 アリスが息を呑み、俺の腕をつかむ。

 

「見つかった……? いや……違う、射線がズレてる……!」

(セルは“何か”を探してる。あなたたちじゃない……けど近い!)

「伏せろ!」

 

「リオ、やっぱり来てる……! 射線が、こっちをかすめてる!」

「焦るな。俺たちを狙ってはいない」

「わかってても怖いよ……っ」

「だからこそ、静かにしてろ。声が響く」

 

 砂地を転がり、湖畔の陰へ身を滑り込ませる。

 白影もすぐ後ろへ引き寄せた。

 触れた瞬間、彼女の輪郭が一瞬だけ明瞭になる。

 

 銃撃の音がまたひとつ。

 弾丸が浅瀬へ落ち、水飛沫だけが細く立ち上がった。

 

「……怖い……」

 

 白い声が震える。

 肩先の光が崩れそうに揺れる。

 

「静かに。こっちは気づかれてない」

 

 木々の奥、灰色の翼の影がひとつ揺れた。

 セル特有の“音の遅れ”が空気を裂く。

 

(セル、南から北へ移動中……! 探してる……まるで“匂い”を追うみたいに)

 

 アリスが唇を噛む。

 

「……あれ、こっち来る気配じゃない。でも、近すぎる……!」

 

 白影の震えが強くなる。

 また銃撃。乾いた音だけが風のない空気に跳ねた。

 

「このままじゃ巻き込まれる……っ」

 

(湖の北東に凹地がある! そこなら視線切れる!)

 

「走る。声出すな」

 

 腕を伸ばすと、白影は迷ったあとでそっと触れてきた。

 その触れ方は、壊れものみたいに軽かった。

 

「行くよ。絶対離れるな」

 

 浅瀬を離れ、凹地へ向かって三人で走る。

 足元の影が遅れ、白い揺れがすぐ後ろを追う。

 

 胸の奥が沈む感じは、初めてじゃない。

 

 昔、誰かを守ろうとしたときにも同じ“沈み”があった。

 名前は思い出せない。顔も、声も曖昧だ。それでも脈が沈む感触だけは覚えている。

 

 あれは恐怖じゃない。躊躇の消える感覚だ。

 

 今の揺れは、あの時に近い。

 理由も前兆も分からないのに、“守る”という行動だけが先に形を持つ。

 

 フィリアの震えと俺の脈が、どこかで同じ速さになっていた。

 

 

(セル……反応が変わった……あなたたちが離れた方向と逆へ向かってる……!)

「よし……バレてない」

 

 胸の奥で脈が深く沈む。

 安堵ではない。

 白影の震えと同じリズムで、何かが揺れていた。

 

 凹地に滑り込み、息を潜める。

 銃撃の音は次第に遠ざかっていく。

 

「……だいじょうぶ……?」

 

 かすれた光の声が落ちる。

 

「大丈夫だ。ここまでは追ってこない」

 

 アリスが小さく笑う。

 

「ほら、ちゃんと通じてるよ。少しだけど」

「……こわい……でも……ここは……あたたかい……」

 

 白影は胸に光を抱くように縮こまり、

 アリスは彼女へそっと手を伸ばした。

 

 三人の呼吸が、同じ速度で落ちていく。

 

 アリスは息を浅く整え、フィリアは震えるたびに光をこぼす。

 俺だけが、その二つの間で呼吸をゆっくり合わせていった。

 

 フィリアは“息”がうまくできない。

 存在が揺れるたび、形が薄くなり、光がほどける。

 

 だから俺は、自分の呼吸を彼女の速度へ落とした。

 胸の脈を静かに沈め、浅瀬で感じた揺れのままに。

 

 その瞬間、彼女の輪郭が小さく安定した。

 

 アリスが驚いたように俺を見る。

 

「今……揺れが止まった……。なんで?」

 

 答えられない。

 ただ、触れてもないのに彼女の光が俺の呼吸に合わせて揺れていた。

 

 通信越しのリナが、小さく震えた声で言う。

 

(……位相が、重なってる……? そんなはず……)

 

 湖畔に風は戻らない。

 でも、フィリアの震えだけは俺の胸へ確かに届いていた。

 

 指先は震えているのに、その動きだけは迷いがなかった。

 触れれば壊れそうなのに、躊躇だけは見せない。

 

「……大丈夫。さっきみたいに震えていいよ。怖いだけなんだから」

 

 白影の光が、小さく上下した。

 

「……ここにいれば安全だ。俺がいるから」

 

 震えは弱いのに、その揺れだけが世界でいちばん確かな“気配”だった。

 静けさの中で、それだけが失われずに残っていた。

 

 声に嘘はなかった。

 その言葉に、光の粒がひとつだけ柔らかく揺れた。

 

 風はまだ動かない。

 ただ、白影の震えだけが確かにここに届いていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。