湖の白光が、ゆっくりと呼吸をほどくように弱まっていった。
「……なんか、まだ胸が変な感じする」
アリスが横目でこちらを見る。
「さっきの光のせい?」
「たぶん。まだ終わった気がしない」
胸の奥に薄い空洞ができたようで、呼吸の底が少しだけ揺れた。
その揺れが、まだ終わりを受け入れきれていない自分を浮かび上がらせる。
ついさっきまで肌を刺すほど澄んでいた光は、細い糸になり、ほどけるたびに水面へ沈んでいく。揺れもせず、ただ水は静かにその光の終わりを受け入れていた。
「風、冷たいのに……変な温度してるな」
「さっきの光のせいだよ、絶対」
胸の奥に沈んでいた痛みは、重さを残したまま形を変えた。痛みというより、深呼吸の直前で生まれる浅い緊張に近い。
「……戻ろう。アリス、フィリアも」
言葉にした瞬間、喉が乾いた音を立てた。
「……言ったくせに、まだ腹の底が決めきれてないな」
アリスが小さくまばたきする。
「え? いま何か言った?」
「いや、独り言だ」
喉の奥で鳴った息を押しとどめるように、一度だけ深く吸い込んだ。
「でも……行く。迷ってる暇はないしな」
振り返った先で、アリスは靴底を水際に止めたまま、場の静けさを乱さないように息を潜めていた。
その肩は細く震え、彼女自身も光の余韻に飲まれないよう、慎重に立っていた。
アリスが振り返り、短く息をついた。
「うん。でも……フィリア、大丈夫?」
白い影の震えは、さっきより弱い。それでも不安は薄れていない。浅瀬から一歩遠ざかるたび、心臓の脈へほんの小さな揺れが響いてくる。
「……いっしょ……」
その声は、声と呼ぶには細すぎた。けれど確かに届いた。
「……さっきの、まだ怖いんだよな。分かるよ」
「うん、見てて分かる」
フィリアの光の指先が、そっと俺の袖をつまむ。
触れた瞬間、光がふわりと揺れ、淡い色が混じった。恐怖を押し返すほど強い光じゃない。ため息のように静かな温度だけが、指先へ触れてくる。
指先の温度が思ったより冷たくて、息が小さく詰まった。
「……頼られてんだな、これ」
袖をつまむ力は紙を扱うように頼りない。
力よりも、その奥の迷いのほうが先に伝わった。
「壊したくない」という想いは語られずとも、指先の間隔から分かった。
アリスの目が丸くなる。
「……こんなに冷たいのに、頼られてるって分かるんだな」
袖を見るように視線を落とすと、フィリアの光がわずかに震えた。
アリスがその反応に気づいて、息をのむ。
「いまの……聞こえてたのかな?」
「かもな。でも……聞かれて困ることでもないし」
胸の奥で跳ねた脈を誤魔化すように、指先をそっと動かした。
「……リオ、袖。掴んでる」
驚いているのに、どこか救われたような声だった。胸に手を当て、そっと息を整えている。
「分かってる」
「怖いのに……自分から触るなんて……」
「……すごいね。あの子、ちゃんと“選んでる”んだよ」
アリスは胸に触れたまま、ほっと息を吐いた。
わずかな笑みが滲むと、まぶたの奥に淡い潤みが生まれる。
「……そういう顔すんなよ、ちょっとズルい」
「え? 何が?」
「なんでもない」
「ねえ。たぶん……フィリア、あなたと行きたいんだと思う」
「……そうなのか?」
アリスは一瞬、まばたきを忘れたように俺を見た。
安心と、胸の奥を少しだけ刺すざわめきが入り混じった表情。
それを隠すように視線が揺れ、俺とフィリアの手元へ落ちる。
アリスは一度、言葉にならない息を喉の奥で押しとどめた。
まぶたがわずかに震え、指先がぎゅっと自分の袖を握る。
その動きはすぐに解けたが、隠しきれない揺れが残った。
そして呼吸を整え、かすかに肩を落とした。
「……ほんと、そういうところ……ずるいくらい優しいんだから」
その呟きは、フィリアには届かないほど小さかった。
白影は答えない。ただ、袖をつまむ力だけがほんの少しだけ強くなる。
呼吸をするたび、彼女の輪郭が揺れた。
その揺れが俺の脈と重なり、消えていく。
「こわい……でも……いっしょ……」
掴んだ指は震えていた。
「……俺のほうが揺れてるとか、情けないな」
それは拒絶の震えではない。選んだ恐怖だった。
守られるより、「一緒にいる」を選んだ──そんな震え。
「……大丈夫だ。戻るまで離れない」
言葉にした瞬間、胸の奥で脈が重く跳ねた。
自分で言っておきながら、その重さに遅れて息が止まった。
「……言った瞬間、腹くくれた気がする」
足元から冷えた感触が這い上がり、逆に心臓の鼓動だけが熱を持って浮き上がる。
それでも迷いはなかった。
光がふっと静まり、袖の端が落ち着いた。
アリスがそばで頷き、フィリアの揺れを確かめるように屈んで目線を合わせる。
「……大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね」
姉のような柔らかさが一瞬だけ差し込み、彼女は俺のほうへ向き直った。
「フィリア、落ち着いたみたい。ねえリオ……あなた、本当に何してるの?」
「何もしてない。ただ……近くにいるだけだ」
「それが一番すごいんだってば……」
歩き出した瞬間、湖の表面が一度だけふるりと揺れた。
俺たち三人と一つの影が伸び、その形が湖の淡い光に溶けて混ざる。
そのわずかな交差に、世界が方向を変える前触れのような静かな気配があった。
白光は細い糸になり、湖は静かな呼吸を取り戻す。
──そのとき。
(……リオ。聞こえる?)
通信の向こうで、計器の電子音が揺れた。
(観測ノイズ……消えてる。湖の揺らぎが、一気に静まっていく……!)
驚きに混じって、理解の追いつかない困惑が続く。
俺のせいだと言われたようで、背筋にひやりとした線が走った。
「……これ、本当に俺のせいなのか?」
(理論的にはありえない。計測仕様にもない……どうして……?)
声の端は震えていた。
まるで、観測結果の異常に気づいた瞬間、彼女自身の“感情の防壁”が一瞬だけ剥がれたようだった。
理屈を並べながらも、不安の色が抜けきらない。
ひと呼吸置いて、低い声が落ちてきた。
(……ごめん、今、私……震えてる)
「ノイズが……消えてる?」
アリスが驚いて振り返る。
(フィリア単体では不安定。でも、あなたの近くだと“位相が密着して安定化する”。……意味が分からない。こんなの記録にない)
「理由は後でいい。今は合流する」
(ええ。すぐ向かう。合流地点で待ってる)
通信が途切れた。
最後に残ったのは、ノイズの向こうで息を詰める音。
“早く確かめたい、でも無事でいてほしい”という焦りが、微かな余韻に混ざっていた。
フィリアはまだ袖を離さず、静かな揺れを保っていた。
歩くたびに震えが移り、それが掌の温度へ流れ込み、胸の沈みへ変換されていく。
「……リオ。フィリア、離れる気ないね」
アリスがやわらかく笑う。
「もう……連れて帰るしかない」
「……ああ。最初からそのつもりだ」
口にした瞬間、胸の奥が音もなく落ちた。
落ちた重みが腹の底まで沈み、そこから熱が逆流するように広がった。
「……もう、俺一人の理由じゃ済まないんだな」
「……やっとだ。言ってから……やっと実感が追いついてきた」
アリスが横から覗きこむ。
「え、なにそれ。どういう意味?」
「そのままの意味だよ。もう……俺ひとりで決める話じゃないってこと」
言葉にしてみると、腹の底に溜まっていた熱が少しだけほどけた。
歩き出す足が軽くなるのが、自分でも分かった。
「……悪くないな、こういうのも」
痛みではなく、前へ踏み出す時だけ生まれる重み。
足元の土がわずかに沈み、身体が自然と前へ傾く。
決意が形になるとは、こういう感覚だ。
風が吹き、湖面の白光が最後の波を描く。
細く伸びた白い揺れは、まるで俺たちを見送るようだった。
フィリアは袖を握りしめたまま、小さく言う。
「……かえる……あなたと……いっしょに……」
その声の奥には、震えだけじゃない“選ぶ力”が宿っていた。
光の輪郭が一瞬だけ強まり、意思を示すように揺れる。
フィリアは一度、俺とアリスを見比べるように光を揺らした。
逃げるでもなく、ただ確かめるように細い視線を重ねる。
喉が小さく鳴った。
「……怖いのに、前を向いてるんだよな。すげぇよ、ほんと」
「……今、決まった。もう迷わない」
アリスが息をのむ。
「リオ……?」
「大丈夫だ。フィリアも、アリスも……もう離さない」
フィリアの光がわずかに震え、袖をきゅっとつまむ。
その重みが、胸の奥に静かに沈んだ。
「もちろんだ。行こう」
三人と一つの白影は、静まった湖を背に帰還の道を踏み出す。
揺れていたのは、もうフィリアだけじゃなかった。
俺の脈も、同じ速さで重なっていた。
白光の残滓は細く揺れ、湖は静かに光を閉じた。
それはまるで、小さな了承のようだった。
湖面の奥底で、消え残った光がひとつだけ沈んでいく。
それは、“見守る者”の最後のまばたきのようでもあり、
俺たちの選んだ進路を静かに肯定する、微かな頷きに思えた。