灰を越えて風になる   作:雷光123

15 / 34
選ばれた震え、重なる脈

 湖の白光が、ゆっくりと呼吸をほどくように弱まっていった。

 

「……なんか、まだ胸が変な感じする」

 

 アリスが横目でこちらを見る。

 

「さっきの光のせい?」

「たぶん。まだ終わった気がしない」

 

 胸の奥に薄い空洞ができたようで、呼吸の底が少しだけ揺れた。

 その揺れが、まだ終わりを受け入れきれていない自分を浮かび上がらせる。

 

 ついさっきまで肌を刺すほど澄んでいた光は、細い糸になり、ほどけるたびに水面へ沈んでいく。揺れもせず、ただ水は静かにその光の終わりを受け入れていた。

 

「風、冷たいのに……変な温度してるな」

「さっきの光のせいだよ、絶対」

 

 胸の奥に沈んでいた痛みは、重さを残したまま形を変えた。痛みというより、深呼吸の直前で生まれる浅い緊張に近い。

 

「……戻ろう。アリス、フィリアも」

 

 言葉にした瞬間、喉が乾いた音を立てた。

 

「……言ったくせに、まだ腹の底が決めきれてないな」

 

 アリスが小さくまばたきする。

 

「え? いま何か言った?」

「いや、独り言だ」

 

 喉の奥で鳴った息を押しとどめるように、一度だけ深く吸い込んだ。

 

「でも……行く。迷ってる暇はないしな」

 

 振り返った先で、アリスは靴底を水際に止めたまま、場の静けさを乱さないように息を潜めていた。

 その肩は細く震え、彼女自身も光の余韻に飲まれないよう、慎重に立っていた。

 

 アリスが振り返り、短く息をついた。

 

「うん。でも……フィリア、大丈夫?」

 

 白い影の震えは、さっきより弱い。それでも不安は薄れていない。浅瀬から一歩遠ざかるたび、心臓の脈へほんの小さな揺れが響いてくる。

 

「……いっしょ……」

 

 その声は、声と呼ぶには細すぎた。けれど確かに届いた。

 

「……さっきの、まだ怖いんだよな。分かるよ」

「うん、見てて分かる」

 

 フィリアの光の指先が、そっと俺の袖をつまむ。

 

 触れた瞬間、光がふわりと揺れ、淡い色が混じった。恐怖を押し返すほど強い光じゃない。ため息のように静かな温度だけが、指先へ触れてくる。 

 

 指先の温度が思ったより冷たくて、息が小さく詰まった。

 

「……頼られてんだな、これ」

 

 袖をつまむ力は紙を扱うように頼りない。

 力よりも、その奥の迷いのほうが先に伝わった。

 

「壊したくない」という想いは語られずとも、指先の間隔から分かった。

 

 アリスの目が丸くなる。

 

「……こんなに冷たいのに、頼られてるって分かるんだな」

 

 袖を見るように視線を落とすと、フィリアの光がわずかに震えた。

 

 アリスがその反応に気づいて、息をのむ。

 

「いまの……聞こえてたのかな?」

「かもな。でも……聞かれて困ることでもないし」

 

 胸の奥で跳ねた脈を誤魔化すように、指先をそっと動かした。

 

「……リオ、袖。掴んでる」 

 

 驚いているのに、どこか救われたような声だった。胸に手を当て、そっと息を整えている。 

 

「分かってる」

「怖いのに……自分から触るなんて……」

「……すごいね。あの子、ちゃんと“選んでる”んだよ」 

 

 アリスは胸に触れたまま、ほっと息を吐いた。

 わずかな笑みが滲むと、まぶたの奥に淡い潤みが生まれる。

 

「……そういう顔すんなよ、ちょっとズルい」

「え? 何が?」

「なんでもない」

 

「ねえ。たぶん……フィリア、あなたと行きたいんだと思う」

「……そうなのか?」 

 

 アリスは一瞬、まばたきを忘れたように俺を見た。

 安心と、胸の奥を少しだけ刺すざわめきが入り混じった表情。

 それを隠すように視線が揺れ、俺とフィリアの手元へ落ちる。

 

 アリスは一度、言葉にならない息を喉の奥で押しとどめた。

 まぶたがわずかに震え、指先がぎゅっと自分の袖を握る。

 その動きはすぐに解けたが、隠しきれない揺れが残った。

 

 そして呼吸を整え、かすかに肩を落とした。

 

「……ほんと、そういうところ……ずるいくらい優しいんだから」 

 

 その呟きは、フィリアには届かないほど小さかった。

 

 白影は答えない。ただ、袖をつまむ力だけがほんの少しだけ強くなる。 

 

 呼吸をするたび、彼女の輪郭が揺れた。

 その揺れが俺の脈と重なり、消えていく。 

 

「こわい……でも……いっしょ……」 

 

 掴んだ指は震えていた。

 

「……俺のほうが揺れてるとか、情けないな」

 

 それは拒絶の震えではない。選んだ恐怖だった。

 

 守られるより、「一緒にいる」を選んだ──そんな震え。 

 

「……大丈夫だ。戻るまで離れない」

 

 言葉にした瞬間、胸の奥で脈が重く跳ねた。

 自分で言っておきながら、その重さに遅れて息が止まった。

 

「……言った瞬間、腹くくれた気がする」

 

 足元から冷えた感触が這い上がり、逆に心臓の鼓動だけが熱を持って浮き上がる。

 それでも迷いはなかった。

 

 光がふっと静まり、袖の端が落ち着いた。

 

 アリスがそばで頷き、フィリアの揺れを確かめるように屈んで目線を合わせる。 

 

「……大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね」

 

 姉のような柔らかさが一瞬だけ差し込み、彼女は俺のほうへ向き直った。

 

「フィリア、落ち着いたみたい。ねえリオ……あなた、本当に何してるの?」

「何もしてない。ただ……近くにいるだけだ」

「それが一番すごいんだってば……」 

 

 歩き出した瞬間、湖の表面が一度だけふるりと揺れた。

 俺たち三人と一つの影が伸び、その形が湖の淡い光に溶けて混ざる。

 そのわずかな交差に、世界が方向を変える前触れのような静かな気配があった。

 白光は細い糸になり、湖は静かな呼吸を取り戻す。

 

 ──そのとき。

 

(……リオ。聞こえる?)

 

 通信の向こうで、計器の電子音が揺れた。

 

(観測ノイズ……消えてる。湖の揺らぎが、一気に静まっていく……!)

 

 驚きに混じって、理解の追いつかない困惑が続く。

 俺のせいだと言われたようで、背筋にひやりとした線が走った。

 

「……これ、本当に俺のせいなのか?」

(理論的にはありえない。計測仕様にもない……どうして……?)

 

 声の端は震えていた。

 まるで、観測結果の異常に気づいた瞬間、彼女自身の“感情の防壁”が一瞬だけ剥がれたようだった。

 理屈を並べながらも、不安の色が抜けきらない。

 

 ひと呼吸置いて、低い声が落ちてきた。

 

(……ごめん、今、私……震えてる)

 

「ノイズが……消えてる?」 

 

 アリスが驚いて振り返る。

 

(フィリア単体では不安定。でも、あなたの近くだと“位相が密着して安定化する”。……意味が分からない。こんなの記録にない)

「理由は後でいい。今は合流する」

(ええ。すぐ向かう。合流地点で待ってる)

 

 通信が途切れた。

 最後に残ったのは、ノイズの向こうで息を詰める音。

 “早く確かめたい、でも無事でいてほしい”という焦りが、微かな余韻に混ざっていた。

 

 フィリアはまだ袖を離さず、静かな揺れを保っていた。

 

 歩くたびに震えが移り、それが掌の温度へ流れ込み、胸の沈みへ変換されていく。

 

「……リオ。フィリア、離れる気ないね」

 

 アリスがやわらかく笑う。

 

「もう……連れて帰るしかない」

「……ああ。最初からそのつもりだ」

 

 口にした瞬間、胸の奥が音もなく落ちた。

 落ちた重みが腹の底まで沈み、そこから熱が逆流するように広がった。

 

「……もう、俺一人の理由じゃ済まないんだな」

 

「……やっとだ。言ってから……やっと実感が追いついてきた」

 

 アリスが横から覗きこむ。

 

「え、なにそれ。どういう意味?」

「そのままの意味だよ。もう……俺ひとりで決める話じゃないってこと」

 

 言葉にしてみると、腹の底に溜まっていた熱が少しだけほどけた。

 歩き出す足が軽くなるのが、自分でも分かった。

 

「……悪くないな、こういうのも」

 

 痛みではなく、前へ踏み出す時だけ生まれる重み。

 

 足元の土がわずかに沈み、身体が自然と前へ傾く。

 決意が形になるとは、こういう感覚だ。

 

 風が吹き、湖面の白光が最後の波を描く。

 

 細く伸びた白い揺れは、まるで俺たちを見送るようだった。

 

 フィリアは袖を握りしめたまま、小さく言う。

 

「……かえる……あなたと……いっしょに……」

 

 その声の奥には、震えだけじゃない“選ぶ力”が宿っていた。

 光の輪郭が一瞬だけ強まり、意思を示すように揺れる。

 

 フィリアは一度、俺とアリスを見比べるように光を揺らした。

 逃げるでもなく、ただ確かめるように細い視線を重ねる。

 喉が小さく鳴った。

 

「……怖いのに、前を向いてるんだよな。すげぇよ、ほんと」

「……今、決まった。もう迷わない」

 

 アリスが息をのむ。

 

「リオ……?」

「大丈夫だ。フィリアも、アリスも……もう離さない」

 

 フィリアの光がわずかに震え、袖をきゅっとつまむ。

 

 その重みが、胸の奥に静かに沈んだ。

 

「もちろんだ。行こう」

 

 三人と一つの白影は、静まった湖を背に帰還の道を踏み出す。

 

 揺れていたのは、もうフィリアだけじゃなかった。

 

 俺の脈も、同じ速さで重なっていた。

 

 白光の残滓は細く揺れ、湖は静かに光を閉じた。

 それはまるで、小さな了承のようだった。

 湖面の奥底で、消え残った光がひとつだけ沈んでいく。

 それは、“見守る者”の最後のまばたきのようでもあり、

 俺たちの選んだ進路を静かに肯定する、微かな頷きに思えた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。