灰を越えて風になる   作:雷光123

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燃える市場、息を詰めた街

 市場区へ戻る道は、思ったより静かだった。

 

 ラナ湖から街へ引き返す途中、俺たちは協会の巡回艇に拾われた。

「揺らぎ観測の優先搬送」という名目で、半ば強制的に街側へ連れ戻された形だ。

 

 アリスはフィリアを抱えるようにして席に座り、俺は窓越しに遠ざかる湖を見ていた。

 あの白い光は、完全には消えていない気がした。

 

「……リナは?」と俺が尋ねると、艇の通信士が短く答えた。

 

「負傷者搬送の補助に回っています。あなた方とは別行動です」

 

 それだけだった。

 理由としては十分だが、胸の奥に薄く空洞ができるのを感じた。

 いまの俺は、その空洞を埋められるほど冷静じゃない。

 

 胸の奥で、まだ言葉にならない熱がくすぶっている。

 湖で収まったはずの揺れが、別の形で息を吹き返してくるようだった。

 

「……嫌な予感がする」

 

 呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。

 そして──市場区に着いた瞬間、静けさはひっくり返った。

 

 灰の匂いが胸を刺した瞬間、どこかで“無音”が走ったように痛みが跳ねた。

 セラの気配に触れた時と同じ、理由の分からない疼きだった。

 

 建物の奥から、焦げた木材が弾ける音。

 火勢そのものは退いているのに、火の粉だけが灰色に舞い、消える気配がない。

 

 風が吹くたび、どこかで誰かが咳き込む声がした。

 扉の影にうずくまる人影があり、薄い煙の向こうで手を振っているのが見える。

 

「……街のほうが、俺たちに助けてって言ってるみたいだな」

 

 アリスが振り向く。

 

「うん……そんな感じする。痛い、って言ってるみたい」

 

 道の端では、焼けた布を抱えた老婆が、倒れた屋台の前で茫然と立ち尽くしていた。

 誰かの名前を呼んでいるようだが、煙に紛れて言葉は聞き取れない。

 通りの中央にはひしゃげた荷車が転がり、散らばった果物が熱で黒く潰れていた。

 

「……リオ、こわい……」

 

 袖をつまむ力が強まる。

 

「大丈夫だ。見てなくていいから、アリスのそばにいろ」

 

 フィリアは小さく「……うん……」と光を揺らした。 

 

 光の層が街の痛みに呼応するように波立つのが見えた。

 まるで“街そのものが泣いている”とでも言うように。

 

「……揺れが、街に残ってる」

 

 アリスが小さくつぶやいた。治癒術師の感覚は、俺よりもずっと敏感だ。

 

「さっきの湖の光と……似てる?」

「違う。もっと……生々しいの。街の息と混ざって光脈が揺れてる」

 

 アリスが煙の向こうを見て、小さく息を漏らした。

 

「……街が、悲鳴を上げている……」

 

 その言葉が胸に刺さる。

 

「……俺たち、遅かったのかもしれない」

 

 アリスが一瞬だけ俺を見る。

 

「そんなこと、言わないでよ……」

 

 そんな考えが喉の奥で渦巻き、息をするのが少しだけ苦しくなった。

 フィリアの光が震えたたび、それは自分の罪悪感を照らしているようにも見えた。

 

 アリスが小さく息をのむ。

 

「……思ったより酷いね」

 

 フィリアは俺の後ろに隠れ、視線を上げようとしない。

 市場の熱を見た瞬間、震えが戻ったのだ。

 観測を拒むように、光の指先が俺の袖をかすかに摘む。

 

 光の揺れが、いつもより不規則だった。

 炎のはぜる音に合わせて呼吸が乱れ、胸の奥で光層がひとつ潰れては戻る。

 

「……こわい……」

 

 声にならない声が、袖越しに伝わってきた。 

 

「大丈夫だ、無理はしなくていい」

 

 そう言うと、袖をつまむ力だけがわずかに強まった。

 

 本隊はまだ到着していないらしい。

 かわりに、街の領主軍と協会の光術部隊が路地で言い争っていた。

 

「ロッシュ隊長、これ以上勝手に動かないでいただきたい!」

 

 声を荒げたのは、白衣に光術章を下げたミーナ。

 その横で、短く刈った黒髪の男──カイルが腕を組んでいた。 

 

「フェルこそ、机上の判断持ち込むなよ。火はもう落ちかけてる。避難民の残りがいるかもしれねぇんだ。手遅れになる前に入るべきだろ」

 

 カイルの目は怒っているというより、焦りを無理に押し潰したような色だった。

 間に合わなかった光景を、何度も見てきた者の目だ。

 

「光脈観測が安定しないままの突入は危険だと、何度言えば……!」

 

 彼女の指先はわずかに震え、握った観測端末に白い跡が残っていた。

 恐れているのは炎そのものではなく、判断を誤ること──その責任の重さだと分かった。

 

 ミーナは珍しく語尾を荒げていた。

 アリスが小声で「……ミーナさん、あんな声出すんだ」と驚く。

 

 カイルは舌打ちし、周囲の兵に目を向けた。

 

「どっちに従えばいいか迷ってんなら、俺についてこい。責任は俺が取る」

「勝手に──!」

 

 ミーナが止めようとしたが、カイルは聞かない。

 

 アリスが俺を見る。

 

「リオ……どうする? 本隊はまだで、指揮がバラバラだよ」

(……あいつは今、あの塔で一人きりなんだ)

 

 胸の奥で何かが、ゆっくり熱を帯びた。

 

 煙のにおいが喉を焼くせいだけじゃない。

 この場の誰も、住民の方を見ていない。

 火を、街を、守ろうとする誰かの姿がどこにもない。

 

「セラが塔の裏層にいると言うのに……」

 

 胸の奥で、何かがきしむ音がした。

 誰も前へ出ない光景は、昔どこかで見た景色と重なった。

 

「また……誰も動かないのかよ」

 

 自分でも気づかないほど低い声が漏れた。

 

 ──誰が戦ってるんだ。

 ──俺たちのために、誰が動いてる? 

 

 そんな問いが、腹の底を重く殴った。

 

「……カイル。住民の確認、まだなんだな?」

 

 俺が近づくと、カイルがこちらへ振り返った。

 

「あんたらか。戻ったばかりで悪いが、手がほしい」

「協会とは調整しないのか?」

 

 と問うと、

 

「したくても、フェルが許可を出さねぇ」

 

 それを聞いたミーナが一歩前に出た。

 

「許可できる状況じゃないの! 光脈が不安定。火の粉が触れた瞬間に“消える”現象、あなたも見たでしょう!?」

 

 カイルは鼻で笑った。

 

「現象の分析は後でいい。今必要なのは──」

「分析がなかったせいで街が死んだ例を、私は知っています!」

 

 フェルの声が震えていた。

 理屈だけじゃない。

 恐怖を押しとどめて立っているのが分かる。

 

 アリスがその横で、そっと言葉を置いた。

 

「ミーナさん……まず避難民の確認をしよう? その後なら観測もできます」

「……アリスさん、あなたは優しすぎる。優しさだけで火は止まらないのに」

「でも優しさがないと、人は動かないよ」

 

 その一言に、ミーナは言葉を失ったように沈黙した。

 

 カイルが息を吐く。

 

「……ほらな。ここで立ち止まるのが一番まずいんだ」

 

(……“命令だ、下がれ”)

 

 あの時のセラの声が、胸の奥でまた反響する。

 

(誰かの命令を待つ側には立たない)

 

 俺は二人の間に割って入り、短く言った。

 

「住民を助けるのが先だ。判断はそれだけでいい」

 

 ミーナが俺を見つめる。

 

「……あなたも、観測結果を聞いたうえで言ってるの?」

「聞いた。でも──」

 

 胸の奥で、怒りがはっきりした形を持った。

 

「誰も動けないなら、俺が動く。あとはあとで責任を取ればいい」

 

 カイルが笑う。

 

「いいねぇ。その顔だ。やっと戦う奴の顔になった」

 

 ミーナは眉を寄せたが、強く否定はしなかった。

 

「……無茶はしないで。少なくとも、私が観測できる距離にはいて」

 

 それが精一杯の譲歩なのだろう。

 

 火に近づいた瞬間、アリスが声を上げた。

 

「リオ、あれ……!」

 

 路地の奥で、ユングが倒れた木材を必死に支えていた。

 その背には幼い子どもがしがみついている。

 

「ユングさん!」

 

 俺が駆け寄ると、ユングは顔を上げる。

 

「すみません……この子が、逃げ遅れて……!」

 

 声は震えているのに、目だけが強かった。

 

 カイルが木材を持ち上げる。

 

「くそ、こりゃ抜けねぇ……火が回るぞ!」

 

 アリスが光術で子どものほうの負傷を確認する。

 

「息はある! でも早く外に!」

 

 フェルも駆け寄り、地面の光脈を確認した。

 

「……光脈が乱れてる。これ以上火が強くなったら──」

 

 そのときだった。

 

 火の粉が、すっと光脈に触れた。

 本来なら燃え広がるはずの場所で、音もなく“消えた”。

 

 ミーナが息を呑む。

 

「やっぱり……この現象、広がってる……!」

 

 だが俺は、その静けさのほうに震えた。

 

 炎の揺れよりも、街が痛む音のほうが強く感じる。

 

「……これ、痛みじゃない。怒りだ」

「……怒ってるんだ、俺」

 

 その実感が、静かに形を持った。

 

「カイル、ユングさんと子どもを頼む!」

「任せろ!」

「フェル、観測は続けろ! でも下がるな!」

「……分かった!」

 

 俺は立ち上がり、火の先へ目を向けた。

 

 光脈の乱れが広がる先──そこが問題の中心だ。

 

「……光脈を確保する。あれが崩れたら、本当に街が終わる」

 

 フィリアが震えながら袖をつまんだ。

 

「……いっちゃ……だめ……?」

「大丈夫だ。離れない。すぐ戻る」

 

 その言葉に、フィリアの光が弱く揺れた。

 

 アリスがそっと背を押した。

 

「リオ、行って。私がフィリアを見てるから」 

 

 胸の奥が静かに沈む。

 恐怖でも、不安でもない。

 前へ進む時の、重い静けさだ。

 

「行く。誰も動けないなら、俺が動く」

 

 火の粉が風に押され、灰色に散った。

 その一瞬だけ、音が消えた。

 

 街が息を詰めている──そう聞こえた。

 

 胸の奥が、じりりと焦げるように痛んだ。

 火の熱ではない。もっと古い、もっと深い痛みだ。

 

(また……守れなかったって顔を見るのか)

 

 脳裏に、“白い光の中で伸ばされた細い手”が、一瞬だけよぎった。

 煙にかき消え、届かなかったあの日。

 あの手と同じ震えが、フィリアの指先にも宿っている。

 

「リオ……?」

 

 アリスの声が震えている。フィリアは袖を握ったまま、ただ光を小さく欠かせていた。

 

「こわい……こわいよ……おと……」

 

 呼びかけにならない音が、必死に形を求めて揺れている。

 

 俺は膝をつき、フィリアと目線を合わせた。

 

「大丈夫だ。お前は俺が守る」

 

 そう言った瞬間、フィリアの光がかすかに揺れ、安心とも不安ともつかない色に滲んだ。

 

「リオ……怖いよ。あなたが行くって言うなら……もっと怖い」

 

 アリスの目を見たとき、胸の痛みが少しだけ変わった。

 恐怖の痛みが、怒りと責任の熱に塗り替えられる。

 

「……置いていくんじゃない。守るために前へ出るだけだ」

 

 自分にそう言い聞かせるように、呼吸をひとつ整える。

 炎の光が風に散り、視界の端で揺れた。

 

「誰も動かないなら、俺が動く。

 ──誰も守れないまま終わるのは、もう嫌なんだ」

 

 その声は、自分でも驚くほど静かで、けれど濁りがなかった。

 アリスが息を呑み、フィリアが袖を握る手にもう一度だけ力を込める。

 

「行って……リオ」

 アリスが震えながらも背中を押した。

 

「……すぐ戻る」

「うん。絶対だよ」

 

 街が焼け落ちる音が遠くで響き、光脈が不安定に脈打つ。

 そのどれもが“行け”と言っているように思えた。

 

 足へ重心を乗せると、胸の疼きが再び熱を帯びた。

 逃げる痛みじゃない。

 

「……よし。進む。覚悟はもうできてる」

 

 湖で沈んだ白光とは違い、ここに残っているのは焼けた痛みの色だけだった。

 癒える気配のない“街の傷”が、俺の背中を押した。

 

 俺は走った。

 

 光脈の中心へ。

 街を守るために。

 怒りを、正しい場所へ向けるために。

 

 そして、燃える市場区の奥へ踏み込んだ。

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