市場区へ戻る道は、思ったより静かだった。
ラナ湖から街へ引き返す途中、俺たちは協会の巡回艇に拾われた。
「揺らぎ観測の優先搬送」という名目で、半ば強制的に街側へ連れ戻された形だ。
アリスはフィリアを抱えるようにして席に座り、俺は窓越しに遠ざかる湖を見ていた。
あの白い光は、完全には消えていない気がした。
「……リナは?」と俺が尋ねると、艇の通信士が短く答えた。
「負傷者搬送の補助に回っています。あなた方とは別行動です」
それだけだった。
理由としては十分だが、胸の奥に薄く空洞ができるのを感じた。
いまの俺は、その空洞を埋められるほど冷静じゃない。
胸の奥で、まだ言葉にならない熱がくすぶっている。
湖で収まったはずの揺れが、別の形で息を吹き返してくるようだった。
「……嫌な予感がする」
呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。
そして──市場区に着いた瞬間、静けさはひっくり返った。
灰の匂いが胸を刺した瞬間、どこかで“無音”が走ったように痛みが跳ねた。
セラの気配に触れた時と同じ、理由の分からない疼きだった。
建物の奥から、焦げた木材が弾ける音。
火勢そのものは退いているのに、火の粉だけが灰色に舞い、消える気配がない。
風が吹くたび、どこかで誰かが咳き込む声がした。
扉の影にうずくまる人影があり、薄い煙の向こうで手を振っているのが見える。
「……街のほうが、俺たちに助けてって言ってるみたいだな」
アリスが振り向く。
「うん……そんな感じする。痛い、って言ってるみたい」
道の端では、焼けた布を抱えた老婆が、倒れた屋台の前で茫然と立ち尽くしていた。
誰かの名前を呼んでいるようだが、煙に紛れて言葉は聞き取れない。
通りの中央にはひしゃげた荷車が転がり、散らばった果物が熱で黒く潰れていた。
「……リオ、こわい……」
袖をつまむ力が強まる。
「大丈夫だ。見てなくていいから、アリスのそばにいろ」
フィリアは小さく「……うん……」と光を揺らした。
光の層が街の痛みに呼応するように波立つのが見えた。
まるで“街そのものが泣いている”とでも言うように。
「……揺れが、街に残ってる」
アリスが小さくつぶやいた。治癒術師の感覚は、俺よりもずっと敏感だ。
「さっきの湖の光と……似てる?」
「違う。もっと……生々しいの。街の息と混ざって光脈が揺れてる」
アリスが煙の向こうを見て、小さく息を漏らした。
「……街が、悲鳴を上げている……」
その言葉が胸に刺さる。
「……俺たち、遅かったのかもしれない」
アリスが一瞬だけ俺を見る。
「そんなこと、言わないでよ……」
そんな考えが喉の奥で渦巻き、息をするのが少しだけ苦しくなった。
フィリアの光が震えたたび、それは自分の罪悪感を照らしているようにも見えた。
アリスが小さく息をのむ。
「……思ったより酷いね」
フィリアは俺の後ろに隠れ、視線を上げようとしない。
市場の熱を見た瞬間、震えが戻ったのだ。
観測を拒むように、光の指先が俺の袖をかすかに摘む。
光の揺れが、いつもより不規則だった。
炎のはぜる音に合わせて呼吸が乱れ、胸の奥で光層がひとつ潰れては戻る。
「……こわい……」
声にならない声が、袖越しに伝わってきた。
「大丈夫だ、無理はしなくていい」
そう言うと、袖をつまむ力だけがわずかに強まった。
本隊はまだ到着していないらしい。
かわりに、街の領主軍と協会の光術部隊が路地で言い争っていた。
「ロッシュ隊長、これ以上勝手に動かないでいただきたい!」
声を荒げたのは、白衣に光術章を下げたミーナ。
その横で、短く刈った黒髪の男──カイルが腕を組んでいた。
「フェルこそ、机上の判断持ち込むなよ。火はもう落ちかけてる。避難民の残りがいるかもしれねぇんだ。手遅れになる前に入るべきだろ」
カイルの目は怒っているというより、焦りを無理に押し潰したような色だった。
間に合わなかった光景を、何度も見てきた者の目だ。
「光脈観測が安定しないままの突入は危険だと、何度言えば……!」
彼女の指先はわずかに震え、握った観測端末に白い跡が残っていた。
恐れているのは炎そのものではなく、判断を誤ること──その責任の重さだと分かった。
ミーナは珍しく語尾を荒げていた。
アリスが小声で「……ミーナさん、あんな声出すんだ」と驚く。
カイルは舌打ちし、周囲の兵に目を向けた。
「どっちに従えばいいか迷ってんなら、俺についてこい。責任は俺が取る」
「勝手に──!」
ミーナが止めようとしたが、カイルは聞かない。
アリスが俺を見る。
「リオ……どうする? 本隊はまだで、指揮がバラバラだよ」
(……あいつは今、あの塔で一人きりなんだ)
胸の奥で何かが、ゆっくり熱を帯びた。
煙のにおいが喉を焼くせいだけじゃない。
この場の誰も、住民の方を見ていない。
火を、街を、守ろうとする誰かの姿がどこにもない。
「セラが塔の裏層にいると言うのに……」
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
誰も前へ出ない光景は、昔どこかで見た景色と重なった。
「また……誰も動かないのかよ」
自分でも気づかないほど低い声が漏れた。
──誰が戦ってるんだ。
──俺たちのために、誰が動いてる?
そんな問いが、腹の底を重く殴った。
「……カイル。住民の確認、まだなんだな?」
俺が近づくと、カイルがこちらへ振り返った。
「あんたらか。戻ったばかりで悪いが、手がほしい」
「協会とは調整しないのか?」
と問うと、
「したくても、フェルが許可を出さねぇ」
それを聞いたミーナが一歩前に出た。
「許可できる状況じゃないの! 光脈が不安定。火の粉が触れた瞬間に“消える”現象、あなたも見たでしょう!?」
カイルは鼻で笑った。
「現象の分析は後でいい。今必要なのは──」
「分析がなかったせいで街が死んだ例を、私は知っています!」
フェルの声が震えていた。
理屈だけじゃない。
恐怖を押しとどめて立っているのが分かる。
アリスがその横で、そっと言葉を置いた。
「ミーナさん……まず避難民の確認をしよう? その後なら観測もできます」
「……アリスさん、あなたは優しすぎる。優しさだけで火は止まらないのに」
「でも優しさがないと、人は動かないよ」
その一言に、ミーナは言葉を失ったように沈黙した。
カイルが息を吐く。
「……ほらな。ここで立ち止まるのが一番まずいんだ」
(……“命令だ、下がれ”)
あの時のセラの声が、胸の奥でまた反響する。
(誰かの命令を待つ側には立たない)
俺は二人の間に割って入り、短く言った。
「住民を助けるのが先だ。判断はそれだけでいい」
ミーナが俺を見つめる。
「……あなたも、観測結果を聞いたうえで言ってるの?」
「聞いた。でも──」
胸の奥で、怒りがはっきりした形を持った。
「誰も動けないなら、俺が動く。あとはあとで責任を取ればいい」
カイルが笑う。
「いいねぇ。その顔だ。やっと戦う奴の顔になった」
ミーナは眉を寄せたが、強く否定はしなかった。
「……無茶はしないで。少なくとも、私が観測できる距離にはいて」
それが精一杯の譲歩なのだろう。
火に近づいた瞬間、アリスが声を上げた。
「リオ、あれ……!」
路地の奥で、ユングが倒れた木材を必死に支えていた。
その背には幼い子どもがしがみついている。
「ユングさん!」
俺が駆け寄ると、ユングは顔を上げる。
「すみません……この子が、逃げ遅れて……!」
声は震えているのに、目だけが強かった。
カイルが木材を持ち上げる。
「くそ、こりゃ抜けねぇ……火が回るぞ!」
アリスが光術で子どものほうの負傷を確認する。
「息はある! でも早く外に!」
フェルも駆け寄り、地面の光脈を確認した。
「……光脈が乱れてる。これ以上火が強くなったら──」
そのときだった。
火の粉が、すっと光脈に触れた。
本来なら燃え広がるはずの場所で、音もなく“消えた”。
ミーナが息を呑む。
「やっぱり……この現象、広がってる……!」
だが俺は、その静けさのほうに震えた。
炎の揺れよりも、街が痛む音のほうが強く感じる。
「……これ、痛みじゃない。怒りだ」
「……怒ってるんだ、俺」
その実感が、静かに形を持った。
「カイル、ユングさんと子どもを頼む!」
「任せろ!」
「フェル、観測は続けろ! でも下がるな!」
「……分かった!」
俺は立ち上がり、火の先へ目を向けた。
光脈の乱れが広がる先──そこが問題の中心だ。
「……光脈を確保する。あれが崩れたら、本当に街が終わる」
フィリアが震えながら袖をつまんだ。
「……いっちゃ……だめ……?」
「大丈夫だ。離れない。すぐ戻る」
その言葉に、フィリアの光が弱く揺れた。
アリスがそっと背を押した。
「リオ、行って。私がフィリアを見てるから」
胸の奥が静かに沈む。
恐怖でも、不安でもない。
前へ進む時の、重い静けさだ。
「行く。誰も動けないなら、俺が動く」
火の粉が風に押され、灰色に散った。
その一瞬だけ、音が消えた。
街が息を詰めている──そう聞こえた。
胸の奥が、じりりと焦げるように痛んだ。
火の熱ではない。もっと古い、もっと深い痛みだ。
(また……守れなかったって顔を見るのか)
脳裏に、“白い光の中で伸ばされた細い手”が、一瞬だけよぎった。
煙にかき消え、届かなかったあの日。
あの手と同じ震えが、フィリアの指先にも宿っている。
「リオ……?」
アリスの声が震えている。フィリアは袖を握ったまま、ただ光を小さく欠かせていた。
「こわい……こわいよ……おと……」
呼びかけにならない音が、必死に形を求めて揺れている。
俺は膝をつき、フィリアと目線を合わせた。
「大丈夫だ。お前は俺が守る」
そう言った瞬間、フィリアの光がかすかに揺れ、安心とも不安ともつかない色に滲んだ。
「リオ……怖いよ。あなたが行くって言うなら……もっと怖い」
アリスの目を見たとき、胸の痛みが少しだけ変わった。
恐怖の痛みが、怒りと責任の熱に塗り替えられる。
「……置いていくんじゃない。守るために前へ出るだけだ」
自分にそう言い聞かせるように、呼吸をひとつ整える。
炎の光が風に散り、視界の端で揺れた。
「誰も動かないなら、俺が動く。
──誰も守れないまま終わるのは、もう嫌なんだ」
その声は、自分でも驚くほど静かで、けれど濁りがなかった。
アリスが息を呑み、フィリアが袖を握る手にもう一度だけ力を込める。
「行って……リオ」
アリスが震えながらも背中を押した。
「……すぐ戻る」
「うん。絶対だよ」
街が焼け落ちる音が遠くで響き、光脈が不安定に脈打つ。
そのどれもが“行け”と言っているように思えた。
足へ重心を乗せると、胸の疼きが再び熱を帯びた。
逃げる痛みじゃない。
「……よし。進む。覚悟はもうできてる」
湖で沈んだ白光とは違い、ここに残っているのは焼けた痛みの色だけだった。
癒える気配のない“街の傷”が、俺の背中を押した。
俺は走った。
光脈の中心へ。
街を守るために。
怒りを、正しい場所へ向けるために。
そして、燃える市場区の奥へ踏み込んだ。