良ければお付き合いください。
塔へ踏み込んだ瞬間、世界は音を失った。
靴裏の触感だけが鮮明で、呼吸の震えすら壁に吸われる。
「……光脈、全部消えてる。塔が“息してない”みたいだな」
(……セラ。ここにいる)
「……また胸が鳴ってる。湖で出会ったあいつと同じだ」
嫌でも分かった。
あいつが、またいる。
階段を上り、最奥へと続く扉に手を伸ばした瞬間──
カツ。
塔の沈黙を破る小さすぎる音。
それだけで背中が跳ねた。
床が縦に裂けた。
音を持たない裂け目が光を殺し、そこから“人の影”が立ち上がった。
童顔めいた輪郭。
だが、その体の線は鋭い刃のように締まり、動いた瞬間だけ“壊すために生まれた身体”であることが分かる。
白い息を吸う。その気配だけで塔が軋んだ。
(……また、こいつか)
湖で一度遭遇し、斬撃のような裂を生む異常な存在。
名は知らない。
人間かどうかも怪しい。
だが、確かに“俺を狙ってくるもの”として身体が覚えている。
男は振り返らず言った。
「やっぱ来たな。……坊主」
声だけは軽い。
内容は、氷のように冷たい。
「湖の時より、ずいぶん深く呼ばれてる顔してるじゃねぇか」
呼ばれている。
胸の疼き。
セラの微かな呼吸。
すべてが塔の奥へ向かっている。
俺は銃を構える。
「そこを通す気はないって顔だな」
男は喉の奥で笑う。
「通すわけねぇだろ。“あの子”は壊れ切る寸前だ。お前が触ったら、余計に壊れんだよ」
胸の熱が跳ねた。
(セラのことを知っている……?)
男は床を軽く蹴った。
その一点から塔の亀裂が蜘蛛の巣状に走り、空間の輪郭を噛み砕く。
「湖での続き、やろうぜ。あれ、楽しかったろ?」
次の瞬間、姿が消えた。
俺は横へ跳ぶ。
反射神経ではない。
胸の焼けが“揺れ”を示す。
足元を影が抉る。
床が斜めに切断され、欠片が音もなく落ちる。
(切断……空気ごと斬ってきてる)
押し寄せる裂け目。
だが、ひとつだけ“揺れの癖”がある。
「攻撃の前に……ひびが沈む。お前、塔の傷を使って動いてるのか」
湖で学んだこと。
“影の男”は世界の観測の隙を突く。
ひびを足場に、存在をずらし、遅れ像をいくつも生む。
塔内部はその能力を最大化する。
黒い裂け目が天井から落ちてくる。
背中をなでる冷気。
心臓が跳ねる。
(来る)
反射ではなく、揺れを読む。
フィリアがやっていたことを真似る。
男の影が背後に迫る──その瞬間、俺は身体を捻り、銃を斜めに構えた。
轟光。
沈黙が砕け、男の肩が弾け飛ぶ。
灰色の粒が舞う。
だが男は崩れない。
片肩の欠損すら、動きを鈍らせない。
「……へぇ。今日は読みが冴えてんな、坊主。“見なくても撃てる”ようになったか」
男は口だけ笑い、足を塔のひびへ重ねる。
「でも、遅ぇんだよ」
次の瞬間、五つの遅れ像が生まれ、同時に襲いかかる。
(本体……どこだ)
銃を振るう時間すらない。
裂け目の斬撃が空気を歪め、世界が紙片のように折れ曲がる。
俺は胸の焼けへ身を預ける。
「……ここだ。揺れの“中心”が見える」
撃つ。
銃声と同時に、影の一つが破裂し、残りの遅れ像が消える。
煙の中で、男の膝が崩れた。
「……っぐ……!」
男は息を荒くし、裂けた肩から灰を流しながら、それでも楽しそうに笑う。
「坊主……やべぇな……本当に“壊し切る気”で来るじゃねぇか……」
俺は構えを解かない。
「もう通さない。あいつを壊させない」
胸が熱く震える。
セラの光が、塔の奥でかすかに脈打っていた。
男はその光へ視線を向け、舌打ちした。
「……チッ。あの子、呼んでやがる」
影の男は立ち上がろうとした。
だが足元のひびの奥──塔の深層が、彼を拒絶するように揺れた。
裂け目が縮んでいく。
「……なんだよ、てめ……塔ごと……っ」
塔のひびが、一瞬だけ“光”を滲ませた。
セラの魂波が塔の深層へ触れたのだ。
「……リオ……」
揺れが男の足を止める。
存在がずれ、観測が乱れ、身体がひびに引っかかる。
(……塔が……セラを守ろうとしている……)
男は必死に裂け目を開こうとする。
「ふざけんな……! 俺はまだ……壊り足り……!」
俺は最後の一発を構えた。
「終わりだ」
胸の焼けが線となり、導線のように男の核心へ収束する。
撃つ。
弾丸は男の胸の“ひびの中心”を貫き、塔全体がその一点へ共鳴した。
影が砕け、裂け目が逆流し、灰が塔の内部へ吸い込まれていく。
男は最後に、薄い声で呟いた。
「……坊主……あの子……壊すなよ……」
そして影は完全に崩れ、霧のように消えた。
“影の男”は──消滅した。
裂け目が閉じ、沈黙だけが残る。
俺はようやく扉の前に立つ。
微かな呼吸。
冷たい空洞。
セラがいる。
胸が焼ける。
もう遅れない。
扉を押し開けると、白い髪の少女が薄光の中で膝を抱えていた。
「……リオ……?」
壊れかけた声。
それでも確かに、呼んでいた。
俺は歩み寄り、彼女をそっと抱き寄せた。
「来た。今度は……間に合った」
塔のひびが、やさしく一度だけ震えた。
影の男が砕けたあと、塔はしばらくのあいだ沈黙していた。
亀裂は消え、霧も薄れ、ただ“穴がふさがる音”だけが奥で小さく響いている。
だが──気配は、まだ終わりではなかった。
背後。
階段の上方。
コツ、コツ。
靴音が塔の壁に吸われながら落ちてくる。
この塔の音ではない。
沈黙に慣れた空気の上を、別世界の歩調が横切ったようだった。
俺は銃を構え直す。
ゆっくりと、一人の男が姿を現した。
細身で、影のような動き。
だが存在感だけは薄くない。
空間の“縁”に触れるように歩き、そこだけ塔の沈黙が少し揺らいだ。
男は俺のほうを一瞥し、口元だけで笑った。
「へぇ……本当に“裂け目の坊や”を倒したんだな。面白ぇ。協会の犬の割には骨がある」
声は軽いのに、響きだけは妙に硬い。
俺の胸の疼きとは違う、冷たい金属音が混じっていた。
(誰だ……?)
男は名乗った。
「ヴォルタ・クレン。反協会領の密使だよ」
武器は持っていない。
戦う姿勢でもない。
ただ、塔全体の揺らぎを観察するように視線を動かしている。
「……お前、あいつの仲間か」
影の男を指して問うと、ヴォルタは鼻で笑った。
「仲間ねぇ。惜しいけど違う。“あれ”は反協会領で造られた観測破壊兵の試作品さ。協会から“奪った技術の模造品”ってところだな」
端末──?
俺の思考が止まる。
その語は、セラとフィリアのような存在を指すはずだった。
「まあ安心しろ。お前が壊したのは“ただの奴隷規格”。本物は──あの部屋の奥にいる“あの子”だろうな」
ヴォルタの視線が、セラのいる扉の奥へ刺さる。
そのとき、胸の疼きが鋭く跳ねた。
“触るな”というように、内側から押し返す。
俺が半歩前へ出ると、ヴォルタは肩をすくめた。
「怒るなよ。俺は彼女に触りに来たんじゃない。“どう壊れていくか”を見に来ただけだ」
その言い方が、何より許せなかった。
銃口がわずかに上がる。
だがヴォルタは一切怯えず、むしろ楽しそうに瞳を細める。
「撃つか? 撃てないさ。俺は“ここにいない”。ただの観測者だ」
その瞬間、俺は理解した。
男はここに立っているのに──
存在が、塔の観測線から微妙にズレている。
(……こいつも、ひびを使って動いている)
影の男ほど露骨ではない。
もっと静かに、もっと深く──塔の脆さを利用して“隠れている”。
ヴォルタは階段をひとつ上がり、振り返らぬまま言った。
「助けたいなら助けろよ。俺はその後の“壊れ方”を見るつもりだ。……端末じみた光だ。どこまで保つのか興味があるだけさ」
「黙れ」
俺は呟く。
胸の疼きが怒りに変わる。
ただの痛みではない。
守るために身体を前へ押す熱。
だがヴォルタはそれを愉快そうに聞き流した。
「まあ──頑張れよ、少年。彼女が完全に壊れる前に、どこまで手を伸ばせるか……」
気配が霧のように薄れた。
ヴォルタの姿は、塔の亀裂の向こうへ溶けるように消えた。
歩いて消えたのではない。
“塔の観測死角へ退いた”のだ。
あとに残ったのは沈黙だけ。
俺は息を吐き、銃を下ろす。
(……セラが危ない)
ヴォルタの言葉は挑発だ。
だが嘘ではなかった。
胸の疼きが確かに示している。
セラが──呼吸の途切れそうな場所で、ひびの中に閉じ込められている。
扉へ手を押し当てる。
冷たい。
まるで中にあるものが熱を奪っているかのようだ。
「……セラ」
押し開けた。
中は、白い。
色のほとんどが抜け落ち、薄光だけが揺れる部屋。
その中央で、少女が膝を抱えていた。
銀髪が肩に落ち、蒼い瞳はかすかに揺れもせず──生気を失った端末のように静止していた。
俺は駆け寄る。
「セラ!」
その名を呼ぶと、かすかに手が動いた。
震えとも反射ともつかぬ、小さな揺れ。
「……リオ……?」
声は壊れた楽器のように掠れていた。
息が細い。
魂波の循環が途絶えかけている。
俺はそっと肩を抱き寄せる。
セラの身体は驚くほど軽い。
まるで抜け殻だけを抱いているようだった。
「来た。……もう大丈夫だ」
セラはうっすらと瞼を震わせた。
その表情は、普段の無感情ではなく──
どこか、苦しげに歪んでいた。
「……わたし……止められなかった……塔が……ひびが……全部……」
「もういい。お前のせいじゃない。俺が来た。だから大丈夫だ」
腕の中で、セラが小さく息を吸う。
その呼吸に合わせるように、塔全体のひびが一度だけ震え、沈黙が和らいだ。
まるで“彼女を許す”ように。
俺は立ち上がり、セラを抱えたまま部屋をあとにする。
ヴォルタの残した薄い影が、廊下の奥で揺れた気がした。
(……また来る。でも、その時までに──俺が守れるようになればいい)
胸の疼きが、先ほどよりも静かに熱を帯びていた。
塔の沈黙が遠ざかる。
外へ向けて、わずかに光が戻り始めていた。