診療所を出た瞬間、朝の冷気が頬を刺した。
街道に出た途端、いつもなら聞こえるはずの荷車の軋みが弱かった。通術塔の光は朝なのにまだ細く震え、塔の表面を走る魔術紋がときおり途切れて見える。
「……通術塔、弱いままだな」
思わず呟くと、アリスが足を止めて見上げた。
彼女の目に映る塔は、薄い膜越しに見ているようにぼやけていた。
「ほんとだ……光が細い。朝ってこんなだった?」
「いや、もっと強い。あれじゃ監視が半分も働かない」
街道を歩く人たちも、どこか落ち着かない。手にした荷を胸に抱え、周囲を気にしながら歩く者が多い。声も小さく、挨拶の言葉さえ空気の奥へ沈んでいく。
北へ進むほど、地面の“沈み”が深くなっていくのが分かった。日差しは十分なのに、建物の足元だけが妙に冷えていた。そこを踏むたび、足首に薄い冷気が絡む。
通りの端では、商人が荷馬車の布を慌ててかけ直していた。空気が動かないせいで、布の沈黙だけが目立つ。
「物流、ほんとに乱れてるのかもね……さっきリナが言ってたやつ」
「だろうな。街に“流れ”がない」
歩くたび、足元の冷たさがひやりと這い上がった。胸の奥の脈が小さく沈む。街道の暗い部分だけが、日差しよりわずかにずれた動きをしているように見えた。
「……なんか、変だね。歩くたびに、胸の奥がざわつく」
アリスが胸元を押さえ、呼吸を整える。痛覚リンクが反応しているのか、肩の布がわずかに浮き沈みしていた。
「リンク、揺れてるのか?」
「うん……今日はずっと。痛いってほどじゃないけど、落ち着かない感じ」
「方向は?」
「……北寄り。あっちの空気が荒れているみたい」
その言い方に、脈が一度だけ沈んだ。街が冷えているだけじゃない。“別の動き”が始まっている。
市場に入ると、人の声が薄い。屋台の布も、空気の重さに押されるように沈んでいる。
アリスはその中を歩きながら、小声で言った。
「ねえ、リオ。市場、こんなに静かだったっけ?」
市場の音が途中でちぎれ、空気だけが先に沈みこんでいく。返事をしようとした瞬間、隣の屋台で商人が慌てて荷を布で覆った。
動きが妙に速い。隠すというより、“抱え込む”ような動きだった。布はぺたりと木箱に張りついたまま。空気の重さだけが際立つ。
「……ねえ、あの人、さっきも同じ動きしてたよ」
アリスが目線だけで商人を指した。
その商人は振り返りもせず、店先に貼っていた札を一気に剥がす。
「閉めるのか?」
「こんな朝から?」
アリスが眉を寄せた。
少し先では、荷馬車の御者が馬を押さえつけるようにして、店の裏へ回り込もうとしていた。馬も落ち着かず、地面の冷えた部分を避けるように斜めへ逃げた。
市場の中央へ近づくほど、ざわめきが途切れていく。声はあるのに途中で切れ、まるで誰かに摘まれて消えたみたいだった。
「……視線、感じない?」
アリスの声は低い。
彼女は首元を押さえ、肩を少し縮めて周囲を見回した。
「さっきからずっと、背中が重いんだ。誰かに見られてるみたいで……」
「気のせいだといいが」
そう言いながら歩を進めると、市場の端で浮浪児が地面にしゃがみ込んでいた。顔は汚れていたが、その目だけが異様に澄んでいる。
「……北は、だめだよ」
通りすがりに漏らすと、少年は暗がりへ滑るように消えた。足音も残さず、布の端だけが微かに揺れた。
「今、聞こえた? “だめだよ”って……」
「ああ。北門の方角だな」
「なんでそんなこと……」
アリスの言葉は細く途切れた。視線の先、狭い路地の奥が沈んでいた。そこだけ色が薄く、温度が抜けている。
「いや。朝ならもっと騒がしいはずだ」
「だよね……。声が、足りない」
アリスは耳の後ろを押さえ、視線を屋根の下へ移した。その仕草が少し硬い。
「リンク、痛む?」
「痛いってほどじゃ……ただ、あそこ。地面の暗い部分が波打ってるように見えるの」
指差した先。光と関係のない、妙な揺れがあった。
その揺れを見た瞬間、胸の脈がひとつ深く沈む。
――あれは、昔も……。
夕暮れの石畳。喧騒の減る時間帯。その中心で、彼女だけが“世界とずれていた”。
セラ。
白い髪が光を弾き、足元の暗がりだけが別の方向へ流れていた。風とは逆へ、石畳の目地をなぞるように。
「暗いところは、音より先に動くの。……だから嘘をつく」
彼女の声だけが淡く残る。意味は分からなかったのに、胸だけが妙に冷えた。
光と陰の境を踏んだとき、世界が一瞬だけ“音を失った”。靴音も、屋根の軋みも、風さえも遅れて届く。彼女の周囲だけ、時が沈んだ。
そして振り返った瞬間──空洞の瞳が揺れず、こちらを射抜いた。足元の揺れだけが、遅れて波を描く。
今、市場で起きている揺れ方と同じだった。
「……リオ?」
「ああ、悪い。昔のこと思い出してた」
「誰の?」
「……昔の知り合いだ。今の揺れと、少し似てて」
アリスは静かに頷く。その沈黙がありがたかった。
「とりあえず、補給任務を済ませよう。北の倉庫区画だ」
「うん。でも……さっきの揺れ、やっぱり変だよ?」
「後で確かめる。まず荷物だ」
日差しはあるのに肌寒い。見通しの悪さが胸騒ぎを育てる。
「……リンクが揺れる。あっち」
アリスが路地の隙間を指した。昼でも薄暗さの残る裏道だ。
「ちょっと見るだけだ。声出すな」
「分かった……」
壁際に近づき、息を殺して覗いた。
裏路地の奥。黒布の男が二人、木箱を積み替えている。箱の表面には“角竜貨路”の焼き印――闇市場の印だ。
「……やばいの見ちゃった?」
アリスが耳元で囁いた。声が微かに震える。
「ああ。武装者だ。荷は……密輸品かもしれない」
「どうするの?」
「深入りはしない。様子だけ見る」
男たちは周囲を警戒し、箱の中身を確かめている。刃の光が一瞬だけ細い路地を照らした。
「足元、揺れてる……」
アリスがさらに細い声で言う。確かに彼らの周囲の暗い部分が、風とは逆方向へわずかに動いた。
「……自然じゃない動きだ」
「うん……気味悪い。あれ、生きてるみたい」
「この街じゃ見ない動きだ」
胸が冷える。この揺れ方は知っている。
「リオ」
「なんだ」
「街の色が……濃い」
振り返ると、路地の入口にリナが立っていた。包帯を抱え、足元を確かめるように見つめている。
「どうしてここに?」
「買い出しついで。それより……ねえ、気づかない?」
「何を」
「空気の“重さ”。いつもより冷たい。街が変だよ」
リナは昔から、こういう変化に敏かった。
「リナ。今は危ない。戻れ」
「でも……二人だけじゃ心配で」
その言葉の直後だった。
――ドンッ。
空気が震え、市場の北側から衝撃が届く。続いて乾いた爆音。
「な……何!?」
「北門の方だ!」
アリスが袋を抱えて叫ぶ。
「地面が……跳ねてる!」
足元の暗い箇所が、風向きとは逆へ波を打った。街の呼吸が乱れ、冷気が喉を刺す。
「行くぞ! 様子を見ないと!」
駆けだした瞬間、空気が一段冷えた。朝の光はそのままなのに、温度だけが落ちる。
「風が……止まった?」
「さっきまで少し吹いてたのに……」
住民たちのざわめきが断片的に耳へ届く。遠い声が近く聞こえ、近い声が遠ざかる。
「リオ、地面……ずれてる」
アリスの震える声。石畳の暗がりが、走る足と“半拍遅れて”動いた。
「これは……」
「普通じゃないよ!」
アリスの呼吸が乱れる。
「大丈夫だ。走れるか?」
「う、うん……行ける……でも……怖い……」
「言うな。ついてこい」
リナも必死に追ってくる。時折足を止めそうになりながら。
「リオ……足元の輪郭が……濃い……。光より強い……」
「分かってる。とにかく北門へ──」
鉄の匂いが鼻を刺した。焦げた臭い。煙はないのに、焼けた金属の温度だけが漂う。
「匂い……火?」
「いや、もっと硬い匂いだ」
武具庫か防壁か――何かが衝撃を受けた証だ。坂の先で警備兵が二人、走り去っていく。鎧に黒い汚れがついている。
「北門、閉じるぞ! いない者は後回しだ!」
「塔の反応は!? まだ戻らないのか!」
怒号が散る。通術塔はまだ弱いままなのだろう。
「……塔が戻ってないのはまずいな」
「どういうこと?」
「監視が甘くなる。つまり──」
「“何かが入りやすい”ってこと……?」
アリスの声が細く震える。その瞬間、また空気が止まった。
「止まった……また……!」
「走れ! もうすぐだ!」
北門へ近づくほど、地面の暗がりが広がった。足元が水を踏むみたいに不安定になる。
「リオ、今……地面が──」
「ああ……分かってる……!」
胸の奥の脈が深く沈む。何かが“開きかけている”。そんな気配だけが確かだ。
「もう少しだ……門の角を曲がれば──」
視界の先で、空気が歪んだ。朝の光が一瞬だけ薄れ、防壁の下が大きく揺れた。
「来る……!」
アリスが袋を抱え、リナが口を押さえる。
そして──北門の向こうで、重い衝撃音が再び響いた。
地面の暗い面がふわりと浮く。街の底が震えた。
「リオ、危ないよ!」
「分かってる。でも……もう見過ごせない」
胸の奥が、理由を超えて前へ押す。この揺れ方は、あの日と同じだ。
「二人とも、ついてこい!」
「うん!」
「わ、わかった……!」
三人で北門へ向かう途中、空気の止まった街の中で、ただ足元だけが揺れ続けた。
まるで何かが目を覚ましたみたいに。