灰を越えて風になる   作:雷光123

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市場の底、揺れ始めた任務

 診療所を出た瞬間、朝の冷気が頬を刺した。

 

 街道に出た途端、いつもなら聞こえるはずの荷車の軋みが弱かった。通術塔の光は朝なのにまだ細く震え、塔の表面を走る魔術紋がときおり途切れて見える。

 

「……通術塔、弱いままだな」 

 

 思わず呟くと、アリスが足を止めて見上げた。

 

 彼女の目に映る塔は、薄い膜越しに見ているようにぼやけていた。

 

「ほんとだ……光が細い。朝ってこんなだった?」

「いや、もっと強い。あれじゃ監視が半分も働かない」

 

 街道を歩く人たちも、どこか落ち着かない。手にした荷を胸に抱え、周囲を気にしながら歩く者が多い。声も小さく、挨拶の言葉さえ空気の奥へ沈んでいく。

 

 北へ進むほど、地面の“沈み”が深くなっていくのが分かった。日差しは十分なのに、建物の足元だけが妙に冷えていた。そこを踏むたび、足首に薄い冷気が絡む。

 

 通りの端では、商人が荷馬車の布を慌ててかけ直していた。空気が動かないせいで、布の沈黙だけが目立つ。

 

「物流、ほんとに乱れてるのかもね……さっきリナが言ってたやつ」

「だろうな。街に“流れ”がない」

 

 歩くたび、足元の冷たさがひやりと這い上がった。胸の奥の脈が小さく沈む。街道の暗い部分だけが、日差しよりわずかにずれた動きをしているように見えた。

 

「……なんか、変だね。歩くたびに、胸の奥がざわつく」

 

 アリスが胸元を押さえ、呼吸を整える。痛覚リンクが反応しているのか、肩の布がわずかに浮き沈みしていた。 

 

「リンク、揺れてるのか?」

「うん……今日はずっと。痛いってほどじゃないけど、落ち着かない感じ」

「方向は?」

「……北寄り。あっちの空気が荒れているみたい」 

 

 その言い方に、脈が一度だけ沈んだ。街が冷えているだけじゃない。“別の動き”が始まっている。

 市場に入ると、人の声が薄い。屋台の布も、空気の重さに押されるように沈んでいる。

 

 アリスはその中を歩きながら、小声で言った。

 

「ねえ、リオ。市場、こんなに静かだったっけ?」

 

 市場の音が途中でちぎれ、空気だけが先に沈みこんでいく。返事をしようとした瞬間、隣の屋台で商人が慌てて荷を布で覆った。

 

 動きが妙に速い。隠すというより、“抱え込む”ような動きだった。布はぺたりと木箱に張りついたまま。空気の重さだけが際立つ。 

 

「……ねえ、あの人、さっきも同じ動きしてたよ」 

 

 アリスが目線だけで商人を指した。

 

 その商人は振り返りもせず、店先に貼っていた札を一気に剥がす。 

 

「閉めるのか?」

「こんな朝から?」

 

 アリスが眉を寄せた。

 

 少し先では、荷馬車の御者が馬を押さえつけるようにして、店の裏へ回り込もうとしていた。馬も落ち着かず、地面の冷えた部分を避けるように斜めへ逃げた。

 

 市場の中央へ近づくほど、ざわめきが途切れていく。声はあるのに途中で切れ、まるで誰かに摘まれて消えたみたいだった。

 

「……視線、感じない?」

 

 アリスの声は低い。

 

 彼女は首元を押さえ、肩を少し縮めて周囲を見回した。

 

「さっきからずっと、背中が重いんだ。誰かに見られてるみたいで……」

「気のせいだといいが」

 

 そう言いながら歩を進めると、市場の端で浮浪児が地面にしゃがみ込んでいた。顔は汚れていたが、その目だけが異様に澄んでいる。

 

「……北は、だめだよ」 

 

 通りすがりに漏らすと、少年は暗がりへ滑るように消えた。足音も残さず、布の端だけが微かに揺れた。

 

「今、聞こえた? “だめだよ”って……」

「ああ。北門の方角だな」

「なんでそんなこと……」

 

 アリスの言葉は細く途切れた。視線の先、狭い路地の奥が沈んでいた。そこだけ色が薄く、温度が抜けている。

 

「いや。朝ならもっと騒がしいはずだ」

「だよね……。声が、足りない」

 

 アリスは耳の後ろを押さえ、視線を屋根の下へ移した。その仕草が少し硬い。

 

「リンク、痛む?」

「痛いってほどじゃ……ただ、あそこ。地面の暗い部分が波打ってるように見えるの」

 

 指差した先。光と関係のない、妙な揺れがあった。

 

 その揺れを見た瞬間、胸の脈がひとつ深く沈む。

 

 ――あれは、昔も……。

 

 夕暮れの石畳。喧騒の減る時間帯。その中心で、彼女だけが“世界とずれていた”。

 

 セラ。

 

 白い髪が光を弾き、足元の暗がりだけが別の方向へ流れていた。風とは逆へ、石畳の目地をなぞるように。

 

「暗いところは、音より先に動くの。……だから嘘をつく」

 

 彼女の声だけが淡く残る。意味は分からなかったのに、胸だけが妙に冷えた。

 

 光と陰の境を踏んだとき、世界が一瞬だけ“音を失った”。靴音も、屋根の軋みも、風さえも遅れて届く。彼女の周囲だけ、時が沈んだ。

 

 そして振り返った瞬間──空洞の瞳が揺れず、こちらを射抜いた。足元の揺れだけが、遅れて波を描く。

 

 今、市場で起きている揺れ方と同じだった。

 

「……リオ?」

「ああ、悪い。昔のこと思い出してた」

「誰の?」

「……昔の知り合いだ。今の揺れと、少し似てて」

 

 アリスは静かに頷く。その沈黙がありがたかった。

 

「とりあえず、補給任務を済ませよう。北の倉庫区画だ」

「うん。でも……さっきの揺れ、やっぱり変だよ?」

「後で確かめる。まず荷物だ」

 

 日差しはあるのに肌寒い。見通しの悪さが胸騒ぎを育てる。

 

「……リンクが揺れる。あっち」

 

 アリスが路地の隙間を指した。昼でも薄暗さの残る裏道だ。

 

「ちょっと見るだけだ。声出すな」

「分かった……」

 

 壁際に近づき、息を殺して覗いた。

 

 裏路地の奥。黒布の男が二人、木箱を積み替えている。箱の表面には“角竜貨路”の焼き印――闇市場の印だ。

 

「……やばいの見ちゃった?」

 

 アリスが耳元で囁いた。声が微かに震える。

 

「ああ。武装者だ。荷は……密輸品かもしれない」

「どうするの?」

「深入りはしない。様子だけ見る」

 

 男たちは周囲を警戒し、箱の中身を確かめている。刃の光が一瞬だけ細い路地を照らした。

 

「足元、揺れてる……」

 

 アリスがさらに細い声で言う。確かに彼らの周囲の暗い部分が、風とは逆方向へわずかに動いた。

 

「……自然じゃない動きだ」

「うん……気味悪い。あれ、生きてるみたい」

「この街じゃ見ない動きだ」

 

 胸が冷える。この揺れ方は知っている。

 

「リオ」

「なんだ」

「街の色が……濃い」

 

 振り返ると、路地の入口にリナが立っていた。包帯を抱え、足元を確かめるように見つめている。

 

「どうしてここに?」

「買い出しついで。それより……ねえ、気づかない?」

「何を」

「空気の“重さ”。いつもより冷たい。街が変だよ」

 

 リナは昔から、こういう変化に敏かった。 

 

「リナ。今は危ない。戻れ」

「でも……二人だけじゃ心配で」

 

 その言葉の直後だった。

 

 ――ドンッ。

 

 空気が震え、市場の北側から衝撃が届く。続いて乾いた爆音。

 

「な……何!?」

「北門の方だ!」

 

 アリスが袋を抱えて叫ぶ。

 

「地面が……跳ねてる!」

 

 足元の暗い箇所が、風向きとは逆へ波を打った。街の呼吸が乱れ、冷気が喉を刺す。 

 

「行くぞ! 様子を見ないと!」

 

 駆けだした瞬間、空気が一段冷えた。朝の光はそのままなのに、温度だけが落ちる。

 

「風が……止まった?」

「さっきまで少し吹いてたのに……」

 

 住民たちのざわめきが断片的に耳へ届く。遠い声が近く聞こえ、近い声が遠ざかる。

 

「リオ、地面……ずれてる」

 

 アリスの震える声。石畳の暗がりが、走る足と“半拍遅れて”動いた。

 

「これは……」

「普通じゃないよ!」

 

 アリスの呼吸が乱れる。

 

「大丈夫だ。走れるか?」

「う、うん……行ける……でも……怖い……」

「言うな。ついてこい」

 

 リナも必死に追ってくる。時折足を止めそうになりながら。

 

「リオ……足元の輪郭が……濃い……。光より強い……」

「分かってる。とにかく北門へ──」

 

 鉄の匂いが鼻を刺した。焦げた臭い。煙はないのに、焼けた金属の温度だけが漂う。

 

「匂い……火?」 

「いや、もっと硬い匂いだ」

 

 武具庫か防壁か――何かが衝撃を受けた証だ。坂の先で警備兵が二人、走り去っていく。鎧に黒い汚れがついている。

 

「北門、閉じるぞ! いない者は後回しだ!」

「塔の反応は!? まだ戻らないのか!」

 

 怒号が散る。通術塔はまだ弱いままなのだろう。

 

「……塔が戻ってないのはまずいな」

「どういうこと?」

「監視が甘くなる。つまり──」

「“何かが入りやすい”ってこと……?」

 

 アリスの声が細く震える。その瞬間、また空気が止まった。

 

「止まった……また……!」

「走れ! もうすぐだ!」

 

 北門へ近づくほど、地面の暗がりが広がった。足元が水を踏むみたいに不安定になる。

 

「リオ、今……地面が──」

「ああ……分かってる……!」

 

 胸の奥の脈が深く沈む。何かが“開きかけている”。そんな気配だけが確かだ。

 

「もう少しだ……門の角を曲がれば──」

 

 視界の先で、空気が歪んだ。朝の光が一瞬だけ薄れ、防壁の下が大きく揺れた。

 

「来る……!」

 

 アリスが袋を抱え、リナが口を押さえる。

 

 そして──北門の向こうで、重い衝撃音が再び響いた。

 

 地面の暗い面がふわりと浮く。街の底が震えた。

 

「リオ、危ないよ!」

「分かってる。でも……もう見過ごせない」

 

 胸の奥が、理由を超えて前へ押す。この揺れ方は、あの日と同じだ。

 

「二人とも、ついてこい!」 

「うん!」

「わ、わかった……!」

 

 三人で北門へ向かう途中、空気の止まった街の中で、ただ足元だけが揺れ続けた。

 

 まるで何かが目を覚ましたみたいに。

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