灰を越えて風になる   作:雷光123

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逆流する夜、選択の鐘

 夜のローヴァは、本来なら灯火と屋台の声が混じり合う、暖かい街だ。

 

 だが今は──灯りが、ひとつ残らず“逆方向”へ揺れていた。

 正しくは、揺らされていた。

 風そのものが、街の中心へ吸いこまれるように逆流していた。

 

 街路に出た瞬間、胸奥の魂裂紋がかすかに疼く。

 フィリアの淡金の髪が、風ではなく“何かに吸われるように”引かれ、光粒が散った。

 

「……風が、反対に動いてる……」

 

 耳の後ろを押さえながらフィリアは続けた。

 

「揺れが……強すぎる……未来波形が、読めない……こんなの……怖い……」

 

 アリスが小さく叫ぶように袖を掴む。指先が冷たい。

 

「ねぇリオ……これ……塔のときと同じ匂いがするよ……。ねぇ……誰か、またいなくなるの……?」

 

 のどの奥から絞り出された言葉は震えではなく、“記憶の痛み”のようだった。

 

 俺は答えられなかった。

 胸奥の魂裂紋が、アリスの震えに呼応するように痛んでいた。

 恐怖の“形”を知っている者にしか出せない声──それが、あまりにも昔の自分と重なって見えたからだ。

 手を伸ばせば届く距離なのに、守り切れる確証がどこにもない。

 その事実が、喉の奥で熱い棘になって刺さった。

 

 灯火が逆向きに揺れるたび、アリスの瞳の奥で古い痛みが脈打つ。

 

 少し離れた位置で、セラが空気を吸いこみ、静かに言った。

 

「……嫌な匂い。十年前の……あの時と、似ている」

 

 無表情なのに、警告だけが鋭く伝わる。

 

(……嫌な予兆だ。ただの“揺れ”じゃない)

 

 そのとき──足音。協会徒弟服を着た青年が駆けてきた。

 

「リオ先輩! 地脈が……沈下しています!」

 

 ヨナの白い前髪が小刻みに揺れる。

 

「塔だけじゃない──街全域が傾き始めている! 深層魔力流が逆走して……!」

 

 フィリアの羽が一瞬激しいノイズを撒く。

 

「っ……外から……何か来てる……!」

 

 フィリアは無意識に羽を押さえ、畳みきれないまま震えていた。

 観測端末として“読めない未来”に直面する恐怖と、それでも目を逸らせない衝動がせめぎ合っている。

 逃げたいのに、視線だけが地平線から離れなかった。

 ──見届けなければ、という使命感が、彼女の恐怖を押しとどめていた。

 

 遠方。地平線の向こうで土煙が上がる。

 砂を巻き上げながら迫る影──飛砂騎兵。

 

 そして救護所の方向から新たな足音。

 

「リオ!」

 

 息を切らして駆けてきたリナ。その後ろでは──

 幼子を抱きしめ、避難列を必死に整えているサラ・ユングの姿があった。

 

 避難所の列には傷病者と老人が多かった。

 脚を引きずる者、咳き込みながら肩を支え合う者、視力の弱い老人を誘導する若者──

 “守られる側”がほとんどで、動ける人間の方が圧倒的に少ない。

 

「だめ……この人数じゃ、もうさばけない……!」

 リナの瞳は不安で濡れていた。

 震える声とは裏腹に、リナの手は止まらなかった。

 包帯を結び直し、肩を貸し、泣き出した老人に短く声をかける。

 逃げたい気持ちは誰よりも強い。それでも彼女は“ここに立つ役目”を手放さなかった。

 日常を知る者だからこそ、この崩壊を現実として受け止めていた。

 

 ユングさんは震えるアリスの手を見て、子どもを抱いたまま微笑んだ。

「震えてもいいのよ、アリスちゃん。でも……立っていてね。あなたが立っていれば、この子たちはまだ……前を見られるから」

 

 失った家族の痛みを抱えた者だけが持つ声音だった。

 

 セラが風の止まる瞬間を観察し、低く呟く。

 

「……塔の揺らぎが街へ広がってる。地脈の“底”が割れてる。

 これは……終わりの形だ」

(……破局は止まらない。流れはもう始まってる)

 

 アリスが怯えた声で問う。

 

「リオ……怖くないの?」

 

 俺は胸の痛みを押さえ、静かに答えた。

 

「怖いよ。でも……怖いのに立ってるお前らを見てたら、逃げられないだろ」

 

 そのとき──

 

 空気を裂く乾いた音が連続した。

 

 パン、パンッ、パパパパッ──。

 

 避難列の上空で火花が弾け、老人の杖が砕けて飛んだ。

 叫び声が広がり、人々が慌てて身を伏せる。

 

 飛砂騎兵が銃撃してきたのだ。

 馬上で黒布の兵たちが銃を構え、傷病者の列へ狙いをつけながら近づいてくる。

 

「伏せて!!」

 

 リナが叫ぶより早く、銃弾が担架の布を裂き、負傷者が悲鳴をあげた。

 

 アリスがふらつきながら治癒を試みるが、銃声で子どもたちの泣き声がかき消される。

 

 花弁紋が熱を帯び、掌の感覚が鈍くなっているのが分かる。

 それでもアリスは手を引かなかった。

 

「足りない……」と呟きながら、足りないと知っている魔力を注ぎ続ける。

 救えない現実より、何もしない自分の方が、彼女には耐えがたかった。

 

 そして──

 

 爆ぜるような砂音。

 避難列の端が、突然巻き上がった砂柱に呑まれた。

 

「きゃああああっ!!」

 

 銃撃の直後、馬影が一つ、二つ──避難民へ突っ込む。

 サラが子どもを抱いたまま、咄嗟にこちらへ押し出した。

 

「走って!!」

 

 子どもがリナへ飛び込む。

 

 次の瞬間──砂煙を裂く黒槍が、ユングさんの腹を真っ直ぐ貫いた。

 

 音はなかった。ただ、抱いていた子どもだけが悲鳴を失い、固まった。

 

「ユングさん!!」

 

 リナの絶叫が弾ける。

 

 ユングさんは喉を震わせ、それでも子どもを見て微笑んだ。

 

「……よかった……守れた……」

 

 血が地面に落ちる。

 灯火の逆流の中で、やけに静かだった。

 

 足が止まった。

 止まってしまった、と理解した瞬間、背筋に冷たい嫌悪が走った。

 ユングさんが倒れた位置まで、あと三歩。

 その三歩を踏み出すのに、俺はほんの刹那、迷ったのだ。

 守るべきものを前にして迷った自分──十年前から変わらない、醜い弱さ。

 胸の魂裂紋が脈打ち、内側から「遅い」と責め立てる。

 返す言葉はない。

 事実として、俺は間に合わなかった。

 

(──間に合わなかった。また、俺は……届かなかった)

 

 胸の魂裂紋が熱を帯び、視界が一瞬白く跳ねた。

 

 俺は駆け出す。

 

 だが──その横を、誰かの影がすり抜けた。

 

 白刃。

 セラだ。

 迷いは一切なかった。

 それは冷静さではなく、選択肢を持たない者の速度だった。

 守るか、斬るか──その二択しか知らない少女の戦い方。

 無音で騎兵へ踏み込み、首筋へ一閃。

 砂の上へ兵士が崩れ落ちる。

 

 だが。

 

 斬り漏れた影が一つ。

 

 瓦礫の上に、布を巻いた頭部。

 温度のない笑み。

 

「いやぁ、見つけるのに苦労したよ」

 

 彼の輪郭は、風の止まった空気にもなじまない。

 光を受けても影にならず、影を受けても光を返さない──

 “物質”として存在していないものを、無理やり人型に結んだような歪さだった。

 

 目の位置にあるべき窪みは、深く沈みすぎている。

 覗き込めば落ちてしまいそうな、底のない穴。

 

 その“穴”が、確かに俺たちを見て笑っていた。

 

 見られている──そう感じた瞬間、胸の裂紋が焼けるように疼いた。

 痛みではない。もっと近い……共鳴だ。

 あの男は俺の“裂け目”に触れている。

 触れたがっている。

 理由はわからない。だが彼の視線は、俺の奥の奥──

 十年前、すべてを壊したあの瞬間へとまっすぐ手を伸ばしてくる。

 逃げれば届く。

 逃げなければ、壊される。

 それでも──足は前に出ようとしていた。

 

「グレイ・セルフ……!」

 

「協会の子どもたち、か。……ずいぶん手際がいいじゃないか」

 

 アリスが俺の袖を掴む。

 

「……リオ、この人……危険……!」

 

 ヨナは震える声で呟く。

 

「観測……ゼロ……人間の反応じゃ……ない……」

 

 男は笑い、こちらへ指を向けた。

 

「揺れてるんだよ。世界が。……君を軸に」

 

 胸が焼ける。

 魂裂紋が共鳴する。

 

「……何が目的だ」

「目的?」

 

 灰色の影は楽しげに肩をすくめた。

 

「人は“揺れ”を見ると逃げる。塔は補正しようと軋む。

 でも──君だけは違う。揺れの中心に、自分の足で立つ」

 

 言葉は囁きに近いのに、なぜか鼓膜より“内側”に届く。

 

「観測線から外れた者は、本来ならこんなふうに会話できないはずなんだよ? 

 ……でも君は聞こえる。君の“裂け目”が、そうさせている」

 

 魂裂紋が、痛みではなく“呼応”のように震えた。

 

「観てるだけだよ。世界が崩れるのも──君が、どこから壊れていくかも。そういうの、好きなんだ」

 

 指先が鳴った。

 

 パチン。

 

 音が街並みに薄く響き、周囲の声が一瞬だけ弱まる。

 空気が、歪む。

 

 音が、彼を中心に《巻き取られている》。

 

 灯火の揺れが一拍だけ逆向きに跳ね返る。

 

 まるで街そのものが、彼を中心に一瞬だけ“再書き換え”られたようだった。

 

「ほら……止まらないんだ。流れは」

 

 影は砂に溶けるように後退し、夜へ消えていった。

 

 消える寸前、彼の声だけが風と逆向きに流れてきた。

 

「……壊れる瞬間は、美しいよ。

 君も、塔も、街も──どこから割れるのか、楽しみにしている」

 

 彼が消えた瞬間、逆流していた風がふっと途切れ、

 灯火が一拍遅れて元の方向へ揺れ返す。

 

 世界が、無理やり“正常”へ戻ったように見えた。

 

 その不自然さが、逆に恐ろしかった。

 

 ユングさんの亡骸が、冷たい砂に沈む。

 リナは子どもを抱きしめたまま泣き崩れる。

 

 アリスも泣きながら言う。

「リオ……どうすれば……どうすればよかったの……?」

 

 何も返せない。

 

(俺が……弱かった。もっと早く動けていれば……ユングさんは……)

 

 胸の奥で魂裂紋が脈動し、熱が痛みに変わる。

 

 セラが血に濡れた刃を下ろし、振り返らずに言う。

 

「……立って。リオ。終わりじゃない。

 “ここから”どうするか、選んで」

 

 “選ぶ”──その言葉が胸の中心に沈んだ。

 最も恐れている行為だった。

 選んだ結果が誰かを殺しうる。

 十年前、俺が選んだことで世界は終わりかけた。

 だからずっと、誰かの背中に答えを預け続けてきた。

 だが今、セラは俺に選ばせようとしている。

 無表情の奥で、かつて失った感情の影を揺らしながら。

 逃げ道はもうない。

 誰も立ってくれないのなら──俺が立つしかない。

 

 彼女の声は無感情なのに、確かに俺へ向けられていた。

 

 ゆっくりと息を吸う。

 

「……準備する。逃げるためじゃない。

 これ以上、誰も死なせないために──俺が立つ」

 

 アリスが震えながら頷き、

 フィリアは涙をこぼしつつ羽を広げ、

 セラは静かに俺の横へ立ち、

 リナは子どもを抱いたまま顔を上げ、

 

 ローヴァの夜は沈黙した。

 

 それは──街の終わりの始まりを告げる“静かな鐘”だった。

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