灰を越えて風になる   作:雷光123

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灰は舞わず、ただ落ちる

 西区の空から、灰が降り始めた。

 雪のように見えたのは一瞬だけで、すぐに重さが分かる。

 

 風はない。

 灰は舞わず、ただ真っ直ぐ落ちてくる。

 

 喉に貼りつき、息が浅くなる。

 声を出しても、音が途中で鈍った。

 

 通術塔の通信が、割れた硝子みたいな音を吐いた。

 意味のない雑音が、街の上で引き延ばされる。

 

 フィリアが小さく喉を鳴らす。

 白いノイズが、呼吸に混じった。

 

 淡金の瞳が忙しなく揺れ、焦点が定まらない。

 音も光も感情も、同じ強さで流れ込んでくる。

 怖いのではなく、多すぎて整理できなかった。

 

 指先が宙を探し、何も掴めず落ちる。

 視界の端で、灰が裏返って見えた。

 

 アリスは幼児を抱え直す。

 薄桃色の髪が灰でくすみ、白い指が震えている。

 体格は頼りなく、抱えた重みで足元が揺れた。

 それでも、腕の力だけは抜けなかった。

 

 腕の筋が、目に見えて張り詰め直す。

 

 背を丸め、自然に盾の位置へ入る。

 視線は、子供から一度も外れなかった。

 

「……通れない」

 

 前に立つリナが、短く言った。

 路地の先は、人で詰まっている。

 

 道が細いんじゃない。

 行き先が、もう存在しなかった。

 

 昨日まで、ここは避難路だった。

 地図にも、出口として記されていた。

 

 胸の奥が、じわりと沈む。

 焼ける痛みじゃない。ただ、重い。

 

 足裏に、地面の冷たさが張りついた。

 踏み出そうとして、わずかに遅れる。

 

 そのときだった。

 

「西壁突破! セル本隊だ!」

 

 協会隊員の叫びが、空気を裂く。

 同時に、難民の波がこちらへ押し返された。

 

 押し返されてきた顔を見て、息が止まった。

 

 若い者が、いない。

 腰の曲がった背中ばかりだ。

 飛砂騎兵の槍が、胸を貫いた瞬間がよぎる。

 名前を呼ぶ前に、声が喉で潰れた。

 

 

 若い背中は、もう見えない。

 視線だけが、行き場を失った。

 

 避難列に混じったか、武器を取ったか──その二択しか残っていなかった。

 

 白い髭。

 震える膝。

 杖に縋る指が、赤く腫れている。

 

 誰も走っていない。

 ──走れない。

 

 誰かが転ぶ。

 助け起こそうとして、共に崩れた。

 

 足が絡まり、列が詰まる。

 そこで、完全に止まった。

 

「……セルだ……」

 

 擦れた声が、どこかで漏れる。

 

 次の瞬間、

 空気が変わった。

 

 灰の落ち方が、揃い始める。

 通術塔の雑音が、一段低く沈んだ。

 

 遠くで、低い振動音。

 鉄骨を引きずるような重さが、地面を伝ってくる。

 

 灰の向こうで、影が動いた。

 

 人型。

 数じゃない。密度だ。

 

 セル本隊──

 逃げ遅れを、拾いに来た。

 

 狙いは明確だった。

 動かない者から、削る。

 

 老人の一人が、杖を落とす。

 拾おうとして、屈んだまま動けなくなる。

 

 次の瞬間、

 前列が、丸ごと押し潰された。

 

 悲鳴は短い。

 長く続かない。

 

 逃げ場はない。

 足も、力も、時間も。

 

 ここは避難路じゃない。

 処理場だ。

 

 倒れた体が、片付けられずに積み上がっていく。

 

 乾いた音が、空気を切った。

 

 一発目は、外れた。

 わざとだ。

 

 セルの兵が、銃口を低く構える。

 前じゃない。後ろ。

 

 列の最後尾──

 一番遅れている老人に、照準が揃う。

 

 逃げ場のない位置。

 振り返る力も残っていない背中。

 

 撃つ、という“素振り”だけで、

 前列が一斉に縮こまった。

 

 次の瞬間。

 

 銃声。

 

 音が届く前に、身体が崩れた。

 撃たれたと、理解するのが遅れる。

 

 音が来る前に、

 老人の膝が砕けた。

 

 体が前に折れ、

 杖が乾いた音を立てて転がる。

 

 悲鳴は出なかった。

 息が、抜けただけだ。

 

 二発目。

 今度は、隣。

 

 倒れた体を跨げない。

 押し合うしかない。

 

 セルは、動かない者を選んでいる。

 逃げないんじゃない。

 逃げられないと分かって、撃っている。

 

「伏せろ──!」

 

 誰かの声が割れる。

 だが伏せたところで、

 上も横も、壁だ。

 

 協会側の応射が始まる。

 光弾が走り、壁に弾ける。

 

 セルは下がらない。

 銃口を振り、列の後ろだけを狙う。

 

 歯を食いしばる。

 

 足元の瓦礫を蹴り上げ、

 即席の遮蔽を作る。

 

 協会兵の一人が、短く合図を出した。

 光弾が、二発。

 

 狙いは正確だった。

 ──だが、当たらない。

 

 セルの兵は、撃つ前から動いている。

 銃声と同時に、位置をずらす。

 

 影だけが残り、

 弾は、空を裂いた。

 

 一瞬の隙を突いたつもりだった。

 だが、読まれていた。

 

 背中に冷たいものが走る。

 撃つ前から、場所が読まれている。

 

 セルは、こちらを見ていない。

 難民越しに、計算している。

 

 老人が倒れるたび、

 人の塊が、少しずつ縮む。

 

 数を減らすんじゃない。

 空間を詰めている。

 

 逃げ場を、完全に潰すために。

 

 血の匂いが、灰に混じる。

 喉が、ひりついた。

 

 ──狩りだ。

 

 今度は、別方向から。

 

 壁沿いを滑るように移動し、

 角から一瞬だけ身を出す。

 

 金属を叩き潰すような音。

 

 一発。

 

 確かに、照準は合っていた。

 

 だが、セルの兵は

 撃たれる“前”に沈んだ。

 

 床を転がり、

 次の遮蔽へ移る。

 

 反撃は、点だ。

 セルは、面で動く。

 

 こちらが一歩踏み出すたび、

 距離が、逆に開く。

 

 老人の列だけが、

 取り残される。

 

 撃ち返しても、

 守る位置は変わらない。

 

 ──このままじゃ、届かない。

 

 引き金に掛けた指が、わずかに震えた。

 狙っているのに、守れていない。

 

 逃げてきた人たちが、さらに後ろから押される。

 前にも後ろにも、余白がない。

 

 母親が子を抱き上げる。

 だが、足が出ない。

 

 泣き声が上がり、すぐに飲み込まれた。

 

 アリスが子供を庇う。

 フィリアは耳を塞ぎ、その場に座り込んだ。

 

 呼吸が浅く、数を数えられない。それでも、離れようとはしなかった。

 

 リナは声を張り上げ続ける。

 焦げ茶の髪が汗と灰で額に貼りつく。

 握った包帯が、いつの間にか皺だらけになっていた。

 生活の延長で立っているからこそ、限界が早い。

 誘導の言葉は、誰にも届かない。

 

 喉が掠れ、同じ指示を繰り返す。

 理解されていないと、分かっている声だった。

 

 人の流れは、意思を持たない塊だった。

 

 そこに、セラが立っていた。

 撤退線の向こう側で、白刃を構えたまま動かない。

 

 白銀の髪は灰を弾くように揺れ、肌には疲労の色がない。

 瞬きの間隔も、呼吸の深さも、周囲と噛み合っていなかった。

 人の形をしているのに、生きている感じだけが薄い。

 

 刃の角度が、微動だにしない。

 足の位置だけが、退路を塞いでいた。

 

 視線が、一瞬だけ合った。

 すぐに、逸らされる。

 

 何かを言う暇は、最初からなかった。

 判断の速さだけが、突き刺さる。正しいと、分かってしまう自分が嫌だった。

 

 ──命令じゃない。

 

「……これ以上は、下がらせない」

 

 淡々とした声。

 命令とも、忠告ともつかない。

 

 その一言で、境界が引かれた。

 

 ここから先は、切り捨てられる。

 

 胸が、きしんだ。

 

 ──壊れていく。

 

 街が。

 人ごと。

 

 怒りは湧かなかった。

 代わりに、冷たい重さだけが広がる。

 

 肩に、灰が積もる。

 払っても、すぐ同じ量が戻ってきた。

 

 世界が、静かに告げている。

「ここまでだ」と。

 

 それでも、腕の中で息をしている。

 消えていない。

 

 小さな呼吸が、確かな重さで返ってくる。

 それだけは、ここに残っている。

 

 アリスの腕の中で、子供が小さく息を吸う。

 フィリアの震えは、止まらない。

 

 通りの脇に並んだ店の看板が、いつの間にか音を立てなくなっていた。

 風鈴も、旗布も、揺れるはずのものが沈黙している。

 灰が重さを持ちすぎて、空気そのものが鈍っている。

 

 石畳の隙間に溜まった灰を、誰かの靴底が踏み固める。

 その跡は、すぐに別の足に潰され、形を失った。

 進んだ証拠が、何一つ残らない。

 

 通術塔の基部が見えた。

 外壁に刻まれた避難誘導の光紋は、半分が欠け、残りは点滅している。

 安全を示す色と、警告を示す色の区別がつかない。

 どちらも同じ速度で、弱く脈打っていた。

 

 塔の足元で、年老いた男が腰を下ろしている。

 立ち上がる力は残っていないが、座る場所を選ぶ余裕はあったらしい。

 背中を壁に預け、空を見上げたまま動かない。

 まるで、ここが終点だと知っているみたいだった。

 

 その横で、別の老人が小さな包みを抱えている。

 中身は見えない。

 抱え方だけが、やけに丁寧だった。

 守るものがある姿勢だけが、身体に残っている。

 

 瓦礫の間を、痩せた猫が一匹、低く走った。

 鳴き声は出さない。

 尻尾だけが、不自然に逆立っている。

 生き物のほうが、何が起きているかを先に理解していた。

 

 遠くで、鐘の音が一度だけ鳴った。

 定時の合図か、警告か、どちらでもない。

 誰かが間違えて引いた音だった。

 続きはない。

 鳴らす人間が、もういない。

 

 時間が、同じ場所で足踏みしている。

 進んでいるのは、壊れる方向だけだ。

 修復される余白は、最初から用意されていなかった。

 

 灰の向こうで、セルの影が少し動く。

 撃たなくてもいい距離。

 逃げられないことを、確認するだけの間合い。

 それだけで、十分だった。

 

 協会の通信符が、短く明滅する。

 救援要請。

 否定。

 再要請。

 否定。

 そのやり取りを、誰も読み上げない。

 声にした瞬間、意味が確定してしまうからだ。

 

 ここでは、意味を確定させないことだけが、

 かろうじて残った防御だった。

 

 灰が、また一段、重くなる。

 肺の奥に沈み、息を吐くたびに微かに音が鳴る。

 呼吸が、音を立てる行為になっていく。

 

 ──まだ、終わっていない。

 ──だが、続きも保証されていない。

 

 この街は今、

「生きている」と「片付けられていない」の

 ちょうど中間にあった。

 

 俺は、一歩前に出た。

 

 逃げられないなら。

 壊れるなら。

 

 ──守るしかない。

 

「……守る方に回る」

 

 呟きは、灰に吸われた。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 灰は止まない。

 街の終わりが、音もなく始まっていた。

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