西区の灰は、降り方を変えていた。
量は減っていない。だが、落ちる速度が遅い。
「……重いな」
「雪じゃねぇ」
重さだけが残り、街の上で沈んでいる。
銃声が、唐突に途切れた。
「……止んだ?」
「撃ち止め?」
反響だけが瓦礫の間をさまよい、やがて消える。
「耳、変じゃないか」
「……鳴ってる」
耳の奥が熱い。呼吸をすると、灰が鳴った。
「当たってねぇ」
「押し返した感じ、ないぞ」
ただ──撃たれなくなった。
「……止まった?」
リナの声が、かすれて飛ぶ。
「動くな! 前、押すな!」
「怪我人、前に出さない!」
焦げ茶の髪が汗と灰で額に貼りつく。
握った包帯は皺だらけだ。
「聞いて! 今止まったら──」
それでも立っている。協会医務官の意地で。
フィリアは、淡金の瞳を忙しなく揺らしていた。
「音……全部、同じ距離」
「光も……感情も……」
音も光も感情も、同じ強さで流れ込んでくる。
「怖い……じゃない」
「多すぎて……」
指先が宙を探し、何も掴めず落ちる。
アリスは幼児を抱え直している。
「大丈夫……」
「……しっ」
薄桃色の髪が灰でくすみ、白い指が震えていた。
体格は頼りなく、抱えた重みで足元が揺れる。
「離せない……」
それでも腕の力だけは抜けない。
背を丸め、自然に盾の位置へ入る。視線は子供から外れない。
難民の列の向こうで、灰の“密度”がほどけていった。
「……いない?」
「消えた?」
足音も、撤退の合図もない。
「逃げたのか?」
「……違う」
そこにいたはずの影が、薄くなるだけだ。
逃げた、とは違う。
「……見られてない」
「値踏み、終わったって感じだ」
こちらへの関心を、切られた。
その理解が遅れて胸に落ち、足裏が冷たくなった。
撤退線の向こう、セラが刃を下げた。
「……終わり?」
協会制式の白装束は灰に染まらず、白刃だけが鈍く光る。
「動かない……」
「生きてるのか?」
白銀髪が揺れ、薄い蒼瞳が空洞みたいにこちらを通過する。
瞬きの間隔も、呼吸の深さも、周囲と噛み合っていない。
人の形なのに、生きている感じだけが薄い。
──終わったのは、ここだけだ。
そう直感した瞬間、匂いが来た。
「……砂の匂い」
「灰じゃない」
乾いた砂の匂い。肺の奥を擦る。
「……南だ」
カイルの低い声。
短く刈った黒髪、埃の残る頬。
「来るぞ」
恐怖を隠して無理を通す顔で、街道の先を睨んでいる。
遠くで、地面が鳴った。
「揺れてる」
「近い……」
轟音じゃない。低い振動が連続してくる。
削る音だ。砂が、街を削って進んでくる。
「来るぞ。南が、割れた」
その言葉と同時に、砂煙が見えた。
「……嘘だろ」
「早すぎる……」
灰色の空に、黄褐色の線が混じり、太くなっていく。
誰かが膝を折った。
「もう……終わりだ」
「逃げ場が……」
逃げ場がないと知った瞬間の、力の抜け方。
砂煙は速い。
「溜まらない……」
「削って進んでる……」
先頭の斥候が、街道脇の建物を焼き払った。
「焼かれた!」
「押すな!」
火花と砂が同時に散り、難民が押し合う。
列が、また“止まり”に向かう。
「止められねぇ! 南は地獄だ!」
協会兵が叫ぶ。命令にならない声。
「道を空けて!」
「前、詰めるな!」
リナが声を張り上げる。
喉が掠れても、同じ指示を繰り返す。
理解されていないと分かっている声だった。
フィリアの肩が跳ねた。
「……速い」
「……数、多い」
砂煙の奥で、観測が裏返る。
光の粒子がふわりと散り、空気が微かに揺れる。
「……多い。速い……」
フィリアの呟きは震えているのに、視線だけは逃げない。
理解したい欲求が、恐怖より前に出る。
アリスが喉を鳴らした。
「……この匂い……」
戦場の匂いが嫌いだ。なのに、抱いた子を離さない。
「アリス、下がれ」
言った声が、自分の耳にも乾いて聞こえた。
砂煙の中から、飛砂騎兵が現れた。
「来た……!」
「速い!」
砂布で顔の半分を覆い、黒い瞳だけがこちらを貫く女が、先頭にいる。
名前は知らない。だが、指揮官だと一目で分かる。
「街が遅い」
「……何だと」
「だから、埋まる」
「散開!」
「横だ!」
命令が飛ぶ。
騎兵たちが散開し、列の横腹を抉る。
速度が違う。戦いじゃない。削り取りだ。
砂を蹴って、騎兵が突っ込んでくる。
間合いが一気に詰まる。速い。考えるより先に、身体が反応した。
反射的に踏み込んだ足が、砂を噛んだ。
重心が一瞬、前に流れる。
肩に衝撃が走り、肺の奥の空気が押し出された。
痛みかどうか判断する前に、身体が「まだ動ける」とだけ告げてくる。
呼吸が荒れ、喉の奥で灰が鳴った。
次に来る刃を避けるための余裕は、もう数拍しか残っていない。
一騎が跳んだ。
刃が振り下ろされる前に、瓦礫を蹴り上げる。
砂が視界を覆い、その隙に銃口を押し上げた。
引き金。
衝撃。
だが、倒れない。騎兵は身体を捻り、砂を滑るように受け流す。
別の方向から、二騎目。
地面が削れ、石畳が剥き出しになる。
フィリアの息が詰まる。観測が追いつかない。
「……左、来る……!」
その声で、身体が半歩ずれる。
刃が空を切り、風圧だけが肩を叩いた。
セラが動いた。
白刃が一閃。音がない。
騎兵の砂布が裂け、血が遅れて噴き出す。
だが、止まらない。
後続が踏み越え、列の横腹へ回り込む。
──削られる。
守る対象が多すぎる。
倒すより、止めるしかない。
カイルが迷わず前に出た。
孤児院の子どもたちを背に庇い、銃剣を構える。
「下がれ! 子どもがいる!」
叫びは砂に呑まれ、音が薄くなる。
砂刃が走った。
一瞬だった。
そう思ったのは、倒れたあとだ。
実際には、音が一つ遅れ、景色が細く引き延ばされた。
剣を構えた背中が、少しだけ大きく見えた気がした。
叫び声があったかどうかは、思い出せない。
ただ、砂が舞い上がる前の静止した輪郭だけが、異様に鮮明だった。
胸に、突き刺さる感触。
血が噴き出すより先に、身体が前に折れた。
カイルは倒れる直前、振り返った。
視線が合う。笑おうとして、できない。
「……街、頼む」
それだけ言って崩れ落ちる。
日常の礼儀みたいに、静かに。
地面に落ちた音が、妙に軽かった。
砂が、彼の血をすぐに覆った。
色は残らない。街が、痕跡を許さない。
孤児院の子どもが、名前を呼びかける。
声は途中で途切れ、誰にも届かない。
護っていたはずの背中が、もう動かない。
それだけで、列の“形”が崩れ始める。
日常が、ここで一枚剥がれた。
息が止まる。
胸の奥が沈む。怒りじゃない。喪失の重さだ。
足裏の冷たさが、今度は骨まで来る。
そのとき、背後で囁きがした。
「止めても、散るだけだろ?」
声は擦れた囁き。布を巻いた頭部。
グレイ・セルフ。
瓦礫の陰に、影紐みたいに張りついている。
振り向いた瞬間には、もう位置がずれている。
見つからなければ正義だ、とでも言いたげに。
「……どこまで入り込んでる」
口の中で言葉が砕ける。
グレイ・セルフは笑った気配だけ残し、灰と砂の境目へ溶けた。
止めても散る。
その無力感を、置いていくためだけに。
散る、という言葉が胸に残る。
逃げれば、生きる。
止めれば、散る。
どちらも正しい。
だからこそ、選ばなければならない。
正しい、という言葉が急に信用できなくなる。
計算は合っているはずなのに、胸の奥が拒否していた。
逃げれば生きる。
そう思った瞬間、その考えがひどく軽く感じた。
生き延びたあとに残るものまで、計算に入っていなかったことに気づく。
思考が噛み合わず、歯の奥で嫌な音がした。
ここで退けば、次は南区だ。
南区が崩れれば、街は終わる。
計算が、ようやく感情に追いついた。
歯を食いしばる。
逃げたい、という感覚が、はっきり形になる。
逃げれば生きる。そういう単純な計算が、頭の中で勝手に立ち上がる。
それでも、足は前に出た。
セラが、もう一度刃を構えた。
表情筋が動かない。命令があれば斬る。最短で。
余計な言葉はない。
それが、余計に重い。
リナが包帯を握り直す。
日常の延長で立っている。だから限界が早い。
でも、その手は止まらない。
アリスは抱えた子の頭を自分の胸へ押し当てた。
泣き声を吸い込むみたいに。
フィリアは震えながらも、目だけは砂煙を追う。
「……まだ、怖い」
フィリアが言う。
怖い、と言えるのが強さだと、今だけは思う。
「でも……見たい。分かりたい」
その言葉に、胸の奥が少しだけ動いた。
「……防衛線を作る」
その言葉が、どれだけ保つかは分からない。
全員を守れるとも思っていない。
それでも、何も引かずに下がるよりは、ずっと重い。
失敗したとき、誰が残るか──
その問いだけは、意識の外へ押し出した。
通りを三つに分ける。
瓦礫で狭め、速度を殺す。
騎兵を“突っ込ませない”。
守るのは全員じゃない。
“抜けられない場所”を作る。
それが、今できる唯一の抵抗だった。
声は低かった。震えはない。
勝つためじゃない。
逃げ切るためでもない。
散らさないためだ。
カイルが守った列を、ここで崩さない。
ここでまた止まれば、次は削られる。
砂煙が迫る。
街の輪郭が、削れていく。
灰と砂が混じり、空の色が分からなくなる。
砂布の指揮官が、こちらを見る。
距離はある。
だが、目は確実に捉えている。
評価している視線だった。
この街が、どれくらい保つかを。
終わらせないための戦いは、
もう始まっている。
逃げられないなら。
壊れるなら。
──守るしかない。
「……ここで止める」
呟きは灰に吸われた。
それでも足は止まらない。
灰は止まない。
砂も止まらない。
街の終わりは、もう音の外側で進んでいた。