灰を越えて風になる   作:雷光123

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灰が止み、砂が来る

 西区の灰は、降り方を変えていた。

 量は減っていない。だが、落ちる速度が遅い。

 

「……重いな」

「雪じゃねぇ」

 

 重さだけが残り、街の上で沈んでいる。

 

 銃声が、唐突に途切れた。

 

「……止んだ?」

「撃ち止め?」

 

 反響だけが瓦礫の間をさまよい、やがて消える。

 

「耳、変じゃないか」

「……鳴ってる」

 

 耳の奥が熱い。呼吸をすると、灰が鳴った。

 

「当たってねぇ」

「押し返した感じ、ないぞ」

 

 ただ──撃たれなくなった。

 

「……止まった?」

 

 リナの声が、かすれて飛ぶ。

 

「動くな! 前、押すな!」

「怪我人、前に出さない!」

 

 焦げ茶の髪が汗と灰で額に貼りつく。

 握った包帯は皺だらけだ。

 

「聞いて! 今止まったら──」

 

 それでも立っている。協会医務官の意地で。

 

 フィリアは、淡金の瞳を忙しなく揺らしていた。

 

「音……全部、同じ距離」

「光も……感情も……」

 

 音も光も感情も、同じ強さで流れ込んでくる。

 

「怖い……じゃない」

「多すぎて……」

 

 指先が宙を探し、何も掴めず落ちる。

 

 アリスは幼児を抱え直している。

 

「大丈夫……」

「……しっ」

 

 薄桃色の髪が灰でくすみ、白い指が震えていた。

 体格は頼りなく、抱えた重みで足元が揺れる。

 

「離せない……」

 

 それでも腕の力だけは抜けない。

 背を丸め、自然に盾の位置へ入る。視線は子供から外れない。

 

 難民の列の向こうで、灰の“密度”がほどけていった。

 

「……いない?」

「消えた?」

 

 足音も、撤退の合図もない。

 

「逃げたのか?」

「……違う」

 

 そこにいたはずの影が、薄くなるだけだ。

 

 逃げた、とは違う。

 

「……見られてない」

「値踏み、終わったって感じだ」

 

 こちらへの関心を、切られた。

 その理解が遅れて胸に落ち、足裏が冷たくなった。

 撤退線の向こう、セラが刃を下げた。

 

「……終わり?」

 

 協会制式の白装束は灰に染まらず、白刃だけが鈍く光る。

 

「動かない……」

「生きてるのか?」

 

 白銀髪が揺れ、薄い蒼瞳が空洞みたいにこちらを通過する。

 瞬きの間隔も、呼吸の深さも、周囲と噛み合っていない。

 人の形なのに、生きている感じだけが薄い。

 

 ──終わったのは、ここだけだ。

 

 そう直感した瞬間、匂いが来た。

 

「……砂の匂い」

「灰じゃない」

 

 乾いた砂の匂い。肺の奥を擦る。

 

「……南だ」

 

 カイルの低い声。

 

 短く刈った黒髪、埃の残る頬。

 

「来るぞ」

 

 恐怖を隠して無理を通す顔で、街道の先を睨んでいる。

 

 遠くで、地面が鳴った。

 

「揺れてる」

「近い……」

 

 轟音じゃない。低い振動が連続してくる。

 

 削る音だ。砂が、街を削って進んでくる。

 

「来るぞ。南が、割れた」

 

 その言葉と同時に、砂煙が見えた。

 

「……嘘だろ」

「早すぎる……」

 

 灰色の空に、黄褐色の線が混じり、太くなっていく。

 

 誰かが膝を折った。

 

「もう……終わりだ」

「逃げ場が……」

 

 逃げ場がないと知った瞬間の、力の抜け方。

 

 砂煙は速い。

 

「溜まらない……」

「削って進んでる……」

 

 先頭の斥候が、街道脇の建物を焼き払った。

 

「焼かれた!」

「押すな!」

 

 火花と砂が同時に散り、難民が押し合う。

 

 列が、また“止まり”に向かう。

 

「止められねぇ! 南は地獄だ!」

 

 協会兵が叫ぶ。命令にならない声。

 

「道を空けて!」

「前、詰めるな!」

 

 リナが声を張り上げる。

 喉が掠れても、同じ指示を繰り返す。

 

 理解されていないと分かっている声だった。

 

 フィリアの肩が跳ねた。

 

「……速い」

「……数、多い」

 

 砂煙の奥で、観測が裏返る。

 

 光の粒子がふわりと散り、空気が微かに揺れる。

 

「……多い。速い……」

 

 フィリアの呟きは震えているのに、視線だけは逃げない。

 

 理解したい欲求が、恐怖より前に出る。

 

 アリスが喉を鳴らした。

 

「……この匂い……」

 

 戦場の匂いが嫌いだ。なのに、抱いた子を離さない。

 

「アリス、下がれ」

 

 言った声が、自分の耳にも乾いて聞こえた。

 

 砂煙の中から、飛砂騎兵が現れた。

 

「来た……!」

「速い!」

 

 砂布で顔の半分を覆い、黒い瞳だけがこちらを貫く女が、先頭にいる。

 名前は知らない。だが、指揮官だと一目で分かる。

 

 

「街が遅い」

「……何だと」

「だから、埋まる」

 

「散開!」

「横だ!」

 

 命令が飛ぶ。

 騎兵たちが散開し、列の横腹を抉る。

 

 速度が違う。戦いじゃない。削り取りだ。

 

 砂を蹴って、騎兵が突っ込んでくる。

 間合いが一気に詰まる。速い。考えるより先に、身体が反応した。

 

 反射的に踏み込んだ足が、砂を噛んだ。

 重心が一瞬、前に流れる。

 肩に衝撃が走り、肺の奥の空気が押し出された。

 痛みかどうか判断する前に、身体が「まだ動ける」とだけ告げてくる。

 呼吸が荒れ、喉の奥で灰が鳴った。

 次に来る刃を避けるための余裕は、もう数拍しか残っていない。

 

 一騎が跳んだ。

 刃が振り下ろされる前に、瓦礫を蹴り上げる。

 砂が視界を覆い、その隙に銃口を押し上げた。

 

 引き金。

 衝撃。

 だが、倒れない。騎兵は身体を捻り、砂を滑るように受け流す。

 

 別の方向から、二騎目。

 地面が削れ、石畳が剥き出しになる。

 フィリアの息が詰まる。観測が追いつかない。

 

「……左、来る……!」

 

 その声で、身体が半歩ずれる。

 刃が空を切り、風圧だけが肩を叩いた。

 

 セラが動いた。

 白刃が一閃。音がない。

 騎兵の砂布が裂け、血が遅れて噴き出す。

 

 だが、止まらない。

 後続が踏み越え、列の横腹へ回り込む。

 

 ──削られる。

 

 守る対象が多すぎる。

 倒すより、止めるしかない。

 

 カイルが迷わず前に出た。

 孤児院の子どもたちを背に庇い、銃剣を構える。

 

「下がれ! 子どもがいる!」

 

 叫びは砂に呑まれ、音が薄くなる。

 砂刃が走った。

 

 一瞬だった。

 

 そう思ったのは、倒れたあとだ。

 実際には、音が一つ遅れ、景色が細く引き延ばされた。

 剣を構えた背中が、少しだけ大きく見えた気がした。

 叫び声があったかどうかは、思い出せない。

 ただ、砂が舞い上がる前の静止した輪郭だけが、異様に鮮明だった。

 

 胸に、突き刺さる感触。

 血が噴き出すより先に、身体が前に折れた。

 

 カイルは倒れる直前、振り返った。

 視線が合う。笑おうとして、できない。

 

「……街、頼む」

 

 それだけ言って崩れ落ちる。

 日常の礼儀みたいに、静かに。

 

 地面に落ちた音が、妙に軽かった。

 

 砂が、彼の血をすぐに覆った。

 色は残らない。街が、痕跡を許さない。

 

 孤児院の子どもが、名前を呼びかける。

 声は途中で途切れ、誰にも届かない。

 

 護っていたはずの背中が、もう動かない。

 それだけで、列の“形”が崩れ始める。

 

 日常が、ここで一枚剥がれた。

 

 息が止まる。

 胸の奥が沈む。怒りじゃない。喪失の重さだ。

 足裏の冷たさが、今度は骨まで来る。

 

 そのとき、背後で囁きがした。

 

「止めても、散るだけだろ?」

 

 声は擦れた囁き。布を巻いた頭部。

 グレイ・セルフ。

 瓦礫の陰に、影紐みたいに張りついている。

 

 振り向いた瞬間には、もう位置がずれている。

 見つからなければ正義だ、とでも言いたげに。

 

「……どこまで入り込んでる」

 

 口の中で言葉が砕ける。

 

 グレイ・セルフは笑った気配だけ残し、灰と砂の境目へ溶けた。

 止めても散る。

 その無力感を、置いていくためだけに。

 

 散る、という言葉が胸に残る。

 逃げれば、生きる。

 止めれば、散る。

 

 どちらも正しい。

 だからこそ、選ばなければならない。

 

 正しい、という言葉が急に信用できなくなる。

 計算は合っているはずなのに、胸の奥が拒否していた。

 逃げれば生きる。

 そう思った瞬間、その考えがひどく軽く感じた。

 生き延びたあとに残るものまで、計算に入っていなかったことに気づく。

 思考が噛み合わず、歯の奥で嫌な音がした。

 

 ここで退けば、次は南区だ。

 南区が崩れれば、街は終わる。

 

 計算が、ようやく感情に追いついた。

 

 歯を食いしばる。

 逃げたい、という感覚が、はっきり形になる。

 逃げれば生きる。そういう単純な計算が、頭の中で勝手に立ち上がる。

 

 それでも、足は前に出た。

 

 セラが、もう一度刃を構えた。

 表情筋が動かない。命令があれば斬る。最短で。

 余計な言葉はない。

 それが、余計に重い。

 

 リナが包帯を握り直す。

 日常の延長で立っている。だから限界が早い。

 でも、その手は止まらない。

 

 アリスは抱えた子の頭を自分の胸へ押し当てた。

 泣き声を吸い込むみたいに。

 フィリアは震えながらも、目だけは砂煙を追う。

 

「……まだ、怖い」

 

 フィリアが言う。

 怖い、と言えるのが強さだと、今だけは思う。

 

「でも……見たい。分かりたい」

 

 その言葉に、胸の奥が少しだけ動いた。

 

「……防衛線を作る」

 

 その言葉が、どれだけ保つかは分からない。

 全員を守れるとも思っていない。

 それでも、何も引かずに下がるよりは、ずっと重い。

 失敗したとき、誰が残るか──

 その問いだけは、意識の外へ押し出した。

 

 通りを三つに分ける。

 瓦礫で狭め、速度を殺す。

 騎兵を“突っ込ませない”。

 

 守るのは全員じゃない。

 “抜けられない場所”を作る。

 

 それが、今できる唯一の抵抗だった。

 

 声は低かった。震えはない。

 勝つためじゃない。

 逃げ切るためでもない。

 

 散らさないためだ。

 

 カイルが守った列を、ここで崩さない。

 ここでまた止まれば、次は削られる。

 

 砂煙が迫る。

 街の輪郭が、削れていく。

 灰と砂が混じり、空の色が分からなくなる。

 

 砂布の指揮官が、こちらを見る。

 距離はある。

 だが、目は確実に捉えている。

 

 評価している視線だった。

 この街が、どれくらい保つかを。

 

 終わらせないための戦いは、

 もう始まっている。

 

 逃げられないなら。

 壊れるなら。

 

 ──守るしかない。

 

「……ここで止める」

 

 呟きは灰に吸われた。

 それでも足は止まらない。

 

 灰は止まない。

 砂も止まらない。

 街の終わりは、もう音の外側で進んでいた。

 

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