灰を越えて風になる   作:雷光123

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赤い空の下、止まらない列

 南の空は、まだ赤かった。

 黒火の残光が雲の裏で燻り、街は呼吸を忘れたみたいに静まり返っている。

 

 子どもたちは泣き止まなかった。

 声を出す力も残っていない子もいて、喉を震わせる音だけが列に混じる。

 

「……大丈夫。ほら、前、見て」

 

 リナが、孤児院の子らをまとめて歩いている。

 泣き声が大きくなれば、歩調を落とす。

 小さくなれば、少しだけ速める。

 

 誰に教わったわけでもない判断だった。

 

 生きてきた日常そのものが、

 今は列を前に進めている。

 声は掠れているのに、足取りだけは崩れない。

 あの人も、もう“選んだ”側だ。

 

 市場区を抜け、北門へ向かう通り。

 露店は潰れ、屋根が落ち、魂安定の灯火台は黒く割れていた。

 

 そこで、一度止まる。

 

 瓦礫の脇に、粗末な布が二つ並べられている。

 名前を刻むものはない。

 

 布の端に、小さな石が三つ置かれていた。

 誰が置いたのかは分からない。

 蹴られれば転がる程度の、軽い重さだ。

 

 そのうち一つは、子どもが拾ってきたものだろう。

 もう一つは、きっと老人の分だ。

 名前を呼ばれる前に、列の中から消えた背中。

 

 街ではよくあることだった。

 だからこそ、誰も声に出さない。

 

「……カイル」

 

 声に出すと、胸の奥が鈍く鳴った。

 あの背中は、ここにはない。

 

 呼ばれた名前に反応するように、

 列の後ろで一人の子どもが顔を上げた。

 

 何かを探す目だった。

 すぐに分からなくなって、また俯く。

 

 背中を守る人がいなくなった、という意味だけが、

 遅れて残った。

 

 もう一つ。

 子どもを守って倒れた女──サラ・ユング。

 彼女の布の前で子供がすすり泣いている。

 

子供の嗚咽が、ひときわ高くなる。

 

「……」

 

セラの喉が、小さく鳴った。

 

声にならない音だった。

 

呼びかける言葉を、探した形跡だけが残る。

 

「行こう」

 

リオは、そう言った。

 

命令でも、慰めでもない。

 

ただ、時間だけを先に進める言葉だった。

 

セラは、すぐには動かなかった。

 

それから、ほんの少しだけ顎を引く。

 

「……了解」

 

 セラの足が、止まった。

 

 ほんの半歩。

 前にも後ろにも行けない位置で、白装束が揺れる。

 

 子供の泣き声を、聞いていないはずがない。

 それでも、視線は布の上を外れなかった。

 

 刃にかけていた意識が、わずかに抜け落ちる。

 呼吸が、一拍だけ遅れる。

 

 ──斬る距離でも、守る配置でもない。

 

 それなのに、動けなかった。

 

 その横顔を、見てしまった。

 

 見慣れた“任務中の顔”じゃない。

 迷いとも、悲しみとも、違う。

 

 ただ、

 世界の前で、判断が追いついていない表情だった。

 

 

「渡せた、よな……」

 

 誰にともなく言った言葉は、返事をもらえなかった。

 

 アリスが、そっと手を合わせる。

 指先が震えている。治癒を流しすぎた反動だ。

 

 それでも、視線だけは子どもから離れなかった。

 

 この列の中に、

 かつての自分がいる気がしている。

 

 助けられなかった過去を、

 今度こそ取りこぼさないために。

 

 セラは、少し離れた場所に立っていた。

 白装束に血も煤も残っていない。

 周囲を見渡す視線は、弔いより先に“次”を測っている。

 

「北門、まだ開いてる」

 

 淡々とした報告。

 

「追撃は?」

 

「今はない。南と西に注意が向いている」

 

 それを聞いて、息を吸う。

 北へ行ける。

 

 だが──

 

 避難民の中に、視線が刺さった。

 怯え。警戒。祈りにも似た拒絶。

 

 胸の奥で、微かな痛みが走った。

 魂裂紋の疼きじゃない。

 覚えのある感覚だった。

 

 かつて、戦場が静まり返ったあとに向けられた目と、同じ種類のもの。

 

「……見ないでくれ」

 

 声には出さず、ただ歩幅を狭める。

 前に立てば、また誰かを壊してしまう気がした。

 

 誰かが、小さく十字を切った。

 別の誰かは、子どもの目を覆ったまま離さない。

 

 祈っているのか、

 見ないようにしているのか、

 その違いはもう意味を持たない。

 

 ここでは、同じ仕草だった。

 

 子どもを引き寄せる手。

 距離を取る足。

 

 ……当然だ。

 

 街を消したのは、この手だ。

 

 指先を見る。

 震えてはいない。

 

 それが、余計に怖かった。

 

 力を振るった直後ほど、

 身体は静かになる。

 

 その静けさが、

 次も同じことをしてしまうと、教えてくる。

 

 だから、今は歩く。

 歩いて、距離を稼ぐ。

 

 力じゃなく、足で。

 

 それが、自分にできる唯一の抵抗だった。

 

 守るためだった、なんて言葉は、今はただの音でしかない。

 

「……怖がらせて、悪い」

 

 言っても、誰も答えない。

 

 それでいい。

 

 北門を抜けると、風が変わった。

 開けた空気。

 

 ──あの夜、

 セラは、よく動いていた。

 

 風向きを読むみたいに首を傾け、

 銃声や爆発のたびに、

 一瞬だけ眉をひそめる。

 

 白刃を振るう前、

 かならず、誰かを見る。

 

 逃げ遅れた兵。

 命令を待つ味方。

 泣きながら武器を捨てた少年。

 

 そのたび、

 口元がわずかに歪んだ。

 

 怒りでも、恐怖でもない。

 

「……多すぎる」

 

 それは、数の話じゃなかった。

 

 視線が、戦場全体をなぞる。

 ひとつひとつを、

 “人”として拾ってしまう目だった。

 

 血で濡れた地面に足を取られ、

 それでも止まらず、

 刃を下ろす直前に、

 一瞬だけ、ためらう。

 

 その間を、俺が埋めた。

 

 二人で動くとき、

 役割は自然に決まっていた。

 

 セラは見る。

 俺は、終わらせる。

 

「……リオ」

 

 名を呼ばれたのは、

 たった一度だった。

 

 振り返ると、

 セラは血と火の中で立っていた。

 

 目を見開き、

 唇を噛み、

 何かを言おうとして、

 言葉を選べなかった顔で。

 

「……これ、全部」

 

 その先は、音に消えた。

 

 二人で、力を重ねた。

 

 敵も、味方も、

 逃げる理由も、

 戦う意味も、

 境界ごと、削ぎ落とした。

 

 戦場は、

 ただの“静かな跡地”になった。

 

 終わったあと、

 セラは、動かなかった。

 

 刀を下ろしたまま、

 何もない空を見上げていた。

 

 その顔から、

 さっきまで確かにあったものが、

 きれいに消えていた。

 

 次に会ったとき、

 セラは、もう同じ目をしていなかった。

 

 小川の匂い。

 市場の埃とは違う、土の冷たさ。

 

 丘陵が緩やかに連なり、風車小屋の影が揺れている。

 ローヴァ北部──追撃には不向きな地形だ。

 

「ここから、隊形を変える」

 

 声を低くする。

 

「子どもを中央。両脇を瓦礫じゃなく、斜面に寄せる。

 小川沿いを通る。足跡が消える」

 

 セラが、短く頷いた。

 

 すでに、立ち位置が一歩後ろにずれている。

 前に立たない配置だ。

 

「……怖がられている」

 

 不意に、セラが言った。

 視線は前を向いたままだ。

 

 さっきの光景が、頭から離れなかった。

 

 泣いている子供。

 動けなくなった、セラの足。

 

 あの一瞬は、

 命令でも、判断でもなかった。

 

 ──人を見てしまった顔だ。

 

 戦場では、見たことがない。

 終戦の夜ですら、なかった。

 

丘へ向かう斜面で、セラが小さく息を吐いた。

 

「……昔は」

 

不意に、言葉が落ちる。

 

「見ないほうが、早かった」

 

返事を探す間もなく、彼女は続けた。

 

「でも、今は」

 

その先は、言わなかった。

 

リオは、歩いたまま答える。

 

「……見たほうが、遅れる」

 

「それでも?」

 

「それでも、選べる」

 

セラは、わずかに首を傾けた。

 

「……難しい」

 

「ああ」

 

それだけで、会話は終わった。

 

 だからこそ、胸の奥がざらつく。

 

 もしあのとき、

 声をかけていたら、どうなっていた。

 

 もし、触れていたら。

 

 そう考えて、

 何もできなかった自分に気づく。

 

 見てしまったのに、

 見なかったふりをした。

 

 それが、

 今の自分と、今のセラの距離だった。

 

 

「分かってる」

 

 声は低く抑えた。

 子どもたちに届かない高さで。

 

「それでも、前に立つ」

 

「立たせない」

 

 即答だった。

 

「今は、あなたが見える位置にいると、列が揺れる」

 

 ほんの一瞬、言葉を選ぶ間があった。

 

「だから後ろにいる。守るなら、影のほうがいい」

 

 ……昔なら、命令だった。

 今は、判断だ。

 

「ありがとう」

 

 そう言うと、セラは一拍遅れて首を振った。

 

「礼は、要らない」

 

 けれど、その声は、以前より少しだけ柔らかかった。

 

 本来なら、先頭に立つ役割だった。

 刃を振る位置。危険を引き受ける位置。

 

 それでも、後ろに下がった。

 

 視界に入るのは、子どもたちの背中と、

 その前に立つ彼の肩だけ。

 

 命令は、なかった。

 だからこれは、自分で選んだ配置だ。

 

 守る対象が、はっきりしている動きだった。

 

「後衛は私が見る」

 

 それだけで、十分だった。

 

 刃の位置を、無意識に確認する。

 

 ここなら、

 前に出る必要はない。

 

 斬らずに済む距離。

 

 それが選べるようになったことを、

 自分でも不思議に思う。

 

 かつては、

 斬るか、遅れるか、

 それだけだった。

 

 今は、

 守るために、振らない判断がある。

 

 ヨナが先に走る。

 北農村の様子を確かめるためだ。

 

 列が動き出す。

 泣き声はまだ消えない。

 

 フィリアは、空を一度だけ見上げた。

 

 未来の分岐点は、

 いつも静かな場所にある。

 

 この列が残るかどうか──

 それは、まだ観測不能だった。

 

 でも──

 止まらない。

 

 ここからは、逃げるんじゃない。

 逃がす。

 

 立ち止まったら、終わる。

 振り返っても、終わる。

 

 前に出続けることだけが、

 この列を列のまま保つ条件だった。

 

 街は守れなかった。

 だから次は、人だ。

 

 選べなかったすべての代わりに、

 この列だけは、必ず通す。

 

 丘の向こうで、風が鳴った。

 白灰小川が、かすかに光を反射している。

 

「……行くぞ」

 

 返事はない。

 それでも、誰も離れなかった。

 

 それで、十分だった。

 

 誰に向けた言葉でもない。

 

 それでも、足は前に出た。

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