灰を越えて風になる   作:雷光123

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音を失った街、下る列

 丘の上に立つと、ローヴァの街はひどく静かだった。

 

 燃えているはずの区画から、音がしない。

 黒火の残光が雲の裏をなぞるだけで、爆ぜる気配も、崩落の悲鳴もない。

 

 風車小屋の羽根も、止まっていた。

 

 風がないわけじゃない。

 それなのに、何も鳴らない。

 

 自分の呼吸音だけが、やけに大きく耳に返る。

 鼓膜の奥が、じんと痛んだ。

 

 音が消えたんじゃない。

 この街が、「音を出す理由」を失っている。

 

 その静けさを、割る声があった。

 

「……本当に、行くのか」

 

 列の前に、年嵩の男が立っていた。

 煤に汚れた外套。震える手で、杖を握りしめている。

 

「守るって言っただろう」

「協会は、街を守るって──」

 

 言葉は、途中で詰まった。

 怒りじゃない。縋るような声音だった。

 

「子どもも、年寄りも、ここに残ってる」

「それでも、置いていくのか」

 

 視線が集まる。

 非難よりも先に、期待が混じっていた。

 

 ──答えれば、何かを壊す。

 黙れば、それでも壊れる。

 

 沈黙の中で、男の背後にある街が見えた。

 音のない炎。

 崩れない瓦礫。

 生きているふりを続ける、死にかけの街。

 

 この静けさが、答えだった。

 守られていない、という事実だけが、もう隠れていない。

 

 喉が、ひりつく。

 言葉を選べば、選ぶほど、誰かが切り捨てられる。

 

「……連れて行ける人間には、限りがある」

 

 吐き出すように言った。

 それは判断じゃない。

 自分が“切る側”に回ったという告白だった。

 

 視線を上げられなかった。

 目を合わせれば、名前を呼ばれる。

 呼ばれたら、選ばなければならない。

 

 だから、ただ立っていた。

 選ばないことで、選んでいる場所に。

 

「……連れて行ける人間には、限りがある」

 

 それだけ言った。

 正解でも、正義でもない。

 

 男は目を伏せた。

 納得したわけじゃない。ただ、理解しただけだ。

 

 街が、もう選ばれる側じゃないということを。

 

「……おかしい」

 

 フィリアが、小さく呟いた。

 羽光が乱れ、淡金の粒子が不規則に散っている。

 

「通ってない。通術塔の光が……途中で、切れてる」

 

 通術塔は、光だけを繋いでいたわけじゃない。

 

 避難誘導、結界同期、術式の安定。

 この街が「まだ街でいられる」ための前提を、一つに束ねていた支柱だ。

 

 それが切れたということは、

 ローヴァが“機能”を終えた、という意味だった。

 

 耳を押さえ、視線を遠方へ向ける。

 

 その先──

 街の中心に立っていたはずの通術塔が、歪んだ。

 

 倒れたわけじゃない。

 爆ぜたわけでもない。

 

 上半分が、沈んだ。

 

 光が裏返り、存在そのものが抜き取られるように、塔は途中から消えた。

 瓦礫も、煙も、音もない。

 

 ただ、空白だけが残った。

 

「……切られた」

 

 ミーナの声が、震えた。

 理論も、計測も、もう意味をなさない。

 

 ローヴァは、世界の回線から外れた。

 

 ──戻れない。

 

 その感覚が、遅れて胸に落ちてくる。

 

 フィリアの瞳が、淡く震えた。

 視界に映る街が、数値として崩れていく。

 接続断ではない。

 観測点そのものが、世界から削られている。

 

「……遮断じゃない。

 これは、切断後の反動……街が、拒絶してる」

 

 低い唸りが、地面の奥から這い上がってきた。

 

 次の瞬間、列の一角で悲鳴が上がる。

 誰かが倒れ、続いて二人、三人。

 

 光脈の逆流だ。

 通術塔が砕けた余波が、遅れて噴き出している。

 

「待って、今──!」

 

 アリスが駆け寄る。

 だが、膝をついた瞬間、その肩が大きく揺れた。

 

「……まだ、足りない……」

 

 治癒が追いつかない。

 街が生きていた前提で組まれた術式が、ここでは牙を剥いていた。

 

 守るための構造が、

 撤退する人間を拒んでいる。

 

 ──街を捨てるっていうのは、

 安全になることじゃない。

 

 危険の形が、変わるだけだ。

 

 背後で、列がざわめいた。

 避難民の視線が、丘の上に集まる。

 

 協会本隊の伝令は、感情を挟まない声で告げた。

 

「ローヴァ撤退。

 生存者は北へ移動せよ。

 通術網、復旧予定なし」

 

 それだけ言って、去る。

 

 命令は、短い。

 切り捨てるには、十分な長さだった。

 

 セラが、一歩前に出た。

 

 装備を確かめる指の動きが、いつもと違う。

 前線確認の順番を変え、立ち位置を、列の外側へずらす。

 

 セラは、手袋を外しかけて、止めた。

 

 指先に異常はない。

 刃も、照準も、完璧だ。

 

 それでも、一拍だけ間が空いた。

 

 視線が、列の端──泣き止まない子どもで止まる。

 すぐに逸らした。

 

 見続ければ、判断が遅れると知っていたから。

 

 隣じゃない。

 

 セラは、一度だけ手袋を外した。

 意味のない動作だった。

 指先に異常はない。

 刃も、照準も、完璧だ。

 

 それでも、もう一度、装備を確かめる。

 確認ではない。

 切り離すための動作だった。

 

 呼吸を整える。

 感情を数値に戻すための、いつもの手順。

 

 こちらを見ない。

 見れば、判断が遅れると分かっていたから。

 

 白装束の影が、わずかに揺れる。

 

「……あなたは」

 

 呼びかけかけて、言葉を飲み込んだ。

 何を言えばいいのか、分からなかった。

 

 守れ、なのか。

 生きろ、なのか。

 

 どちらも、もう言う資格がない気がした。

 

 セラは、こちらを見ない。

 ただ、静かに息を整えている。

 

 同じ戦場を見てきたはずなのに、

 今は、違う場所に立っている。

 

 それだけが、分かった。

 

「私は、別命令」

 

 淡々とした声。

 理由も、補足もない。

 

 それが、協会式の別れだった。

 

 何か言おうとして、喉で止まる。

 呼び止めれば、列が揺れる。

 

 セラは一礼もしない。

 白装束の背中が、丘を下りていく。

 

 守りの象徴が、静かに消えた。

 

 列の中から、低い声が上がった。

 

「……あんたがいると、また来るんだ」

 

 否定する声はない。

 肯定もしない。

 

 ただ、距離が生まれる。

 

 子どもを引き寄せる手。

 半歩、後ろに下がる足。

 

 それが民意だった。

 

 言い返す言葉は、あった。

 正論も、理由も、山ほどある。

 

 けれど、それを口にした瞬間、

 この列は“説得される側”になる。

 

 守られていると感じた人間は、

 自分で歩くのをやめる。

 

 だから、一歩下がった。

 前に立たないことで、

 列を列のままにするために。

 

 反論はしない。

 説明もしない。

 

 前に立つのをやめ、一歩、後ろに下がる。

 

 それで、列は保たれた。

 

 袖を、引かれた。

 

 振り向くと、小さな子どもが立っていた。

 煤で汚れた頬。泣き腫らした目。

 

「……帰れないの?」

 

 即答できなかった。

 嘘をつく準備が、できていなかった。

 

「……まだ、帰れない」

 

 それだけ伝える。

 

 子どもは何も言わなかった。

 ただ、ぎゅっと服を握って、列に戻っていく。

 

 背中を見送る。

 

 ──この答えを、背負って歩くしかない。

 

 それが、逃がす側になるってことだ。

 

 

 夜が来る。

 

 焚き火は小さい。

 子どもたちが、順に眠り始める。

 

 焚き火の周りで、大人たちは眠らなかった。

 声を潜めて、耳を澄ませている。

 

「……聞こえたか?」

「いや、風だろ」

「でも、さっきより近い」

 

 誰も確信は持っていない。

 それでも、同じ方向を何度も振り返る。

 

 夜の丘は、音を運びすぎる。

 獣の足音と、人の行軍音の区別がつかない。

 

 不安は、言葉にされないまま増殖する。

 もし追われているなら。

 もし、もう見つかっているなら。

 

 誰かが、子どもの口を塞ぐ。

 泣き声が「合図」になるのを、恐れて。

 

 逃げている列が、

 いつの間にか「隠れている集団」に変わっていた。

 

 アリスは限界ぎりぎりまで治癒を流し、リナは声を殺して列を数えている。

 

 フィリアが、空を見上げた。

 

「北……安全じゃない。

 追ってる。

 でも、迷ってない波形」

 

 その言葉のあと、しばらく沈黙が落ちた。

 

 フィリアの肩が、小さく震えている。

 観測だけじゃない。

 “当事者”として、恐怖を受信していた。

 

 無言で、外套の内側から狙撃銃を引き抜く。

 長さを抑えた、携行型。

 

 差し出すと、フィリアは一瞬だけ目を見開いた。

 

「……私が?」

「護身だ。撃たなくていい。構えるだけでいい」

 

 銃を受け取る手が、少しだけ重そうだった。

 それでも、拒まない。

 

 天界の端末じゃなく、

 この列の一員として、武器を持つ。

 

「近づいたら、合図を」

 小さく、頷く。

 

 光の粒子が、銃身に淡くまとわりついた。

 観測と防衛が、初めて同じ位置に並んだ。

 

 逃げ道はない。

 進むしかない。

 

 丘の向こうで、犬が吠えた。

 一声だけ。すぐに止む。

 

 追跡ではない。

 だが、「空白」でもない。

 

 ミーナが地面にしゃがみ込み、土を指でなぞる。

 

「……ここ、最近踏まれてる。

 北へ向かう列じゃない。戻る足跡」

 

 別の誰かが、気づく。

 焚き火の煙が、低く流れていることに。

 

 風向きが変わった。

 匂いが、残る。

 

「時間を稼がないと」

 

 リナが、子どもたちを抱き寄せる。

 

 誰も“戦おう”とは言わない。

 だが全員が、

「このままでは追いつかれる」と理解していた。

 

 列は、もう逃げるだけじゃない。

 追撃を前提に、形を変え始めている。

 

 それでも──

 立ち止まる者はいなかった。

 

 丘の上から、最後に街を見る。

 

 もう、名前は呼ばない。

 

「……行く」

 

 誰に向けた言葉でもない。

 それでも、列は動いた。

 

 街は、灰の中に沈んでいく。

 

 守れなかった場所を背に、

 それでも、生きて進む。

 

 それが、この夜の選択だった。

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