灰を越えて風になる   作:雷光123

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踏み固められた道、始まる追撃戦

 ローヴァの北へ抜ける丘道は、踏み固められすぎていた。

 人が通るたび、土が低く鳴る。音が、途切れない。

 

 道の中央だけが、妙に平らだった。

 踏み跡が重なり、左右に逃げ場がない。

 一度通った者が、引き返した跡も混じっている。

 

「……逃げる道ってより、迷った道だな」

 

 乾いた土の下で、まだ柔らかい層が沈んでいる。

 同じ場所を、何度も踏み直した証拠。

 足は前へ進んでいるのに、ここには戻った気配が残っていた。

 

「……何回、通ったんだよ」

 

 振り返ると、街があった。

 いや──もう、あった場所だ。

 

 東区の方角から、白い埃が立ち上っている。

 建物が崩れたあとにだけ残る、鈍い色。

 

 足音が、重なる。

 一つではない。一定の間隔で、列をなして近づいてくる。

 

「……兵隊の歩き方だ」

「走ってない。揃えてきてる」

 

 誰かの声が、列の奥で漏れた。

 

 丘の縁まで出て、目を細める。

 崩れた街路の外側に、影が増えていた。

 

 ばらけていない。

 散ってもいない。

 

 ──隊列だ。

 

 胸の奥が、わずかに硬くなる。

 昔、何度も見た形だった。

 

 視線を、わずかに下げる。

 遠くを見続けると、思考が引きずられる。

 

「……前、見とけ」

 

 自分でも驚くほど、低い声が出た。

 誰に向けた言葉かは分からない。

 

 列の中で、誰かが頷く気配がした。

 理解じゃない。ただ従っただけの反応。

 

 それでいい。

 この距離では、考えすぎた方が遅れる。

 

「足並みが揃ってる。

 ……追い込み慣れてる」

「……本気だな」

 

 その事実だけを、胸の奥に沈めた。

 

 丘の下で、一つ影が遅れた。

 

 逃げ切れなかった誰かだ。

 

 次の瞬間、その影は列に呑まれる。

 

 音は、なかった。

 

 叫びも、抵抗も見えない。

 

 ただ、そこにあったものが消えた。

 

「……早すぎるだろ」

 

「……今の、誰か……?」

「見るな。前だけ見ろ」

 

 息を吸いそこねた。

 胸が一拍遅れて上下する。

 目を逸らそうとして、できなかった。

 視界の端が、かすかに暗くなる。

 

「……っ、息……」

 

 音がないはずなのに、耳の奥がじんと鳴る。

 手のひらが、冷えている。

 あれが人だったかどうかを考える前に、

 消えたという事実だけが残る。

 追いつかれたら、同じになる。

 理屈じゃなく、身体が先に理解していた。

 

「……なあ」

 

 すぐ横から、擦れた声がした。

 振り向くと、年嵩の男が唇を噛んでいる。

 

「今の……止まったら、ああなるのか」

 

 問いというより、確認だった。

 答えを求めていない目。

 

「止まらなくても、だ」

 

 短く返す。

 それ以上は言わない。

 

 男は、ゆっくり息を吐いた。

 それから、黙って前を向く。

 

 足取りが、少しだけ速くなった。

 

「東区が──!」

 

 後ろから、避難兵が駆けてくる。

 息が切れ、声が裏返っている。

 

「東区が落ちました! 

 敵軍、北へ向かってます!」

 

 その一言で、列が揺れた。

 泣き声が混じり、足並みが崩れる。

 

「早く!」

「押すな!」

 怒鳴り声と悲鳴が、重なった。

 

 誰かが転んだ。

 次の瞬間、連なって倒れる。

 

「起きろ、手ぇ離すな!」

「置いてくな、まだいる!」

「……っ!」

 

 アリスが、迷わず列を外れた。

 倒れた老女の腕を取り、引き起こそうとする。

 

 老女の足が、動かない。

 地面に縫い留められたみたいだった。

 

「……もう、いいから……」

「大丈夫……立てる……」

 

 声は細く、風に溶けそうだ。

 

 一瞬、アリスの唇が噛み締められる。

 それから、老女を抱えた。

 

 小さな身体が、ぐらりと揺れる。

 それでも、膝はつかない。

 

 老女の腕が、かすかに震えた。

 掴む力が、弱い。

 

「無理、しなくて……」

 

 掠れた声が、耳元で落ちる。

 

「無理じゃない」

 

 即座に返る。

 間がない。

 

「……っ、平気」

 

 それでも、速度は落とさない。

 呼吸が荒れているのを、必死に抑えている。

 

「すぐ……着くから」

 

 どこに、とは言わない。

 言えない。

 

 老女の額が、肩に触れる。

 体温が、思ったより低かった。

 

 リナが、子どもを庇うように前へ出る。

 振り返らず、進む方向だけを示した。

 

「……分かってる」

 

 そう返したのは、息を切らした若い母親だった。

 子どもを抱え、必死に頷く。

 

 リナは一度だけ振り返る。

 視線が合う。

 

「走らなくていい。

 転ばない速さで」

 

 その一言で、足並みが揃う。

 誰も、無理に前へ出なくなった。

 

 横に並び、声を落とす。

 

「……このまま、行ける?」

 

 問いは短い。

 

「行かせる」

 

 即答だった。

 それ以上の言葉は、いらない。

 

「先に行って。

 止まらないで」

 

 低い声だった。

 揺れは、ない。

 

 後方で、金属が小さく擦れる音がした。

 フィリアが狙撃銃を構え直している。

 

 銃身が、わずかに揺れている。

 呼吸が浅い。

 

「……近い」

 

 呟きは、ほとんど音にならない。

 それでも、その視線は遠くを捉えていた。

 

 空気が歪む。

 距離が縮まるとき特有の、嫌な感覚。

 

「数が……増えてる」

 

 視界の端で、白い線が跳ねる。

 観測が、乱れている。

 

 右耳だけ、音が遅れて届く。

 

 銃口と呼吸のタイミングが噛み合わない。

 

 引き金に指をかけた瞬間、景色が二重に滲んだ。

 

「フィリア、敵との距離は?」

 

 問いかけると、ほんの一瞬だけ間が空く。

 

「……詰めてきてる。でも、まだ撃てる」

 

 語尾が、わずかに揺れた。

 それを指摘しない。

 

「無理はするな」

「してない」

 

 即答。

 強がりじゃない。

 

 ただ、選んでいるだけだ。

 

 銃口が、再び安定する。

 完全じゃない。

 それでも、向ける先はぶれない。

 

「……あの子、撃てるよな?」

 

 フィリアは、理由を口にしなかった。

 

 銃床を肩に押し当て直す。

 必要以上に、強く。

 呼吸の回数を数えているのが分かる。

 一つ、二つ、三つ。

 照準線が揺れるたび、唇を噛んだ。

 視線を伏せず、あえて遠くを見る。

 大丈夫だと言わない。

 問題ないとも言わない。

 ただ、撃てる位置に立ち続ける。

 乱れているのは分かっているはずなのに、

 それを悟らせないよう、動きを殺していた。

 

 列の前に出る。

 背中を向けず、全員が見える位置へ。

 

「……全員、バラバラだ」

 

 逃げる足。

 泣く子ども。

 倒れた老女。

 狙撃銃を握る少女。

 

 誰も、同じ方向を見ていない。

 

「……どうするんだ。いや悩んでいる暇はない」

 

「……聞いてくれ」

 

 声は大きくない。

 それでも、近くの動きが止まる。

 

「これは、ただの撤退じゃない」

 

 言葉を選ぶ余裕はなかった。

 背後の足音が、はっきりしてきている。

 

「追われてる」

「……やっぱりか」

「そうだと思ってた」

 

「走れない奴は!」

 

 叫びが飛ぶ。

 

「置いてかない」

 

 被せるように言う。

 

「間を空ける。

 前が詰まったら、声を出せ」

 

 指で、簡単な合図を作る。

 見る者だけが見ればいい。

 

「転んだら、二人で起こせ。

 一人で抱え込むな」

 

 命令じゃない。

 選択肢の提示。

 

 列の動きが、整理されていく。

 混乱が、少しずつ形を持つ。

 

 空気が、一段冷えた。

 

 否定は出なかった。

 全員、もう分かっている。

 

 北を見る。

 この先は、開けた平原だ。

 

 遮るものは少ない。

 逃げるには、最悪の地形。

 

 胸の奥で、小さく音が鳴る。

 昔、何度も聞いた音。

 

 ──逃げるだけじゃ、終わる。

 

 足を止める。

 一歩、前に出る。

 

 そのとき、袖を掴まれた。

 

 小さな手だった。

 

 子どもは何も言わない。

 

 ただ、指先に力がこもる。

 

 一拍だけ、息が詰まる。

 

 それでも、振りほどいて前に出た。

 

 背中に、視線を感じる。

 それでも、歩幅は変えない。

 

「……ごめん」

 

 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

 

 胸の奥が、微かに痛む。

 息を深く吸い、吐く。

 

「……止まれない」

 

 だから、前に立つ。

 それだけだ。

 

「……俺が前に立つ」

「……頼むぞ」

 

 誰かが、息を呑んだ。

 

「全員を逃がすために。

 時間を作る」

 

 反論はなかった。

 あるのは、戸惑いと、沈黙。

 

 風が、強く吹いた。

 丘の草が、一斉に伏せる。

 

 その瞬間、街の方の音が切れた。

 崩壊の余韻が、断ち切られる。

 

 静かすぎる。

 嵐の前の、薄い空気。

 

 剣に手をかける。

 重心を落とし、呼吸を整える。

 

「行け」

「……生きてりゃ、また会える」

 

 短い言葉。

 それで、足りた。

 

「前だ、前! 走れ!」

 

 列が、再び動き出す。

 

「寒いのか?」

 

 誰かが問う。

 

「ううん」

 

 首を振る。

 

「向きが、変わるだけ」

 

 意味は、誰にも分からない。

 それでも、不思議と足は止まらなかった。

 

 誰かが、背負っていた袋を捨てた。

 

 中身が地面に散らばる。

 

 それでも、拾われることはなかった。

 

 足は、前だけを向いている。

 

 北から吹く風が、冷たい。

 刃の向きが変わったような感触。

 

 これは街の終わりじゃない。

 追撃戦の──始まりだ。

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