ローヴァの北へ抜ける丘道は、踏み固められすぎていた。
人が通るたび、土が低く鳴る。音が、途切れない。
道の中央だけが、妙に平らだった。
踏み跡が重なり、左右に逃げ場がない。
一度通った者が、引き返した跡も混じっている。
「……逃げる道ってより、迷った道だな」
乾いた土の下で、まだ柔らかい層が沈んでいる。
同じ場所を、何度も踏み直した証拠。
足は前へ進んでいるのに、ここには戻った気配が残っていた。
「……何回、通ったんだよ」
振り返ると、街があった。
いや──もう、あった場所だ。
東区の方角から、白い埃が立ち上っている。
建物が崩れたあとにだけ残る、鈍い色。
足音が、重なる。
一つではない。一定の間隔で、列をなして近づいてくる。
「……兵隊の歩き方だ」
「走ってない。揃えてきてる」
誰かの声が、列の奥で漏れた。
丘の縁まで出て、目を細める。
崩れた街路の外側に、影が増えていた。
ばらけていない。
散ってもいない。
──隊列だ。
胸の奥が、わずかに硬くなる。
昔、何度も見た形だった。
視線を、わずかに下げる。
遠くを見続けると、思考が引きずられる。
「……前、見とけ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
誰に向けた言葉かは分からない。
列の中で、誰かが頷く気配がした。
理解じゃない。ただ従っただけの反応。
それでいい。
この距離では、考えすぎた方が遅れる。
「足並みが揃ってる。
……追い込み慣れてる」
「……本気だな」
その事実だけを、胸の奥に沈めた。
丘の下で、一つ影が遅れた。
逃げ切れなかった誰かだ。
次の瞬間、その影は列に呑まれる。
音は、なかった。
叫びも、抵抗も見えない。
ただ、そこにあったものが消えた。
「……早すぎるだろ」
「……今の、誰か……?」
「見るな。前だけ見ろ」
息を吸いそこねた。
胸が一拍遅れて上下する。
目を逸らそうとして、できなかった。
視界の端が、かすかに暗くなる。
「……っ、息……」
音がないはずなのに、耳の奥がじんと鳴る。
手のひらが、冷えている。
あれが人だったかどうかを考える前に、
消えたという事実だけが残る。
追いつかれたら、同じになる。
理屈じゃなく、身体が先に理解していた。
「……なあ」
すぐ横から、擦れた声がした。
振り向くと、年嵩の男が唇を噛んでいる。
「今の……止まったら、ああなるのか」
問いというより、確認だった。
答えを求めていない目。
「止まらなくても、だ」
短く返す。
それ以上は言わない。
男は、ゆっくり息を吐いた。
それから、黙って前を向く。
足取りが、少しだけ速くなった。
「東区が──!」
後ろから、避難兵が駆けてくる。
息が切れ、声が裏返っている。
「東区が落ちました!
敵軍、北へ向かってます!」
その一言で、列が揺れた。
泣き声が混じり、足並みが崩れる。
「早く!」
「押すな!」
怒鳴り声と悲鳴が、重なった。
誰かが転んだ。
次の瞬間、連なって倒れる。
「起きろ、手ぇ離すな!」
「置いてくな、まだいる!」
「……っ!」
アリスが、迷わず列を外れた。
倒れた老女の腕を取り、引き起こそうとする。
老女の足が、動かない。
地面に縫い留められたみたいだった。
「……もう、いいから……」
「大丈夫……立てる……」
声は細く、風に溶けそうだ。
一瞬、アリスの唇が噛み締められる。
それから、老女を抱えた。
小さな身体が、ぐらりと揺れる。
それでも、膝はつかない。
老女の腕が、かすかに震えた。
掴む力が、弱い。
「無理、しなくて……」
掠れた声が、耳元で落ちる。
「無理じゃない」
即座に返る。
間がない。
「……っ、平気」
それでも、速度は落とさない。
呼吸が荒れているのを、必死に抑えている。
「すぐ……着くから」
どこに、とは言わない。
言えない。
老女の額が、肩に触れる。
体温が、思ったより低かった。
リナが、子どもを庇うように前へ出る。
振り返らず、進む方向だけを示した。
「……分かってる」
そう返したのは、息を切らした若い母親だった。
子どもを抱え、必死に頷く。
リナは一度だけ振り返る。
視線が合う。
「走らなくていい。
転ばない速さで」
その一言で、足並みが揃う。
誰も、無理に前へ出なくなった。
横に並び、声を落とす。
「……このまま、行ける?」
問いは短い。
「行かせる」
即答だった。
それ以上の言葉は、いらない。
「先に行って。
止まらないで」
低い声だった。
揺れは、ない。
後方で、金属が小さく擦れる音がした。
フィリアが狙撃銃を構え直している。
銃身が、わずかに揺れている。
呼吸が浅い。
「……近い」
呟きは、ほとんど音にならない。
それでも、その視線は遠くを捉えていた。
空気が歪む。
距離が縮まるとき特有の、嫌な感覚。
「数が……増えてる」
視界の端で、白い線が跳ねる。
観測が、乱れている。
右耳だけ、音が遅れて届く。
銃口と呼吸のタイミングが噛み合わない。
引き金に指をかけた瞬間、景色が二重に滲んだ。
「フィリア、敵との距離は?」
問いかけると、ほんの一瞬だけ間が空く。
「……詰めてきてる。でも、まだ撃てる」
語尾が、わずかに揺れた。
それを指摘しない。
「無理はするな」
「してない」
即答。
強がりじゃない。
ただ、選んでいるだけだ。
銃口が、再び安定する。
完全じゃない。
それでも、向ける先はぶれない。
「……あの子、撃てるよな?」
フィリアは、理由を口にしなかった。
銃床を肩に押し当て直す。
必要以上に、強く。
呼吸の回数を数えているのが分かる。
一つ、二つ、三つ。
照準線が揺れるたび、唇を噛んだ。
視線を伏せず、あえて遠くを見る。
大丈夫だと言わない。
問題ないとも言わない。
ただ、撃てる位置に立ち続ける。
乱れているのは分かっているはずなのに、
それを悟らせないよう、動きを殺していた。
列の前に出る。
背中を向けず、全員が見える位置へ。
「……全員、バラバラだ」
逃げる足。
泣く子ども。
倒れた老女。
狙撃銃を握る少女。
誰も、同じ方向を見ていない。
「……どうするんだ。いや悩んでいる暇はない」
「……聞いてくれ」
声は大きくない。
それでも、近くの動きが止まる。
「これは、ただの撤退じゃない」
言葉を選ぶ余裕はなかった。
背後の足音が、はっきりしてきている。
「追われてる」
「……やっぱりか」
「そうだと思ってた」
「走れない奴は!」
叫びが飛ぶ。
「置いてかない」
被せるように言う。
「間を空ける。
前が詰まったら、声を出せ」
指で、簡単な合図を作る。
見る者だけが見ればいい。
「転んだら、二人で起こせ。
一人で抱え込むな」
命令じゃない。
選択肢の提示。
列の動きが、整理されていく。
混乱が、少しずつ形を持つ。
空気が、一段冷えた。
否定は出なかった。
全員、もう分かっている。
北を見る。
この先は、開けた平原だ。
遮るものは少ない。
逃げるには、最悪の地形。
胸の奥で、小さく音が鳴る。
昔、何度も聞いた音。
──逃げるだけじゃ、終わる。
足を止める。
一歩、前に出る。
そのとき、袖を掴まれた。
小さな手だった。
子どもは何も言わない。
ただ、指先に力がこもる。
一拍だけ、息が詰まる。
それでも、振りほどいて前に出た。
背中に、視線を感じる。
それでも、歩幅は変えない。
「……ごめん」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
胸の奥が、微かに痛む。
息を深く吸い、吐く。
「……止まれない」
だから、前に立つ。
それだけだ。
「……俺が前に立つ」
「……頼むぞ」
誰かが、息を呑んだ。
「全員を逃がすために。
時間を作る」
反論はなかった。
あるのは、戸惑いと、沈黙。
風が、強く吹いた。
丘の草が、一斉に伏せる。
その瞬間、街の方の音が切れた。
崩壊の余韻が、断ち切られる。
静かすぎる。
嵐の前の、薄い空気。
剣に手をかける。
重心を落とし、呼吸を整える。
「行け」
「……生きてりゃ、また会える」
短い言葉。
それで、足りた。
「前だ、前! 走れ!」
列が、再び動き出す。
「寒いのか?」
誰かが問う。
「ううん」
首を振る。
「向きが、変わるだけ」
意味は、誰にも分からない。
それでも、不思議と足は止まらなかった。
誰かが、背負っていた袋を捨てた。
中身が地面に散らばる。
それでも、拾われることはなかった。
足は、前だけを向いている。
北から吹く風が、冷たい。
刃の向きが変わったような感触。
これは街の終わりじゃない。
追撃戦の──始まりだ。