灰を越えて風になる   作:雷光123

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砂の平原、切らない選択

 平原に近づくにつれて、空気の匂いが変わった。

 乾いた土の臭いに、熱が混じる。

 

 砂だ。

 

 夜のはずなのに、風が温い。

 足元を撫でる感触が、粉のように軽い。

 

 足を止めずに進んでいるのに、砂の流れが追いついてこない。

 踏みしめた跡が、すぐに均される。

 風のせいじゃない。

 誰かが、均している。

 

 砂丘の稜線が、わずかにずれる。

 崩れたわけじゃない。

 位置を変えた。

 

 平原全体が、静かに並べ替えられている。

 逃げる者を中心に、円を描くように。

 

 ここは自然の地形じゃない。

 “使われている”。

 狩場として、整えられている。

 

 丘の向こうで、砂が──盛り上がった。

 

 最初は風に煽られた錯覚だと思った。

 だが、砂は風向きに逆らっていた。

 吹き上げられるのではなく、地面そのものが押し上げられている。

 粒が跳ねる前に、低い圧が足裏に伝わる。

 馬の蹄音は、まだ聞こえない。

 それなのに、地面だけが先に震えていた。

 

 視線を上げると、砂煙の奥で影が分裂する。

 一つが二つに、二つが三つに。

 数が増えているのに、密度は上がらない。

 広がりながら、包む形だ。

 

 突撃じゃない。

 逃走路を潰す動き。

 

 この段階で気づいた者は、ほとんどいない。

 だが、直感だけが告げていた。

 これは「来る」のではない。

 もう、回り込まれている。

 

 最初は気のせいかと思った。

 だが、次の瞬間、それははっきりと形を持つ。

 

 渦だ。

 影を伴った、低い砂のうねり。

 

「……来る」

 

 フィリアの声は、かすれていた。

 狙撃のときとは違う。

 恐怖を隠していない声だった。

 

「撃てるか」

 

 そう聞いた自分の声は、思ったより落ち着いていた。

 

 フィリアは、首を横に振る。

 

「砂が跳ねてる……視界、割れる。

 今は、当たらない」

 

 事実だけを言う。

 言い訳はない。

 

 前方で、誰かが息を呑んだ。

 

「……馬?」

 

 次の瞬間、地鳴りが来た。

 

 音が低すぎて、最初は風と区別がつかない。

 だが、揺れは確実に近づいてくる。

 

「騎兵だ」

 

 列の中で、誰かが叫ぶ。

 

 砂煙の向こうから、影が走り出た。

 一直線じゃない。

 左右に揺れ、列の側面をなぞる。

 

 突っ込んでこない。

 

 削る動きだ。

 

「……止まるな!」

 

 声を張る。

 

「前へ! 

 倒れても、起きろ!」

 

 砂が跳ね、蹄の音が重なる。

 騎兵は列の端を狙っていた。

 

 遅れた者。

 荷を抱えすぎた者。

 振り返った者。

 

 一人、転んだ。

 

 次の瞬間、砂が跳ね上がる。

 

「──っ!」

 

 悲鳴が、途中で潰れた。

 

 踏み抜いたわけじゃない。

 馬が、すれ違いざまに蹴った。

 

 倒れた体は、動かない。

 

 列が揺れた。

 

 荷が落ちる音がした。

 誰かが振り返り、拾おうとして止まる。

 別の誰かが、その荷を跨いで前に出る。

 

「……次、誰だ?」

 

 誰かの呟きが、列の端で漏れた。

 それだけで、足並みが乱れかける。

 

 中央に、立つ。

 剣は抜かない。

 声も出さない。

 

 進行方向に、ただ立つ。

 それだけで、前が揃う。

 

 遅れた者が、自然に列へ戻る。

 奪われかけた荷が、無言で返される。

 

 群れに戻る寸前で、踏みとどまった。

 

「見るな!」

 

 叫ぶ。

 

「前だけ見ろ!」

 

 だが、遅れは連鎖する。

 

 前方で、アリスがよろけた。

 子どもを抱えたまま、膝が落ちる。

 

「……っ」

 

 歯を食いしばる音が聞こえた。

 

 リナが、すぐに腕を取る。

 

「大丈夫、立てる!」

 

 アリスは首を振った。

 

「……この子、前へ」

 

 そう言って、腕を伸ばす。

 俺に、子どもを押し付けようとする。

 

「私、後ろに──」

 

 その先を、言わせなかった。

 

 腕を掴み、引き戻す。

 

「行くな」

 

 声は低かった。

 

「前だ」

 

 アリスの目が揺れる。

 

 揺れたのは、恐怖じゃなかった。

 焦点が、合っていない。

 

 声も、呼吸も、乱れているのに、表情だけが静かすぎる。

 痛みを感じていない顔だ。

 いや──感じていないのではない。

 感じる順番が、遅れている。

 

「……アリス、聞こえてる?」

「……うん。前だけ」

 

 それ以上、言葉が返ってこなかった。

 返事はあったが感情は追いついていなかった。

 

 リナも、気づいていた。

 アリスの手が、震えていない。

 

 足は限界に近い。

 呼吸も乱れている。

 それなのに、力の入り方だけが正確すぎる。

 

 フィリアの視線が、一瞬だけ揺れる。

 感情波が、薄い。

 消えてはいないが、削れている。

 

 異常だ。

 だが、誰も口にしない。

 

 ここで名前を呼べば、

 戻ってくる感情と一緒に、立てなくなる。

 

 それを全員が、無意識に理解していた。

 

「でも……足が……」

 

「分かってる」

 

 即答する。

 

 分かっているから、選ぶ。

 

「切らない」

 

 その言葉は、即断だった。

 だが、衝動じゃない。

 

「……前は、違ったよね」

 

 リナが、前を見たまま言う。

 

「ああ。だから今は、違う」

 

 だが今は違う。

 後ろにいるのは、顔のある仲間だ。

 声を知っている。

 癖も、弱さも、もう知ってしまった。

 

 切れば、速くなる。

 だが、その瞬間、列は「群れ」に戻る。

 次は誰だと、全員が疑い始める。

 

 それだけは、許さない。

 

 この列を、隊にしたのは自分だ。

 なら、崩れる責任も、自分が負う。

 

 守る対象が増えた分、恐怖も増えた。

 それでも──

 だからこそ、前に立つ。

 

 切らない。

 遅れても、折れても、連れて行く。

 

 それが、今の選択だ。

 

 砂煙の向こうで、騎兵が方向を変える。

 遅れた一点に、集中する気だ。

 

「間、詰めるな!」

 

 叫ぶ。

 

「最低速でいい! 

 揃えろ!」

 

 列が、わずかに速度を落とす。

 その分、騎兵が近づく。

 

 恐怖が、背中を叩く。

 

 全員を守るには、遅い。

 捨てれば、速い。

 

 ──それでも。

 

「前へ!」

 

 声を張る。

 

「俺が、前に立つ!」

 

 剣を抜き、列の外へ一歩出る。

 

 蹄が、方向を変えた。

 俺を見た。

 

 騎兵の先頭。

 砂布で顔を覆った女が、こちらを見る。

 

 女は、叫ばなかった。

 剣も振り上げない。

 ただ、片手をわずかに上げる。

 

 それだけで、周囲の騎兵が動きを揃えた。

 突出しそうになった一騎が、半歩下がる。

 列を乱さない判断。

 

 速い。

 判断が、迷いなく速い。

 

 敵でありながら、その指揮の正確さが分かってしまう。

 部下が信頼している動きだ。

 無茶はさせない。

 その代わり、確実に削る。

 

 この女は、勝てる形しか選ばない。

 だが──

 だからこそ、一瞬の遅れが命取りになる。

 

 黒い瞳。

 ためらいのない視線。

 

 剣を構える角度が、わずかに変わる。

 踏み込みは浅い。

 殺しに来ていない。

 

 こちらを量っている。

 列を止める価値があるかどうか。

 

 砂刃が、風を裂く。

 速い。

 一合目で、勝てないと分かる。

 

 だから、勝たない。

 踏み込む距離を詰め、刃を絡める。

 斬らない。

 離さない。

 

 時間だけを、奪う。

 

 女の視線が、列に流れる。

 一瞬、部下の位置を確認する。

 

 ──庇う。

 その判断が、ほんの半拍、遅れる。

 

 そこを、離さない。

 剣を押し込み、距離を潰す。

 

「……時間稼ぎか」

 

 女の声が、低く落ちた。

 

「そう見えるなら、もう遅い」

 

 砂刃。

 

「……弱い列だ」

 

 風に混じって、声が届いた。

 

「埋もれるだけだ」

 

 馬が加速する。

 

 その瞬間──

 

「左! 二騎!」

 

 フィリアの叫び。

 

 本来なら、距離が足りない。

 観測も、完全じゃない。

 狙撃どころか、確証のない判断だ。

 

 それでも、声を出した。

 端末としての最適解ではない。

 だが、仲間としては、これしかなかった。

 

 喉が震え、呼吸が乱れる。

 それでも、声は届いた。

 

 撃たない代わりに、導く。

 当てる代わりに、通す。

 

 恐怖を消したわけじゃない。

 恐怖を抱えたまま、一歩前に出ただけだ。

 

 狙撃じゃない。

 声だ。

 

「砂、浅い! 

 踏み込める!」

 

 その声で、全てが繋がった。

 

 こちらに集中した視線。

 踏み込んだ距離。

 砂刃が、こちらを外せない位置。

 

 狙う場所は、一つしかない。

 

 乾いた音。

 砂を裂く軌道。

 

 刃を持つ腕が、弾かれる。

 完全な命中じゃない。

 だが、十分だ。

 

 馬がバランスを崩す。

 女は、即座に手綱を引いた。

 

 部下を下がらせ、自分が後ろへ出る。

 追わない。

 深追いしない。

 

 勝てる形を、失ったと判断した。

 

 砂が舞い上がり、視界が閉じる。

 そこに、もう彼女はいない。

 

「……追わない?」

「追わない。目的は、果たした」

 

 列は、動いている。

 それで、十分だった。

 

 理解する前に、身体が動く。

 

 示された方向へ、剣を振る。

 騎兵の進路を、強引にずらす。

 

 馬が嘶く。

 

「っ、隊長!」

 

 敵側で、声が上がった。

 

 女が、手綱を引く。

 突出した部下を庇う動き。

 

 ──遅れた。

 

 その一瞬で、列が前に出る。

 

「今だ!」

 

 叫ぶ。

 

「山道へ! 

 全員、右!」

 

 リナが即座に反応する。

 

「聞いた! 

 詰めるな、間を保て!」

 

 アリスの肩を支えながら、走る。

 

 フィリアが、最後尾を見る。

 

「……追撃、鈍った」

 

 声が震えている。

 それでも、目は前を向いている。

 

 砂煙の中で、騎兵が乱れる。

 女が、もう一度こちらを見る。

 

 視線が、交差した。

 

 怒りでも憎しみでもない。

 理解だ。

 

 切れなかった者の、目。

 

 次の瞬間、砂の渦が立ち上がり、

 その姿は見えなくなった。

 

 山道に入った瞬間、蹄の音が遠ざかる。

 

 完全に逃げ切ったわけじゃない。

 ただ、今は追えないだけだ。

 

 誰も、声を出さなかった。

 

 息だけが、荒い。

 

 アリスが、小さく笑う。

 

「……まだ、生きてる」

 

「ああ」

 

 短く返す。

 

 平原の向こうで、砂が唸る。

 魂嵐の前兆のように。

 

 終わっていない。

 だが、越えた。

 

 守る対象は、もう街だけじゃない。

 仲間だ。

 

 それを選んだ責任を、

 これからも背負っていく。

 

 ──次が来る。

 

 追撃戦は、続く。

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