平原に近づくにつれて、空気の匂いが変わった。
乾いた土の臭いに、熱が混じる。
砂だ。
夜のはずなのに、風が温い。
足元を撫でる感触が、粉のように軽い。
足を止めずに進んでいるのに、砂の流れが追いついてこない。
踏みしめた跡が、すぐに均される。
風のせいじゃない。
誰かが、均している。
砂丘の稜線が、わずかにずれる。
崩れたわけじゃない。
位置を変えた。
平原全体が、静かに並べ替えられている。
逃げる者を中心に、円を描くように。
ここは自然の地形じゃない。
“使われている”。
狩場として、整えられている。
丘の向こうで、砂が──盛り上がった。
最初は風に煽られた錯覚だと思った。
だが、砂は風向きに逆らっていた。
吹き上げられるのではなく、地面そのものが押し上げられている。
粒が跳ねる前に、低い圧が足裏に伝わる。
馬の蹄音は、まだ聞こえない。
それなのに、地面だけが先に震えていた。
視線を上げると、砂煙の奥で影が分裂する。
一つが二つに、二つが三つに。
数が増えているのに、密度は上がらない。
広がりながら、包む形だ。
突撃じゃない。
逃走路を潰す動き。
この段階で気づいた者は、ほとんどいない。
だが、直感だけが告げていた。
これは「来る」のではない。
もう、回り込まれている。
最初は気のせいかと思った。
だが、次の瞬間、それははっきりと形を持つ。
渦だ。
影を伴った、低い砂のうねり。
「……来る」
フィリアの声は、かすれていた。
狙撃のときとは違う。
恐怖を隠していない声だった。
「撃てるか」
そう聞いた自分の声は、思ったより落ち着いていた。
フィリアは、首を横に振る。
「砂が跳ねてる……視界、割れる。
今は、当たらない」
事実だけを言う。
言い訳はない。
前方で、誰かが息を呑んだ。
「……馬?」
次の瞬間、地鳴りが来た。
音が低すぎて、最初は風と区別がつかない。
だが、揺れは確実に近づいてくる。
「騎兵だ」
列の中で、誰かが叫ぶ。
砂煙の向こうから、影が走り出た。
一直線じゃない。
左右に揺れ、列の側面をなぞる。
突っ込んでこない。
削る動きだ。
「……止まるな!」
声を張る。
「前へ!
倒れても、起きろ!」
砂が跳ね、蹄の音が重なる。
騎兵は列の端を狙っていた。
遅れた者。
荷を抱えすぎた者。
振り返った者。
一人、転んだ。
次の瞬間、砂が跳ね上がる。
「──っ!」
悲鳴が、途中で潰れた。
踏み抜いたわけじゃない。
馬が、すれ違いざまに蹴った。
倒れた体は、動かない。
列が揺れた。
荷が落ちる音がした。
誰かが振り返り、拾おうとして止まる。
別の誰かが、その荷を跨いで前に出る。
「……次、誰だ?」
誰かの呟きが、列の端で漏れた。
それだけで、足並みが乱れかける。
中央に、立つ。
剣は抜かない。
声も出さない。
進行方向に、ただ立つ。
それだけで、前が揃う。
遅れた者が、自然に列へ戻る。
奪われかけた荷が、無言で返される。
群れに戻る寸前で、踏みとどまった。
「見るな!」
叫ぶ。
「前だけ見ろ!」
だが、遅れは連鎖する。
前方で、アリスがよろけた。
子どもを抱えたまま、膝が落ちる。
「……っ」
歯を食いしばる音が聞こえた。
リナが、すぐに腕を取る。
「大丈夫、立てる!」
アリスは首を振った。
「……この子、前へ」
そう言って、腕を伸ばす。
俺に、子どもを押し付けようとする。
「私、後ろに──」
その先を、言わせなかった。
腕を掴み、引き戻す。
「行くな」
声は低かった。
「前だ」
アリスの目が揺れる。
揺れたのは、恐怖じゃなかった。
焦点が、合っていない。
声も、呼吸も、乱れているのに、表情だけが静かすぎる。
痛みを感じていない顔だ。
いや──感じていないのではない。
感じる順番が、遅れている。
「……アリス、聞こえてる?」
「……うん。前だけ」
それ以上、言葉が返ってこなかった。
返事はあったが感情は追いついていなかった。
リナも、気づいていた。
アリスの手が、震えていない。
足は限界に近い。
呼吸も乱れている。
それなのに、力の入り方だけが正確すぎる。
フィリアの視線が、一瞬だけ揺れる。
感情波が、薄い。
消えてはいないが、削れている。
異常だ。
だが、誰も口にしない。
ここで名前を呼べば、
戻ってくる感情と一緒に、立てなくなる。
それを全員が、無意識に理解していた。
「でも……足が……」
「分かってる」
即答する。
分かっているから、選ぶ。
「切らない」
その言葉は、即断だった。
だが、衝動じゃない。
「……前は、違ったよね」
リナが、前を見たまま言う。
「ああ。だから今は、違う」
だが今は違う。
後ろにいるのは、顔のある仲間だ。
声を知っている。
癖も、弱さも、もう知ってしまった。
切れば、速くなる。
だが、その瞬間、列は「群れ」に戻る。
次は誰だと、全員が疑い始める。
それだけは、許さない。
この列を、隊にしたのは自分だ。
なら、崩れる責任も、自分が負う。
守る対象が増えた分、恐怖も増えた。
それでも──
だからこそ、前に立つ。
切らない。
遅れても、折れても、連れて行く。
それが、今の選択だ。
砂煙の向こうで、騎兵が方向を変える。
遅れた一点に、集中する気だ。
「間、詰めるな!」
叫ぶ。
「最低速でいい!
揃えろ!」
列が、わずかに速度を落とす。
その分、騎兵が近づく。
恐怖が、背中を叩く。
全員を守るには、遅い。
捨てれば、速い。
──それでも。
「前へ!」
声を張る。
「俺が、前に立つ!」
剣を抜き、列の外へ一歩出る。
蹄が、方向を変えた。
俺を見た。
騎兵の先頭。
砂布で顔を覆った女が、こちらを見る。
女は、叫ばなかった。
剣も振り上げない。
ただ、片手をわずかに上げる。
それだけで、周囲の騎兵が動きを揃えた。
突出しそうになった一騎が、半歩下がる。
列を乱さない判断。
速い。
判断が、迷いなく速い。
敵でありながら、その指揮の正確さが分かってしまう。
部下が信頼している動きだ。
無茶はさせない。
その代わり、確実に削る。
この女は、勝てる形しか選ばない。
だが──
だからこそ、一瞬の遅れが命取りになる。
黒い瞳。
ためらいのない視線。
剣を構える角度が、わずかに変わる。
踏み込みは浅い。
殺しに来ていない。
こちらを量っている。
列を止める価値があるかどうか。
砂刃が、風を裂く。
速い。
一合目で、勝てないと分かる。
だから、勝たない。
踏み込む距離を詰め、刃を絡める。
斬らない。
離さない。
時間だけを、奪う。
女の視線が、列に流れる。
一瞬、部下の位置を確認する。
──庇う。
その判断が、ほんの半拍、遅れる。
そこを、離さない。
剣を押し込み、距離を潰す。
「……時間稼ぎか」
女の声が、低く落ちた。
「そう見えるなら、もう遅い」
砂刃。
「……弱い列だ」
風に混じって、声が届いた。
「埋もれるだけだ」
馬が加速する。
その瞬間──
「左! 二騎!」
フィリアの叫び。
本来なら、距離が足りない。
観測も、完全じゃない。
狙撃どころか、確証のない判断だ。
それでも、声を出した。
端末としての最適解ではない。
だが、仲間としては、これしかなかった。
喉が震え、呼吸が乱れる。
それでも、声は届いた。
撃たない代わりに、導く。
当てる代わりに、通す。
恐怖を消したわけじゃない。
恐怖を抱えたまま、一歩前に出ただけだ。
狙撃じゃない。
声だ。
「砂、浅い!
踏み込める!」
その声で、全てが繋がった。
こちらに集中した視線。
踏み込んだ距離。
砂刃が、こちらを外せない位置。
狙う場所は、一つしかない。
乾いた音。
砂を裂く軌道。
刃を持つ腕が、弾かれる。
完全な命中じゃない。
だが、十分だ。
馬がバランスを崩す。
女は、即座に手綱を引いた。
部下を下がらせ、自分が後ろへ出る。
追わない。
深追いしない。
勝てる形を、失ったと判断した。
砂が舞い上がり、視界が閉じる。
そこに、もう彼女はいない。
「……追わない?」
「追わない。目的は、果たした」
列は、動いている。
それで、十分だった。
理解する前に、身体が動く。
示された方向へ、剣を振る。
騎兵の進路を、強引にずらす。
馬が嘶く。
「っ、隊長!」
敵側で、声が上がった。
女が、手綱を引く。
突出した部下を庇う動き。
──遅れた。
その一瞬で、列が前に出る。
「今だ!」
叫ぶ。
「山道へ!
全員、右!」
リナが即座に反応する。
「聞いた!
詰めるな、間を保て!」
アリスの肩を支えながら、走る。
フィリアが、最後尾を見る。
「……追撃、鈍った」
声が震えている。
それでも、目は前を向いている。
砂煙の中で、騎兵が乱れる。
女が、もう一度こちらを見る。
視線が、交差した。
怒りでも憎しみでもない。
理解だ。
切れなかった者の、目。
次の瞬間、砂の渦が立ち上がり、
その姿は見えなくなった。
山道に入った瞬間、蹄の音が遠ざかる。
完全に逃げ切ったわけじゃない。
ただ、今は追えないだけだ。
誰も、声を出さなかった。
息だけが、荒い。
アリスが、小さく笑う。
「……まだ、生きてる」
「ああ」
短く返す。
平原の向こうで、砂が唸る。
魂嵐の前兆のように。
終わっていない。
だが、越えた。
守る対象は、もう街だけじゃない。
仲間だ。
それを選んだ責任を、
これからも背負っていく。
──次が来る。
追撃戦は、続く。