灰を越えて風になる   作:雷光123

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除外された街、選ばれた人

 山道の裂け目から、冷たい風が吹き抜けてきた。

 夜の熱を削ぐような、骨に触る冷気だ。

 

 冷気に触れた瞬間、誰かが小さく息を吐いた。

 それは安堵に近い音だった。

 背中を追っていた熱と砂が、ようやく届かなくなった気がしたのだ。

 

 列の中で、水袋の栓を緩める音がする。

 ほんの一口ずつ、回すような仕草。

 誰も「休もう」とは言わない。

 言わないが、足取りはわずかに緩んでいた。

 

 子どもの一人が、抱かれたまま目を閉じる。

 揺れに身を預け、指先の力が抜けていく。

 それを見て、誰かが小さく笑いかけた。

 

 ──ここまで来れば。

 ──もう、追ってはこない。

 

 口にすれば壊れると分かっている期待が、

 それでも列の底に、薄く溜まり始めていた。

 

 岩の割れ目に立つ影が一つ、こちらを待っていた。

 協会の紋章。汚れ一つない外套。走ってきた様子もない。

 

「公式伝令だ」

 

 誰かが小さく呟いた。

 列が、わずかに止まる。

 

 伝令は息を整えることもなく、紙片を取り出した。

 読み上げる声に、抑揚はない。

 

「ローヴァ市は、防衛対象から除外されました」

 

 言葉が落ちたあと、すぐに怒号は出なかった。

 代わりに、ばらばらの声が、地面に零れる。

 

「……薬、置いてきた」

 誰かが、独り言のように呟く。

「母親の分だ。三日分、残ってた」

 

「門の近くに、弟がいる」

 別の声。

 確認でも懇願でもない。

 ただ、事実を並べただけの音だった。

 

「じゃあ……最初から、助ける気はなかったのか」

 

 問いかけの形をしていたが、答えは求めていない。

 その場にいる誰もが、同じ結論に辿り着いていた。

 

 怒りは、まだ形にならない。

 悲鳴も、罵声もない。

 あるのは、生活が切り取られた音だけだった。

 

 それが、いちばん重かった。

 

 一拍。

 言葉が、風に吸われる。

 

「今後の救援、支援は行われません。各員は、生存優先での判断を──」

 

 そこまで聞いて、十分だった。

 

 怒りは湧かなかった。

 驚きもない。

 

 胸の奥で、何かが静かに折れただけだ。

 ずっと前から、分かっていたことが、正式な音になった。

 

 アリスの方を見る。

 彼女は泣いていなかった。

 

 子どもを抱える腕の角度が、わずかに変わっている。

 守る位置だけは、正確だった。

 

 指先が白い。

 力を入れすぎているのに、震えていない。

 呼吸は浅く、一定で、乱れていない。

 

 まるで、感情だけが一拍遅れているようだった。

 

 名前を呼べば、戻ってくる。

 泣きも、叫びも、弱さも。

 だが、それと引き換えに、この場で立てなくなる。

 

 それが分かったから、呼ばなかった。

 沈黙を、選んだ。

 

 彼女は壊れかけている。

 だが、まだ倒れていない。

 

 子どもを抱く腕は固く、だが震えていない。

 視線は地面の一点に落ちたまま、何も言わない。

 

「そんな……」

 

 誰かの声が、途中で消えた。

 

 フィリアが、喫水線ぎりぎりの声で言った。

 

「……守りたい」

 

 それは宣言じゃない。

 決意ですらない。

 

 その言葉は、狙撃の判断基準から外れていた。

 距離も、確率も、優先順位も含まれていない。

 

 これまで彼女は、

「当たるか」「意味があるか」だけを見てきた。

 守るとは、撃つことであり、止めることだった。

 

 だが今、視線は銃口ではなく、列に向いている。

 倒れかけた人。

 泣く余裕すら失った子ども。

 逃げることしかできない背中。

 

 撃てば、守れるとは限らない。

 撃たなければ、守れないとも限らない。

 

 その矛盾を、初めて言葉にした。

 だから声が、震えた。

 

 息を吐くみたいに、こぼれただけの言葉だった。

 それでも、確かにそこにあった。

 

 リナが前に出る。

 子どもを片腕で抱えたまま、こちらを見る。

 

「リオ」

 

 名前だけ。

 それで十分だった。

 

「ここで止まったら、逃げる人も、残る人も、全部死ぬ」

 

 正しい。

 あまりに正しくて、逃げ場がない。

 

 列の後ろから、声が重なる。

 

「もう戻れないのか」

「置いていく気か」

「止まらないでくれ」

 

 どれも、間違っていない。

 だからこそ、選ばなければならない。

 

 街を守る。

 その言葉は、もう重さを失っていた。

 

 街は場所だ。

 石で、壁で、名前でできている。

 

 だが今、ここにあるのは人だ。

 息をしている。重さがある。触れれば温かい。

 

 アリスの肩が、わずかに揺れる。

 泣いていない。ただ、限界に近い。

 

 このまま立ち止まれば、壊れる。

 それだけは、はっきり分かった。

 

「……街じゃない」

 

 もし、街を選んでいたら。

 頭の中で、短く像が結ばれる。

 

 戻る命令を出す。

 門を固める。

 人数を数え、切り捨てる。

 合理的で、正しい判断。

 

 何人かは、確実に助かる。

 だが、その場にいる全員は、違う。

 

 像は、すぐに崩す。

 考え続ける価値がない。

 

 今ここにいるのは、

 数字じゃない。

 顔だ。

 声だ。

 重さだ。

 

 選ばなかった未来を、背負わないわけじゃない。

 ただ、それを理由に、今を捨てない。

 

 だから言う。

 

 街じゃない。

 人だ。

 

 自分の声が、低く落ちる。

 

 誰かに向けた言葉じゃない。

 確認だ。

 

「人だ」

 

 一歩、前に出る。

 

「行く」

 

 風が、裂け目を抜けて吹いた。

 街の方向から来る冷気。

 

「全部、連れて行く」

 

 希望じゃない。

 慰めでもない。

 

 それが正しいかどうかも、分からない。

 だが、背負うと決めた。

 

 リナが、短く息を吐いた。

 

「うん。行こう」

 

 それだけで、列が動き出す。

 

 アリスが、顔を上げる。

 目は乾いたまま、でも、わずかに焦点が戻る。

 

 フィリアが、こちらを見る。

 何も言わないが、その視線は、逃げていなかった。

 

 伝令は、もう何も言わなかった。

 それでいい。

 

 山道の裂け目を越える。

 風が、背中を押す。

 

 街は、後ろに残った。

 振り返らない。

 

 終わっていない。

 だが、選んだ。

 

 逃げる者になることを。

 残すものを、切り捨てる責任ごと。

 

 次が来る。

 それでも、進む。

 

 守る対象は、もう決まった。

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