灰を越えて風になる   作:雷光123

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脈打つ夜、戻らない一歩

 丘陵の向こうで、夜が一度だけ脈打った。

 

 光じゃない。

 光の“揺れ”だけが、遠くで明滅している。

 

 立ち止まったら、呑まれる。

 そう分かっているのに、視線だけが勝手に吸われた。

 

 あれは規模が違う。

 焚き火でも、塔の明かりでもない。

 空そのものが、薄くめくれている。

 

「……あれ、やだ」

 

 フィリアが言った。

 声が細い。

 狙撃の時に出さなかった揺れが、喉に残っている。

 

「嫌って、どういう」

 

 聞き返した瞬間、頬に冷えた風が触れた。

 風は一定じゃない。

 夜明け前の癖のある流れが、肌を撫でて離れる。

 

「……観測が、引っ張られる」

「引っ張られる?」

「うん。見たくないのに、見せられる感じ」

 

 言葉が途切れる。

 肩が小さく上下していた。

 

 列の先で、誰かが足を止めかける。

 すぐに、別の誰かが背中を押した。

 声にならない焦りだけが、塊で転がる。

 

「歩けるやつは歩け!」

「子ども、交代で抱け!」

 

 避難民の中から、太い声が飛ぶ。

 誰が言い出したのか分からない。

 でも、その声があるだけで、列は崩れにくくなる。

 

 アリスが腕の中の子を抱き直した。

 子どもの頭が、胸元に落ちる。

 息はある。

 それだけで十分だと思った。

 

「……重い?」

 

 聞くと、彼女は首を横に振る。

 頷きじゃない。否定。

 でも、目の焦点が遅い。

 

「大丈夫。まだ、行ける」

 

 返事が短い。

 それでも、足は前に出ている。

 

 リナが横に並んだ。

 顔は前を向いたまま。

 涙の痕だけが、頬に残っている。

 

「……次、休める場所、ある?」

「ある」

「根拠は?」

「作る」

 

 それを言った自分の声が、乾いていた。

 胸の奥にある痛みは消えていないのに、表に出る揺れだけが薄い。

 返事が短くなる。

 余計な温度が削れていく。

 

 リナは、少しだけ息を吸った。

 それ以上は言わない。

 歩幅だけを合わせてきた。

 

 背中の方で、砂利が落ちる音がした。

 誰かが転びかけた。

 すぐに二人が腕を取る。

 転ぶ前に、列に戻す。

 

「ありがとう!」

「礼はいらねぇ、進め!」

 

 生活の声が混じる。

 怒鳴りでも、泣きでもない。

 生きるための音だけが残る。

 

 遠く──ローヴァの方向で、低い音がした。

 雷じゃない。

 崩れるときの音だ。

 

 山の腹の奥まで響いてくる。

 石が割れて、空気が押し出される音。

 

 誰かが振り向きかける。

 その瞬間、言葉が先に出た。

 

「振り返るな」

 

 怒鳴ってはいない。

 けれど、列の首が一斉に前へ戻る。

 背中に、重い沈黙が貼り付いた。

 

「……街、今……」

 

 小さな声。

 最後まで言わない。

 

 答えなかった。

 答える形にすると、全員がそこに触れる。

 触れた瞬間、足が止まる。

 

 代わりに、手だけを上げる。

 前へ。

 それだけ。

 

 丘の稜線が近づく。

 越えた先に、光の揺れがまた見えた。

 

 今度は、さっきより大きい。

 明滅の間隔が一定じゃない。

 増える。

 減る。

 脈を打つみたいに。

 

「……自由領?」

 

 避難民の代表らしい男が、息を切らして訊く。

 顔に煤が付いている。

 手は震えていない。

 震える暇がないのだ。

 

「噂でしか聞いたことねぇ。あんな……」

「光の壁か?」

「助けに来たのか?」

 

 希望が言葉になりかけて、すぐ怖れが追い越す。

 助けは、いつも条件付きだった。

 ここまで来た者ほど、それを知っている。

 

 フィリアが唇を噛んだ。

 視線が、揺れへ吸われる。

 翼の付け根を押さえる手に力が入る。

 

「……あれ、きれいじゃない」

 

 初めて、断言に近い声だった。

 

「何が見える」

「光の中が、空っぽ。音が、抜けてる」

「敵か」

「……分からない。でも、近づくと、壊れる」

 

 彼女の言葉は理屈じゃない。

 身体が先に拒んでいる。

 

 そのとき、背中の奥で、微かな“触れ”が走った。

 耳じゃない。

 胸の奥を軽く叩くような、乾いた合図。

 

 ──通信。

 

 一瞬だけ、呼吸が止まる。

 次の瞬間、声が頭の内側に落ちた。

 

『……聞こえる? 生きてる?』

 

 距離がある。

 それでも、あの癖のある間。

 

「……セラ?」

 

 口にすると、胸の痛みが跳ねた。

 声が出たことで、現実になった気がした。

 

『今、裂け目の外。追撃の影、まだいる』

『でも……あんたら、列、崩れてない』

 

 褒めてるわけじゃない。

 確認だ。

 それが逆に、頼もしい。

 

「見えてるのか」

『見えてる。……光の揺れも』

「分かる?」

『分からない。でも、嫌な予感はする』

 

 言い終わらないうちに、通信がざらついた。

 砂が混じるみたいに、声が欠ける。

 

『……近づきすぎるな。あと──』

 

 ぷつりと切れた。

 

「今の……誰?」

 

 リナが小さく訊いた。

 答えるより、息を吐いた。

 

「味方だ」

 

 それだけ言った。

 それで足りた。

 足りると決めた。

 

 丘を越える。

 風が、一度だけ強く吹いた。

 背中を押すというより、背中の熱を奪っていく冷え。

 

 前の空が、薄く明るい。

 夜明け前の色だ。

 まだ太陽は出ていない。

 でも、黒が少しずつ抜けている。

 

 ローヴァの崩れる音が、また一つ遠くで鳴った。

 今度は、短い。

 大きいものが落ちた。

 

 誰も振り返らない。

 振り返れない。

 

「……歩こう」

 

 リナが言った。

 涙を飲む声。

 

「うん」

 

 アリスが返した。

 短い。

 でも、焦点が少し戻った。

 

 フィリアは何も言わない。

 狙撃銃のストラップを握り直している。

 指の白さが消えない。

 

 前にあるのは、光の揺れ。

 それが救いか、罠かは分からない。

 

 分からないまま進むなら、選ぶのは──

 

「行くぞ」

 

 声を落とす。

 列の先頭が、自然に速度を上げた。

 誰かがそれに続く。

 足音が、また一つに近づく。

 

 胸の奥が、鳴る。

 痛みはある。

 でも、迷いの形だけが消えていく。

 

 ──決めた。

 この先を、選ぶ。

 

 丘の向こうで、光がまた一度、明滅した。

 その瞬間だけ、影が“人の形”に見えた。

 

 見えただけだ。

 確かめる距離じゃない。

 

 それでも、喉の奥が小さく鳴った。

 

 夜明けは、まだ遠い。

 けれど──次の一歩は、もう戻れない。

 

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