丘陵の向こうで、夜が一度だけ脈打った。
光じゃない。
光の“揺れ”だけが、遠くで明滅している。
立ち止まったら、呑まれる。
そう分かっているのに、視線だけが勝手に吸われた。
あれは規模が違う。
焚き火でも、塔の明かりでもない。
空そのものが、薄くめくれている。
「……あれ、やだ」
フィリアが言った。
声が細い。
狙撃の時に出さなかった揺れが、喉に残っている。
「嫌って、どういう」
聞き返した瞬間、頬に冷えた風が触れた。
風は一定じゃない。
夜明け前の癖のある流れが、肌を撫でて離れる。
「……観測が、引っ張られる」
「引っ張られる?」
「うん。見たくないのに、見せられる感じ」
言葉が途切れる。
肩が小さく上下していた。
列の先で、誰かが足を止めかける。
すぐに、別の誰かが背中を押した。
声にならない焦りだけが、塊で転がる。
「歩けるやつは歩け!」
「子ども、交代で抱け!」
避難民の中から、太い声が飛ぶ。
誰が言い出したのか分からない。
でも、その声があるだけで、列は崩れにくくなる。
アリスが腕の中の子を抱き直した。
子どもの頭が、胸元に落ちる。
息はある。
それだけで十分だと思った。
「……重い?」
聞くと、彼女は首を横に振る。
頷きじゃない。否定。
でも、目の焦点が遅い。
「大丈夫。まだ、行ける」
返事が短い。
それでも、足は前に出ている。
リナが横に並んだ。
顔は前を向いたまま。
涙の痕だけが、頬に残っている。
「……次、休める場所、ある?」
「ある」
「根拠は?」
「作る」
それを言った自分の声が、乾いていた。
胸の奥にある痛みは消えていないのに、表に出る揺れだけが薄い。
返事が短くなる。
余計な温度が削れていく。
リナは、少しだけ息を吸った。
それ以上は言わない。
歩幅だけを合わせてきた。
背中の方で、砂利が落ちる音がした。
誰かが転びかけた。
すぐに二人が腕を取る。
転ぶ前に、列に戻す。
「ありがとう!」
「礼はいらねぇ、進め!」
生活の声が混じる。
怒鳴りでも、泣きでもない。
生きるための音だけが残る。
遠く──ローヴァの方向で、低い音がした。
雷じゃない。
崩れるときの音だ。
山の腹の奥まで響いてくる。
石が割れて、空気が押し出される音。
誰かが振り向きかける。
その瞬間、言葉が先に出た。
「振り返るな」
怒鳴ってはいない。
けれど、列の首が一斉に前へ戻る。
背中に、重い沈黙が貼り付いた。
「……街、今……」
小さな声。
最後まで言わない。
答えなかった。
答える形にすると、全員がそこに触れる。
触れた瞬間、足が止まる。
代わりに、手だけを上げる。
前へ。
それだけ。
丘の稜線が近づく。
越えた先に、光の揺れがまた見えた。
今度は、さっきより大きい。
明滅の間隔が一定じゃない。
増える。
減る。
脈を打つみたいに。
「……自由領?」
避難民の代表らしい男が、息を切らして訊く。
顔に煤が付いている。
手は震えていない。
震える暇がないのだ。
「噂でしか聞いたことねぇ。あんな……」
「光の壁か?」
「助けに来たのか?」
希望が言葉になりかけて、すぐ怖れが追い越す。
助けは、いつも条件付きだった。
ここまで来た者ほど、それを知っている。
フィリアが唇を噛んだ。
視線が、揺れへ吸われる。
翼の付け根を押さえる手に力が入る。
「……あれ、きれいじゃない」
初めて、断言に近い声だった。
「何が見える」
「光の中が、空っぽ。音が、抜けてる」
「敵か」
「……分からない。でも、近づくと、壊れる」
彼女の言葉は理屈じゃない。
身体が先に拒んでいる。
そのとき、背中の奥で、微かな“触れ”が走った。
耳じゃない。
胸の奥を軽く叩くような、乾いた合図。
──通信。
一瞬だけ、呼吸が止まる。
次の瞬間、声が頭の内側に落ちた。
『……聞こえる? 生きてる?』
距離がある。
それでも、あの癖のある間。
「……セラ?」
口にすると、胸の痛みが跳ねた。
声が出たことで、現実になった気がした。
『今、裂け目の外。追撃の影、まだいる』
『でも……あんたら、列、崩れてない』
褒めてるわけじゃない。
確認だ。
それが逆に、頼もしい。
「見えてるのか」
『見えてる。……光の揺れも』
「分かる?」
『分からない。でも、嫌な予感はする』
言い終わらないうちに、通信がざらついた。
砂が混じるみたいに、声が欠ける。
『……近づきすぎるな。あと──』
ぷつりと切れた。
「今の……誰?」
リナが小さく訊いた。
答えるより、息を吐いた。
「味方だ」
それだけ言った。
それで足りた。
足りると決めた。
丘を越える。
風が、一度だけ強く吹いた。
背中を押すというより、背中の熱を奪っていく冷え。
前の空が、薄く明るい。
夜明け前の色だ。
まだ太陽は出ていない。
でも、黒が少しずつ抜けている。
ローヴァの崩れる音が、また一つ遠くで鳴った。
今度は、短い。
大きいものが落ちた。
誰も振り返らない。
振り返れない。
「……歩こう」
リナが言った。
涙を飲む声。
「うん」
アリスが返した。
短い。
でも、焦点が少し戻った。
フィリアは何も言わない。
狙撃銃のストラップを握り直している。
指の白さが消えない。
前にあるのは、光の揺れ。
それが救いか、罠かは分からない。
分からないまま進むなら、選ぶのは──
「行くぞ」
声を落とす。
列の先頭が、自然に速度を上げた。
誰かがそれに続く。
足音が、また一つに近づく。
胸の奥が、鳴る。
痛みはある。
でも、迷いの形だけが消えていく。
──決めた。
この先を、選ぶ。
丘の向こうで、光がまた一度、明滅した。
その瞬間だけ、影が“人の形”に見えた。
見えただけだ。
確かめる距離じゃない。
それでも、喉の奥が小さく鳴った。
夜明けは、まだ遠い。
けれど──次の一歩は、もう戻れない。