夜明け前の丘道は、土が冷たかった。
踏むたび、靴底の泥が薄くちぎれる。
避難列は長く、暗さの中で呼吸だけが続いていた。
その呼吸も揃わない。
浅いものと、途切れかけのもの。
背中越しに、胸がいくつも震えているのが分かる。
荷車の車輪が、石を噛む。
きい、と鳴ってから、音が遅れて追いつく。
遠くの雷みたいな震えも、一拍遅れて腹に来る。
遅れて届く振動に、子供がひとり、声を詰まらせた。
「……遅いね」
アリスが囁いた。
声は低く、息の白さに混じる。
俺は返事をせず、前の列へ視線を送った。
丘の稜線に、夜明けの色がまだない。
それでも空だけが薄くほどけていく。
人の輪郭は黒い影のまま、少しずつ前へ押されていた。
泣き声。
歯を食いしばる音。
布の擦れる音。
それらが、同じ距離に揃わない。
どれも少し遅れて耳に届く。
足音と泣き声のあいだに、わずかな空白がある。
空白のたびに、胸がひとつ跳ねる。
俺は歩きながら、右手の指を開いた。
掌に残る温度は弱い。
冷えた布越しに、胸の奥が小さく脈打つ。
その脈が、一定ではない。
わずかに速い。
まるで、何かを待っているみたいに。
「列、崩れそう」
アリスが荷車の横に寄り、縄を持ち直した。
指が震えている。
泣いている子に、目を向けないようにしている。
荷車の後輪が一度、深く沈んだ。
押していた男が足を滑らせ、膝を打つ。
小さく、鈍い音。
「崩さない」
俺は短く言った。
言葉が硬く出たのが、自分でも分かった。
喉が、少しだけ鳴った。
後方。
フィリアがいるはずのあたりに、薄い影が揺れた。
彼女はいつも、輪郭が決まり切らない。
そこにいるのに、視線が滑る。
その周囲だけ、風が微妙に遅れる。
草の揺れが、半拍ずれて止まる。
「フィリア」
呼ぶと、影が一瞬だけ濃くなる。
返事はない。
だが、そこに“いる”という気配だけは、確かに残った。
丘道は狭い。
左は斜面、右は浅い溝。
列が止まれば、詰まる。詰まれば、裂ける。
俺は前を見た。
負傷者が担架に乗っている。
包帯が指先から滑り落ち、土へ白く落ちた。
白が、闇の中で浮く。
アリスが拾おうとして、手が止まる。
その一瞬の遅れが、怖かった。
止まったら、終わる。誰もが知っている。
後ろで、誰かが咳き込む。
血の匂いが、わずかに混じる。
「行け」
俺が言うと、アリスは頷き、包帯を諦めた。
白い布は土に吸われ、闇に沈んだ。
その色だけが、余計に目につく。
──セラは。
名前を思っただけで、胸の奥が少し痛んだ。
過去の光が、指先に残っているみたいに。
一瞬だけ、視界が白む。
六歳のあの日。
地面が焼け、影が消えた匂い。
胸の鼓動が、強く打つ。
指先が、勝手に熱を探す。
──出せば終わる。
その衝動が、喉元までせり上がる。
奥歯を噛み、舌の裏で押し戻した。
今は、列を生かす。
丘道の先、風が変わった。
頬に当たる向きが、わずかに横へずれる。
草の擦れる音が、右から来る。
フィリアの影が、いっそう薄くなった。
空気が、そこだけ濁る。
──来る。
俺は足を止めないまま、腰の封具に指をかけた。
留め具を外す。
その金具の音だけ、妙に早く聞こえた。
前方の荷車が、急に揺れた。
車輪の下で石が転がり、斜面を滑り落ちる。
石が跳ねる音が、遅れて、遅れて、耳を叩いた。
影が走った。
黒い鎧の先遣。
数は少ない。だが速度がある。
「伏せろ!」
俺が叫ぶ。
声の後ろで、叫びが遅れて響く。
列の何人かが反応しきれず、足が絡む。
子供が転ぶ。
小さな背が、土に打ちつけられる。
敵の一人が槍を投げた。
槍は空気を切り、荷車の横腹を裂こうとする──
木材が裂ける。
だが角度が甘い。
荷車の板が一枚砕けただけで止まる。
破片が跳ね、押していた男の頬を切った。
赤が、闇に滲む。
先遣の一人が、仲間の盾に肩をぶつけた。
号令が二つ重なり、どちらも半拍ずれる。
視線が互いに噛み合わない。
風も、遅れている。
草の波が、敵の動きと揃わない。
胸の奥が、強く打った。
視界の端が、白く滲む。
指先が、勝手に熱を探す。
いま、ここで全員を消せば、列は無傷で抜けられる。
光を解けば、この斜面ごと静かになる。
それでも──
選ばない。
俺は違和感を、喉の奥で噛んだ。
間違いじゃない。偶然でもない。
敵の“見る”が、ずれている。
フィリアの影が、背後で揺れた。
そこに焦点が合わない。
敵の視線も、同じように滑っている。
なら、使うのはこれだ。
先遣が二手に分かれ、列の横腹へ回り込む。
だが片方が足を取られ、膝をつく。
泥が、吸い付く。
俺は斜面側へ一歩踏み出した。
足元の泥が、先ほどの足跡に重なる。
自分の踏んだ跡が二重になるのが、目に入った。
迷いの痕。
怖さが、肩甲骨のあたりで冷たく固まる。
それでも足は、止まらない。
「アリス、列を右へ寄せろ」
「え、でも溝が──」
「落ちるより、裂かれる方が早い」
列が動く。
子供を抱えた母親が、泥に足を滑らせかける。
だが踏みとどまる。
俺は封具を外し、掌を前に出した。
光は出さない。
地面へ、低い術式を滑らせる。
土の水分が、薄く固まる。
ぬかるみが一瞬で重くなる。
敵の足が、沈む。
転んだ敵の背後で、もう一人が足を取られる。
二人分の間が、生まれる。
「今だ、走れ!」
列が前へ押し出される。
荷車の壊れた板が軋みながらも、動く。
俺は斜面の石を蹴る。
石が転がり、音が遅れて落ちる。
敵の視線が、その音へ吸われる。
観測が、乱れている。
理解が、皮膚の裏に貼りつく。
敵の“見る”という機能が、ずれている。
フィリアがそこにいるだけで、世界の焦点が歪む。
なら──殲滅じゃないやり方で、終わらせられる。
俺は敵と列の間に立った。
背中に、避難民の息が押し寄せる。
鼓動が、一定に戻る。
逃げるために、立つ。
生かすために、止まる。
「──逃がすために立つ」
言葉は短く、地面に落ちた。
二重の足跡が、闇に並ぶ。
そして、俺は気づく。
追撃が、遅い。