灰を越えて風になる   作:雷光123

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遅れて届く夜、逃がすために立つ

 夜明け前の丘道は、土が冷たかった。

 踏むたび、靴底の泥が薄くちぎれる。

 避難列は長く、暗さの中で呼吸だけが続いていた。

 

 その呼吸も揃わない。

 浅いものと、途切れかけのもの。

 背中越しに、胸がいくつも震えているのが分かる。

 

 荷車の車輪が、石を噛む。

 きい、と鳴ってから、音が遅れて追いつく。

 遠くの雷みたいな震えも、一拍遅れて腹に来る。

 

 遅れて届く振動に、子供がひとり、声を詰まらせた。

 

「……遅いね」

 

 アリスが囁いた。

 声は低く、息の白さに混じる。

 俺は返事をせず、前の列へ視線を送った。

 

 丘の稜線に、夜明けの色がまだない。

 それでも空だけが薄くほどけていく。

 人の輪郭は黒い影のまま、少しずつ前へ押されていた。

 

 泣き声。

 歯を食いしばる音。

 布の擦れる音。

 

 それらが、同じ距離に揃わない。

 どれも少し遅れて耳に届く。

 足音と泣き声のあいだに、わずかな空白がある。

 

 空白のたびに、胸がひとつ跳ねる。

 

 俺は歩きながら、右手の指を開いた。

 掌に残る温度は弱い。

 冷えた布越しに、胸の奥が小さく脈打つ。

 

 その脈が、一定ではない。

 わずかに速い。

 まるで、何かを待っているみたいに。

 

「列、崩れそう」

 

 アリスが荷車の横に寄り、縄を持ち直した。

 指が震えている。

 泣いている子に、目を向けないようにしている。

 

 荷車の後輪が一度、深く沈んだ。

 押していた男が足を滑らせ、膝を打つ。

 小さく、鈍い音。

 

「崩さない」

 

 俺は短く言った。

 言葉が硬く出たのが、自分でも分かった。

 喉が、少しだけ鳴った。

 

 後方。

 フィリアがいるはずのあたりに、薄い影が揺れた。

 彼女はいつも、輪郭が決まり切らない。

 そこにいるのに、視線が滑る。

 

 その周囲だけ、風が微妙に遅れる。

 草の揺れが、半拍ずれて止まる。

 

「フィリア」

 

 呼ぶと、影が一瞬だけ濃くなる。

 返事はない。

 だが、そこに“いる”という気配だけは、確かに残った。

 

 丘道は狭い。

 左は斜面、右は浅い溝。

 列が止まれば、詰まる。詰まれば、裂ける。

 

 俺は前を見た。

 負傷者が担架に乗っている。

 包帯が指先から滑り落ち、土へ白く落ちた。

 

 白が、闇の中で浮く。

 

 アリスが拾おうとして、手が止まる。

 その一瞬の遅れが、怖かった。

 止まったら、終わる。誰もが知っている。

 

 後ろで、誰かが咳き込む。

 血の匂いが、わずかに混じる。

 

「行け」

 

 俺が言うと、アリスは頷き、包帯を諦めた。

 白い布は土に吸われ、闇に沈んだ。

 その色だけが、余計に目につく。

 

 ──セラは。

 

 名前を思っただけで、胸の奥が少し痛んだ。

 過去の光が、指先に残っているみたいに。

 

 一瞬だけ、視界が白む。

 

 六歳のあの日。

 地面が焼け、影が消えた匂い。

 

 胸の鼓動が、強く打つ。

 指先が、勝手に熱を探す。

 

 ──出せば終わる。

 

 その衝動が、喉元までせり上がる。

 奥歯を噛み、舌の裏で押し戻した。

 

 今は、列を生かす。

 

 丘道の先、風が変わった。

 頬に当たる向きが、わずかに横へずれる。

 草の擦れる音が、右から来る。

 

 フィリアの影が、いっそう薄くなった。

 空気が、そこだけ濁る。

 

 ──来る。

 

 俺は足を止めないまま、腰の封具に指をかけた。

 留め具を外す。

 その金具の音だけ、妙に早く聞こえた。

 

 前方の荷車が、急に揺れた。

 車輪の下で石が転がり、斜面を滑り落ちる。

 石が跳ねる音が、遅れて、遅れて、耳を叩いた。

 

 影が走った。

 黒い鎧の先遣。

 数は少ない。だが速度がある。

 

「伏せろ!」

 

 俺が叫ぶ。

 声の後ろで、叫びが遅れて響く。

 列の何人かが反応しきれず、足が絡む。

 

 子供が転ぶ。

 小さな背が、土に打ちつけられる。

 

 敵の一人が槍を投げた。

 槍は空気を切り、荷車の横腹を裂こうとする──

 

 木材が裂ける。

 だが角度が甘い。

 荷車の板が一枚砕けただけで止まる。

 

 破片が跳ね、押していた男の頬を切った。

 赤が、闇に滲む。

 

 先遣の一人が、仲間の盾に肩をぶつけた。

 号令が二つ重なり、どちらも半拍ずれる。

 視線が互いに噛み合わない。

 

 風も、遅れている。

 草の波が、敵の動きと揃わない。

 

 胸の奥が、強く打った。

 視界の端が、白く滲む。

 指先が、勝手に熱を探す。

 

 いま、ここで全員を消せば、列は無傷で抜けられる。

 

 光を解けば、この斜面ごと静かになる。

 

 それでも──

 

 選ばない。

 

 俺は違和感を、喉の奥で噛んだ。

 間違いじゃない。偶然でもない。

 敵の“見る”が、ずれている。

 

 フィリアの影が、背後で揺れた。

 そこに焦点が合わない。

 敵の視線も、同じように滑っている。

 

 なら、使うのはこれだ。

 

 先遣が二手に分かれ、列の横腹へ回り込む。

 だが片方が足を取られ、膝をつく。

 泥が、吸い付く。

 

 俺は斜面側へ一歩踏み出した。

 足元の泥が、先ほどの足跡に重なる。

 自分の踏んだ跡が二重になるのが、目に入った。

 

 迷いの痕。

 

 怖さが、肩甲骨のあたりで冷たく固まる。

 それでも足は、止まらない。

 

「アリス、列を右へ寄せろ」

 

「え、でも溝が──」

 

「落ちるより、裂かれる方が早い」

 

 列が動く。

 子供を抱えた母親が、泥に足を滑らせかける。

 だが踏みとどまる。

 

 俺は封具を外し、掌を前に出した。

 光は出さない。

 地面へ、低い術式を滑らせる。

 

 土の水分が、薄く固まる。

 ぬかるみが一瞬で重くなる。

 敵の足が、沈む。

 

 転んだ敵の背後で、もう一人が足を取られる。

 二人分の間が、生まれる。

 

「今だ、走れ!」

 

 列が前へ押し出される。

 荷車の壊れた板が軋みながらも、動く。

 

 俺は斜面の石を蹴る。

 石が転がり、音が遅れて落ちる。

 敵の視線が、その音へ吸われる。

 

 観測が、乱れている。

 

 理解が、皮膚の裏に貼りつく。

 敵の“見る”という機能が、ずれている。

 フィリアがそこにいるだけで、世界の焦点が歪む。

 

 なら──殲滅じゃないやり方で、終わらせられる。

 

 俺は敵と列の間に立った。

 背中に、避難民の息が押し寄せる。

 鼓動が、一定に戻る。

 

 逃げるために、立つ。

 生かすために、止まる。

 

「──逃がすために立つ」

 

 言葉は短く、地面に落ちた。

 二重の足跡が、闇に並ぶ。

 

 そして、俺は気づく。

 

 追撃が、遅い。

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