火は焚けない。
夜はまだ浅く、湿った冷気だけが残っている。
列は丘陰に身を寄せ、息を潜めていた。
誰も座り込まない。
膝を折れば、そのまま立てなくなる。
老いた男が、孫の肩を抱いたまま立っている。
震える指が、細い背中に食い込む。
妊婦の腹を支える女が、唇を噛んでいる。
足首は泥で黒く染まっている。
商人らしい男は、荷車の取っ手を握り続けている。
指の皮が剥け、血が乾いている。
それでも、誰も泣き叫ばない。
声を出せば、終わると分かっている。
アリスが水袋を差し出す。
月明かりが、彼女の横顔を淡く縁取る。
乱れた栗色の髪が頬に張りつき、額に汗が光る。
目は赤く充血しているが、視線は揺れない。
小柄な体で、列の最後尾を支えている。
口をつけるが、湯気は立たない。
冷たいまま、喉を滑る。
「……追ってこないね」
囁きが、すぐに溶ける。
俺は答えず、空を見た。
空気が、軽い。
さっきまで肩に乗っていた重さが、ほんのわずかに薄い。
監視の手が、一瞬だけ緩んだみたいに。
風が止む。
草が動かない。
俺は立ち上がった。
「少し見る」
「一人で?」
「ああ」
アリスは何か言いかけ、飲み込んだ。
代わりに、うなずく。
丘の斜面を這う。
泥が手袋に染みる。
指先で、地面の振動を探る。
──静かすぎる。
尾根の手前で身を伏せる。
息を浅くし、目だけを出す。
肘が小石に触れ、わずかな音が鳴る。
乾いた欠片が、斜面を一つ転がった。
敵影のひとつが、ぴたりと止まる。
槍先が、こちらへ向いた気がした。
息を止める。
肺が焼ける。
鼓動だけが、耳の内側で鳴る。
もう一つ、小石が落ちれば終わる。
ここで見つかれば、列まで一直線だ。
影が、ゆっくりと首を巡らせる。
だが焦点は合わない。
視線が、俺の手前で滑る。
風が遅れて頬を撫でた。
敵の腕が、ようやく下がる。
背中の汗が、冷える。
敵影が見えた。
黒い点。
列を追うはずの隊列が、まばらに散っている。
指で数える。
一。
二。
三──止まる。
本来なら、倍はいる。
ひとつの影が、座り込んだまま動かない。
別の二人が、互いに距離を測りかねている。
座り込んだ影の足元に、濃い染みがある。
片脚を引きずっている。
盾を持つ兵の腕が、震えている。
握力が抜けかけ、縁がわずかに下がる。
後方のひとりが、空の水袋を振った。
叩く音が、虚ろに遅れる。
疲労だ。
焦りも混じっている。
合図の腕が上がる。
下がる。
号令が、二拍遅れる。
風が、逆から撫でた。
一瞬だけ、頬の向きが変わる。
草が、こちらへ倒れる。
──敵も削れている。
胸の奥が、小さく跳ねる。
だが、すぐに押し戻す。
反撃は危険だ。
列を抱えたままでは、勝っても意味がない。
逃げる。
それが正解だ。
そう言い聞かせるたび、喉が渇く。
視線を動かす。
敵の後方。
担架がひとつ、置かれている。
白布が、風に揺れない。
損耗している。
隊列が、ほどけている。
伝令が走る。
だが別の方向へ向かう。
命令が、揃っていない。
俺はもう一度、数える。
今なら。
いや、まだだ。
ここで踏み込めば、削れる。
だが一歩間違えば、列が割れる。
俺が読み違えたら。
風の遅れが、ただの偶然だったら。
六歳のあの日と同じになる。
判断ひとつで、すべてを焼く。
胸の奥が、嫌な速さで打つ。
手のひらが、わずかに熱を帯びる。
違う。
今は、測るだけだ。
判断が揺れる。
指先が、無意識に地面をなぞる。
冷たい土の感触。
そこに、確かな重みがある。
俺は列を振り返った。
丘陰に伏せる人影。
抱えられた子供。
膝を押さえる男。
守るものが、背中にある。
風が、また逆に吹いた。
今度ははっきりと。
草が、敵側からこちらへ波打つ。
胸の鼓動が、静かに整う。
いける。
逃げ切るのではない。
押し返せる。
──計測する。
勝てる、ではない。
削れる、だ。
俺は斜面を滑り降りた。
足音を殺し、列の影に戻る。
列の中央で、低い声が飛ぶ。
「水は右から回して。怪我人は動かさないで」
リナだ。
黒髪を後ろで束ね、泥に汚れた外套の袖をまくっている。
手際よく布を裂き、傷口を縛る。
目の下に濃い影があるが、動きは止まらない。
「あと十分。歩ける人は足を揉んで」
命令ではない。
だが誰も逆らわない。
世界が続くのは、こういう声があるからだ。
アリスが顔を上げる。
「どう?」
その横から、リナがこちらを見る。
「追ってる数は?」
目が鋭い。感情より計算が先に来る視線だ。
「半分以下だ」
「なら、時間は作れる」
迷いがない。
現実を積み上げる声だ。
「怪我人は動かせる。三分なら持つ」
その三分が、命の単位になる。
「乱れてる」
それだけ言う。
説明は、まだ早い。
「数は?」
「少ない。半分以下だ」
アリスの喉が鳴る。
「……なら?」
俺は一瞬、黙った。
反撃してはいけない。
その思い込みが、胸の奥で薄く剥がれる。
逃げるだけでは、削られる。
なら、削る側に回る。
風が、もう一度逆向きに撫でた。
「ここで返せる」
近くで、子供を抱いた母親が顔を上げた。
「……戦うの?」
声は震えているが、逃げない。
商人の男が、荷車の棒を握り直す。
「時間をくれれば、押せる」
老人が、静かにうなずいた。
「若いの、任せたぞ」
言葉は低く、地面に落ちる。
丘の向こうで、敵の合図がまた遅れた。
そのとき。
背後で、空気が引き裂かれるように歪む。
フィリアの影が、細く震えた。
月光の下で、白い髪がわずかに揺れる。
瞳の焦点が、遠くにずれている。
「……ずれてる」
彼女の声は、空気に溶ける。
「数が、合わない」
影が、足元から広がる。
観測が、深く沈んでいく。
震えが、波紋のように広がる。
影の輪郭が、二重にずれる。
足元の草が、逆に倒れたまま戻らない。
音が、ひとつ消える。
耳鳴りが走る。
胸の鼓動が、合わなくなる。
これは“緩み”じゃない。
何かが、噛み合いを失いかけている。
フィリアの揺れが、深く沈む。
嫌な予感が、喉に張りつく。
いつもの揺れじゃない。
もっと深い、嫌な揺れ。
風が、止まる。
俺は振り向いた。
次の判断が、迫っている。