灰を越えて風になる   作:雷光123

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崩れた追撃、押し返す三分

 火は焚けない。

 夜はまだ浅く、湿った冷気だけが残っている。

 

 列は丘陰に身を寄せ、息を潜めていた。

 誰も座り込まない。

 膝を折れば、そのまま立てなくなる。

 

 老いた男が、孫の肩を抱いたまま立っている。

 震える指が、細い背中に食い込む。

 

 妊婦の腹を支える女が、唇を噛んでいる。

 足首は泥で黒く染まっている。

 

 商人らしい男は、荷車の取っ手を握り続けている。

 指の皮が剥け、血が乾いている。

 

 それでも、誰も泣き叫ばない。

 声を出せば、終わると分かっている。

 

 アリスが水袋を差し出す。

 月明かりが、彼女の横顔を淡く縁取る。

 乱れた栗色の髪が頬に張りつき、額に汗が光る。

 

 目は赤く充血しているが、視線は揺れない。

 小柄な体で、列の最後尾を支えている。

 口をつけるが、湯気は立たない。

 冷たいまま、喉を滑る。

 

「……追ってこないね」

 

 囁きが、すぐに溶ける。

 俺は答えず、空を見た。

 

 空気が、軽い。

 

 さっきまで肩に乗っていた重さが、ほんのわずかに薄い。

 監視の手が、一瞬だけ緩んだみたいに。

 

 風が止む。

 草が動かない。

 

 俺は立ち上がった。

 

「少し見る」

 

「一人で?」

 

「ああ」

 

 アリスは何か言いかけ、飲み込んだ。

 代わりに、うなずく。

 

 丘の斜面を這う。

 泥が手袋に染みる。

 指先で、地面の振動を探る。

 

 ──静かすぎる。

 

 尾根の手前で身を伏せる。

 息を浅くし、目だけを出す。

 

 肘が小石に触れ、わずかな音が鳴る。

 乾いた欠片が、斜面を一つ転がった。

 

 敵影のひとつが、ぴたりと止まる。

 槍先が、こちらへ向いた気がした。

 

 息を止める。

 肺が焼ける。

 鼓動だけが、耳の内側で鳴る。

 

 もう一つ、小石が落ちれば終わる。

 ここで見つかれば、列まで一直線だ。

 

 影が、ゆっくりと首を巡らせる。

 だが焦点は合わない。

 視線が、俺の手前で滑る。

 

 風が遅れて頬を撫でた。

 敵の腕が、ようやく下がる。

 

 背中の汗が、冷える。

 

 敵影が見えた。

 

 黒い点。

 列を追うはずの隊列が、まばらに散っている。

 

 指で数える。

 

 一。

 二。

 三──止まる。

 

 本来なら、倍はいる。

 

 ひとつの影が、座り込んだまま動かない。

 別の二人が、互いに距離を測りかねている。

 

 座り込んだ影の足元に、濃い染みがある。

 片脚を引きずっている。

 

 盾を持つ兵の腕が、震えている。

 握力が抜けかけ、縁がわずかに下がる。

 

 後方のひとりが、空の水袋を振った。

 叩く音が、虚ろに遅れる。

 

 疲労だ。

 焦りも混じっている。

 

 合図の腕が上がる。

 下がる。

 号令が、二拍遅れる。

 

 風が、逆から撫でた。

 

 一瞬だけ、頬の向きが変わる。

 草が、こちらへ倒れる。

 

 ──敵も削れている。

 

 胸の奥が、小さく跳ねる。

 

 だが、すぐに押し戻す。

 

 反撃は危険だ。

 列を抱えたままでは、勝っても意味がない。

 

 逃げる。

 それが正解だ。

 

 そう言い聞かせるたび、喉が渇く。

 

 視線を動かす。

 

 敵の後方。

 担架がひとつ、置かれている。

 白布が、風に揺れない。

 

 損耗している。

 

 隊列が、ほどけている。

 

 伝令が走る。

 だが別の方向へ向かう。

 命令が、揃っていない。

 

 俺はもう一度、数える。

 

 今なら。

 

 いや、まだだ。

 

 ここで踏み込めば、削れる。

 だが一歩間違えば、列が割れる。

 

 俺が読み違えたら。

 風の遅れが、ただの偶然だったら。

 

 六歳のあの日と同じになる。

 判断ひとつで、すべてを焼く。

 

 胸の奥が、嫌な速さで打つ。

 手のひらが、わずかに熱を帯びる。

 

 違う。

 今は、測るだけだ。

 

 判断が揺れる。

 

 指先が、無意識に地面をなぞる。

 冷たい土の感触。

 そこに、確かな重みがある。

 

 俺は列を振り返った。

 

 丘陰に伏せる人影。

 抱えられた子供。

 膝を押さえる男。

 

 守るものが、背中にある。

 

 風が、また逆に吹いた。

 今度ははっきりと。

 

 草が、敵側からこちらへ波打つ。

 

 胸の鼓動が、静かに整う。

 

 いける。

 

 逃げ切るのではない。

 押し返せる。

 

 ──計測する。

 

 勝てる、ではない。

 削れる、だ。

 

 俺は斜面を滑り降りた。

 足音を殺し、列の影に戻る。

 

 列の中央で、低い声が飛ぶ。

 

「水は右から回して。怪我人は動かさないで」

 

 リナだ。

 

 黒髪を後ろで束ね、泥に汚れた外套の袖をまくっている。

 手際よく布を裂き、傷口を縛る。

 

 目の下に濃い影があるが、動きは止まらない。

 

「あと十分。歩ける人は足を揉んで」

 

 命令ではない。

 だが誰も逆らわない。

 

 世界が続くのは、こういう声があるからだ。

 

 アリスが顔を上げる。

 

「どう?」

 

 その横から、リナがこちらを見る。

 

「追ってる数は?」

 

 目が鋭い。感情より計算が先に来る視線だ。

 

「半分以下だ」

 

「なら、時間は作れる」

 

 迷いがない。

 現実を積み上げる声だ。

 

「怪我人は動かせる。三分なら持つ」

 

 その三分が、命の単位になる。

 

「乱れてる」

 

 それだけ言う。

 

 説明は、まだ早い。

 

「数は?」

 

「少ない。半分以下だ」

 

 アリスの喉が鳴る。

 

「……なら?」

 

 俺は一瞬、黙った。

 

 反撃してはいけない。

 その思い込みが、胸の奥で薄く剥がれる。

 

 逃げるだけでは、削られる。

 

 なら、削る側に回る。

 

 風が、もう一度逆向きに撫でた。

 

「ここで返せる」

 

 近くで、子供を抱いた母親が顔を上げた。

 

「……戦うの?」

 

 声は震えているが、逃げない。

 

 商人の男が、荷車の棒を握り直す。

 

「時間をくれれば、押せる」

 

 老人が、静かにうなずいた。

 

「若いの、任せたぞ」

 

 言葉は低く、地面に落ちる。

 

 丘の向こうで、敵の合図がまた遅れた。

 

 そのとき。

 

 背後で、空気が引き裂かれるように歪む。

 

 フィリアの影が、細く震えた。

 

 月光の下で、白い髪がわずかに揺れる。

 瞳の焦点が、遠くにずれている。

 

「……ずれてる」

 

 彼女の声は、空気に溶ける。

 

「数が、合わない」

 

 影が、足元から広がる。

 

 観測が、深く沈んでいく。

 

 震えが、波紋のように広がる。

 影の輪郭が、二重にずれる。

 

 足元の草が、逆に倒れたまま戻らない。

 音が、ひとつ消える。

 

 耳鳴りが走る。

 胸の鼓動が、合わなくなる。

 

 これは“緩み”じゃない。

 何かが、噛み合いを失いかけている。

 

 フィリアの揺れが、深く沈む。

 

 嫌な予感が、喉に張りつく。

 

 いつもの揺れじゃない。

 

 もっと深い、嫌な揺れ。

 

 風が、止まる。

 

 俺は振り向いた。

 

 次の判断が、迫っている。

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