灰を越えて風になる   作:雷光123

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切れる命令線、揃わない敵

 フィリアがしゃがみ込んだのは、合図の遅れが三度続いた直後だった。

 

 丘陰の暗がりで、彼女は両耳を塞いだ。

 指が白くなるほど強く。

 

「……っ」

 

 声にならない息が漏れる。

 アリスが駆け寄り、膝をついた。

 

「フィリア? 大丈夫、ねえ」

 

 アリスの手が肩に触れた瞬間。

 風音が、すっと消えた。

 

 草も、布も、呼吸も。

 一拍だけ、世界が無音になる。

 

 俺の胸元が疼く。

 昔の傷の場所が、鈍く脈打つ。

 痛みというより、何かが“触れている”感じだった。

 

 フィリアの瞳が揺れる。

 焦点が合わない。

 白いノイズみたいなものが、視界の端に滲む。

 

「聞こえるの……線が……」

 

 フィリアの声は薄い。

 言葉が形になる前に、空気へ溶ける。

 

「線?」

 

 アリスが問い返す。

 フィリアは首を振る。振れない。

 耳を塞いだまま、肩が小さく震えた。

 

 列の奥で、誰かが咳を堪えた。

 子供が泣きかけ、口を塞がれる。

 皆が音を怖がっている。

 

 火は焚けない。

 その代わり、恐怖が灯っている。

 

 俺は立ったまま、周囲を見回した。

 丘陰の影の中に、一般人が固まっている。

 膝を押さえる男。

 荷車の棒を抱えた商人。

 布に包まれた赤ん坊。

 

 リナが中央で、水袋の口を締め直していた。

 泥に汚れた外套の袖をまくり、指先で人を並べ替える。

 

「歩ける人、前。怪我人、壁側。声、出さないで」

 

 命令じゃないのに、列が動く。

 世界が続くための動きだ。

 

 俺はフィリアの背へ視線を戻した。

 守るべき存在。

 だが今、守るだけでは足りない。

 

 胸元の疼きが、また一度強くなる。

 呼吸が浅くなる。

 手のひらが、勝手に熱を探す。

 

 ──出すな。

 

 奥歯を噛む。

 熱は喉元で止まった。

 

「アリス。離れるな」

 

「でも、あなたが──」

 

「俺が前に出る」

 

 言った途端、言葉が重くなった。

 守るために止まるか。

 進んで、守るのか。

 

 アリスは唇を噛み、うなずいた。

 栗色の髪が頬に張りついている。

 目は赤いが、視線は折れない。

 

 フィリアはまだ耳を塞いだまま、しゃがんでいる。

 その輪郭が、時々“欠ける”。

 肩の線が、一瞬だけ途切れて見えた。

 

 俺は一歩、丘陰から外へ出た。

 夜の冷気が、頬を刺す。

 足元の泥が、ぬるりと音を殺す。

 

 遠方。

 敵の合図音が聞こえるはずの場所。

 そこが、ぷつりと途切れた。

 

 まるで糸が切れたみたいに。

 音だけが消え、闇が残る。

 

 ──情報線の断絶。

 

 背中の皮膚が粟立つ。

 敵の目と耳が、いま、迷っている。

 

 

 

 尾根の低い起伏に沿って、俺は伏せた。

 手のひらで地面を押さえる。

 土の冷たさが、余計な熱を奪ってくれる。

 

 遠くに、影が三つ。

 斥候だ。

 

 歩幅が揃っていない。

 間隔が広い。

 互いを見失わないように、首を頻繁に動かしている。

 

「……こっちだ」

「いや、違う」

 

 小声が、遅れて届く。

 音が薄い。空気が吸ってしまう。

 

 斥候のひとりが腕を上げ、合図を送る。

 だが、返事が来ない。

 腕が宙で止まる。

 

 彼らは焦り、歩みを速める。

 その速さが、逆に足音を乱す。

 

 俺は息を止め、視線をフィリアの位置へ戻した。

 丘陰の影。

 アリスが身をかがめ、フィリアの肩を支えている。

 

 フィリアの輪郭が、また欠ける。

 白いノイズが、空間の端を舐める。

 風音が、また一瞬、消えた。

 

 その瞬間。

 斥候の先頭が、足を止めた。

 

「……見えない」

 

 囁きが聞こえる。

 彼は目を細め、闇を睨む。

 だが視線は、俺のいる場所を通り過ぎる。

 

 いや──通り過ぎた“ように見える”のに、違う。

 視線そのものが、焦点を結べていない。

 

 空間の輪郭が、少し欠けている。

 そこに、俺が伏せている。

 

 喉が乾いた。

 飲み込む音すら怖い。

 

 斥候が一歩踏み出す。

 次の一歩で、俺の伏せる地点へ来る──はずだった。

 

 だが、彼は進路を誤った。

 

 ほんの半歩。

 たったそれだけ外へ逸れ、低い溝へ足を落とす。

 

「っ……!」

 

 短い呻き。

 足首を捻ったのか、膝をついた。

 

 二人目が支えようとする。

 しかし手が空を掴む。

 距離感が合っていない。

 

 三人目が周囲を警戒する。

 槍先が左右に揺れる。

 狙う先が決まらない。

 

 ──見えてない挙動。

 

 背中の奥で、何かが冷たく落ちた。

 理解が、体に先に入ってくる。

 

 フィリアが“観測外”だからだ。

 

 敵の索敵は観測に頼っている。

 視線や耳だけじゃない。

 情報線で位置を合わせ、命令で隊列を揃える。

 

 その線が、彼女の周りで欠ける。

 空間の輪郭ごと、少しずれる。

 

 だから斥候は、確信を持てない。

 確信が持てない限り、踏み込めない。

 

 俺は膝を少しだけ浮かせ、石を一つ拾った。

 投げない。

 ただ指先で転がす。

 

 胸元が疼く。

 熱がまた集まる。

 ──出すな。

 

 石を、溝の反対側へ転がした。

 乾いた音が、遅れて落ちる。

 

 斥候の視線が、その音へ吸われる。

 三人が同時にそちらを向いた。

 

 今だ。

 

 俺は伏せたまま、地面へ低い術式を滑らせた。

 土の水分が、薄く固まる。

 足場が一瞬で重くなる。

 

 斥候の一人が、足を抜けずに体勢を崩す。

 鎧が泥に引かれ、起き上がれない。

 

 だが、殺さない。

 ここで血を上げれば、追撃の理由が増える。

 

 必要なのは、迷わせること。

 

 俺は後退した。

 音を立てないよう、肘と膝で這い、丘陰へ戻る。

 

 戻る途中。

 空間が、また欠けた。

 

 輪郭が薄くなり、闇の端が一瞬だけ穴になる。

 そこから、白いノイズが吹き出す。

 耳の奥がきしむ。

 

 フィリアが、呻いた。

 

 アリスが抱き寄せる。

 フィリアは耳を塞いだまま、震えている。

 

「ごめ……っ、わたし……」

 

「謝らないで」

 

 アリスの声は低い。

 震えているのに、崩れない。

 

 俺は二人の前に膝をついた。

 フィリアの白い髪が月光に浮き、指の間から覗く瞳が濡れている。

 

「聞こえるのは、何だ」

 

 フィリアは唇を噛み、首を振った。

 それでも絞り出す。

 

「線……命令の線。繋がって……切れて……また、切れて」

 

 言葉が途切れるたび、風音が消える。

 草の揺れが止まる。

 世界が、何度も息を止める。

 

 リナがこちらに寄ってきた。

 泥の匂いの中で、彼女の声だけが現実的だ。

 

「追撃は?」

 

「迷ってる。斥候が滑った」

 

「……なら、誘導できる」

 

 リナは一瞬だけフィリアを見る。

 見た目よりも、“現象”として見ている目だ。

 

「無理させないで。壊れたら終わる」

 

 俺はうなずいた。

 それは命令ではなく、確認だった。

 

 フィリアが、わずかに顔を上げる。

 耳を塞いだ指が少し緩む。

 

「……わたし、役に……立つ?」

 

 その一言が、喉の奥を刺した。

 守られるだけの存在だと、本人が思っていた。

 俺も、どこかでそう扱っていた。

 

 胸元の疼きが、静かに引く。

 代わりに、別の重みが乗る。

 

「立つ」

 

 短く言う。

 言い切ることで、責任が生まれる。

 

 フィリアの瞳が揺れ、涙が一粒落ちた。

 その滴が、土に吸われて消える。

 音もなく。

 

 遠方。

 合図音が、また途切れた。

 

 敵は、いま、迷っている。

 迷いの中では、隊列はほどける。

 ほどけた隊列なら、分断地点へ誘導できる。

 

 空間の輪郭が、もう一度欠けた。

 闇の端が薄く落ちる。

 その欠けが、道になる。

 

 俺は立ち上がった。

 背中に列の気配がある。

 一般人の息が、肩甲骨に押し寄せる。

 

 守るために止まるのは、もう終わりだ。

 進んで、守る。

 

 フィリアの震えが続く限り、敵の目は揃わない。

 揃わないなら、崩せる。

 

 俺は息を吸い、冷気を肺に入れる。

 吐く息が、震えずに出た。

 

「彼女で、崩せる」

 

 言葉は短い。

 欠けた輪郭の向こうへ、落ちる。

 

 リナが頷く。

 アリスがフィリアの肩を抱き直す。

 フィリアはまだ震えているが、目は逃げない。

 

 俺は、分断地点の方角を見た。

 

 次は、誘導だ。

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