フィリアがしゃがみ込んだのは、合図の遅れが三度続いた直後だった。
丘陰の暗がりで、彼女は両耳を塞いだ。
指が白くなるほど強く。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
アリスが駆け寄り、膝をついた。
「フィリア? 大丈夫、ねえ」
アリスの手が肩に触れた瞬間。
風音が、すっと消えた。
草も、布も、呼吸も。
一拍だけ、世界が無音になる。
俺の胸元が疼く。
昔の傷の場所が、鈍く脈打つ。
痛みというより、何かが“触れている”感じだった。
フィリアの瞳が揺れる。
焦点が合わない。
白いノイズみたいなものが、視界の端に滲む。
「聞こえるの……線が……」
フィリアの声は薄い。
言葉が形になる前に、空気へ溶ける。
「線?」
アリスが問い返す。
フィリアは首を振る。振れない。
耳を塞いだまま、肩が小さく震えた。
列の奥で、誰かが咳を堪えた。
子供が泣きかけ、口を塞がれる。
皆が音を怖がっている。
火は焚けない。
その代わり、恐怖が灯っている。
俺は立ったまま、周囲を見回した。
丘陰の影の中に、一般人が固まっている。
膝を押さえる男。
荷車の棒を抱えた商人。
布に包まれた赤ん坊。
リナが中央で、水袋の口を締め直していた。
泥に汚れた外套の袖をまくり、指先で人を並べ替える。
「歩ける人、前。怪我人、壁側。声、出さないで」
命令じゃないのに、列が動く。
世界が続くための動きだ。
俺はフィリアの背へ視線を戻した。
守るべき存在。
だが今、守るだけでは足りない。
胸元の疼きが、また一度強くなる。
呼吸が浅くなる。
手のひらが、勝手に熱を探す。
──出すな。
奥歯を噛む。
熱は喉元で止まった。
「アリス。離れるな」
「でも、あなたが──」
「俺が前に出る」
言った途端、言葉が重くなった。
守るために止まるか。
進んで、守るのか。
アリスは唇を噛み、うなずいた。
栗色の髪が頬に張りついている。
目は赤いが、視線は折れない。
フィリアはまだ耳を塞いだまま、しゃがんでいる。
その輪郭が、時々“欠ける”。
肩の線が、一瞬だけ途切れて見えた。
俺は一歩、丘陰から外へ出た。
夜の冷気が、頬を刺す。
足元の泥が、ぬるりと音を殺す。
遠方。
敵の合図音が聞こえるはずの場所。
そこが、ぷつりと途切れた。
まるで糸が切れたみたいに。
音だけが消え、闇が残る。
──情報線の断絶。
背中の皮膚が粟立つ。
敵の目と耳が、いま、迷っている。
尾根の低い起伏に沿って、俺は伏せた。
手のひらで地面を押さえる。
土の冷たさが、余計な熱を奪ってくれる。
遠くに、影が三つ。
斥候だ。
歩幅が揃っていない。
間隔が広い。
互いを見失わないように、首を頻繁に動かしている。
「……こっちだ」
「いや、違う」
小声が、遅れて届く。
音が薄い。空気が吸ってしまう。
斥候のひとりが腕を上げ、合図を送る。
だが、返事が来ない。
腕が宙で止まる。
彼らは焦り、歩みを速める。
その速さが、逆に足音を乱す。
俺は息を止め、視線をフィリアの位置へ戻した。
丘陰の影。
アリスが身をかがめ、フィリアの肩を支えている。
フィリアの輪郭が、また欠ける。
白いノイズが、空間の端を舐める。
風音が、また一瞬、消えた。
その瞬間。
斥候の先頭が、足を止めた。
「……見えない」
囁きが聞こえる。
彼は目を細め、闇を睨む。
だが視線は、俺のいる場所を通り過ぎる。
いや──通り過ぎた“ように見える”のに、違う。
視線そのものが、焦点を結べていない。
空間の輪郭が、少し欠けている。
そこに、俺が伏せている。
喉が乾いた。
飲み込む音すら怖い。
斥候が一歩踏み出す。
次の一歩で、俺の伏せる地点へ来る──はずだった。
だが、彼は進路を誤った。
ほんの半歩。
たったそれだけ外へ逸れ、低い溝へ足を落とす。
「っ……!」
短い呻き。
足首を捻ったのか、膝をついた。
二人目が支えようとする。
しかし手が空を掴む。
距離感が合っていない。
三人目が周囲を警戒する。
槍先が左右に揺れる。
狙う先が決まらない。
──見えてない挙動。
背中の奥で、何かが冷たく落ちた。
理解が、体に先に入ってくる。
フィリアが“観測外”だからだ。
敵の索敵は観測に頼っている。
視線や耳だけじゃない。
情報線で位置を合わせ、命令で隊列を揃える。
その線が、彼女の周りで欠ける。
空間の輪郭ごと、少しずれる。
だから斥候は、確信を持てない。
確信が持てない限り、踏み込めない。
俺は膝を少しだけ浮かせ、石を一つ拾った。
投げない。
ただ指先で転がす。
胸元が疼く。
熱がまた集まる。
──出すな。
石を、溝の反対側へ転がした。
乾いた音が、遅れて落ちる。
斥候の視線が、その音へ吸われる。
三人が同時にそちらを向いた。
今だ。
俺は伏せたまま、地面へ低い術式を滑らせた。
土の水分が、薄く固まる。
足場が一瞬で重くなる。
斥候の一人が、足を抜けずに体勢を崩す。
鎧が泥に引かれ、起き上がれない。
だが、殺さない。
ここで血を上げれば、追撃の理由が増える。
必要なのは、迷わせること。
俺は後退した。
音を立てないよう、肘と膝で這い、丘陰へ戻る。
戻る途中。
空間が、また欠けた。
輪郭が薄くなり、闇の端が一瞬だけ穴になる。
そこから、白いノイズが吹き出す。
耳の奥がきしむ。
フィリアが、呻いた。
アリスが抱き寄せる。
フィリアは耳を塞いだまま、震えている。
「ごめ……っ、わたし……」
「謝らないで」
アリスの声は低い。
震えているのに、崩れない。
俺は二人の前に膝をついた。
フィリアの白い髪が月光に浮き、指の間から覗く瞳が濡れている。
「聞こえるのは、何だ」
フィリアは唇を噛み、首を振った。
それでも絞り出す。
「線……命令の線。繋がって……切れて……また、切れて」
言葉が途切れるたび、風音が消える。
草の揺れが止まる。
世界が、何度も息を止める。
リナがこちらに寄ってきた。
泥の匂いの中で、彼女の声だけが現実的だ。
「追撃は?」
「迷ってる。斥候が滑った」
「……なら、誘導できる」
リナは一瞬だけフィリアを見る。
見た目よりも、“現象”として見ている目だ。
「無理させないで。壊れたら終わる」
俺はうなずいた。
それは命令ではなく、確認だった。
フィリアが、わずかに顔を上げる。
耳を塞いだ指が少し緩む。
「……わたし、役に……立つ?」
その一言が、喉の奥を刺した。
守られるだけの存在だと、本人が思っていた。
俺も、どこかでそう扱っていた。
胸元の疼きが、静かに引く。
代わりに、別の重みが乗る。
「立つ」
短く言う。
言い切ることで、責任が生まれる。
フィリアの瞳が揺れ、涙が一粒落ちた。
その滴が、土に吸われて消える。
音もなく。
遠方。
合図音が、また途切れた。
敵は、いま、迷っている。
迷いの中では、隊列はほどける。
ほどけた隊列なら、分断地点へ誘導できる。
空間の輪郭が、もう一度欠けた。
闇の端が薄く落ちる。
その欠けが、道になる。
俺は立ち上がった。
背中に列の気配がある。
一般人の息が、肩甲骨に押し寄せる。
守るために止まるのは、もう終わりだ。
進んで、守る。
フィリアの震えが続く限り、敵の目は揃わない。
揃わないなら、崩せる。
俺は息を吸い、冷気を肺に入れる。
吐く息が、震えずに出た。
「彼女で、崩せる」
言葉は短い。
欠けた輪郭の向こうへ、落ちる。
リナが頷く。
アリスがフィリアの肩を抱き直す。
フィリアはまだ震えているが、目は逃げない。
俺は、分断地点の方角を見た。
次は、誘導だ。