小川沿いの曲がり角。
濡れた土の匂いが、夜気に混じる。
水音が、近い。
浅い流れなのに、鼓膜のすぐ裏で鳴る。
俺は岩陰に伏せていた。
膝が湿る。
泥が、手袋の縫い目に入り込む。
背後、数歩。
アリスが低く息を整えている。
さらに後ろで、フィリアの気配が揺れる。
水面に、月が砕ける。
流れが、石に当たって反転する。
追うものが、折れ曲がる場所だ。
足跡が並ぶ。
俺たちの足跡は、小川に沿って引き返している。
追う側から見れば、迷いに見える。
反転した足跡。
敵の足音が近づく。
乾いた革が泥を踏む音。
小川の水音が、その足音を包む。
土の匂いが濃くなる。
戦場になる前の匂いだ。
「来る」
アリスが囁く。
声は細いが、揺れていない。
俺はうなずいた。
視線は曲がり角の先へ固定する。
指先が、震えた。
熱が集まる。
胸の奥が、ひくりと跳ねる。
──全部、消せば楽だ。
この曲がり角ごと、焼き払えば終わる。
小川も、土も、鎧も。
過去の光景が、視界の端を白く染める。
六歳のあの日。
地面が融け、影が消えた。
指が、勝手に開く。
熱が溢れそうになる。
喉まで上がる。
吐き出せば、静かになる。
だが。
奥歯を噛み、指を握り込む。
熱を、刃先まで落とす。
全部じゃない。
一点だけ。
「合図は?」
アリスが問う。
「指揮役が前に出たら」
「分かった」
背後で、フィリアが小さく息を吸う。
その瞬間、小川の水音が一拍だけ遠のいた。
敵の影が現れる。
三。
その後ろに、二。
先頭が足跡を確かめる。
屈み、泥に触れる。
「戻ってるぞ」
声が響く。
だが返事が遅れる。
隊列の中央に、ひときわ直立した影。
腕章の縁が光る。
視線が鋭い。
中核兵。
彼が手を上げ、合図を送る。
今だ。
俺は地面を蹴った。
濡れた土が跳ねる。
小川を一歩で越え、曲がり角へ滑り込む。
敵の目が開く。
だが遅い。
熱を、刃の形に絞る。
一点へ。
中核兵の胸元へ、術式を叩き込む。
光は出さない。
衝撃だけを圧縮する。
鈍い音。
鎧の中央がへこむ。
中核兵が後方へ吹き飛ぶ。
合図の腕が、途中で折れる。
「っ、隊列──」
声が途切れる。
アリスが横から飛び出す。
短剣が、合図笛を持つ兵の手を弾く。
笛が泥に落ちる。
敵が槍を振るう。
だが狙いが定まらない。
フィリアの気配が、背後で揺れる。
空間の輪郭が、一瞬欠ける。
槍が空を切る。
俺は二歩目を踏み込む。
だが、そこで止める。
追わない。
潰さない。
中核兵だけだ。
地面へ低い術式を流す。
小川の水を、わずかに逸らす。
足場が滑る。
敵の後列が、互いにぶつかる。
盾が重なり、槍が絡む。
「指揮が……!」
「どこだ!」
声が乱れる。
目が揃わない。
中核兵が膝をつき、起き上がろうとする。
俺は足元の石を蹴る。
石が彼の手元を打つ。
「退け!」
その声は、もう通らない。
敵の攻撃が飛ぶ。
だが焦点が合わない。
俺の肩をかすめ、岩に当たる。
熱が、再び喉へ上がる。
ここで出せば、全員終わる。
──出すな。
刃先だけ。
俺は中核兵の兜を蹴り、視界を奪う。
衝撃で、彼は完全に崩れた。
「引け!」
俺が低く言う。
アリスが即座に後退する。
小川を越え、岩陰へ滑り込む。
敵は追えない。
誰が命じるか分からない。
合図が、飛ばない。
遠くで、角笛が鳴る。
だが音が途切れる。
半分だけ響き、消える。
情報線が断たれる。
土の匂いが、さらに濃くなる。
踏み荒らされた泥が、戦場に変わる。
俺は呼吸を整える。
鼓動がまだ速い。
殲滅の衝動が、胸の奥で暴れる。
もっといける。
全て、潰せる。
だが。
膝の泥を見る。
水に濡れた指を見る。
守るものが背中にある。
俺は立ち上がり、小川沿いの足跡を見る。
俺たちの足跡と、敵の足跡。
追う側が、混乱し、逆向きに走っている。
反転した足跡。
潰したのは、核だけだ。
隊列は裂けた。
「……終わった?」
アリスが息を整えながら問う。
「いや。裂いただけだ」
完全勝利ではない。
だが、殲滅でもない。
初めてだ。
全てを消さずに、勝った。
胸の奥の熱が、ゆっくりと沈む。
刃先だけで、足りた。
「潰すのは“核”だ」
言葉にすると、形になる。
戦い方が、変わる。
そのとき。
フィリアが小さく声を漏らした。
「……落ちてくる」
「何が」
彼女の瞳が遠くを見ている。
「位置……ひとつ。強い……」
空間の欠けが、丘の向こうへ伸びる。
線が、一本、落ちる。
俺は顔を上げた。
セラの位置情報。
次は、救出だ。