火線の震えがようやく収まり、白刃の余光が細い糸のようにほどけて消えた。世界は音を取り戻した──はずだった。だが、風だけが戻らない。
灰を含んだ空気は流れを失い、広場は息を潜めたように沈む。生き物の気配が薄まり、ただ冷たい静けさだけが残った。
「セラさん……?」
アリスの声は弱く震え、白灰の光にかき消されそうだった。
セラは答えない。火線の奥──もう影ひとつ残っていない空白を凝視し続けていた。白刃の輪郭だけがわずかに揺れ、戦いの残響をまだ引きずっている。
「……退くぞ」
短い声が割りこむ。青灰の髪を乱した青年、さきほどセラの死角へ飛び込んだ補助術士だ。
まだ彼の名を知らない。ただ、その性質──焦りと特攻癖──だけはすぐに分かった。
「北門、完全に死区化。こっちにも影が漏れた。もう防げねぇ」
虚勢を張った声だが、足は震えていた。
セラは一瞥し、静かに告げた。
「来てくれて助かった。でも、ここから先は任務が違う。戻って」
「いや、まだ戦え──」
「命令」
青年はその一言で黙り、従うしかないと悟った顔で足を引きずり隊へと戻っていく。
揺れない灰の空気へ、影だけが沈むように薄れていった。しばらくその背を見つめていた。追いかけろ──本能はそう叫んでいる。だが胸の焼け跡が足を縫いとめた。
あのときと同じ、白い光を見た気がする。喉の奥でその記憶が鈍く疼く。
背後ではリナとアリスが市民へ声をかけていた。泣き声を励まし、倒れた者を支え、混乱の流れを止めようとしている。
(……守る側に回らないと)
拳を握り、二人のもとへ駆けた。
「……セラ。お前は?」
セラは地面に散る火線の残滓を見つめたまま言った。
「私は別命令。塔の裏層で、歪みの調査がある」
「一人で?」
「他の誰も、観測層の揺れに耐えられない」
静かな声。冷たくないのに余分な熱を削ぎ落とした声音。セラはようやく振り返った。瞳に一瞬だけ温度が宿る。
「リオ。あなたは避難の護衛に回って。リナとアリスを守りながら」
「……分かった」
本当は“ついていく”と言いたい。だが胸の焼け跡が、その言葉を押しつぶした。セラは白刃を肩に戻し、灰の空へ息を吐く。
「風が戻らない。嫌な揺れ方……。急いで」
言い終えると、気配ごと薄れて塔の方角へ駆けていった。足音も残さない静かな走りだった。広場を抜けると、西路地にも白灰が降り始めていた。夜のように薄暗く、街全体が深い凹みに沈んだような空気。
リナは符札と携帯灯を握り、荒い息でも周囲の気配を逃さない。
「……北門側、完全封鎖。市民を内側へ押し込まないと……!」
アリスが後ろから叫んだ。
「大丈夫! こっちに来て! 倒れてる人は離れて──リナ、ここ三人!」
叫びと祈りが混じり、混乱の渦が街路に満ちる。だが、セラがいたときの“世界が止まる無音”とは違い、この音は生きている。
リオは二人を守るように周囲を見渡しながら走る。
(……こんなに脆かったか、この街は)
そのとき。
「リオ!」
リナが指さした。瓦礫の影に、薄い黒影が揺れていた。前哨体の残滓。セラが斬った残り火がまだ生きている。
「アリス、支援!」
「分かった!」
リオは息を止め、影へ踏み込んだ。足裏に触れる“風の不在”。空気が動かない。体の感覚が狂う。影は腕とも触手ともつかず、輪郭だけが二重に揺れた。
(……軌道が読みにくい)
胸の焼け跡が脈とずれ、視界の端で白が跳ねた。だが、影の“遅れた像”を見た瞬間、体が先に動いていた。
「……そこだ!」
刃が影の付け根を断ち、同時にリナの符札が中心へ火走を刻む。アリスの治癒光が残滓を焼き払う。
「……よし、消えた……!」
汗をにじませながらも、アリスの目には決意が宿っていた。西路地では避難列が形成され始めていた。泣き声、祈り声、抱えた荷物の震え。生活が壊れる音が耳に痛い。その列の中に、見覚えのある顔があった。
「……アマリ?」
リナが駆け寄る。アマリ・ホーン──街角の薬草店の娘。何度も世話になった顔だ。
「あ……リオくん、リナちゃん! よかった、生きてて……!」
震え声で、しかし必死に状況を追っている目だった。
「アマリ、その荷物……」
「薬草……少しでも……この先、必要になるかもしれなくて……!」
「今は置いていって!」
とリナ。
「命が先。ほら、列へ!」
「……うん。分かってる……!」
アマリは袋を置き、列に入った。背中が震えていた。
(……残したいものが多すぎる弱さ、か)
息を吐く。そのとき──路地裏の空気が一瞬冷えた。灰は流れず、風が逆向きに揺れる。
影が歩み出た。黒布の兵ではない。迷いのない、滑らかすぎる足取り。
「……誰だ」
低い声で呟く。男はゆっくり笑った。その笑みは温度を持たず、ただ空気に異物のように貼りついていた。
「いやぁ、見つけるのに苦労したよ」
軽いのに耳の奥へ刺さる声。
「協会の子どもたち、か。……ずいぶん手際がいいじゃないか」
アリスが俺の袖を掴む。
「っ……リオ、この人……危険……!」
リナは符札を構える。男は片手を上げた。
「そんな構えるなよ。“少しだけ”仕事があるだけだ」
視線が俺を刺す。男の視線は、獲物を確かめるように俺に吸い寄せられていた。
「白い斬撃。……あれを追ってきたんだ。君が見てないはずがない」
言葉は軽いのに、意味だけが重い。胸の焼け跡が、拒絶するように脈打つ。一歩だけ前へ出た。逃げ腰に見せないための、最小の一歩。
「……関係ない。俺たちは避難誘導中だ。邪魔なら──」
男は笑みを深める。だがその笑いは空気を冷やし、灰を沈黙させた。
「関係、大ありだよ。揺れてるんだ。世界が。……君たちを軸に」
アリスが息を呑む。リナは袖をつかんだまま、符札を震わせた。
「リオ、離れて……。この人、観測層を“見てる”……普通じゃ……」
男はその言葉を遮るように指を鳴らした。
パチン──。音が広場へ薄く反響し、周囲の吠え声や泣き声までもが一瞬だけ弱まった。世界が、その指先を中心にわずかに歪む。
「ほら、ね? もう始まってる。止めようがない」
背中に冷気が走った。だが、足は下がらない。
「……名前を言え」
男は少しだけ意外そうに眉を上げた。
「あはは。君、度胸あるね。……覚えておくといい。グレイ・セルフだ」
笑い、振り返りもせずに路地へ溶けるように消えた。灰の向こうに滲む影は、音も残さなかった。その瞬間──風の不在が深まり、空気がさらに冷たく沈む。
「……今の、絶対に人間じゃ……」
アリスの声は震えた。
「リオ、早く移動……! ここ長居すると危険」
リナも焦りを隠せない。息を吐き、二人を前へ押し出した。
「行くぞ。……塔が先だ」
二人とともに避難路を駆け抜ける。隊員たちの怒号、祈りの声、泣き声。すべてが風のない空気で重く滞留していた。灰の柱が上へ伸びる。塔の周囲だけ、灰が逆向きに吸いこまれている。
(あの揺れ……悪い。嫌な揺れ方だ)
塔の影が二重にぶれ、白灰の光鎖に深い亀裂が走っていく。
隊員たちが叫び、通信札が次々沈黙する。
「裏層の反応ゼロ!」
「観測線が死んでる!」
「塔の光が……消えるぞ!」
緊迫の声が重なり、広場全体がざわつく。──だがそのざわめきが“悲鳴”に変わる前に。
灰が、止まった。
完全に。舞わず、落ちず、揺れず。空気そのものが硬質に固まったように。アリスが喉を鳴らす。
「……っ、リオ。これ……世界の止まり方……」
リナは符札を落としそうになり、慌てて握り直した。胸の焼け跡が、鼓動ではなく“別の何か”に同期するように跳ねる。
(来る……)
塔の裏層──セラが向かった方角で濃い揺れが膨れあがる。遠距離でも分かる異様な波。白灰の光が縦裂き、塔の影がねじれ、観測層が剥き出しになりかけている。
(……セラ!)
足が前へ出た。
「リオ!?」
「待ってよ!」
アリスとリナの声を振り切り走る。胸の痛みが焼けたままでも構わない。過去に置いてきた“救えなかった白”を、もう重ねたくなかった。
(また──誰かを置いていくなんて、できるか)
風のない街を一直線に駆け抜け、塔へ向かう。セラがいる場所へ。白い刃を持つ少女のもとへ。──だが、その一歩の直後。
灰に閉ざされた空気の向こうから、避難班の怒号が響いた。
「後退線が破られる! 一般隊は全員中央通路へ退避しろ!」
「西路地の避難民まだ残ってるぞ! 押し返せない、援護を!」
足が止まる。 胸の奥で、焼け跡が軋んだ。
(……俺が走れば、この混乱を背に置いていくことになる)
(セラだけじゃない。こいつらも──守らなきゃいけない)
アリスが震える声で叫ぶ。
「リオ! だめだよ! ここで離れたら……みんな、巻き込まれる!」
リナも肩で息をしながら続ける。
「セラさんは協会の魔法使い! 一人でも動ける! でも私たちは……民間人を守るしかないの!」
塔の方向は、ひび割れた光が脈打ちながら揺れている。
(行きたい……行きたいに決まってる)
歯を食いしばり、拳を握った。そしてゆっくりと、後ろを振り返る。 避難列。泣き声。祈り。震える腕。助けを待つ命。
「……クソッ」
短く吐き捨て、二人へ向き直った。
「撤退する。俺たちの仕事は──まず、ここを生かすことだ」
アリスが息を詰め、目を見開く。 リナは小さく頷いた。安堵とも決意とも言えない、複雑な震えを抱えながら。
胸の奥に沈んだ焦燥を押し殺し、声を張る。
「避難民を中央へ誘導する! 落ち着け、走れ!」
塔へ向けた足は止まったまま。 だが、止めた分だけ胸の奥が熱くなる。
(セラ……絶対に無事でいろ。あとで、必ず迎えに行く)
風を失った街で、仲間と共に人々を守る方向へ走り出した。