灰を越えて風になる   作:雷光123

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風を失った街で、選ぶべき道

 火線の震えがようやく収まり、白刃の余光が細い糸のようにほどけて消えた。世界は音を取り戻した──はずだった。だが、風だけが戻らない。

 

 灰を含んだ空気は流れを失い、広場は息を潜めたように沈む。生き物の気配が薄まり、ただ冷たい静けさだけが残った。

 

「セラさん……?」

 

 アリスの声は弱く震え、白灰の光にかき消されそうだった。

 

 セラは答えない。火線の奥──もう影ひとつ残っていない空白を凝視し続けていた。白刃の輪郭だけがわずかに揺れ、戦いの残響をまだ引きずっている。

 

「……退くぞ」

 

 短い声が割りこむ。青灰の髪を乱した青年、さきほどセラの死角へ飛び込んだ補助術士だ。

 

 まだ彼の名を知らない。ただ、その性質──焦りと特攻癖──だけはすぐに分かった。

 

「北門、完全に死区化。こっちにも影が漏れた。もう防げねぇ」

 

 虚勢を張った声だが、足は震えていた。

 

 セラは一瞥し、静かに告げた。

 

「来てくれて助かった。でも、ここから先は任務が違う。戻って」

「いや、まだ戦え──」

「命令」

 

 青年はその一言で黙り、従うしかないと悟った顔で足を引きずり隊へと戻っていく。

 

 揺れない灰の空気へ、影だけが沈むように薄れていった。しばらくその背を見つめていた。追いかけろ──本能はそう叫んでいる。だが胸の焼け跡が足を縫いとめた。

 

 あのときと同じ、白い光を見た気がする。喉の奥でその記憶が鈍く疼く。

 

 背後ではリナとアリスが市民へ声をかけていた。泣き声を励まし、倒れた者を支え、混乱の流れを止めようとしている。

 

(……守る側に回らないと)

 

 拳を握り、二人のもとへ駆けた。

 

「……セラ。お前は?」

 

 セラは地面に散る火線の残滓を見つめたまま言った。

 

「私は別命令。塔の裏層で、歪みの調査がある」

「一人で?」

「他の誰も、観測層の揺れに耐えられない」

 

 静かな声。冷たくないのに余分な熱を削ぎ落とした声音。セラはようやく振り返った。瞳に一瞬だけ温度が宿る。

 

「リオ。あなたは避難の護衛に回って。リナとアリスを守りながら」

「……分かった」

 

 本当は“ついていく”と言いたい。だが胸の焼け跡が、その言葉を押しつぶした。セラは白刃を肩に戻し、灰の空へ息を吐く。

 

「風が戻らない。嫌な揺れ方……。急いで」

 

 言い終えると、気配ごと薄れて塔の方角へ駆けていった。足音も残さない静かな走りだった。広場を抜けると、西路地にも白灰が降り始めていた。夜のように薄暗く、街全体が深い凹みに沈んだような空気。

 

 リナは符札と携帯灯を握り、荒い息でも周囲の気配を逃さない。

 

「……北門側、完全封鎖。市民を内側へ押し込まないと……!」

 

 アリスが後ろから叫んだ。

 

「大丈夫! こっちに来て! 倒れてる人は離れて──リナ、ここ三人!」

 

 叫びと祈りが混じり、混乱の渦が街路に満ちる。だが、セラがいたときの“世界が止まる無音”とは違い、この音は生きている。

 

 リオは二人を守るように周囲を見渡しながら走る。

 

(……こんなに脆かったか、この街は)

 

 そのとき。

 

「リオ!」

 

 リナが指さした。瓦礫の影に、薄い黒影が揺れていた。前哨体の残滓。セラが斬った残り火がまだ生きている。

 

「アリス、支援!」

「分かった!」

 

 リオは息を止め、影へ踏み込んだ。足裏に触れる“風の不在”。空気が動かない。体の感覚が狂う。影は腕とも触手ともつかず、輪郭だけが二重に揺れた。

 

(……軌道が読みにくい)

 

 胸の焼け跡が脈とずれ、視界の端で白が跳ねた。だが、影の“遅れた像”を見た瞬間、体が先に動いていた。

 

「……そこだ!」

 

 刃が影の付け根を断ち、同時にリナの符札が中心へ火走を刻む。アリスの治癒光が残滓を焼き払う。

 

「……よし、消えた……!」

 

 汗をにじませながらも、アリスの目には決意が宿っていた。西路地では避難列が形成され始めていた。泣き声、祈り声、抱えた荷物の震え。生活が壊れる音が耳に痛い。その列の中に、見覚えのある顔があった。

 

「……アマリ?」

 

 リナが駆け寄る。アマリ・ホーン──街角の薬草店の娘。何度も世話になった顔だ。

 

「あ……リオくん、リナちゃん! よかった、生きてて……!」

 

 震え声で、しかし必死に状況を追っている目だった。

 

「アマリ、その荷物……」

「薬草……少しでも……この先、必要になるかもしれなくて……!」

「今は置いていって!」

 

 とリナ。

 

「命が先。ほら、列へ!」

「……うん。分かってる……!」

 

 アマリは袋を置き、列に入った。背中が震えていた。

 

(……残したいものが多すぎる弱さ、か)

 

 息を吐く。そのとき──路地裏の空気が一瞬冷えた。灰は流れず、風が逆向きに揺れる。

 

 影が歩み出た。黒布の兵ではない。迷いのない、滑らかすぎる足取り。

 

「……誰だ」

 

 低い声で呟く。男はゆっくり笑った。その笑みは温度を持たず、ただ空気に異物のように貼りついていた。

 

「いやぁ、見つけるのに苦労したよ」

 

 軽いのに耳の奥へ刺さる声。

 

「協会の子どもたち、か。……ずいぶん手際がいいじゃないか」

 

 アリスが俺の袖を掴む。

 

「っ……リオ、この人……危険……!」

 

 リナは符札を構える。男は片手を上げた。

 

「そんな構えるなよ。“少しだけ”仕事があるだけだ」

 

 視線が俺を刺す。男の視線は、獲物を確かめるように俺に吸い寄せられていた。

 

「白い斬撃。……あれを追ってきたんだ。君が見てないはずがない」

 

 言葉は軽いのに、意味だけが重い。胸の焼け跡が、拒絶するように脈打つ。一歩だけ前へ出た。逃げ腰に見せないための、最小の一歩。

 

「……関係ない。俺たちは避難誘導中だ。邪魔なら──」

 

 男は笑みを深める。だがその笑いは空気を冷やし、灰を沈黙させた。

 

「関係、大ありだよ。揺れてるんだ。世界が。……君たちを軸に」

 

 アリスが息を呑む。リナは袖をつかんだまま、符札を震わせた。

 

「リオ、離れて……。この人、観測層を“見てる”……普通じゃ……」

 

 男はその言葉を遮るように指を鳴らした。

 

 パチン──。音が広場へ薄く反響し、周囲の吠え声や泣き声までもが一瞬だけ弱まった。世界が、その指先を中心にわずかに歪む。

 

「ほら、ね? もう始まってる。止めようがない」

 

 背中に冷気が走った。だが、足は下がらない。

 

「……名前を言え」

 

 男は少しだけ意外そうに眉を上げた。

 

「あはは。君、度胸あるね。……覚えておくといい。グレイ・セルフだ」

 

 笑い、振り返りもせずに路地へ溶けるように消えた。灰の向こうに滲む影は、音も残さなかった。その瞬間──風の不在が深まり、空気がさらに冷たく沈む。

 

「……今の、絶対に人間じゃ……」

 

 アリスの声は震えた。

 

「リオ、早く移動……! ここ長居すると危険」

 

 リナも焦りを隠せない。息を吐き、二人を前へ押し出した。

 

「行くぞ。……塔が先だ」

 

 二人とともに避難路を駆け抜ける。隊員たちの怒号、祈りの声、泣き声。すべてが風のない空気で重く滞留していた。灰の柱が上へ伸びる。塔の周囲だけ、灰が逆向きに吸いこまれている。

 

(あの揺れ……悪い。嫌な揺れ方だ)

 

 塔の影が二重にぶれ、白灰の光鎖に深い亀裂が走っていく。

 

 隊員たちが叫び、通信札が次々沈黙する。

 

「裏層の反応ゼロ!」

「観測線が死んでる!」

「塔の光が……消えるぞ!」

 

 緊迫の声が重なり、広場全体がざわつく。──だがそのざわめきが“悲鳴”に変わる前に。

 

 灰が、止まった。

 

 完全に。舞わず、落ちず、揺れず。空気そのものが硬質に固まったように。アリスが喉を鳴らす。

 

「……っ、リオ。これ……世界の止まり方……」

 

 リナは符札を落としそうになり、慌てて握り直した。胸の焼け跡が、鼓動ではなく“別の何か”に同期するように跳ねる。

 

(来る……)

 

 塔の裏層──セラが向かった方角で濃い揺れが膨れあがる。遠距離でも分かる異様な波。白灰の光が縦裂き、塔の影がねじれ、観測層が剥き出しになりかけている。

 

(……セラ!)

 

 足が前へ出た。

 

「リオ!?」

「待ってよ!」

 

 アリスとリナの声を振り切り走る。胸の痛みが焼けたままでも構わない。過去に置いてきた“救えなかった白”を、もう重ねたくなかった。

 

(また──誰かを置いていくなんて、できるか)

 

 風のない街を一直線に駆け抜け、塔へ向かう。セラがいる場所へ。白い刃を持つ少女のもとへ。──だが、その一歩の直後。

 

 灰に閉ざされた空気の向こうから、避難班の怒号が響いた。

 

「後退線が破られる! 一般隊は全員中央通路へ退避しろ!」

「西路地の避難民まだ残ってるぞ! 押し返せない、援護を!」

 

 足が止まる。 胸の奥で、焼け跡が軋んだ。

 

(……俺が走れば、この混乱を背に置いていくことになる)

(セラだけじゃない。こいつらも──守らなきゃいけない)

 

 アリスが震える声で叫ぶ。

 

「リオ! だめだよ! ここで離れたら……みんな、巻き込まれる!」

 

 リナも肩で息をしながら続ける。

 

「セラさんは協会の魔法使い! 一人でも動ける! でも私たちは……民間人を守るしかないの!」

 

 塔の方向は、ひび割れた光が脈打ちながら揺れている。

 

(行きたい……行きたいに決まってる)

 

 歯を食いしばり、拳を握った。そしてゆっくりと、後ろを振り返る。 避難列。泣き声。祈り。震える腕。助けを待つ命。

 

「……クソッ」

 

 短く吐き捨て、二人へ向き直った。

 

「撤退する。俺たちの仕事は──まず、ここを生かすことだ」

 

 アリスが息を詰め、目を見開く。 リナは小さく頷いた。安堵とも決意とも言えない、複雑な震えを抱えながら。

 

 胸の奥に沈んだ焦燥を押し殺し、声を張る。

 

「避難民を中央へ誘導する! 落ち着け、走れ!」

 

 塔へ向けた足は止まったまま。 だが、止めた分だけ胸の奥が熱くなる。

 

(セラ……絶対に無事でいろ。あとで、必ず迎えに行く)

 

 風を失った街で、仲間と共に人々を守る方向へ走り出した。

 

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