灰を越えて風になる   作:雷光123

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北東へ沈む疼き、置き去りの白刃

 燃える街を背にして北区へ走ったとき、胸の奥がひとつ沈んだ。

 

「……ねぇリオ、まだ塔の方見てる。さっきからずっとだよ」

「見てないぞ。ただ……あの刃の残光が耳に残ってんだ。金属の匂いまでついてくる」

「セラさん……置いてきちゃった、って顔してるよ」

 

 リナとアリスは心配そうな顔で覗く。

 

「……言うな。それが一番、胸に刺さってんだ」

 

 塔の裏層へ向かったセラを置いてきた──そう思うだけで喉が締まる。

 

「リオ、ほんとに平気? 息が浅いよ」

「……走ってるだけだ」

「違うよ。胸の痛いとこ、触らないようにしてる」

「……ばれてたか」

 

 アリスが不安げに袖を握る。

 

「無理して置いていかれたら、嫌だよ」

「置いていかない。誰も」

 

 走るたび胸の焼け跡が脈と擦れ、足を引き戻そうとする。

 

「……見て、光鎖が全部揺れてる。ここの人、みんな怖がってる……!」

「観測札の明滅もバラバラ。北門のほう、かなりやられてるね」

「お母さんも……光が弱まるたび祈ってる。街、どっちへ逃げればいいのか分からないんだ……」

 

 叫び声と祈りが混ざり、焦げた空気が肌に張りつく。南はまだ燃えている。風が消えているせいで、炎の音だけが遅れて聞こえた。

 

 リナが市民を誘導し、アリスが倒れた人を支えていた。俺はその背を守るように走りながら、胸の疼きが南へ引き戻そうとするのを必死に抑えた。塔の方角。セラのいる場所。あの白刃の余光がまだ網膜に焼きついている。

 

 だが、その疼きは突然方向を変えた。

 

 北東へ。街の奥、北市場のさらに向こうへ。

 

「リオ……急に歩く向き変わったよ? さっきまで塔のほうだったのに……」

「……胸が引っ張られてる。身体が勝手にそっち向く」

 

 セラのことが気になり、移動方向を変えてしまった。

 

 痛みが南へではなく、知らない方角へ引かれていく。その違和感が、罪悪と安堵を同時に呼んだ。自分でも嫌になる揺れ方だった。

 

 北市場に入ると、天幕の低い路地は熱気とざわめきで満ちていた。

 

 人の波が絶えず押し寄せ、足元にはこぼれた薬瓶や布切れが散らばっている。荷車を押す男が「どけ!」と叫びながら進み、その車輪が石畳を擦る音が耳にざらついた。すれ違うたび誰かの肩が触れ、湿った空気に汗と埃が混ざる。街が混乱で膨れ上がると、声そのものが重くなる。

 

「灯り、全然安定しないね……風なんてないのに揺れてる」

「店も物もぐちゃぐちゃだな。生きるほうが先で、商売どころじゃないって音してる」

「人の声も濁ってる……怖いよ、この区画」

 

 荷物を抱えた商人、泣き出した子ども、怒鳴る誰か。監視の弱い区画だから、人の声が濁った海みたいに渦を巻く。

 

 その喧噪の中で──胸だけが静かだった。

 静かさの中心が、北東の一点へ細く伸びている。

 

「リオ、顔向いてるよ。さっきからずっと……北東に」

 

 リナの声は、混乱の中でも筋を通す。俺は返事できずに視線を逸らした。隠したつもりでも、アリスが袖を掴んできた。

 

「……置いていかないで。ねぇ、行くなら……ちゃんと言って」

 

「行かない。まだ」

 

 “まだ”と言った瞬間、自分の中の何かがひどく痛んだ。

 

 避難の流れが地上の混乱を押し上げ、俺たちは北市場の地下入口へ押し込まれた。

 

「……湿ってる、この階段。なんか……足が冷たい」

「空気も薄い。火と鉄の匂いまで混ざってるよ……地下、こんなだった?」

「灰が落ちてくのに舞わないな……風が死んでる」

 

 地上より温度は低いのに、胸の奥だけが熱い。闇市場──廃倉庫の地下をつなげた密輸の巣だ。

 

 風の届かない闇に、人も影も逃げ込んでくるせいで、空気が押しつぶされるように重い。

 

 だが、胸の疼きはここでも止まらない。

 むしろ濃くなる。北東へ、街の外れ、湖の方角へ。

 

 人混みのざわめきが一瞬だけ細くなった。誰かの視線が俺の背に触れたような冷えが走り、周囲の声が遠く感じる。胸の疼きとは違う種類の冷たさだ。

市場の奥で、妙に落ち着いた声が響いた。落ちた魂札は、割れているはずなのに光の呼吸をやめていなかった。

 

 細い光紋が破片の縁をなぞり、脈のように明滅する。誰かの鼓動に呼応するみたいだ。

 

──そこで声がした。

 

「よく来ましたね、リオくん」

 

 天幕の影から現れたのはシス・ロレン。薄笑いを貼りつけた情報屋だ。彼は懐から細長い包みを取り出し、わざとらしく落とした。

 

 硬い破片が転がる。拾い上げると、割れた魂札の欠片だった。

 なのに、割れているくせに──光が残っていた。

 

 しかも、光紋が“流れている”。

 北東へ。

 胸の疼きと、まったく同じ方向へ。

 

「壊れても光るなんて、珍しいですよ。しかも向きがある。ねぇ……怖くないですか?」

 

 シスは笑う。底を見せない笑い。アリスは袖を強く握りしめた。

 

「光が……動いてる。こんなの……おかしいよ」

 

「おかしいのは光だけじゃありません」

 

 その後ろから、震えた声が飛んできた。

 

「……誰か来る」

 

 アリスが小さく身を寄せる。暗がりの奥から、足音がためらうように近づいてきた。

 

「リオくん……? リナちゃん……?」

 

 息の混じった声に、リナがはっと顔を上げる。

 

「アマリ? 本当に……無事だったの?」

「うん……見つけた人を運んでたら、ここまで来ちゃって……」

 

 アマリは胸元を押さえ、震えを誤魔化すように笑った。

 

「こんな時でも、誰かを放っておけなくて……私、困った性格だよね」

 

 リオは短く首を振る。

 

「困ってない。普通に強いだけだ」

 

 アマリの肩布は焦げ、薬草袋の紐は裂けていた。走ってきたのか、息が乱れすぎて声が途切れがちだ。周囲の避難民もアマリの震えに気づき、距離をとるように後ずさる。恐怖は伝染する。その中心にいる彼女を見ていると、胸の疼きが一瞬だけ南へ引き戻される感覚があった。

 

「ねぇ……また南の方を見たよ。セラさんのこと?」

「……無意識だ。胸が……二つの方向に裂かれる感じがする」

「リオ……痛むんでしょ? 南も、北東も」

「……ああ。どっちもだ」

 

 アマリが近づくと、焦げた空気の中にふっと薬草の“香り”が混ざった。今は場違いに思えるほど澄んだ匂いに現実へと引き戻される。淡金の髪を束ねた布にも、その香りが染みついていて町の匂いだと認識させる。

 

 だが、香りが届くほど近くにいるのに、避難民たちは一歩また一歩と距離を取り、善意の匂い”に触れるのを怖がるみたいだった。

 

「話をそらしてしまって悪かった。それで話とは?」

「北東で……光が落ちたんだ……! 白い線みたいで……でも、重くて……怖くて……!」

 

 アマリは息を吸い直し、震える声で続けた。

 

「それに……空気の流れが変だったの。香りが……ぜんぜん流れないの。まるで、北東に押し返されてるみたいで……」

「ラナ湖。そこって観測班の人が小さな光が沈むと噂していた場所だよね?」

 

アマリはうつむきながらもうなづく。

 

「待て、それが本当ならもっと早くに記録が出ているはずだ」

「……噂じゃないのかもしれない」

 

 アリスは重い口を開けるようにつぶやく。

 北東。光。重い揺れ。すべてが胸の疼きと重なった。

 

(……南じゃない。セラじゃ……)

 

 胸の奥で、罪悪とも安堵とも呼べない波が跳ねた。

 こういう揺れは、本当に嫌だ。自分の弱さが露出するみたいで。

 

 リナは俺の顔をのぞきこんだ。

 

「リオ。あなた、もう気づいてるんでしょう?」

 

「……何を」

 

「疼きの向き。ずっとそっちを向いてる。セラさんのこと、ずっと気にしてるのに……身体は違う方向に引かれてるんじゃない?」

 

 図星すぎて息が詰まる。

 

 セラを置いてきた悔いは南にある。

 胸の疼きは北東を示す。

 方向が違うのに、どちらも痛む。

 

 そのとき──闇市場の空気が、一瞬だけひやりと沈んだ。

 

 落ちる直前、空気がわずかに軋んだ。光でも音でもない、

 

「今の……聞いた? 空気、きゅって鳴ったよ……?」

「灰……逆向きに揺れた……空気、止まってるのに……」

「……世界が、そっちへ寄っていくみたいだ」

 

 灰がひとつ落ち、なぜか“北東へ滑った”。

 

「……セラさん、無事だよね」

「……信じるしかない。だけど疼きは……北東を指す」

「行こ。どっちも捨てないままで、進めばいいよ」

「……ああ。進む」

 

 セラの気配がまだ胸に残る。それでも疼きは北東を示す。二つの痛みの間で足を進めながら、俺はどちらも切り離せないまま進むしかなかった。

 

 影でも、光でも、灰でも。

 全部が同じ方向へ沈んでいく。

 

「……リオ?」

 

 アリスの声が震える。リナは無言で見守っていた。

 

 胸が脈打つ。疼きが答えを迫る。

 

(行けって……言ってるのか、これ)

 

 セラを置いてきたまま、別の異常を追うなんて、本来は最悪の判断だ。俺はまた誰かを置いて背を向けようとしているのか。焼け跡の痛みが、罪悪として胸の底へ沈んでいく。

 

 だが、それでも。

 

「……見に行くしかない」

 

 低く吐き出すと、胸の痛みがわずかに整った。

 方向だけは、はっきりしたからだ。

 

 アリスは強く頷き、リナは短く息を吐いた。

 

「湖なら、道は知ってるよ。……危ないけど、一緒に行く」

「もちろん。リオを一人で行かせるつもりはないから」

 

 二人の声が、ざわめく闇市場の奥でかすかな灯のように響いた。

 

 影も、灰も、光も──すべて北東へ沈む。

 南には、塔とセラがいる。

 その痛みだけは、まだ胸に残ったままだった。

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