燃える街から少し離れた北区裏路地。ひび割れた壁に身を寄せて息を整えると、胸の“重心”がまた北東へ傾いた。
まるで“縄”の端をつかまれて、心臓の裏側から引っぱられているような感触だ。
南――塔を思うと胸が鋭く軋む。だが北東へ向かう感覚は違う。“刺す”のではなく、静かに“引かれる”。進めと言われているような、気味の悪い静けさを伴った引力。
(……なんだ、この違い)
塔のことを考えると胸が焼けるように痛む。だが北東に意識を向けると、逆に痛みが静まり、“行けば収まる”とでも示すように、脈が整う。
アリスが袖を引いた。
「ねぇリオ……セラさんとはどんな関係なの?」
「……昔の相棒だ。世界大戦を知ってるか?」
「十年前の戦争だよね。3日で終わったとされる戦い」
「俺はそこに彼女と参加していたんだ」
「私たちも協力するよ。湖とセラさん両方助けましょう」
リナがしゃがみ込み、手帳を開きながら言う。光鎖の切れ端を拾って並べると、すべて“北東へ向かって裂けて”いた。
「見て。切断線の傾きが揃ってる。偶然じゃない」
「……胸も同じ方向に痛む。嫌な一致だな」
(本当は塔へ戻りたい。セラを置いたまま、別の異常へ向かうなんて間違っていると分かってる)
アリスが食料袋を抱えたまま、ふらりと揺れた。
「わ、重っ……ねぇリオ、これ持って。私じゃ落とす」
「お前、それ三人分だろ。……貸せ」
と受け取った瞬間、アリスがほっとした顔で笑った。
「ありがとう……って、銃まで持ちながらよく平気だね」
「慣れてる。いつもやっていたことだからな」
「大変だね……」
そんなやり取りをしつつ、俺は銃に刻印弾を装填し、リナは地図を描き直し、アリスは水袋を結び直す。動作そのものは淡々としているのに、胸の引き絞られる方向だけが頑固に一点を示した。
――北東。ラナ湖。
だが、確信と言い切れる材料はまだない。その時だった。
「……ひ、ひとまず銃は下げてくださいリオ先輩っ」
隣の影から突然声がして、俺は反射的に銃口を向けた。
「ヨナ?」
白い前髪が乱れ、怯えた瞳のヨナ・スレインが両手をあげて固まっていた。
「ぼ、僕です僕! その……協会の元徒弟……覚えてますよね!?」
「悪い。影から出てくるな。撃つところだった」
「それ言い方ひどくない!?」
アリスが小声で耳打ちしてくる。
「……ヨナくん、なんでこんなとこに?」
「そ、それが……見せなきゃいけないものがあって……!」
全身でおどおどしながらも、ヨナは布袋から“欠けた魂札”を取り出した。
俺の意識が、また北東へ引っ張られる。リナもすぐに気づいた。
「……それ、どこで?」
「北区の崩れた屋根です。誰かがわざと壊して捨てたみたいで……で、見てください、この刻印」
ヨナは震える指先で欠片を裏返す。
「天使端末の……偽装刻印だね?」
リナが眉をひそめた。
「えっ、わかるの?」
「フィリア聖堂の魂札は本来“番号の縁”が二重。偽装品はこのラインがずれるの」
「その通りです……さすがリナさん……」
ヨナは小さくうなずくと、欠片を俺の前に持ってきた。
「で、問題は……これです」
その瞬間。光が、ぴし、と細く震えた。
ヨナは欠片を握りしめたまま、白い前髪の奥で目を伏せた。
「……本当は、この手の欠片は協会では“扱ってはいけない”んです。偽装の疑いがある魂札はすべて封鎖庫送りで……。僕、徒弟の頃に師匠の研究で一度だけ見たことがあって」
リナが息をのむ。
「徒弟で封鎖庫資料を見たの? 異例だよ」
ヨナは小さく頷く。
「師匠がフィリア側の人で……番号と光流のズレを調べていたんです。でもある日突然、研究は没収されました。『制度の深いところに触れる』って理由で……」
汗が頬を伝う。
「理由は……言われなかったのか?」
「師匠の顔、あれは……“怖がってる顔”でした。知らないほうがいいって……そんな目でした」
震えた声のまま、ヨナは欠片を見下ろした。胸の疼きと同じ方向――北東へ向かって。アリスが声を飲む。
「……動いた。魂札の光が……動いた……!」
リナがすかさず距離と角度を測る。彼女は古い地図を開き、湖の周囲を指でなぞった。
「……ここ。ラナ湖周辺だけ観測記録が極端に少ない」
アリスが眉を寄せる。
「なんで? 街から近いのに」
「近いからだよ。湖は“観測死角域”……光鎖の重層線が乱れる地点。本来、塔の光も届くはずなのに、手前で弱くなる」
ヨナがすぐ補足した。
「協会は昔、湖の周囲に“光を落とす装置”を置いてたんです。でも……全部壊れました。まるで光が“吸われていく”みたいに減衰して」
リナの筆が止まる。
「吸われる……?」
「ええ……師匠は、『あれは“ただの水”じゃない』と言ってました」
沈黙が落ちた。胸の疼きが、静かに、確かに、湖へ向けて脈打った。
「反応角、北東二七度。リオの疼きと同じ」
ヨナも青ざめながら説明を続けた。
「魂札の光紋は本来“所有者の方向”にわずかに引かれるんです。でも……これは違う。所有者は塔にいるはずなのに」
「塔じゃない……ってことか」
「はい。もっと強い“異常源”に引かれてる……おそらく湖のほうに」
湖――。その言葉に俺の意識が引っ張られる。
アリスが小声でつぶやいた。
「……ねぇリオ。さっきから、ずっと湖のほう見てる」
「意識してない」
「だから怖いんだよ……身体のほうが先に行っちゃいそうで」
リナがヨナへ向き直る。
「他に情報は?」
ヨナは唇を噛み、もう一枚の欠片を見せた。
「これ……さっきのよりさらにおかしいんです。見ててください」
欠片を胸の高さに掲げると、光がふらりと揺れ――。
“湖の方向だけ消えた”。
アリスが息をのむ。
「光が……避けられたみたいに……消えた……?」
ヨナは震えながら説明する。
「異常が“強すぎる”場合、魂札の光はねじ曲がるんです。反応したあと、その方向でだけ……消える」
リナが短く結論を述べた。
「つまり――光が示した“死角”が湖ってことね」
まるで肯定するように脈が早くなる。
「塔じゃない……湖だ」
その言葉を口にした瞬間、胸の痛みが“方向を持ったままおさまる”。拒むようにではなく――納得したように。
ヨナがぼそっと呟いた。
「僕……こんなの見たの初めてです。刻印偽装が絡むなら、こっちは制度の問題で……ええと、その……」
「ヨナ、悪いが詳しい話は後だ。行かなきゃならない」
「あ、はい。でも……気をつけてください。湖は今“観測の死角”です。誰も見てない。何があっても……」
リナは荷袋を開き、手際よく装備を並べた。
「水袋三つ、乾燥薬草、包帯、替え札……最低限は揃った」
アリスは必死で紐を結んでいる。
「これ……走ったら絶対落とす……!」
「落とす前提で言うな。貸せ」
「ほらね!? やっぱ落ちるじゃん!」
リオはため息をつきながら荷を肩に乗せる。
(魔獣が出てもおかしくない……街道を行くならなおさらだ)
ヨナはその動作を怯えたように見ながら言った。
「街道は……光鎖の残骸が多いです。夜は絶対に通らないほうがいい」
リナがうなずく。
「じゃあ森の縁を回るか……でも遠い」
アリスは胸の前で手を組む。
「夜の森はムリ! 絶対変な声する!」
「だから夜は歩かない。休憩を取る」
アリスがほっと息を吐く。リオは銃を肩に背負い直す。
「……行けるな?」
「いく!」
「もちろん!」
リナが地図を折り畳む。
「ルートは二つ。森を迂回して入るか、街道をそのまま進むか」
「街道。急ぐ」
アリスが慌てて手を挙げる。
「ちょ、ちょっと待って! 準備、まだ途中!」
「お前が持ってる袋の中身、何だ」
「干し肉と硬パン! 三人分! 落とすから持って!」
「最初から言え」
「あのね!? 言ったよ!? 絶対落とすって言ったよ!?」
リナが苦笑しながら魔導灯の紐を締める。
「はいはい。アリスは右側ね。リオはそのまま先頭。私が間で調整する」
ヨナが最後に欠片を差し出した。
「これ……持っていってください。“光が消えた方向”を、きっと教えてくれる……はずです」
欠片は手の中で淡く震えた。胸の疼きと、まったく同じ方向。
「……行く場所は決まったな」
リナが地図に指を滑らせる。
「街道をそのまま進めば四刻。壊れた光鎖の残骸が危険だけど、一番早い」
アリスが袖を引いた。
「リオの疼きって……どっち向いてるの?」
「街道だ。一直線に」
リナが苦い顔をする。
「……急ぐ必要があるってことね」
「森を回る余裕はない」
アリスが拳を握る。
「よし……なら、走ろ!リオが倒れないくらいの速さで!」
「倒れるのはお前だ」
「……うん。たしかに」
リナが笑う。
「はい決まり。街道ルート。途中で必ず休憩入れるからね」
「道筋は決まった。あとは進むだけだ」
(塔も、湖も。どちらも背を向けたくはないが――選ぶしかない)
アリスも、リナも、静かにうなずく。湖のある方向へ、風だけが流れていない気がした。
「うん。行こ」
「迷う理由、もうないでしょう?」
風のない路地で、砕けた欠片がひとつ光を落とした。その光は――静かに、確かに、湖を指していた。