燃え続ける南区の光が、裏路地の壁にゆらりと反射していた。その赤が消えかけたころ、路地の奥から──水音のように軽い足取りが近づいてきた。
だが、それは軽さではなかった。片足を引きずっていた音だった。
「……おい、誰だ」
銃を半ば抜いた瞬間、影がぐらりと揺れた。
淡い青灰色の髪。焦点の合わない鋭い目つき。
「……セ、ラ……っ……は……」
そのまま補助術士が俺の胸へ倒れ込んできた。
「お前!? なんで……ここに……っ」
リナが駆け寄り、アリスが慌てて肩を支えたが──彼の体は、軽かった。血が抜けすぎた体の重さではなく、“中身の気配”がどこかへ置き去りになっている軽さ。
腹部を覆う薄光の膜──補助術の残滓が、かすかに揺れていた。
「……セラ、さん……裏層の……裂け目……に……固定……されて……」
そこまで言うと、青灰髪の青年は喉がひゅ、と痙攣させた。息が詰まるような沈黙が落ちる。途切れ途切れの声に、胸の奥がざわりと波打った。
「固定? 何の話だ」
補助術士は震える指で、南──塔の方角を指し示す。
「裏層の……ひび……湖から……伸びて……セラさん……巻きこまれて……動け……ない……っ」
リナの表情が凍る。
「湖から伸びて……? 塔の裏層に?」
「う、そ……」
アリスが息を呑む。
俺は補助術士の肩を支えながら、声を押し出した。
「セラは……生きてるのか」
彼の焦点の合わない目が、かすかに俺を捉えた。
「……生きて……る。でも……あれ……は……近づいちゃ……だめ……光が……全部……割れる……」
その時だった。路地奥で、空気がひときわ強くひしゃげた。キィ、と金属を裂くような響き。
「来た……っ!」
青年の体がびくりと跳ねた。
次の瞬間、闇の奥から“白い線”が走った。いや──線ではない。塔の裏層のひびと同じ、光を食う裂け目の“端片”だ。
「アリス、下がれ!」
俺は銃を構え、刻印弾を三発連続で叩き込んだ。白い“端片”が空気を裂き、俺の脇をかすめて壁に衝突。石が泡みたいに削げ落ちた。
「リオ! 魔法、使うしか!」
「やってる!」
足元に光脈陣を展開し、圧縮した衝撃を撃ち返す。術式はいつもより乱れた。空気が逆流し、魔力がちぎれそうに震える。
(……湖の方向から来てる)
胸が嫌な形でうねり、視界の端が白く滲む。端片が俺へ向かって突進してきた。間に合わない──と判断し、銃を手放して前へ踏み込む。
「“砕けろ”!」
殴りつけた衝撃が、端片の中心を破砕した。光が散り、白い粉のように消える。
だが。
リオの背後で、湿った音がした。
「……あ」
補助術士の口から、赤が溢れた。さっきの端片──俺が砕いた後の細片が、彼の脇腹を貫いていた。
「大丈夫か!!」
アリスが叫び、リナがすぐに止血に入る。だが、止まらない。止められる傷ではなかった。彼は、俺の袖を弱い力でつまんだ。
「俺はニル・ヴェイン……。セラさんに……伝えてください。あなたと戦えてよかったと。……セラさん……守れなくて……すみません……」
「謝るな。お前は十分やった。セラは──俺が助ける」
その言葉に、ニルの目がわずかに揺れた。
「……なら……はやく……いって……ください……湖……の……」
言葉がゆっくりと千切れて、薄光がふっと消えた。ニルの手が落ちる。アリスが泣き出し、リナは静かに目を閉じた。俺は、しばらく動けなかった。
胸のどこか奥で、ひどく深い場所が裂けたように痛んだ。
(……セラ。お前もあの裂け目の中に──)
視界がにじんで、塔の残光がぶれて見えた。そのときだった。リナが顔を上げ、かすれた声で呟いた。
「……リオ。塔のひび……さっき見えた端片と同じ“方向”から伸びてた。湖の……方角から」
アリスも涙をぬぐいながら言った。
「セラさん……塔じゃなくて……湖の影響で閉じこめられてるの?」
俺は答えられなかった。だが胸の奥──ずっと疼いていた場所だけが、はっきりと告げていた。
湖だ。セラを閉じこめている“根”は、塔じゃなく──湖にある。
そして、走り出そうとした瞬間。膝が崩れた。
「リオ!?」
体が前に倒れ、手をついた石畳が震える。芽吹くような痛み。胸の“重心”が、湖の方向へ強制的に傾く。
(……行け。そう言っているのか)
だが同時に、塔の方向へは刺すような拒絶。まるで“二方向に裂かれる心臓”だ。
「リオ、無理だよ! 休んで──!」
「…………来るな」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「来たら……死ぬ。塔は……もう、戦えない」
リナとアリスが凍る。その沈黙の中。路地の奥──塔の方向の空に、白刃の残光が一度だけ揺らめいた。
セラの気配が、痛みの奥へ遠のいていった。
ニルを横たえた路地に、しばらく誰も言葉を置けなかった。崩れた石壁の影だけが揺れて、街の遠い爆ぜる音が、耳の奥で鈍く続いている。
胸の重心はまだ湖の方向を指している。痛む。だが、それは“急け”という命令にも似ていた。ニルの体温がまだ袖に残っているのに、街はいつも通り崩れていく──その理不尽が胸を締めつけた。
リナが、震える息を整えて言った。
「……リオ。どうするの」
「決まってる。湖に行く」
声に曇りはなかった。はっきりしていたのは、“塔へ向かうべきではない”という感覚だけだ。
リナはきっと顔を上げる。
「でも……セラさんは塔の裏層にいるんでしょ? だったら──」
「塔のひびは、湖から伸びてる。根っこを断たなきゃ、セラは抜けられない」
アリスが涙の跡をぬぐい、唇を噛む。
「……怖いよ。湖って……誰も行きたがらない場所だよ……? 観測も効かない、光が吸われる……そんなとこに……」
「行かなきゃ、セラが死ぬ」
そう言った瞬間、アリスの肩がびくりと震えた。
リオの声は淡々としていた。だが、そこに“迷い”がないことを、二人とも理解してしまった。
沈黙が落ちた路地に、突然──
「お、お待ちください!」
か細い声が響いた。
振り向くと、丸眼鏡を乱れさせながら走ってくる少女がいた。観測舎から非常線を越えて走ってきたらしく、制服の裾は灰で汚れていた。
「ミーナ・フェル、何があった」
協会附属の光術学徒──フィリアの研究舎にいた子だ。
「リ、リオさんっ、ここに……っ」
息を切らし、肩で呼吸をしながら続ける。
「……裏層の震えが、湖と同期してるんです! 刻印波形を解析したら……揺れが全部“湖底方向”へ落ちてて……!」
リナが驚いたように目を見開く。
「裏層震が……湖と同期……?」
ミーナは必死でうなずいた。
「セラさんがいる層だけ異常に固定されてます! でも……それを引っ張っている“下方向の歪み”は、塔より……湖のほうが強い……!」
アリスが小声で呟く。
「……やっぱり……湖なんだ……」
ミーナはリオへ目を向ける。
「行くつもり、なんですよね……?」
「行かない理由がない」
その瞬間、ミーナの顔が怯えたように歪む。
「……本気、なんですね……。湖は……“観測の死角”です。入れば、あなたの術も……リナさんの計測も……アリスさんの視界も……全部弱くなる」
「関係ない」
「リオ……」
リナが小さく名を呼ぶ。リオは、ほんの一瞬だけニルの体へ視線を落とした。
「ここで止まれば……ニルの死を無駄にする」
アリスは息をのむ。ミーナはしばらく震えていたが、意を決したように小さな手を差し出した。
「こ、これ……持っていってください……」
差し出されたのは、小型の光脈観測器。
「湖の縁でしか使えないはずです。でも……“揺れの方向”を見るくらいなら……まだ……」
リナがそれを受け取ると、ミーナの指が少し震えた。
「お願いです……戻ってきてください。誰でもいいから……誰かは戻ってきて……」
アリスがそっとミーナの肩を抱いた。
「大丈夫。私たちは……勝てない戦いへの行き方、学んでるから」
「アリス、それ慰めになってない……」
「うぅ……でも本当だよ……?」
リナが小さく息をついて言う。
「行こう。これ以上、時間を失うわけにはいかない」
俺は、散らばった弾倉を拾い上げ、再度銃に装填する。その時──胸がぐっ、と掴まれるように重くなった。
湖の方向へ、強く傾く。
(急げ……って、言ってるのか)
アリスが手を握り締める。
「リオ……もう、走れる?」
「走る」
「ほんとに……? さっき、膝……」
「走るって言ったら走る」
アリスは涙を拭きながら、少しだけ笑った。
「うん……わかった。じゃあ、私も走る……」
リナが地図を開き、短く指示を飛ばす。
「街道を北東に。崩れの帯を避けつつ進む。途中で休憩一回。距離は四刻。もし湖の手前で“光が沈む現象”が出たら、すぐ知らせて」
アリスが明るく返す。
「任せて!」
ミーナは、不安に満ちた眼をこちらへ向けたまま、唇を噛んだ。
「……行かないで、とは言いません。あなたたちじゃないと……きっと、誰もセラさんに届かない……」
「だから行く」
リオはそうだけ言い残し、歩き出した。路地の出口で、一度だけ振り返る。ニルの薄光が、風もないのに揺れたように見えた。
(見てろ。絶対に掴んでくる)
胸の中心が、湖へ向かって強く引かれる。痛みではない。決意の重心が、そこで動いている。
リオはそのまま、街道へ踏み出した。塔の白刃の残光は、もう見えなかった。
ただ──湖の方角だけが、暗く、深く、呼吸していた。