灰を越えて風になる   作:雷光123

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向きを失う霧道、湖への入口

 街道の北端に近い古い倉庫前。昨日まで避難民で埋まっていた空き地は、もうほとんど空だった。折れた木箱と、水の乾いた輪だけが残っている。ここにあった“日常の気配”は、全部どこかへ流れ出したようだった。

 

アリスとリナと並んで、避難区の最後尾へ向かう。

 

──挨拶ではない。ここで出会った人たちの“続き”が、まだどこかに残っていることを、確かめたかった。

 

倉庫の影で、アマリが荷台に布を掛けていた。薬草の匂いは、もう何も残っていない。

 

「……アマリ? その荷物は?」

 

振り返ったアマリは、力の抜けた笑みを浮かべた。

 

「昨日拾いなおした薬草……ぜんぶ配っちゃった。何も残ってないの。でも、それでよかったって、今は思えるの」

 

アマリは布の端を握ったまま、一度だけ手を震わせた。

 

「……本当はね、また誰かが消えるのを見るのが、怖かったの」

 

それ以上言わず、荷台の影に視線を落とした。声は薄く揺れていた。眠れていないのだろう。アリスがそっと覗き込む。

 

「アマリさん、どこに避難するの? 南はもう……」

「北よ。森沿いの村。避難民が集まってるって……そこに、連れていってくれる人がいるの」

 

その「人」が姿を見せた。孤児院の護衛、カイル・ロッシュ。

 

「アマリさん、そろそろ移動だ。ここは……長くいる場所じゃない」

 

アマリはこくりとうなずいた。

 

避難民の列が北へ遠ざかっていくにつれ、倉庫の周りから“生活音”がきれいに抜け落ちた。子どもの怒鳴り声も、荷車の軋みも、湯気の立つ音さえも、ぜんぶ。

 

風が吹くと、残った埃だけが宙に浮いた。街は殻になり、誰かの気配が抜けた抜け殻のように感じられた。

 

「北に行くって聞いたけど……本気なのか?」

「湖に向かう」

 

カイルの顔から血の気が引いた。

 

「……俺も、見たんだよ」

 

その小さなつぶやきは、誰にも聞かれたくない独白のようだった。

 

「影が……二つに割れた。片方は、俺の動きに合わせて、もう片方は……湖のほうへ勝手に歩いていった」

 

カイルはその光景を思い出したのか、しばらく言葉を失った。喉がひくりと動き、乾いた息をのみ込む。

 

「おかしい、じゃ済まなかった。あれは……“何かに呼ばれてる”みたいだったんだ」

「呼ばれてる?」

 

 握った拳が震える。恐怖を隠そうとしているのに、声の震えだけがどうしても抑えられていない。

 

「……あそこは駄目だ。霧が……人の“感覚”をひっくり返す。昨日、子どもが『光が逆に落ちていく』って言って走ったまま……戻らない」

 

 アリスが息を呑む。

 

「光が……逆って何……?」

 

 カイルは唇をかみしめた。

 

「影が先に動くとか……声が遅れて返ってくるとか……みんな怯えてた。だから北に集めることになったんだ」

 

 リナが静かに尋ねる。

 

「あなたは……残るの?」

「……ああ。最後尾を守らないといけない」

 

 その声には、恐怖を押し隠す無理な硬さがあった。

 

「カイル。アマリを頼む」

 

 驚いた顔のあと、強い決意のにじむうなずきが返ってくる。

 

「ああ……任せてくれ。だから、戻ってきてくれよ。本当に」

 

 アマリも手を胸に当てた。

 

「あなたたちまで失いたくない……街はもう形だけだけど……それでも戻ってきてくれたら、“続き”を作れるかもしれないのに」

 

 返事は喉の奥で止まり、そのまま歩き出した。

 

 ──ここに留まる理由は、もうない。

 

 街道を北東へ進むほど、空気が静かになっていった。風は止み、灰が上へ吸い込まれるように浮いていく。

 

「灰って……落ちるものでしょ……?」

 

アリスの声には怯えが混ざる。

 

「観測死角……空気の流れが、“向き”を失ってる」

 

リナの言葉は硬かった。

 

前方に白い霧が揺れている。ゆっくり膨らみ、しぼみ、“何かの拍動”を真似るように。

 

だが、もっと近くで見た瞬間、理解した。霧は“色”を忘れていた。

 

白、灰、青、透明、白。霧には、湿り気も匂いもなかった。まるで、空気の“履歴”だけ抜き取られた場所に立っているようだった。順番すら一定せず、混ざり、ほどけ、また結び直される。視界の端に、あり得ない錯覚が走る。

 

(……色が順番を失っている?)

 

耳の奥で、小さな水音が落ちた。地面は乾いているのに。

 

(──霧が記憶している音を、勝手に流しているのか?)

 

この霧は、生き物の肺の中のようでもあり、記憶が層を失って漏れているようでもあり、さらに誰かの気配が“無色化”して吸われていくようでもあった。

 

古い石橋を渡った途端、足元がやわく沈んだ。水を含んでいる感触ではない。まるで“下に何かが呼吸している場所”に踏み出したような沈み方。

 

アリスが肩を震わせた。

 

(……湖道の霧は、こういう……)

 

胸の奥がずるりと滑った。痛みではなく、方向感覚そのものが傾く反応。

 

アリスが眉を寄せる。

 

「歩き方……変だよ」

「問題ない」

 

そう言った瞬間、影が遅れて足元へ落ちた。影の“記憶”だけが、半拍あとから付いてくる。

 

森沿いの細道へ踏み込んだ瞬間──音の密度が変わった。

 

鳥の声がする。だが、それは背後から。

 

アリスが震える声を漏らす。

 

「うしろ……?」

「前方二十メートル。でも逆相よ」

 

リナの観測は静かで、確かだった。

 

風は左から来ているのに、服の端は右へ押される。足音は右から聞こえるのに、影は左へ揺れる。

 

(……全部の向きが、ばらけている?)

 

リナが観測器をのぞき込み、表情を固めた。

 

「位相が……裏返ってる。音も、影も、空気も……“ひとつの方向”へ吸われてる」

 

その瞬間、頭の奥で細い残響が鳴った。

 

声。

 

いや──声の“抜け殻”みたいな反射。

 

(……セラ……?)

 

泡が弾けるような呼気の残像。名を呼ばれたのか、思い出したのか、それすら曖昧なまま音は消えた。足元の土が、呼吸に合わせてふわりと沈んだ。

 

胸へ手を当てる。脈がずれ、次の拍が半歩遅れてきた。踏み出したはずの足より先に、内側の“重さ”だけが前へ滑っていく感覚があった。自分の体がふたつに分かれて進んでいるような、不気味なずれ。感覚を研ぎ澄まして周囲に注意を向ける。

 

影の遅れ。

音の遅れ。

脈の遅れ。

 

全部が、同じ“反転”に巻き込まれている。息が揺れた瞬間、アリスが支えようと手を伸ばす。

 

「平気だ。……聞こえるだけだ。森の奥と、霧の向こうの両方が」

 

リナが観測器を閉じた。

 

「霧が……脈を持ってる。音も、色も、気配も、湖の方向にだけ沈んでる」

 

沈む──まるで湖そのものが“母胎の奥”みたいに何でも吸い込んでいるようだった。

 

アリスが唇を噛む。

 

「こんなの……生き物の中みたいだよ……」

 

ゆっくり息を吸い、吐く。

 

「……ここを越えないと、湖には行けない」

 

怖い。

寒い。

でも、胸の中心だけは、静かに前へ傾いていた。

 

(セラ……待ってろ)

 

三人で霧の奥へ進む。霧は、音も色も方向も持たない“無色の深さ”を広げていた。

 

「今の……何?」

 

リナがさっきの揺れを追及する。

 

「わからない。裏層の揺れと似てる。こっちにも……流れてきてる」

 

アリスが袖をつかむ。

 

「……ねぇ、本当に……」

 

その声は、勇気よりも先に、不安が滲んだ子どもの声に近かった。

 

「……まだ戻れるよ?」

 

見上げる。空と霧の境界が、呼吸みたいに薄く揺れていた。一歩踏み込めば、この世界の“向き”そのものが変わる。そんな予感が、霧の縁に薄く張り付いていた。

 

「怖い。……だけど、行くしかない」

 

リナは地図を握りしめる。

 

「記録のない領域よ。驚かないで。……私も、驚かないようにする」

 

アリスは手を震わせながら拳を握った。

 

「行こ……もう迷う時間ないもんね」

 

霧へ一歩踏み込む。足にまとわりつく霧が、体温を吸い取り、影を薄くし、記憶を分散させる。

 

それでも前へ進む。

 

湖は近い。

 

形のない拍動が、奥で脈を打っている。呼吸も、記憶も、影も、全部を吸い込みながら。

 

──進む。

 

それ以外の選択肢は、もうなかった。

 

三つの影が吸い込まれるように霧へ消えていく。湖道は、静かに、深く、ひらいていった。

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