街道の北端に近い古い倉庫前。昨日まで避難民で埋まっていた空き地は、もうほとんど空だった。折れた木箱と、水の乾いた輪だけが残っている。ここにあった“日常の気配”は、全部どこかへ流れ出したようだった。
アリスとリナと並んで、避難区の最後尾へ向かう。
──挨拶ではない。ここで出会った人たちの“続き”が、まだどこかに残っていることを、確かめたかった。
倉庫の影で、アマリが荷台に布を掛けていた。薬草の匂いは、もう何も残っていない。
「……アマリ? その荷物は?」
振り返ったアマリは、力の抜けた笑みを浮かべた。
「昨日拾いなおした薬草……ぜんぶ配っちゃった。何も残ってないの。でも、それでよかったって、今は思えるの」
アマリは布の端を握ったまま、一度だけ手を震わせた。
「……本当はね、また誰かが消えるのを見るのが、怖かったの」
それ以上言わず、荷台の影に視線を落とした。声は薄く揺れていた。眠れていないのだろう。アリスがそっと覗き込む。
「アマリさん、どこに避難するの? 南はもう……」
「北よ。森沿いの村。避難民が集まってるって……そこに、連れていってくれる人がいるの」
その「人」が姿を見せた。孤児院の護衛、カイル・ロッシュ。
「アマリさん、そろそろ移動だ。ここは……長くいる場所じゃない」
アマリはこくりとうなずいた。
避難民の列が北へ遠ざかっていくにつれ、倉庫の周りから“生活音”がきれいに抜け落ちた。子どもの怒鳴り声も、荷車の軋みも、湯気の立つ音さえも、ぜんぶ。
風が吹くと、残った埃だけが宙に浮いた。街は殻になり、誰かの気配が抜けた抜け殻のように感じられた。
「北に行くって聞いたけど……本気なのか?」
「湖に向かう」
カイルの顔から血の気が引いた。
「……俺も、見たんだよ」
その小さなつぶやきは、誰にも聞かれたくない独白のようだった。
「影が……二つに割れた。片方は、俺の動きに合わせて、もう片方は……湖のほうへ勝手に歩いていった」
カイルはその光景を思い出したのか、しばらく言葉を失った。喉がひくりと動き、乾いた息をのみ込む。
「おかしい、じゃ済まなかった。あれは……“何かに呼ばれてる”みたいだったんだ」
「呼ばれてる?」
握った拳が震える。恐怖を隠そうとしているのに、声の震えだけがどうしても抑えられていない。
「……あそこは駄目だ。霧が……人の“感覚”をひっくり返す。昨日、子どもが『光が逆に落ちていく』って言って走ったまま……戻らない」
アリスが息を呑む。
「光が……逆って何……?」
カイルは唇をかみしめた。
「影が先に動くとか……声が遅れて返ってくるとか……みんな怯えてた。だから北に集めることになったんだ」
リナが静かに尋ねる。
「あなたは……残るの?」
「……ああ。最後尾を守らないといけない」
その声には、恐怖を押し隠す無理な硬さがあった。
「カイル。アマリを頼む」
驚いた顔のあと、強い決意のにじむうなずきが返ってくる。
「ああ……任せてくれ。だから、戻ってきてくれよ。本当に」
アマリも手を胸に当てた。
「あなたたちまで失いたくない……街はもう形だけだけど……それでも戻ってきてくれたら、“続き”を作れるかもしれないのに」
返事は喉の奥で止まり、そのまま歩き出した。
──ここに留まる理由は、もうない。
街道を北東へ進むほど、空気が静かになっていった。風は止み、灰が上へ吸い込まれるように浮いていく。
「灰って……落ちるものでしょ……?」
アリスの声には怯えが混ざる。
「観測死角……空気の流れが、“向き”を失ってる」
リナの言葉は硬かった。
前方に白い霧が揺れている。ゆっくり膨らみ、しぼみ、“何かの拍動”を真似るように。
だが、もっと近くで見た瞬間、理解した。霧は“色”を忘れていた。
白、灰、青、透明、白。霧には、湿り気も匂いもなかった。まるで、空気の“履歴”だけ抜き取られた場所に立っているようだった。順番すら一定せず、混ざり、ほどけ、また結び直される。視界の端に、あり得ない錯覚が走る。
(……色が順番を失っている?)
耳の奥で、小さな水音が落ちた。地面は乾いているのに。
(──霧が記憶している音を、勝手に流しているのか?)
この霧は、生き物の肺の中のようでもあり、記憶が層を失って漏れているようでもあり、さらに誰かの気配が“無色化”して吸われていくようでもあった。
古い石橋を渡った途端、足元がやわく沈んだ。水を含んでいる感触ではない。まるで“下に何かが呼吸している場所”に踏み出したような沈み方。
アリスが肩を震わせた。
(……湖道の霧は、こういう……)
胸の奥がずるりと滑った。痛みではなく、方向感覚そのものが傾く反応。
アリスが眉を寄せる。
「歩き方……変だよ」
「問題ない」
そう言った瞬間、影が遅れて足元へ落ちた。影の“記憶”だけが、半拍あとから付いてくる。
森沿いの細道へ踏み込んだ瞬間──音の密度が変わった。
鳥の声がする。だが、それは背後から。
アリスが震える声を漏らす。
「うしろ……?」
「前方二十メートル。でも逆相よ」
リナの観測は静かで、確かだった。
風は左から来ているのに、服の端は右へ押される。足音は右から聞こえるのに、影は左へ揺れる。
(……全部の向きが、ばらけている?)
リナが観測器をのぞき込み、表情を固めた。
「位相が……裏返ってる。音も、影も、空気も……“ひとつの方向”へ吸われてる」
その瞬間、頭の奥で細い残響が鳴った。
声。
いや──声の“抜け殻”みたいな反射。
(……セラ……?)
泡が弾けるような呼気の残像。名を呼ばれたのか、思い出したのか、それすら曖昧なまま音は消えた。足元の土が、呼吸に合わせてふわりと沈んだ。
胸へ手を当てる。脈がずれ、次の拍が半歩遅れてきた。踏み出したはずの足より先に、内側の“重さ”だけが前へ滑っていく感覚があった。自分の体がふたつに分かれて進んでいるような、不気味なずれ。感覚を研ぎ澄まして周囲に注意を向ける。
影の遅れ。
音の遅れ。
脈の遅れ。
全部が、同じ“反転”に巻き込まれている。息が揺れた瞬間、アリスが支えようと手を伸ばす。
「平気だ。……聞こえるだけだ。森の奥と、霧の向こうの両方が」
リナが観測器を閉じた。
「霧が……脈を持ってる。音も、色も、気配も、湖の方向にだけ沈んでる」
沈む──まるで湖そのものが“母胎の奥”みたいに何でも吸い込んでいるようだった。
アリスが唇を噛む。
「こんなの……生き物の中みたいだよ……」
ゆっくり息を吸い、吐く。
「……ここを越えないと、湖には行けない」
怖い。
寒い。
でも、胸の中心だけは、静かに前へ傾いていた。
(セラ……待ってろ)
三人で霧の奥へ進む。霧は、音も色も方向も持たない“無色の深さ”を広げていた。
「今の……何?」
リナがさっきの揺れを追及する。
「わからない。裏層の揺れと似てる。こっちにも……流れてきてる」
アリスが袖をつかむ。
「……ねぇ、本当に……」
その声は、勇気よりも先に、不安が滲んだ子どもの声に近かった。
「……まだ戻れるよ?」
見上げる。空と霧の境界が、呼吸みたいに薄く揺れていた。一歩踏み込めば、この世界の“向き”そのものが変わる。そんな予感が、霧の縁に薄く張り付いていた。
「怖い。……だけど、行くしかない」
リナは地図を握りしめる。
「記録のない領域よ。驚かないで。……私も、驚かないようにする」
アリスは手を震わせながら拳を握った。
「行こ……もう迷う時間ないもんね」
霧へ一歩踏み込む。足にまとわりつく霧が、体温を吸い取り、影を薄くし、記憶を分散させる。
それでも前へ進む。
湖は近い。
形のない拍動が、奥で脈を打っている。呼吸も、記憶も、影も、全部を吸い込みながら。
──進む。
それ以外の選択肢は、もうなかった。
三つの影が吸い込まれるように霧へ消えていく。湖道は、静かに、深く、ひらいていった。