才能ゼロの俺、最弱の鬼(つま)と『同期』して最強へ至る ~呼吸が使えないので、思考加速(OS)と筋肉(ハード)の暴力で「柱」になりました~ 作:この俗物怪物くん
深夜の道場に、木刀の先がかすかに震える音だけが響いている。
育手の家の道場は、昼間とは違う顔をしている。柱の影は濃く伸び、畳は月の光を吸い込んでしっとりと黒く沈んでいる。風鈴も虫も寝静まっている時間だ。そこで一人、松田定次郎が、木刀を抜き打ちの構えで止まっている。
(34秒……。昨日より、0・1秒しか縮まらんかった。クソが……!)
額から汗がぽたりと落ちる。手のひらは豆だらけで、指はわずかに震えている。それでも定次郎は歯を食いしばり、木刀を握り直す。
「よし、今度こそ、もうちょっと速く――」
腰を切ろうとした瞬間、彼の体のどこかの配線が、またしてもご機嫌ナナメになる。
手首の角度が、ほんの数度だけ狂う。
そして木刀が――
ぐにゃり。
「おい、なんでだよ!?」
木刀は、物理法則を一瞬だけ忘れたみたいな軌道で宙を泳ぎ、壁にぶつかる寸前で、辛うじて定次郎の手に戻ってくる。握力だけは、鬼殺隊志望の男らしく、それなりについている。
だが、その握力に至るまでの「命令」が、根本からおかしい。
「はあ……」
定次郎は大きく息を吐き出す。吐き出しても吐き出しても、胸の中のモヤモヤは一向に晴れない。
(やはりダメだ。速く動かそうとした瞬間に、『命令(コマンド)』がバグる……)
だが――と、彼は心の中で続ける。
(だが、俺は見つけている。このイカれた身体《OS》の、唯一の『取扱説明書(マニュアル)』を)
定次郎は木刀を一度下ろし、ゆっくりと目を閉じる。
深く、深く息を吸う。鼻から吸い込んだ夜気は冷たくて、肺の奥まで澄んだ空気が行き渡る感覚がある。前世で覚えたヨガや瞑想の知識を、彼は図々しくも鬼殺隊の訓練に転用している。
(まずは……最初の34秒を、頭の中で巻き戻す)
定次郎は、先ほど行った「居合(34秒)」の動作を、頭の中の映写機で逆再生するみたいに、一つひとつ細分化してなぞっていく。
柄を握った指の感覚。親指と人差し指の締め方。手の甲に浮かぶ血管の膨らみ。肘の角度、肩の高さ、腰の捻り、足の指先の踏ん張り具合。抜刀の軌道。刃筋の方向。納刀の時、帯に触れる微妙な感触。
それら全てを、彼の脳は、一枚一枚の紙芝居みたいに取り出して、机に並べている。
(……よし)
彼は目を開けないまま、木刀を鞘に見立てた帯へそっと戻す。
そして、今度はその動作を――
五分かけて、行う。
右手の指を、ゆっくりと締める。上腕二頭筋をじわじわと収縮させる。その収縮に合わせて、肩の筋肉をほんの少し固定する。腰の回転は、畳の目を一枚ずつなぞるように、ミリ単位で調整する。膝の曲げ具合は、畳一枚分。足の親指の力は二割、薬指は一割。
信じられないほど、遅い。
だが――驚くほど、正確だ。
抜刀。斬撃。納刀。
木刀が鞘から抜ける音はほとんどせず、畳の上を滑る足音も、虫の羽音より小さい。それでも、その動作の一本一本には、定次郎の全神経が注ぎ込まれている。
「……ふう」
最後に息を吐いたとき、月は雲に隠れかけている。今の一連の動作だけで、五分を優に使っているのだ。
(そうだ。とてつもなくゆっくりなら――)
定次郎はようやく目を開ける。
(とてつもなくゆっくりなら、俺の身体は、驚くほど『正確』に動いてくれる)
そこまで考えたところで、背後から静かな声が飛んでくる。
「……それは、どういう型の鍛錬だ?」
「うわっ!」
定次郎は飛び上がる。振り向くと、道場の入り口に育手が立っている。狐の面こそつけていないが、あの厳つい顔は、昼間と変わらず鬼のようだ。
「し、師匠……。いつからいたんですか」
「お前が『クソが……!』と呟いたあたりからだ」
「最初からじゃねえか!」
定次郎が思わずツッコむと、育手は腕を組んだまま、じっと彼を見ている。その眼差しはいつものように厳しいが、どこか、興味深そうでもある。
「……別に、大したことはしていないですよ。普通のことができないから、普通のことをしているだけだ」
「『普通のことができん』、か」
育手は鼻を鳴らす。
「さっきの、遅い居合。もう一度やってみろ」
「34秒のやつですか? ……はいはい」
定次郎は肩を回し、再び帯に木刀を差しなおす。今度は先ほどの五分版ではなく、いつもの「通常版」、34秒だ。
集中。吸気。体の芯に空気を通し、そこから末端へと放射状に意識を広げる。
「……ふっ」
抜刀。斬撃。納刀。
34秒。
遅い。遅いのは間違いない。だが、その動きには迷いがない。一本の線の上を、何度なぞっても同じ場所を通るような、そんな不気味なまでの安定がある。
育手は目を細めている。狐面の代わりに浮かぶ皺が、月明かりにくっきりと影を落とす。
「ふむ……。達人の居合を、とてつもなくスローで見ている気分だな」
「褒めてるのか貶《けな》してるのか、どっちです?」
「もう一度だ」
「え、今の見てなかったんですか?」
「見ていた。だからもう一度だ」
言い方が理不尽だ。
だが定次郎は文句を言いながらも、素直にもう一度構える。先ほどと同じ、34秒の居合。
抜刀。斬撃。納刀。
34秒。
その瞬間、育手の顔から「呆れ」が消え、代わりに「驚愕」が浮かぶ。
「……待て」
育手は思わず一歩近づく。
「今度は、わしの目の前でやれ」
「いや、さっきからずっと目の前ですけど」
「もっと近くだ。腕と肩を、目の前で見せろ」
育手は定次郎の真正面、鼻先が触れそうな距離まで歩み寄る。定次郎の木刀がちょっとでもずれたら、育手の顎にクリーンヒットする距離だ。
「……マジで近いな」
「いいから、やれ」
「はいはい……」
定次郎は、育手の存在を意識から追い出すように、深く息を吸う。目の前にいるのは師匠ではなく、ただの柱。いや、柱は折れたら怒られるから、もっと丈夫な何かだ。とにかく、斬ってはいけない対象だと自分に言い聞かせる。
「……ふっ」
抜刀。斬撃。納刀。
34秒。
育手は、その一部始終を、零距離で凝視している。定次郎の肩の筋肉がどのくらい盛り上がるか、肘の角度がどこで止まるか、手首の返しが何度でロックされるか。腰の切れ、重心の移動、足指の踏ん張り。
一つも、ブレない。
二度目の動作が、一度目の動作にぴたりと重なる。
「……なるほど」
育手は低く唸る。
「ブレがない」
「ブレ? そりゃ、同じ動作をしてるんだから、ブレないでしょうよ」
「それが、当たり前ではないのだ」
育手は首を振る。
「普通の人間は、どれだけ同じ動作をしようとしても、必ず『ズレ』る。無意識の力み、呼吸の乱れ、重心の傾き……。同じつもりでやっても、寸分違わずというわけにはいかん」
「へえ」
定次郎は、そこまで考えたことがない、という顔をしている。というか、そこまで考える前に、彼はいつも体のバグに頭を抱えている。
「だが、お前の二度目の動作は、一度目と――一ミリのズレもない」
「……だから、それが何だっていうんです?」
地の文が淡々としている分、定次郎本人の口ぶりは相変わらずだ。
「どうやっている?」
育手は、珍しく興奮気味だ。
「お前は、どうやって自分の身体を動かしている?」
「どうって……」
定次郎は、自分の右腕をつまみ上げるように見下ろす。
「普通に、『命令(コマンド)』してるだけですよ」
「命令?」
「はい」
定次郎はさらっと恐ろしいことを言う。
「『右腕の上腕二頭筋、三〇%収縮。同時に、三角筋前部を一〇%固定。手首の角度、四五度でロック』……って感じで、全部の筋肉に、同時に、脳みそで命令してるだけです」
「…………」
育手は絶句している。
「……お前、そんなことを、本気でやっているのか?」
「本気ですけど?」
「普通の人間は、そんなことはせん!」
育手は額を押さえる。
「『腕を上げる』と『思う』だけで、『無意識』に身体が動くのだ!」
「それができなくて困ってるんだろうが!!」
定次郎が机を叩く勢いで畳を踏む。
「俺は、『無意識』に動かそうとすると、身体がバグるんですよ! さっきみたいに、手首が変な角度になって、木刀がすっぽ抜ける! だから、『任意(にんい)』でしか動かせない!」
彼は自分のこめかみを指でコンコンと叩く。
「遅いのは、その『演算』に時間がかかってるだけです!」
「……そういうことか」
育手は天井を仰ぐ。
「『無意識』のブレがないから、『任意』の動作は完璧にトレースできる。だが、そのかわり、すべてを手動でやらねばならん。なんと面倒な……いや」
育手の目が、もう一度定次郎を射抜く。
「定次郎。それは、ある意味――才能だ」
「やめてくださいよ、その微妙な褒め方」
「鬼殺隊ではなく、大学で『研究者』とかになったほうが、お前は――」
「うるせぇ!!」
定次郎が即座に遮る。
「俺は東大現役合格だ! 研究者になるとか、そんなの当たり前なんだよ!!」
「当たり前……?」
育手の視線が「こいつは時々本気で意味がわからん」という方向に流れていくが、そこはスルーだ。
話題は、すぐに次の段階へ進む。
◇◇
数日後。
裏山の訓練場に、例の「行冥の岩」が鎮座している。人が三人がかりでやっと転がせそうなサイズの岩だ。行冥はそれを、以前、全集中の呼吸を使って三秒で頭上まで持ち上げている。
その岩の前に、今は定次郎が立っている。
「……本気で言ってます?」
「本気だ」
育手は腕を組んだまま頷いている。
「お前の『任意操作(マニュアル)』と、『全集中の呼吸』それが組み合わされば、どうなるか。試してみろ」
「試してみろって言われましてもね……」
定次郎は岩を見上げる。見上げても見上げても、終わりが見えない圧力だ。
「行冥が三秒でやったんですよ、これ。俺だと三日ぐらいかかりません?」
「三日続けて全集中できるなら、それはそれで化け物だな」
「ツッコミどころそこじゃねえよ!」
そんなやり取りをしていると、遠くの方から、聞き慣れた足音と――滝のような泣き声が近づいてくる。
「定次郎オオオオオオオオオ!!」
「うおっ!? なんだよ行冥! また泣いてるのか!」
悲鳴嶼行冥が、今日も涙のダムを決壊させながら走ってくる。とはいえ、走っているのに足音は静かで、地面にはほとんど衝撃が伝わっていない。さすが筋肉の化け物だ。
行冥は定次郎の前でぴたりと止まり、その巨体を折り曲げて土下座しそうな勢いで頭を下げる。
「育手殿から、君の『真の戦い』を、聞いた……!」
「真の戦い?」
定次郎が嫌な予感に眉をひそめる。
「君が、どれほどの『苦痛』と『孤独』の中で、その『身体《OS》』と戦い続けてきたか……!」
行冥の瞳から、また新しい涙が溢れ出す。
「その『努力』を、私は……! 南無阿弥陀仏!!」
「お前、俺の身体のOSのことまで知ったのかよ……」
定次郎は頭を抱える。
「なんで俺のスペック表が、全員に回覧されてるみたいな扱いなんだよ……」
「いいから、やれ」
育手は行冥の涙を華麗にスルーする。
「全集中の呼吸で『パワー』を満たし、お前の『任意』でそれを制御しろ」
「はいはい……」
定次郎は岩の前に立ち、深く息を吸う。
吸う。吸う。吸う。
肺の隅々まで空気が入り込み、血管という血管に、酸素が押し込まれていく感覚がある。心臓の鼓動が、ゆっくりと、大きくなっていく。それは爆発前のエンジンのアイドリングだ。
(……スウウウ)
定次郎の意識は、自分の体の中へ潜り込んでいく。
(酸素、回る。パワー、充填《じゅうてん》される。……ここからだ)
右脚。大腿四頭筋。出力五〇%。固定。
左脚。腓腹筋《ひふくきん》三〇%。足裏の圧力、均等。踵にかかる荷重は二割。つま先に八割。
腰。脊柱起立筋。四五%。背骨の角度は、地面に対して七〇度でロック。
両肩。僧帽筋を二〇%だけ締め、腕を支える土台を作る。
全集中のエネルギーを、左腕に一%だけ転送。筋肉の線維一本一本に、どの方向へ力を流すかを決めていく。
(……ゆっくり、ミリ単位で、持ち上げる)
定次郎の額に、じわりと脂汗が滲む。
岩は――
ピクリともしない。
(ダメだ……!)
定次郎は歯を食いしばる。
(演算が足りない! どこだ!? どこがエラーだ!?)
思考が、頭の中の黒板に数式を書き殴るみたいに、全身の筋肉を羅列していく。
(広背筋か! 出力が逃げてる!)
彼は全身の「命令」を一度全部消す。呼吸を乱さないようにしながら、筋肉の出力の配分を再計算する。
(再計算《リビルド》! 全身の筋肉《コマンド》を、再構築《リブート》しろ!)
右脚、五五%。左脚、四五%。広背筋に一五%の固定出力を追加。腹直筋で体幹を締める。前腕の筋肉は、握力のためではなく、岩の「形」を感じ取るために微調整。
定次郎の体は、外から見ると、ほとんど動いていない。ただ、全集中の呼吸を続けたまま、岩の前で石像みたいに立っているだけだ。
時間だけが、じわじわと流れていく。
五分。十分。
(……いける)
定次郎の内側で、小さなスイッチがカチリと入る感覚がある。
次の瞬間――
ミシッ。
巨大な岩の底が、地面からわずかに浮き上がる。
「……!」
育手は息を呑む。
「おおおおおおお……!」
定次郎は顔を真っ赤にし、目の血管が切れそうなほど力を込める。歯ぎしりの音が、岩の軋《きし》む音と重なる。
岩が、一ミリ、また一ミリと、上がっていく。
その光景は、とても「華やかな戦い」には見えない。派手な爆発も、豪快な叫びもない。あるのは、ひたすら地味で、緻密で、気の遠くなるような「作業」だ。
だが、その「作業」を、彼は諦めない。
十五分。
岩はついに、定次郎の胸の高さまで持ち上がる。
「ぐ、ぐぬぬぬぬ……!」
筋肉が悲鳴を上げている。呼吸はまだ乱れないが、顔は今にも爆発しそうだ。
もう一押し。
定次郎は、全集中の呼吸のリズムを崩さないまま、残りの力をすべて脚と腰に叩き込む。
「おおおおおおおおおお!!」
岩が――頭上まで、持ち上がる。
「……っ!」
定次郎はその状態を一瞬だけキープし、そして、力尽きたように岩を前方へ投げ捨てる。
ゴゴゴゴゴ……ドン!!
地面が大きく揺れる。砂煙が舞い上がり、鳥たちが一斉に飛び立つ。
「はあ……っ、はあ……っ……!」
定次郎は、その場に仰向けに倒れ込む。胸が激しく上下している。それでも、呼吸のリズムだけは、かろうじて「全集中」のままだ。
「……どうだ、オヤジ……!」
片手だけを上げて、彼は育手を見る。
育手は目を閉じ、ゆっくりと頷く。
「ああ」
その声は、いつになく柔らかい。
「行冥が三秒でやることを、お前は十五分かけて、やり遂げた」
育手は、岩があった場所と、今の定次郎とを交互に見やる。
「……ある意味、お前は、行冥よりも――すごいかもしれん」
「へ?」
定次郎が間抜けな声を出す。その言葉を、横で聞いていたクソ親友《とも》が、どうなるか。
「うわああああああああああん!!」
予想通りだ。
行冥は、もはや「滂沱《ぼうだ》」などという生易しいレベルではない。完全にダムが決壊している。涙の津波が、裏山の斜面を洗い流す勢いだ。
「定次郎オオオオオオ!! 君は!! 君という男はあああああ!!!!」
「おぼぼぼぼぼ!? ちょっ、待て、溺れる! 俺はお前の涙で溺死するのは嫌だ!!」
定次郎は、涙の洪水に押し流されかけながら、必死にもがく。
「だから泣きすぎだっつってんだろクソ親友《とも》がァァァ!!」
裏山の夜空に、彼の叫びがこだまする。
――任意(マニュアル)でしか動かない身体。
――無意識で動かない才能。
それでも、いや、それだからこそ、松田定次郎は、今日もバグった自分の身体《OS》と、全力で戦っている。