才能ゼロの俺、最弱の鬼(つま)と『同期』して最強へ至る ~呼吸が使えないので、思考加速(OS)と筋肉(ハード)の暴力で「柱」になりました~ 作:この俗物怪物くん
灯羽の「私を信じなさい!!」という絶叫と同時に、何かが弾けるような感覚が頭の奥で爆ぜる。
世界から、音が消える。
いや、違う。完全に消えるわけではない。
ガアアアア、と耳をつんざいていたはずの雑魚鬼の叫び声が、信じられないほど伸びきったゴムみたいに、細長く引き延ばされている。
振り上げられた腕。飛び散った涎の雫。揺れる木の葉。
その全部が、水の中でスローモーション再生しているみたいに、ゆっくり、ゆっくりと動き続けている。ほとんど止まっていると言っていいくらいの速度で。
(なんだ……これ……?)
定次郎は、呆然と雑魚鬼を見つめる。
さっきまで、自分の視界の中で暴風のように暴れていた巨大な腕が、今は、子供が泥団子でも放り投げるときみたいな、間抜けなスピードで前に出ているだけだ。
目を凝らすと、筋肉が収縮する様子まで、細かく追える。皮膚の下で束になった筋が、ちぎれんばかりに膨らみ、血管が浮き上がっている。
(鬼の動きが……見える。いや、違う。止まっているように見えるけど、ちゃんと、少しずつ進んでいる。俺の感覚だけ、バグってるのか?)
混乱で頭が真っ白になりかけた、その時。
頭の奥に、直接、甲高い声が響く。
『きゃあああ!? じゃなくて! あれ!? 聞こえる!? 定次郎! 私の声、聞こえるの!?』
(うおっ!?)
定次郎は思わず口を開きかけるが、かろうじて踏みとどまる。
(……灯羽!? 今の、お前の声か!? なんだこれ! 頭の中に直接来ているぞ!)
『来てるわね! すごい! なにこれ! 私の血鬼術、普通は他人にかけても「思考」までは届かないのに! あなたとは、何か、とてつもなく相性が良いみたいだわ!』
(相性って、そんなお手軽に言うなよ……!)
ツッコミたい気持ちは山ほどあるが、それ以上に、この状況そのものがヤバすぎる。
雑魚鬼の爪は、今も灯羽めがけて振り下ろされ続けている。ただし、カメラのシャッターを限界まで遅くしたときみたいな速度で。
その爪先が、灯羽の髪に触れるまで、あとほんの少し。
現実の時間では、一瞬のことだろう。
でも今は——。
『あ、でも、止まっているように見えても、あれ、私たちの千分の一の速度で動いているわ! 早くしないと!』
(千分の一……?)
定次郎は、ゆっくりと自分の右手を持ち上げる。
信じられないくらい、素直に、手が上がる。いつもみたいに、謎のタイミングで震えたり、変な方向に曲がったりしない。
指を一本一本、折り曲げてみる。
第二関節、第三関節の角度が、意識した通りに決まる。
手首の角度も、ぴたりと自分の「イメージ」と一致している。
(……嘘だろ。いつもは、ちょっとでも急いで動こうとした瞬間に、コマンドがバグって、とんでもない方向にいくのに)
肺の奥まで、冷たい空気が入り込む。
心臓の鼓動が、ゆっくりと鳴っている。
世界の速度だけが、極端に落ちているのではない。
自分の処理速度が、異常に上がっているのだ。
(そうか……。時間が、千倍だ)
定次郎の口元に、じわりと笑みが浮かぶ。
(いつもは「〇・一秒」でやろうとして、演算エラーを起こしていた『筋肉への命令』を、この世界なら、千倍の「十秒」かけて入力できる。いや、「二十八秒」の居合だって、現実では〇・〇二八秒。ここでは二十八秒かけて丁寧に打ち込める)
『定次郎! ボサッとしないで! あの爪、あと「五分」で私に届く! こっちの感覚でね!』
(五分、ね)
定次郎は、止まった世界を見回す。
雑魚鬼の涎の粒が、空中で軌跡を描きながら落ちている。
その一つ一つに、自分の姿が歪んで映っているのがわかる。
灯羽は、いつもの通り、豪快にすっ転んでいる途中だ。口をぱくりと開けたまま、情けない顔で地面に向かっている。
(五分もあるのかよ……充分すぎるだろ)
定次郎は、ゆっくりと歩く。
信じられないほど、普通に歩ける。
足首は、自分の思った通りの角度で、地面を捉える。
つま先と踵の重心移動も、計算通りだ。
何より、体幹がブレない。
いつもは勝手に左や右へふらつく身体が、今は「指定された通りの姿勢」を保ち続けている。
(これが……俺の、フルスペック……)
胸の内側が、熱くなってくる。
今までずっと、紙の上だけでしか動かせなかった最高スペックのマシンを、やっと電源オンしてもらった感じだ。
定次郎は、雑魚鬼の真ん前まで歩み出る。
鬼は、ゆっくりとした残像の塊となって、灯羽の方に爪を伸ばし続けている。
正面から見ても、まったく怖くない。
むしろ、どこをどう斬れば効率的に首を落とせるか、冷静に分析する余裕さえある。
「……いくぞ、灯羽」
定次郎は、腰に差した日輪刀の柄に、そっと指をかける。
この一年半で、兆の単位で繰り返してきた「居合(にわか自作版)」が、脳内で自動再生され始める。
いや、「自動」ではない。
右腕の上腕二頭筋、収縮。
三角筋前部、固定。
前腕屈筋群、角度調整。
右手首、四十五度でロック。
左脚、踏み込みに備えて大腿四頭筋に徐々に力を溜める。
腹斜筋、体幹のねじりを受け止めるために、二十パーセント出力でスタンバイ。
脊柱起立筋、背骨をまっすぐ保つ。
全集中の呼吸でかき集めた酸素が、血と一緒に全身を駆け巡り、それぞれの筋肉に、均等な配分で行き渡る。
(……そうだ。これだ。これが、俺の「任意操作(マニュアル)」の完成形だ)
柄にかかる指の力を、一本ずつ微調整する。
親指は十パーセント、中指は十五パーセント、人差し指は二十パーセント。
手のひらの中で、刀は、人間工学的に言うところの「最適な位置」に収まる。
何度も、何度も、計算し直してきた、理想的な握りだ。
『定次郎……』
灯羽の声が、頭の中で震える。
恐怖と興奮と、そして、どこか嬉しそうな色が混じった声だ。
『行ける? 本当に、行ける?』
「行けるさ」
定次郎は、静かに笑う。
自分の身体が、今だけは、絶対に裏切らないと確信できる。
(右腕、四十五度。肘の角度、六十度から四十五度へ。抜刀と同時に腰を切る。上半身と下半身の回転軸をずらし、刀の軌道に合わせて骨格ラインを最適化——)
刀が、抜ける。
金属音は、ほとんど聞こえない。
千倍に薄められた音は、ただ、空気の震えとして、指先で感じるだけだ。
抜きつけと同時に、踏み込む。
右足の筋肉が、一斉に爆発する。
だが、その爆発は「制御された爆発」だ。
一歩の長さ、角度、重心の位置。
その全てが、「設計図通り」に決まる。
(今だ)
定次郎の世界では二十八秒。
現実の世界では、〇・〇二八秒。
その一瞬に、込められる限りの「計算」と「集中」が叩き込まれる。
刃は、雑魚鬼の首の付け根に、最も負荷がかかるであろうラインを正確にトレースしながら走る。
筋肉の繊維を縫うように進み、頸椎の隙間を狙い澄ます。
ただ「斬る」のではない。
物理的に、最も効率よく「切断」できる角度と速度で、刃を通す。
定次郎の脳内では、「斬撃」の軌跡が三次元グラフで可視化され、そのグラフ通りに骨格と筋肉が動いている。
刀が、空気を切り裂く。
鬼の皮膚を切り裂く感触が、柄を通じて掌に伝わる。
続けて、筋肉、骨、軟骨が、抵抗を示し、次の瞬間、一気に崩れる。
感触は、意外なほど軽い。
これが、「ちゃんと斬れている」感覚だ。
(……終わりだ)
定次郎は、納刀の動きに移る。
刀身を返し、鯉口を探る。
千倍の時間の中では、焦る理由がない。
視線と指の感覚で、鞘の位置を正確に捉える。
刃は、ほとんど音も立てずに鞘の中へ戻っていく。
最後に、切羽が鯉口に軽く当たり、「カチリ」と小さな衝撃を起こす。
それが、定次郎にとっての「完了の合図」だ。
「——灯羽。血鬼術を、解除しろ」
『……了解!』
灯羽の返事と同時に、世界が再び、元の速度を取り戻す。
爆発するような音の奔流が、耳に雪崩れ込む。
ガシャアアアアアアッ!!!
雑魚鬼の首が、時間差で宙に舞い上がる。
目を見開いたままの顔が、何が起きたのか理解できないという表情で空中を回転し、地面に転がる。
巨大な身体は、その場に膝をつき、遅れて崩れ落ちる。
断面から黒い血が噴き出し、土を汚していく。
「……え?」
灯羽の口から、間抜けな声が漏れる。
さっきまで殺されかけていた本人は、まだ地面に倒れかけた姿勢のまま固まっている。
定次郎は、刀を納めた姿勢で静止している。
ほんの、〇・〇二八秒前まで、そこには、雑魚鬼がいた。
だが今は、もういない。
残っているのは、首と身体が別々になり、塵になりかけている「元・鬼」だけだ。
「…………やった、のか?」
定次郎が、ぽつりと呟く。
言葉にした瞬間、実感が一気に押し寄せてくる。
目の前で、鬼が消えていく。
自分の手で、初めて「まともに」何かを斬った。
しかも、それが、鬼だ。
「…………やった、のね?」
灯羽も、ようやく状況を飲み込み始める。
目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。
恐怖の涙ではない。
悔しさの涙でもない。
限界まで追い詰められ続けてきた「どうしようもない自分」が、初めて世界に一矢報いた、その瞬間の涙だ。
「やったあああああああああ!!!!」
「やったあああああああああ!!!!」
二人は、同時に叫ぶ。
灯羽は、勢いよく立ち上がろうとして、いつものように足をもつれさせる。
定次郎は、勢いよく走り寄ろうとして、やっぱりいつものように足を滑らせる。
その結果。
ズッデェェェェン!!!
見事に、正面衝突した。
灯羽は後ろにひっくり返り、その上に、定次郎が華麗に(?)ダイブする形になる。
「ぐふっ!」
「いひっ!」
どっちの悲鳴か、判別がつかない。
しかし、二人とも痛い。
膝と肘と額と、よくわからないところを同時にぶつけ合って、変な涙が出る。
それでも——。
「は、ハハ……!」
定次郎は、灯羽の上に乗ったまま、笑いが止まらなくなる。
溢れ出した笑いが、喉を震わせる。
痛みも、疲労も、全部まとめて笑い飛ばしたくなる。
「な、なんで笑ってるのよ、定次郎……痛い……!」
「だってよ……! 俺たちの『OS』……普段は、こんなにバグってるのにな……」
さっきまでの「神速」とは正反対の、くそダサい転倒劇。
そのギャップが、余計におかしい。
「でも、最強だろ……? 今の、見たかよ……?」
「見たわよ! ちゃんと見えていたわよ! 私の視界の中で、あなたの動きだけ、ちゃんと『線』になっていたもの……!」
灯羽も、笑いながら涙を拭う。
感情が一気に溢れ出して、顔の筋肉が忙しい。
「ふふ……ふふふ……! でも、最強よ! 私たち、最強よ、定次郎!」
「おうともさ!」
定次郎は、灯羽を見下ろす。
泥だらけの顔。
涙と鼻血と、さっきぶつけた額の赤みで、ひどい有様だ。
それでも、その目は、世界で一番格好良く見える。
「——ああ、クソ。言っちまうか」
「え?」
灯羽が、きょとんと目を丸くする。
定次郎は、ニカッと笑う。
さっき鬼の首を飛ばしたときより、よほど勇気のいる一撃を放つ覚悟だ。
「愛してるぜ、灯羽。お前、俺の『OS』だ」
「っ……!」
灯羽の顔が、瞬時に真っ赤になる。
さっきまでの血の気の引き方とは逆方向に、一気に血が上がる。
耳まで赤い。首まで赤い。
鬼だからか、血色がとんでもなく良い。
「わ、わ、わたしも……!」
灯羽は、もぞもぞと定次郎の胸ぐらを掴む。
いつものドジとは違い、この手だけは、しっかりと定次郎を捉えている。
「愛してるわ、定次郎! 私の『最強の身体(からだ)』!」
言った本人が、一番びっくりしているような声だ。
だが、言ってしまったものは、戻せない。
二人は、泥の上で、ぐちゃぐちゃのまま見つめ合う。
胸の奥が、恥ずかしさと嬉しさで爆発しそうだ。
けれど、それ以上に——。
(……やっと、世界と、まともに殴り合える武器を手に入れる)
定次郎は、灯羽の顔を見ながら、心の中で呟く。
今まで、自分の身体に裏切られ続けてきた。
どれだけ鍛えても、どれだけ努力しても、「OS」がバグっていて、まともな結果が出ない。
そんな自分に、やっと「正常な動作」を与えてくれる存在。
それが、この、世界一クソザコな鬼——灯羽だ。
——数分後。
二人はようやく、イチャイチャとも、もがき合いともつかないもみ合いから離脱する。
定次郎は、服についた泥や草を適当に払う。
灯羽も、スカートについた土をパタパタと払う。
どこからどう見ても、「戦いを終えた二人」ではなく、「盛大に転んだカップル」だ。
「……さて。とりあえず、この場は離れるか」
定次郎は真顔に戻る。
笑いの余韻は残っているが、頭は冷静だ。
「そうね。さっきの鬼はどうでもいいけど……」
「ああ。問題は、俺たちだ」
二人の視線が合う。
「俺(人間)が、お前(鬼)と、こんなふうに——」
「『イチャイチャしてた』ところを——」
二人は、同時に、別の方向を想像して、同じ結論に辿り着く。
「鬼殺隊に見られたら、面倒ごとになる」
「他の鬼に見られたら、普通に殺される」
完全に意見が一致した。
世界は、二人がどれだけ頑張っても、簡単には認めてくれない。
鬼と人間が肩を並べて歩くことを、良しとしない。
それくらい、定次郎にはわかる。
前世も含めて、そういう「空気」を読むことだけは、得意だ。
「まずは、ここを離れる。灯羽、立てるか?」
「立てるわ。転ぶけど」
「転る前提で言うな」
定次郎は、灯羽に手を差し出す。
灯羽は、一瞬だけ迷ったように、その手を見つめる。
そして、覚悟を決めたように、指を絡める。
今度は、きちんとバランスを取りながら、ゆっくりと立ち上がる。
「とりあえず、あのクソ親友(ともだち)から——」
「逃げるのよね?」
「いや、一応合流はするぞ!? あいつ、俺のことになるとすぐ泣くからな! 今の状態で見つかったら、マジで藤襲山が洪水になる!」
行冥が、この光景を見たらどうなるか。
定次郎は、想像しただけで頭が痛くなる。
鬼と仲良く手を繋いで歩いている自分。
背後には、今しがた斬り捨てた鬼の残骸。
その構図だけを見たら、「裏切り」と判断されても文句は言えない。
「でも、行冥には、ちゃんと説明する。あいつは……ああ見えて、話は通じる」
「いい人すぎて、俺の人生を何度もバグらせている張本人だけどな」
それでも、定次郎は笑う。
灯羽と手を繋いだまま、藤襲山の奥へ向かって歩き出す。
さっきみたいに転ばないように、一歩一歩、慎重に。
灯羽も、それに合わせて、歩幅を合わせる。
時々、足元の小石につまづきかけるが、そのたびに定次郎が支える。
そのたびに、灯羽が「きゃっ」と情けない声を出す。
「なあ、灯羽」
「なに?」
「お前が『OS』なら、俺はちゃんと、お前のコマンドどおりに動く。——まあ、千倍速モード限定だけどな」
「ふふっ。じゃあ、私は、あなたのために、一生、頭を使うわ。あなたの身体を、一番かっこよく動かせる方法を考える」
「頼もしいな、俺のOS」
「任せて、私の最強の身体」
二人は笑う。
鬼と人間。
才能ゼロの肉体と、才能だけは最強クラスのクソザコボディ。
世界一バグの多いコンビは、藤襲山の夜道を、ゆっくりと——しかし、確かな足取りで進んでいく。
その先に、どれだけ理不尽な運命が待っていようと。
少なくとも今は、「最強だった」一太刀の余韻だけが、二人の背中を押している。