伊角慎一郎は、帰りの電車の中で棋譜を広げる癖がある。
鞄の中には常に数枚の棋譜用紙が入っていて、空いた席を見つけると膝の上にそれを広げ、ペンで変化を書き込み始める。車内でそんなことをしている人間はまずいないから、隣の乗客に不審な目で見られることもあるが、気にならない。集中すると周りが消えるのは、碁を打っている時と同じだ。
今日の研究会で並べた韓国の棋譜に、伊角はまだ引っかかっていた。
中盤の折衝で、黒が選んだ手順。あの場面で他の選択肢があったはずだ。和谷は「ここはこれしかない」と断じたし、越智も同意した。だが伊角の中には、まだ消化しきれないものが残っている。理屈の上では四人の結論が正しい。正しいのだが、盤面を眺めていると、もう一本、別の道が見えるような気がする。視界の端にちらつく影のようなもので、掴もうとすると消えてしまう。
中国にいた頃、楊海さんに言われたことを思い出す。
——碁は計算だけじゃない。計算の外にあるものを掴むには、膨大な実戦経験がいる。お前にはそれがある。自信を持て。
あの言葉を、伊角はまだ信じ切れていなかった。自分が掴んでいるものが「実力」なのか「思い込み」なのか、区別がつかないからだ。自信を持て、と言われて持てるなら苦労はしない。伊角はいつだって自分の感覚を疑う側の人間だった。プロ試験であの反則をやらかして以来、自分の判断を最後の最後で信じ切れない弱さが、骨の中に残っている。
電車が駅に着いた。伊角は棋譜をたたみ、鞄に戻して降りた。
十一月の夜風が頬を刺す。
駅前のコンビニに寄って弁当を買い、アパートに戻った。二十一歳の一人暮らし。部屋は六畳半のワンルームで、和谷の部屋よりわずかに広い。碁盤を一面置くと、あとは布団とちゃぶ台と本棚でほぼ埋まる。本棚には碁の本と、中国語の文法書と、使い込まれた中日辞典が並んでいた。
〇
翌日。
棋院で越智康介と顔を合わせたのは、偶然だった。
伊角は午前の手合を終えて一階に降りてきたところで、越智は午後の手合の前に棋譜資料室で調べ物をしていたらしい。資料室の前の廊下で、二人は鉢合わせた。
「あ、越智」
「……伊角さん」
越智は眼鏡の位置を直しながら、軽く会釈した。背は伊角よりまだ低い。十六歳。同じプロ棋士と言っても、見た目には高校生と大学生くらいの開きがある。だが盤を挟むと年齢の差は消える。越智の読みの速さは研究会でも群を抜いており、詰碁の処理能力に至っては全員を上回る。
「今日の手合、誰?」
「岡田七段です」
「ベテランだな。気をつけろよ、ヨセが粘っこい人だから」
「データは取ってあります」
越智はそう言って、手に持っていたノートをちらりと見せた。ルーズリーフに、対戦相手の直近二十局の傾向が箇条書きでまとめられている。序盤の好む型、中盤の癖、ヨセの精度。数字と記号で埋め尽くされた紙面は、碁の検討というよりも企業の市場分析に近い体裁だった。
伊角はそれを見て、少しだけ眉を上げた。
「……すごいな。いつもこれ作ってるのか」
「対局前は必ず。相手の弱点を知らずに座るのは、地図なしで山に入るようなものですから」
越智の言い方には棘があった。棘というよりは、質問を受けつけない硬さ、と言った方が正確かもしれない。これが自分のやり方だ、口を出すな、と壁を立てているような声だった。
伊角は何も言わずに頷いた。越智のやり方を否定する気はなかった。情報を集め、分析し、最適な戦略を立てて対局に臨む。それ自体は正しい。現代の棋士に求められる姿勢だ。
ただ——。
伊角は、棋譜資料室のドアが閉まるのを眺めながら、小さな違和感を飲み込んだ。
〇
その違和感に形が与えられたのは、次の研究会の日だった。
和谷のアパート。いつもの五人。
この日の検討は、先月行われた国際棋戦の決勝の棋譜だった。韓国のトップ同士の一局で、中盤に信じ難い勝負手がある。常識的には無理筋に見える切り込みが、数十手後に鮮やかな逆転を生んでいた。
「この四十二手目のツケ。こんなところに打つか、普通」
和谷が首を振った。碁盤の上で、黒石が白の厚みに真正面から飛び込んでいる。形は悪い。効率も悪い。だが、この石があるからこそ、六十手目以降の白の崩壊が成立している。
「計算上は成立しません」
越智が言った。腕を組み、盤面を冷たい目で見つめている。
「この時点で白の地合いは十目以上リード。黒がここに打っても、白が正しく受ければ差は縮まらない。つまりこの手は、相手がミスをすることを前提にしている。そんな手を打つのは博打です」
越智の分析は明快だった。数字に裏打ちされた、反論の余地のない論理。和谷も本田も、一瞬言葉に詰まった。事実、越智の言う通りなのだ。局面だけを切り取れば、この手は「悪手」と評価されてもおかしくない。
だが——この碁は黒が勝っている。
伊角は、自分の膝の上で指先を組んだ。言うべきか、黙るべきか。少し迷ってから、口を開いた。
「越智の言うことは正しいと思う。計算上は正しい。でも、碁は計算だけで動くものじゃない」
越智の眉が動いた。眼鏡の奥の目が、すっと細くなった。
「……感覚論ですか」
その一言に、明確な軽蔑が込められていた。感覚論。根拠のない直感。数字で証明できない曖昧なもの。越智にとって、それは碁の検討において最も忌むべきものだった。
伊角は動じなかった。声の調子を変えずに続けた。
「感覚論じゃない。この手は、相手に『正しく受ける』ことを強要している。正しい手は一つしかなくて、それ以外を選んだ瞬間に崩壊する。つまり、相手の選択肢を極端に狭めている。碁盤の上で相手を追い詰めるのは、地を囲うことだけじゃない。相手の心理を圧迫することでもある」
越智は黙った。黙ったまま、盤面を見つめている。反論を組み立てているのか、それとも伊角の言葉を検証しているのか、表情からは読めなかった。
「相手の心理って言うけどさ、伊角さん」
和谷が割って入った。
「それ、数字にできないだろ。再現性がない。相手が動揺するかどうかなんて、打ってみないとわからないじゃん」
和谷の指摘はもっともだった。伊角の言っていることは、証明できない領域の話だ。「心理的圧迫」が実際に相手のミスを誘ったのか、それとも単に相手が自力でミスをしたのか、棋譜からは区別がつかない。
「たしかに、証明はできない。でも、実戦では確かにそういうことが起きる。碁盤の上には数字だけじゃなくて、打っている人間がいるんだ。人間は間違える。正しい手がわかっていても、圧力の中では選べなくなる。僕は中国で、それを嫌というほど見てきた」
中国、という言葉が出た瞬間、空気が変わった。
伊角の中国留学は、この研究会の全員が知っている。だが、その経験の中身について伊角が詳しく語ることは滅多にない。何を見てきたのか、何を学んだのか。断片的に聞くことはあっても、全体像は掴めない。伊角自身が語りたがらないのだ。
越智が口を開いた。
「……伊角さん。一つ聞いていいですか」
「何だ」
「中国で強くなったんですか。感覚が鋭くなったとか、読みが深くなったとか」
伊角は少し考えた。越智が挑発しているのではないことは、声でわかった。純粋な疑問だった。データで碁を組み立てる人間が、データの外にある「何か」の正体を知りたがっている。
「……強くなったかはわからない。ただ、脆くなくなった」
「脆く?」
「昔の僕は、計算が合っている限りは強いけれど、計算の外に出ると崩れた。プロ試験の時がまさにそうだった。読みの通りに進んでいるうちは平気なのに、想定外のことが起きると頭が真っ白になる。中国では、それが毎日起きた。想定外の連続だった。言葉も通じない、碁の常識も違う。そういう場所で打ち続けたことで、計算が壊れた時に踏みとどまる力がついた。それが感覚なのかどうかは、僕にもわからないけど」
越智は黙って聞いていた。何かを書き留めるでもなく、反論するでもなく、ただ伊角の言葉を受け止めている。その表情は、碁盤に向かっている時と同じだった。情報を処理し、整理し、自分のデータベースに格納しようとしている。
ヒカルが、ずっと黙って二人のやりとりを聞いていた。ポテトチップスの袋を膝に置いたまま、交互に伊角と越智を見ている。口は挟まなかった。こういう時のヒカルは、自分の意見を言わずに聞く側に回ることが多い。碁の検討では遠慮なく結論を出すくせに、人間同士のぶつかり合いには一歩引く。それが気遣いなのか無関心なのかは、伊角にもわからなかった。
〇
研究会が終わり、全員が帰った後。
伊角は和谷のアパートの前で、越智と二人きりになった。偶然ではない。伊角が越智の帰り際に「少しいいか」と声をかけたのだ。
アパートの階段の下。街灯の薄い光が二人を照らしている。十一月の夜気は冷たく、越智がマフラーの中に顎を埋めた。
「さっきの話だけど」
伊角が切り出した。
「越智のやり方を否定したかったわけじゃない。データを集めて分析するのは大事なことだ。僕もやっている。ただ、それだけでは足りない場面がある、と言いたかっただけだ」
越智はしばらく黙っていた。息が白い。マフラーの上から、眼鏡の奥の目だけがこちらを見ている。
「……わかっています」
予想外に素直な言葉だった。伊角は少し驚いた。越智がこんなふうに認めるのは珍しい。
「データで勝てるなら、僕はとっくに進藤に勝っています。進藤の碁は分析すればするほどわからなくなる。あの人の手には、僕のデータベースに当てはまらない何かがある。それが何なのかを知りたくて、この研究会に来ているんです」
越智の声は平坦だった。だが、その平坦さの下に、静かな焦りが透けていた。伊角にはそれが見えた。
越智康介は、天才ではない。自分と同じだ。持って生まれた碁の才能は「中の上」で、進藤や塔矢のような突然変異的な閃きは持っていない。だからこそ、データという武器に磨きをかけてきた。データがあれば、才能の差を多少なりとも埋められる。少なくとも、自分の土俵で戦える。
だが、進藤ヒカルという存在は、その土俵ごとひっくり返してしまう。データの外から来る一手。分析の枠に収まらない碁。越智にとってそれは、自分の武器が無効化される恐怖と同義だった。
「越智」
「はい」
「データも感覚も、どっちかだけじゃ足りないんだよ。僕にはデータの緻密さが足りないし、越智には実戦の泥臭さが足りない。だから一緒にやる意味がある」
越智は眼鏡を押し上げた。街灯の光がレンズに反射して、一瞬、表情が見えなくなった。
「……僕に泥臭さが足りないというのは、心外ですね」
声には棘があったが、口元がわずかに動いた。笑おうとして、やめた痕跡だった。
伊角も笑いそうになるのを堪えた。越智が冗談めいたことを言うのは珍しい。たぶん、彼なりの「休戦」の合図なのだろう。
「来週の研究会、何を並べる?」
越智が聞いた。話題を変えるのが巧い。検討が終わったら、次の検討の話に移る。感情を長引かせず、常に次の手を考える。それも、越智の強さの一つだった。
「中国甲級リーグの最新局がいくつか手に入った。和谷に渡してある」
「わかりました。予習しておきます」
越智は一礼して踵を返した。マフラーに顎を埋めたまま、暗い住宅街の道を歩いていく。その背中は小柄で、まだどこか少年の輪郭を残している。
伊角はしばらくその背中を見送っていた。
〇
帰りの電車の中で、伊角はまた棋譜を広げた。
今日の研究会で検討した韓国の一局。問題の四十二手目。黒が白の厚みに飛び込んだ、あの手だ。
越智は「博打だ」と言った。和谷は「再現性がない」と言った。どちらも正しい。
だが、伊角の目にはもう一つの側面が見えていた。
この黒を打った棋士は、白のことをよく知っている。棋譜を研究し、癖を分析し——つまり越智と同じことをやった上で、そのデータを「心理的な罠」に変換している。データは武器だ。だがデータの使い方は一つではない。計算で勝つのもデータの使い方だが、計算の外に相手を追い出すのもデータの使い方だ。
越智のデータ主義は正しい。だが、その先がある。データを集めた上で、データの外で戦う。それが、伊角が中国で学んだことの核心だった。うまく言葉にできなくて、今日の研究会ではもどかしい思いをした。碁盤の前なら石で語れるのに、言葉で伝えようとすると、どうしても曖昧になる。
ペンを走らせた。棋譜用紙の余白に、変化図を書き込む。越智の読み筋と、自分の読み筋を並べて比較する。重なる部分と、ずれる部分がある。そのずれの中に、今日の議論の答えがあるはずだ。
伊角は石橋を叩いて渡る人間だった。昔からそうだ。自分の感覚を信じ切れず、何度も確認し、それでも不安が消えない。慎重すぎると言われたことは一度や二度ではない。
だが、その慎重さがあるからこそ、他人の碁を丁寧に読める。和谷の碁の穴も、越智の碁の偏りも、進藤の碁の異質さも、伊角は盤面を通して静かに感じ取ることができる。自分自身が不安定だからこそ、他人の揺れが見える。
それが強さなのかどうかは、まだわからない。
でも、少なくとも研究会にとっては意味がある。和谷が場を仕切り、越智がデータを提供し、進藤が答えを見せる。その間に立って、議論を翻訳し、一つの検討を組み上げていく役割。目立たないが、誰かがやらなければ回らない仕事だ。
電車が最寄り駅に着いた。伊角は棋譜をたたみ、鞄に戻した。
改札を出ると、空気が冷たかった。コンビニで温かい缶コーヒーを買い、手に持って歩いた。アルミの缶の熱が、指先からゆっくりと身体に伝わっていく。
アパートに帰ったら碁盤を出して、今日の続きをやろう。越智のデータと自分の感覚の、どちらが正しいかを確かめるのではない。二つを繋ぐ道を探す。その道がどこに通じているかはわからないけれど、一人で探すよりは五人で探した方が、たぶん早く見つかる。
伊角は缶コーヒーを一口飲んだ。苦くて、温かかった。
明日は手合がある。相手は格上の六段。データを集める余裕はなかったが、先月の同じ相手との碁で、中盤に嫌な癖があることは覚えている。そこを突けば、勝機はある。数字ではなく、盤上で何度も見た相手の「呼吸の乱れ」を、自分の感覚が記憶している。
越智に言ったら鼻で笑われるかもしれない。それは感覚論だ、と。
でも構わない。笑われたら、次の研究会で盤上で証明すればいい。それが碁打ちの喧嘩の仕方だ。
伊角は、まっすぐに歩いた。石橋を叩く必要のない、見慣れた帰り道を。