シン・ヒカルの碁『声が聴こえる』   作:懸想

6 / 6
第6話 石橋を叩いて渡る男

伊角慎一郎は、帰りの電車の中で棋譜を広げる癖がある。

鞄の中には常に数枚の棋譜用紙が入っていて、空いた席を見つけると膝の上にそれを広げ、ペンで変化を書き込み始める。車内でそんなことをしている人間はまずいないから、隣の乗客に不審な目で見られることもあるが、気にならない。集中すると周りが消えるのは、碁を打っている時と同じだ。

今日の研究会で並べた韓国の棋譜に、伊角はまだ引っかかっていた。

中盤の折衝で、黒が選んだ手順。あの場面で他の選択肢があったはずだ。和谷は「ここはこれしかない」と断じたし、越智も同意した。だが伊角の中には、まだ消化しきれないものが残っている。理屈の上では四人の結論が正しい。正しいのだが、盤面を眺めていると、もう一本、別の道が見えるような気がする。視界の端にちらつく影のようなもので、掴もうとすると消えてしまう。

中国にいた頃、楊海さんに言われたことを思い出す。

——碁は計算だけじゃない。計算の外にあるものを掴むには、膨大な実戦経験がいる。お前にはそれがある。自信を持て。

あの言葉を、伊角はまだ信じ切れていなかった。自分が掴んでいるものが「実力」なのか「思い込み」なのか、区別がつかないからだ。自信を持て、と言われて持てるなら苦労はしない。伊角はいつだって自分の感覚を疑う側の人間だった。プロ試験であの反則をやらかして以来、自分の判断を最後の最後で信じ切れない弱さが、骨の中に残っている。

 

電車が駅に着いた。伊角は棋譜をたたみ、鞄に戻して降りた。

十一月の夜風が頬を刺す。

駅前のコンビニに寄って弁当を買い、アパートに戻った。二十一歳の一人暮らし。部屋は六畳半のワンルームで、和谷の部屋よりわずかに広い。碁盤を一面置くと、あとは布団とちゃぶ台と本棚でほぼ埋まる。本棚には碁の本と、中国語の文法書と、使い込まれた中日辞典が並んでいた。

 

 

翌日。

棋院で越智康介と顔を合わせたのは、偶然だった。

伊角は午前の手合を終えて一階に降りてきたところで、越智は午後の手合の前に棋譜資料室で調べ物をしていたらしい。資料室の前の廊下で、二人は鉢合わせた。

 

「あ、越智」

「……伊角さん」

 

越智は眼鏡の位置を直しながら、軽く会釈した。背は伊角よりまだ低い。十六歳。同じプロ棋士と言っても、見た目には高校生と大学生くらいの開きがある。だが盤を挟むと年齢の差は消える。越智の読みの速さは研究会でも群を抜いており、詰碁の処理能力に至っては全員を上回る。

 

「今日の手合、誰?」

「岡田七段です」

「ベテランだな。気をつけろよ、ヨセが粘っこい人だから」

「データは取ってあります」

 

越智はそう言って、手に持っていたノートをちらりと見せた。ルーズリーフに、対戦相手の直近二十局の傾向が箇条書きでまとめられている。序盤の好む型、中盤の癖、ヨセの精度。数字と記号で埋め尽くされた紙面は、碁の検討というよりも企業の市場分析に近い体裁だった。

伊角はそれを見て、少しだけ眉を上げた。

 

「……すごいな。いつもこれ作ってるのか」

「対局前は必ず。相手の弱点を知らずに座るのは、地図なしで山に入るようなものですから」

 

越智の言い方には棘があった。棘というよりは、質問を受けつけない硬さ、と言った方が正確かもしれない。これが自分のやり方だ、口を出すな、と壁を立てているような声だった。

伊角は何も言わずに頷いた。越智のやり方を否定する気はなかった。情報を集め、分析し、最適な戦略を立てて対局に臨む。それ自体は正しい。現代の棋士に求められる姿勢だ。

ただ——。

伊角は、棋譜資料室のドアが閉まるのを眺めながら、小さな違和感を飲み込んだ。

 

 

その違和感に形が与えられたのは、次の研究会の日だった。

和谷のアパート。いつもの五人。

この日の検討は、先月行われた国際棋戦の決勝の棋譜だった。韓国のトップ同士の一局で、中盤に信じ難い勝負手がある。常識的には無理筋に見える切り込みが、数十手後に鮮やかな逆転を生んでいた。

 

「この四十二手目のツケ。こんなところに打つか、普通」

 

和谷が首を振った。碁盤の上で、黒石が白の厚みに真正面から飛び込んでいる。形は悪い。効率も悪い。だが、この石があるからこそ、六十手目以降の白の崩壊が成立している。

 

「計算上は成立しません」

 

越智が言った。腕を組み、盤面を冷たい目で見つめている。

 

「この時点で白の地合いは十目以上リード。黒がここに打っても、白が正しく受ければ差は縮まらない。つまりこの手は、相手がミスをすることを前提にしている。そんな手を打つのは博打です」

 

越智の分析は明快だった。数字に裏打ちされた、反論の余地のない論理。和谷も本田も、一瞬言葉に詰まった。事実、越智の言う通りなのだ。局面だけを切り取れば、この手は「悪手」と評価されてもおかしくない。

だが——この碁は黒が勝っている。

伊角は、自分の膝の上で指先を組んだ。言うべきか、黙るべきか。少し迷ってから、口を開いた。

 

「越智の言うことは正しいと思う。計算上は正しい。でも、碁は計算だけで動くものじゃない」

 

越智の眉が動いた。眼鏡の奥の目が、すっと細くなった。

 

「……感覚論ですか」

 

その一言に、明確な軽蔑が込められていた。感覚論。根拠のない直感。数字で証明できない曖昧なもの。越智にとって、それは碁の検討において最も忌むべきものだった。

伊角は動じなかった。声の調子を変えずに続けた。

 

「感覚論じゃない。この手は、相手に『正しく受ける』ことを強要している。正しい手は一つしかなくて、それ以外を選んだ瞬間に崩壊する。つまり、相手の選択肢を極端に狭めている。碁盤の上で相手を追い詰めるのは、地を囲うことだけじゃない。相手の心理を圧迫することでもある」

 

越智は黙った。黙ったまま、盤面を見つめている。反論を組み立てているのか、それとも伊角の言葉を検証しているのか、表情からは読めなかった。

 

「相手の心理って言うけどさ、伊角さん」

 

和谷が割って入った。

 

「それ、数字にできないだろ。再現性がない。相手が動揺するかどうかなんて、打ってみないとわからないじゃん」

 

和谷の指摘はもっともだった。伊角の言っていることは、証明できない領域の話だ。「心理的圧迫」が実際に相手のミスを誘ったのか、それとも単に相手が自力でミスをしたのか、棋譜からは区別がつかない。

 

「たしかに、証明はできない。でも、実戦では確かにそういうことが起きる。碁盤の上には数字だけじゃなくて、打っている人間がいるんだ。人間は間違える。正しい手がわかっていても、圧力の中では選べなくなる。僕は中国で、それを嫌というほど見てきた」

 

中国、という言葉が出た瞬間、空気が変わった。

伊角の中国留学は、この研究会の全員が知っている。だが、その経験の中身について伊角が詳しく語ることは滅多にない。何を見てきたのか、何を学んだのか。断片的に聞くことはあっても、全体像は掴めない。伊角自身が語りたがらないのだ。

越智が口を開いた。

 

「……伊角さん。一つ聞いていいですか」

「何だ」

「中国で強くなったんですか。感覚が鋭くなったとか、読みが深くなったとか」

 

伊角は少し考えた。越智が挑発しているのではないことは、声でわかった。純粋な疑問だった。データで碁を組み立てる人間が、データの外にある「何か」の正体を知りたがっている。

 

「……強くなったかはわからない。ただ、脆くなくなった」

「脆く?」

「昔の僕は、計算が合っている限りは強いけれど、計算の外に出ると崩れた。プロ試験の時がまさにそうだった。読みの通りに進んでいるうちは平気なのに、想定外のことが起きると頭が真っ白になる。中国では、それが毎日起きた。想定外の連続だった。言葉も通じない、碁の常識も違う。そういう場所で打ち続けたことで、計算が壊れた時に踏みとどまる力がついた。それが感覚なのかどうかは、僕にもわからないけど」

 

越智は黙って聞いていた。何かを書き留めるでもなく、反論するでもなく、ただ伊角の言葉を受け止めている。その表情は、碁盤に向かっている時と同じだった。情報を処理し、整理し、自分のデータベースに格納しようとしている。

ヒカルが、ずっと黙って二人のやりとりを聞いていた。ポテトチップスの袋を膝に置いたまま、交互に伊角と越智を見ている。口は挟まなかった。こういう時のヒカルは、自分の意見を言わずに聞く側に回ることが多い。碁の検討では遠慮なく結論を出すくせに、人間同士のぶつかり合いには一歩引く。それが気遣いなのか無関心なのかは、伊角にもわからなかった。

 

 

研究会が終わり、全員が帰った後。

伊角は和谷のアパートの前で、越智と二人きりになった。偶然ではない。伊角が越智の帰り際に「少しいいか」と声をかけたのだ。

アパートの階段の下。街灯の薄い光が二人を照らしている。十一月の夜気は冷たく、越智がマフラーの中に顎を埋めた。

 

「さっきの話だけど」

 

伊角が切り出した。

 

「越智のやり方を否定したかったわけじゃない。データを集めて分析するのは大事なことだ。僕もやっている。ただ、それだけでは足りない場面がある、と言いたかっただけだ」

 

越智はしばらく黙っていた。息が白い。マフラーの上から、眼鏡の奥の目だけがこちらを見ている。

 

「……わかっています」

 

予想外に素直な言葉だった。伊角は少し驚いた。越智がこんなふうに認めるのは珍しい。

 

「データで勝てるなら、僕はとっくに進藤に勝っています。進藤の碁は分析すればするほどわからなくなる。あの人の手には、僕のデータベースに当てはまらない何かがある。それが何なのかを知りたくて、この研究会に来ているんです」

 

越智の声は平坦だった。だが、その平坦さの下に、静かな焦りが透けていた。伊角にはそれが見えた。

越智康介は、天才ではない。自分と同じだ。持って生まれた碁の才能は「中の上」で、進藤や塔矢のような突然変異的な閃きは持っていない。だからこそ、データという武器に磨きをかけてきた。データがあれば、才能の差を多少なりとも埋められる。少なくとも、自分の土俵で戦える。

だが、進藤ヒカルという存在は、その土俵ごとひっくり返してしまう。データの外から来る一手。分析の枠に収まらない碁。越智にとってそれは、自分の武器が無効化される恐怖と同義だった。

 

「越智」

「はい」

「データも感覚も、どっちかだけじゃ足りないんだよ。僕にはデータの緻密さが足りないし、越智には実戦の泥臭さが足りない。だから一緒にやる意味がある」

 

越智は眼鏡を押し上げた。街灯の光がレンズに反射して、一瞬、表情が見えなくなった。

 

「……僕に泥臭さが足りないというのは、心外ですね」

 

声には棘があったが、口元がわずかに動いた。笑おうとして、やめた痕跡だった。

伊角も笑いそうになるのを堪えた。越智が冗談めいたことを言うのは珍しい。たぶん、彼なりの「休戦」の合図なのだろう。

 

「来週の研究会、何を並べる?」

 

越智が聞いた。話題を変えるのが巧い。検討が終わったら、次の検討の話に移る。感情を長引かせず、常に次の手を考える。それも、越智の強さの一つだった。

 

「中国甲級リーグの最新局がいくつか手に入った。和谷に渡してある」

「わかりました。予習しておきます」

 

越智は一礼して踵を返した。マフラーに顎を埋めたまま、暗い住宅街の道を歩いていく。その背中は小柄で、まだどこか少年の輪郭を残している。

伊角はしばらくその背中を見送っていた。

 

 

帰りの電車の中で、伊角はまた棋譜を広げた。

今日の研究会で検討した韓国の一局。問題の四十二手目。黒が白の厚みに飛び込んだ、あの手だ。

越智は「博打だ」と言った。和谷は「再現性がない」と言った。どちらも正しい。

だが、伊角の目にはもう一つの側面が見えていた。

この黒を打った棋士は、白のことをよく知っている。棋譜を研究し、癖を分析し——つまり越智と同じことをやった上で、そのデータを「心理的な罠」に変換している。データは武器だ。だがデータの使い方は一つではない。計算で勝つのもデータの使い方だが、計算の外に相手を追い出すのもデータの使い方だ。

越智のデータ主義は正しい。だが、その先がある。データを集めた上で、データの外で戦う。それが、伊角が中国で学んだことの核心だった。うまく言葉にできなくて、今日の研究会ではもどかしい思いをした。碁盤の前なら石で語れるのに、言葉で伝えようとすると、どうしても曖昧になる。

 

ペンを走らせた。棋譜用紙の余白に、変化図を書き込む。越智の読み筋と、自分の読み筋を並べて比較する。重なる部分と、ずれる部分がある。そのずれの中に、今日の議論の答えがあるはずだ。

伊角は石橋を叩いて渡る人間だった。昔からそうだ。自分の感覚を信じ切れず、何度も確認し、それでも不安が消えない。慎重すぎると言われたことは一度や二度ではない。

だが、その慎重さがあるからこそ、他人の碁を丁寧に読める。和谷の碁の穴も、越智の碁の偏りも、進藤の碁の異質さも、伊角は盤面を通して静かに感じ取ることができる。自分自身が不安定だからこそ、他人の揺れが見える。

それが強さなのかどうかは、まだわからない。

でも、少なくとも研究会にとっては意味がある。和谷が場を仕切り、越智がデータを提供し、進藤が答えを見せる。その間に立って、議論を翻訳し、一つの検討を組み上げていく役割。目立たないが、誰かがやらなければ回らない仕事だ。

 

電車が最寄り駅に着いた。伊角は棋譜をたたみ、鞄に戻した。

改札を出ると、空気が冷たかった。コンビニで温かい缶コーヒーを買い、手に持って歩いた。アルミの缶の熱が、指先からゆっくりと身体に伝わっていく。

アパートに帰ったら碁盤を出して、今日の続きをやろう。越智のデータと自分の感覚の、どちらが正しいかを確かめるのではない。二つを繋ぐ道を探す。その道がどこに通じているかはわからないけれど、一人で探すよりは五人で探した方が、たぶん早く見つかる。

伊角は缶コーヒーを一口飲んだ。苦くて、温かかった。

明日は手合がある。相手は格上の六段。データを集める余裕はなかったが、先月の同じ相手との碁で、中盤に嫌な癖があることは覚えている。そこを突けば、勝機はある。数字ではなく、盤上で何度も見た相手の「呼吸の乱れ」を、自分の感覚が記憶している。

越智に言ったら鼻で笑われるかもしれない。それは感覚論だ、と。

でも構わない。笑われたら、次の研究会で盤上で証明すればいい。それが碁打ちの喧嘩の仕方だ。

伊角は、まっすぐに歩いた。石橋を叩く必要のない、見慣れた帰り道を。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

藤原佐為の碁 ~転生したら神童ヒカルになってた件~(作者:梅酒24)(原作:ヒカルの碁)

あらすじ▼平安の天才棋士として生き、未練を残したまま現世に留まり続けた幽霊――藤原佐為。▼彼は本来、一度は姿を消す運命にあった。▼しかし――この物語では違う。▼“神の一手”へと至るその執念は、消えることを拒んだ。▼現代に蘇った佐為は、進藤ヒカルと出会い、再び碁を打つ機会を得る。▼だが今度の佐為は、ただ導くだけの存在ではない。▼ヒカルと共に在りながらも、自らの…


総合評価:56/評価:-.--/連載:10話/更新日時:2026年04月18日(土) 05:55 小説情報

IF もしも、最初からヒカルが囲碁を打っていたら。(作者:天使乃あくび)(原作:ヒカルの碁)

ヒカルが幼少期から、囲碁を愛して囲碁を打っていたらの物語。


総合評価:260/評価:9/連載:4話/更新日時:2026年02月13日(金) 23:22 小説情報

神の一手(作者:風梨)(原作:ヒカルの碁)

▼Route from Sai▼もしも。もしもヒカルが囲碁を既に覚えていたら。▼佐為の凄さを、かつての『本因坊秀策』のように早々に理解していたら。▼そんなあったかもしれないIF。▼願わくば。▼永遠が分つまで、二人が分たれませんように。


総合評価:26050/評価:8.76/完結:36話/更新日時:2022年08月30日(火) 23:30 小説情報

だから付き合ってないってばよ(作者:冬乃菊)(原作:NARUTO)

 ナルト(九喇嘛も)とサスケが逆行してラスボス(カグヤ・黒ゼツ)フルボッコを目標になんやかんやする話。▼ 中身は三十路という微妙に恥ずかしい秘密と起こりうる未来を共有しながら過ごすので、タイトルの通り、周囲からはなぜか変な目で見られるはめに。▼ ピタゴラ勘違い展開で主に恋愛面においてナルトもサスケもかなり不憫な目に合いますが、忍び耐えて世のため頑張ります。▼…


総合評価:2547/評価:7.98/連載:38話/更新日時:2026年05月12日(火) 20:44 小説情報

詐欺占い師と米花町(作者:罠ビー)(原作:名探偵コナン)

 爆処同級生の未来が視える占い師≒詐欺師がコソコソする話。▼ pixivとのマルチ投稿です▼


総合評価:742/評価:7.7/連載:9話/更新日時:2026年05月19日(火) 00:05 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>