それは冬の寒い日、私は学校の保健室でいつものように、資料やプリントを纏めていた。
冬には珍しく台風が近いのか、どうという強い音と共に、強い風が窓に当たっては窓をガタガタと揺らした。本校は伝統があって、古い作りで来週の冬休みから、改修工事が行われる。
誰かが歩くと廊下は、ギイギイと鳴るような古さで伝統がある。というよりは片田舎の古い校舎なのだから、現代に適応出来ていないとも言えるかもしれない。
私がプリントと睨めっこをしていると、窓の外に知らない影が見えた。あれは?生徒ではない、ここは小学校、外に見えた人物は190cm以上はあろうかという高身長で中肉の青年で、ロングコートを羽織り、マフラーを着ている。
なんとなくその青年から、目を離せないで居ると窓の外に1年生の男児が走っていく。
青年は高そうなコートが床に着くのも厭わず、身をかがめて1年生の男児に何か話し始めた。大方、保護者が忘れ物を届けにきて、あの子に自分の子供のクラスはどこか聞いている父親なのだろう。私は立ち上がって、その保護者の方に案内できるかもしれない大人なのだから、扉に向かって歩みを進めた。
「っ"…う"ぅ…。」
その刹那、青年が1年生の少年の腹に何かを埋めた。埋めた、という表現は間違いだ。
刺した、少年は声も挙げられず、深く突き刺された包丁を身体に埋め込んだまま、青年の身体に倒れ込んだ。痛みで失神したのだろう、と呑気な考えを扉越しに巡らせた。
どうする、保健室は廊下への窓が4つと、鍵がかかっていない窓付きの扉が2つ。窓には鍵をかけているが、扉には鍵をかけていない。
殺人鬼が入ってくるかもしれないのなら、窓からバレないように、窓の下を屈んでまずあの青年から遠い方の扉の鍵をしめる。頼む、バレないように、バレたら殺されてしまう。何をされるのか、分からないのだ。鍵を閉めてほかの先生たちに連絡しなければ。
曇り空だった外は、ザァッと一気に外が白んで見えないほど雨が降ってきていた。
震える手で、古い保健室の鍵を掛ける。その時、グラウンド側の窓の外がピカッと光り、ドカァン!ゴロゴロ、…ドォン!と近い場所で落雷があったのか、鍵の音がかき消されて鍵をかけることが出来た。
それと同時にその青年が動いて何かをしている事を示す影が保健室に照らされて入ってきた。
私は、見なければよかったと心の底から思った。その青年は床にブルーシートを敷き、そこに男児をゆっくりと寝かせた。その青年は歌を歌いながらその男児を、……。
歌の内容は「肺ロース赤ワイン煮込み?腰肉のソース添え?脳のパルメザン揚げ、レバーパテ?」と言った料理の品目を述べるものだった。
その歌で、私は10年前に出会った少年の事を思い出していた。
「先生、宿題終わりました。」
そう微笑む少年の名前は、逆原 虹弥(さかばら にじや)くん。不登校児で、教室に行くのではなく、保健室に通って勉強や読書をしたり、保健室で給食を食べている。
小学5年生で、常識的な事は家庭の事情で少し疎いようだが、とても頭が良く何より料理が好きな子だった。
「よく頑張ったね、じゃあ逆原くんの大好きな料理の本を読んでいいよ。」
私は逆原くんの真っ黒な髪を撫でて、保健室に置いてある本を指さした。
逆原くんは料理の本や、写真を見るのが好きだった。将来の夢を聞いた時、彼はこう言っていた。
「すごく綺麗な料理を作れる料理人になりたい、沢山料理をしたいんだ。」
「先生は、優しいから僕が大人になったら料理食べさせてあげるね。」
そう、将来が楽しみな彼と一緒に話していた。
…。
その歌は、その将来が楽しみな彼がよくプリントやノートの端に書いていた歌だった。
ふと、その青年と雨が降る外への窓越しに目が合った。私はサァッと血の気が引いて、弾かれたように鍵がかかっていない方の扉に向かって走った。
ガチャリ。
そう音を立てて、保健室の鍵は閉まった。
扉を隔てて、保健室の窓付きの扉の窓に微笑んで立っている青年は、黒髪に大きな目に長いまつ毛、いつも少し微笑んでいる口元とスッとした鼻。並行の整えられた眉に健康そうな肌色。間違いなく逆原くんだった。
いや、昔の逆原くんより容姿が整っている。それは彼が社会に馴染む為の努力を感じさせる物だった。
そうヌルい考えに頭を浸らせていると、逆原くんは微笑みながら首を傾げた。
「金継 雪助(かなつぎ きよすけ)先生。」
そう私の名前を読んだ。やっぱり逆原くんだ、自分の知っていた、面倒を見ていた生徒だった事に一抹の安心感を覚えながら私は名前を呼ぶ。
「逆原くん、何をしに学校に?」
そう、述べることしか出来なかった。
逆原くんは、聞かれると思っていた事と違うと思ったのか大きく首を傾げながら述べた。
「子供の忘れ物を届けに。」
「逆原くん、嘘は行けないよ。いつも先生は言って居ただろう?嘘はダメ、逆原くんは賢いから分かるね?」
「はぁい、はぁい。本当はね、材料を探しに来ました。」
逆原くんは特に悪びれる様子もなく、昔から変わらない、昔の面影がある素直な笑みで微笑んだ。
材料、というのは間違いなくこれらのグロテスクな物々を調理して食べるということだ。
「逆原くん、人間は食べ物じゃ…」
「先生、素晴らしいでしょう。味付け次第でね、化けるんです。それに何にでも合う、僕の理想の食材なんです。」
逆原くんは、昔に自分の美学を語ってくれた時のように恍惚さを前面に出したような、恋人が初めてベッドに一緒に眠る時のような笑みで語ってくれる。ああ、この子は壊れてしまったのだろうか。人を怖がっていた彼とは思えないほど言葉を紡ぐ態度は自信に満ちている。
「先生、僕たちは約束しましたよね。僕が将来、先生に料理を食べさせてあげるって。あの約束を覚えていますか?」
「…逆原くん、その約束を覚えているなら先生が言った事は覚えているかい?」
逆原くんはその問いかけに首を傾げた、逆原くんはよく首を傾げる。その仕草は小さな時から何も変わってなくて、やっぱり彼はあの時の逆原くんなのだ。
背中に嫌な汗と寒気を感じながらそう述べた。
「もう一度、教えてください。」
そう言って逆原くんは、困ったように窓に手を置いて真剣な面持ちで見つめてくる。
「…いいよ、逆原くん。人間は人間を食べてはいけない、それは倫理的な理由もあるし、それ以外だって…」
「それ以外だって?」
…。
「人は人を助ける為に、支え合って生きていく者なんだ。人を殺していい理由なんてものは無いんだ、君の行動は人を助ける為の行動とは思えないよ。」
そう言うと、逆原くんの笑みは少しだけ曇って、昔よくやっていた遠くを見つめるような、そんな眼になって私を見た。
「先生、僕は間違っているんでしょうか。」
段々と殺人鬼の皮が雨に流されるように、逆原くんの笑みは不安げな、あの時の逆原くんになって行った。
「…うん、間違ってる。大丈夫、私が一緒に居るから。ゆっくりでいいから罪を償っていこう。」
逆原くんはあの時、私が助ける前に転校してしまった。私は、あの時助けきれなかったのだ。
こうなったのは、私のせいなのだ。
私がもう少し声を掛けていれば、彼が転校するきっかけになった家出をした時点で、私が彼を見つけていれば。
でも今なら助けられるかもしれない、本当の彼を見つけられるかもしれない。そう思って扉の鍵を開けた。
「先生、僕は。」
そう言うか言わないか、私はこの後の逆原くんの行動を知っている。彼は決まって自虐するのだ、今度こそその自虐を止めるんだ。
私は、彼を学校から帰るように説得することにした。大丈夫、彼は優しくて賢い子だ。保健室で昔話していた時も普通の、ごく普通の少年だったんだから。教室のドア越しにこちらを静かな目で見つめる彼に、私は微笑みかけて扉を開け、私は廊下に歩み出た。
…扉を開けて逆原くんを抱きしめる、…彼の顔に血の通った人間の匂いがした気がしたのに、彼の身体は外から入ってきたせいかとても冷えていた。
「…もう大丈夫、もう1人じゃないからね。一緒に悩んで一緒に進んでいこう。」
「今度こそ、君を誰も居ないところに連れて帰らせたり、しないからね。」
「先生、先生。」
「僕、小学校の事も先生のこともあんまり覚えてないんですよ。」
遠くの方で、大きな雷が落ちた音と一緒に私の意識は、遠くに消えてしまった。
逆原くんの呼吸だけが妙に耳に残った。
「臨時ニュースをお伝えします、たった今入った情報に寄りますと〇〇市〇〇区の〇〇小学校の…」
終わり