穏やかな風が窓から吹き込む、ある日。
アラスターは部屋の姿見の前で背筋をピンと伸ばして立つ景太の姿をまるで自分の最高傑作の芸術品を鑑賞するかのように満足げに眺めた。
アラ「様になってきましたね。ケータくん」
常に絶やさない三日月型の笑みをさらに深め、アラスターはノイズ混じりの声で惜しみない賛辞を送った。
鏡の中に映る景太は、ただ立っているだけなのに、以前の彼とは見違えるようだった。猫背気味だった背筋は真っ直ぐに伸び、肩の力は自然に抜け、両手の位置や足の開き方一つに至るまで、無駄のない美しい姿勢がすっかり体に染み付いている。
景「昔の俺からこうなったなんて、自分でも信じられないよ……」
景太は鏡の中の自分を見つめながら、ぽりぽりと頬を掻いて苦笑いした。休日のたびにパジャマのままゴロゴロと漫画を読みふけり、だらしなく口を開けて昼寝をしていたかつての「だらしない小学五年生」の面影は、今や見事に削ぎ落とされている。
景(でも、これで紳士学の基礎というか、第一段階の一部はようやく学び終えたってことだよな……。少しはのんびりできるかも……)
アラスターの常軌を逸したスパルタ教育の日々を思い返し、景太は密かに胸を撫で下ろした。言葉遣いや立ち振る舞い、エスコートの基本はすでに身につけた。あとはこれを維持していけばいいだけだ、と。
しかし、地獄のラジオデーモンに、そんな甘い希望的観測が通用するはずもなかった。
アラスターはステッキで床をコツンと軽く叩き、まるで景太の心を読んだかのように、冷酷な宣告をニコニコと口にした。
アラ「言っときますけど、ただ教えて終わりではありませんよ。常に反復し、体に染み込ませるのが教育というものです。当然、これまでの予習復習はみっちりとするので覚悟してくださいね」
景「ウヘェ……」
逃げ場のない宣言に景太は思わず情けない声を出して肩をガクリと落とした。どうやら、この悪魔のブートキャンプに卒業という概念は存在しないらしい。
アラ「さて、基礎が固まったところで、では新たに次のステップです」
アラスターはマイクステッキを両手で持ち、ステッキの頭に顎を乗せるようにして景太を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、次なる教育への異様な情熱がギラギラと渦巻いている。
アラスターは一切の容赦なく、底抜けに明るい声で景太の生活能力を地の底まで叩き落とした。
アラ「ケータくんは、家事は普通です」
景「え?」
アラ「いや、訂正しましょう。それより下です」
景(有無も言わさずに言い切りやがった……!)
景太は心の中で盛大にツッコミを入れた。たしかに、掃除は母親に言われてからしぶしぶやる程度だし、料理に至っては目玉焼きを焼くことすら怪しい。小学生男子としては平均的かもしれないが、完璧を求めるアラスターの基準から見れば「論外」のレベルなのだろう。
景「いや、必要なの? それ。紳士って、もっとこう……レディをエスコートしたり、マナーを守ったりするのがメインなんじゃないの?」
家事と紳士。その二つがどうしても結びつかず、景太は訝しげに首を傾げて反論した。誰かにやってもらうのが偉い人、という漠然としたイメージがあったのだ。
しかし、その言葉を聞いた瞬間。
アラ「当然です!!」
アラスターの周囲のノイズ音が「ザーッ!」と一瞬だけ強く鳴り響き、彼の瞳が妖しく発光した。
部屋の空気がビリッと震えるほどの力強い声。アラスターは景太の目の前までスッと瞬きする間に移動し、顔を近づけた。
アラ「自らの身の回りのことすら完璧にこなせない者がどうして他者を、ましてや淑女を完璧に持て成すことができるというのですか?
散らかった部屋は心の乱れ、粗末な食事は精神の貧困を招きます。自立した真のジェントルマンたるもの、掃除、洗濯、料理……すべての家事において、一切の隙のない一流でなければならないのです!」
アラスターは両手を広げ、まるでミュージカルの主役のように高らかに演説をぶった。
アラ「寧ろ、ここからが本番なんですから! しっかり気を引き締めてくださいね、我が愛しき教え子よ!」
もはや断る選択肢など一ミリも残されていない。
アラスターの狂気じみた情熱と威圧感を前に景太はこれから始まるであろう「地獄の家事特訓」を想像し、ただただ引き攣った笑いを浮かべることしかできなかった。
すると…。
ピク「連れてきたわよ」
開け放たれていた窓からパタパタと小さな羽音を立ててピクシーが部屋の中に舞い戻ってきた。
少し得意げに胸を張るピクシーの声に合わせて窓枠の向こうからスッと音もなく一人の見知らぬ悪魔が部屋の中へと足を踏み入れた。
その姿を目にした瞬間、景太は思わず目を奪われた。
彼女は、新緑の森を思わせるような淡く美しい緑色の長い髪を持ち、その肌もまた透き通るような白緑色をしていた。彫刻のように整った美しく穏やかな顔立ちは、見ているだけで心が安らぐような不思議な温もりを湛えている。
服装はとても質素だが、それがかえって彼女の清潔感と気品を引き立てていた。足首まで隠れるほど裾の長い、シンプルな赤いロングワンピース。そして頭には、働き者の象徴とも言える真っ白な三角巾をきちんと結んでいる。派手な装飾など一切ないその出で立ちは、童話の中から飛び出してきた「完璧なメイド」や「家事の妖精」そのものだった。
ポカンと見惚れる景太の横で、アラスターがステッキを優雅に手の中で回しながら、満足げな笑みを浮かべて説明を始めた。
アラ「私がどれほど完璧な紳士であっても、家事全般に至っては『餅は餅屋』……その道のプロフェッショナルから直々に学ぶのが最も効率的かつ確実というものです。ですので、今回は特別に専門の講師をピクシー経由で手配させてもらいました」
アラスターは芝居がかった動作で大げさに片手を胸に当て、その女性を紹介した。
アラ「ご紹介しましょう。彼女は『妖精シルキー』。
スコットランドの伝承にも語られる、家事全般を取り仕切る真のスペシャリストです。いやはや、貴女にこんな素晴らしいお友達がいた事に、心から感謝しますよピクシー」
慇懃無礼な態度の中に確かな称賛を込めてアラスターがお礼を述べると、空を飛んでいたピクシーは腕を組み、フンと鼻を鳴らした。
ピク「別にアンタやコイツのために呼んだわけじゃないわよ。ここで家事の特訓をするついでに、『美味しい食いもんが腹いっぱい食べれる』って聞いたから、シルキーに声をかけて呼んだだけよ」
相変わらずの現金な理由を堂々と言い放つピクシー。しかし、そのおかげでこんなにも頼もしそうな講師が来てくれたのだから、景太としては文句のつけようがなかった。
アラスターとピクシーのやり取りを静かに微笑みながら見守っていたシルキーが、ふわりとワンピースの裾を揺らして景太の目の前へと進み出た。
シル「初めまして。貴方がケータさんですね。ピクシーさんから、貴方のお話はかねがね聞いておりますよ」
鈴を転がすような、とても優しく落ち着いた声だった。彼女が少し微笑むだけで、部屋の中の空気がふわりと浄化されたような錯覚すら覚える。洗練された立ち振る舞いの中に、他者を包み込むような深い母性と慈愛が満ちていた。
その圧倒的な「できるオーラ」と、アラスターとはまた違ったベクトルでの完璧さに圧倒され、景太は無意識のうちに姿勢を正した。アラスターに叩き込まれた紳士の所作が反射的に働き、背筋がピンと伸びる。
しかし、内心は「これからどれほど厳しい特訓が始まるのか」という不安でいっぱいな小学五年生のままだ。
景「は、はいっ! 天野景太です! ほ、本日はよろしくお願いします!」
緊張のあまり少し声が上ずってしまったが、景太は両手を体の脇にピシッと揃え、直角に近い角度で深く、そして丁寧なお辞儀をした。
シル「では……」
その時、シルキーはおしとやかな動作のままどこからともなく取り出したハタキをまるで戦場の指揮官が揮う采配のようにバッと前に突き出した。
シル「これより、私が貴方に家事のイロハを教授します。その間、私の事はこう呼びなさい。『マム』と!」
先ほどまでの穏やかで母性溢れる空気は一瞬にして雲散霧消し、彼女の全身から一切の妥協を許さない鬼教官の如き熱血なオーラが立ち上った。
ピク「あ〜あ……此奴、家事のことになると急にスイッチが入って熱くなるのよね……」
空中で頭を押さえるピクシーの言葉通り、シルキーのあまりの変貌ぶりに景太は「へっ!?」と目を丸くし、慌てふためいて後ずさりした。しかし、家事のスペシャリストに迷いなど微塵もない。シルキーはハタキで空を鋭く切り裂き、景太に指を突きつけた。
シル「時間は有限! しっかりと返事なさい! 分かったらこう言いなさい。『イエス・マム!』と!」
気迫に押され、アラスターのスパルタ指導で培われた「反射的な規律正しさ」が景太の体を勝手に動かした。景太は背筋を直角に伸ばし、大声で喉を震わせる。
景「イ……イエス・マム!!」
シル「よろしい! これから完璧にマスターするまでみっちりしごきます。しっかりとついてくるように!」
景「イエス・マム!」
軍隊さながらのやり取りが部屋中に響き渡る。その様子を、アラスターはマイクステッキに肘を預け、三日月型の口元を愉快そうに歪めながら眺めていた。
アラ「これは頼もしい。それでは、私はケータくんがしごかれている様子を、特等席で高みの見物と決め込ませてもらいましょう」
まるで極上の喜劇でも鑑賞するかのように優雅に後退り、高見の見物を決め込もうとしたアラスターだったが…。
シル「何をふざけたことを」
シルキーの冷徹な声が、アラスターの足をピタリと止めさせた。ハタキの先端が、堂々と立つ地獄のラジオデーモンへとまっすぐに向けられる。
シル「当然、アラスターさん。貴方も講義を受けるんですよ」
アラ「……おかしなことを言いますね。なぜ私が家事なんぞを受けねばならないのですか?」
アラスターの眉が微かにひくつき、周囲のノイズ音が「ザザッ……」と不穏な低音を奏で始める。
大悪魔としてのプライドが、そんな雑事を命じられることを拒絶していた。しかし、シルキーは一切怯むことなく、透き通った瞳で彼を射抜いた。
シル「貴方は彼のマナー講師でしょう? お手本をしっかりと見せなければ、教育者としての示しがつきません。……拒否権はございませんよ」
アラ「コイツ……」
アラスターの赤い瞳に、一瞬だけ本物の殺気が揺らめいた。だが、ここで暴力を振るえば紳士としての教育が無に帰す。何より、思考を巡らせたアラスターの頭の中に、最悪のシナリオが浮かび上がった。
アラ(……いや。もし契約者がこれを完璧にこなし、この私が家事一つ出来ぬとなれば……それこそ私の尊厳とプライドは永久に地を這うことになるのでは……?)
「契約者に出来て私に出来ない」という事態だけは、彼のプライドが絶対に許さなかった。アラスターはギギギと音を立てそうなほど口角を極限まで釣り上げると、引き攣った笑顔でステッキを握り直した。
アラ「……フフ、いいでしょう。お手本を見せろと言うのなら、完璧以上のものをお見せしようではありませんか」
シル「結構。……そして当然、ピクシー。貴女もです」
ピク「ウエェ……! 逃げてればよかった……!」
空中で露骨に嫌そうな顔をするピクシーに、シルキーは微笑みを浮かべたままとどめを刺した。
シル「逃げたらケータさんにメダルで呼び出してもらいます。無理やりにでもね」
ピク「マジか。相変わらず怖っ……!」
こうして、景太のみならず、地獄の大悪魔と気ままな妖精までも巻き込んだ、シルキーによる地獄の家事ブートキャンプが幕を開けたのだった。
ーーー
シル「まずは形から入ります。皆さんの服装を変えましょう」
シルキーがパンッと手を叩いた瞬間、魔法のように三人の服装が一変した。
景太は、学校の家庭科の授業で使うような無難な水色のエプロンと、頭にぴたりとフィットした白い三角巾。
ピクシーは、その小さな体に合わせて採寸された、可愛らしいミニサイズのエプロンと三角巾を強制的に身につけさせられていた。
そして、問題は地獄のラジオデーモンである。
アラスターの、常に完璧に着こなされていた真っ赤なスーツの上には、あろうことか『真っ白なフリル付きの可愛らしいエプロン』と『白い三角巾』が有無を言わさず装着されていたのだ。地獄の住人が見たら、あまりの恐ろしさとシュールさにその場で気絶しかねない光景である。
アラ「…………」
景(あ、アラスター…可愛…)プルプル
ピク(ヤバい…声に出したら即座に殺される)プルプル
景太とピクシーは必死に笑いをこらえていた。
アラスターはいつものように顔に張り付いたような三日月型の笑みを浮かべてはいたが、そのこめかみにはピキピキと青筋が浮かび上がり、ステッキを握る手が微かに震えていた。
周囲のノイズ音も、心なしか「ブツッ……ギギギ……」と不穏な音を立てている。
シル「形は整いましたね! まずは家事の基本中の基本、『掃除』から始めます!」
景・ピク「「イエス・マム!」」
アラ「……イエス、マム」ギリィッ
プライドが邪魔をして反抗しきれず、アラスターは歯軋り混じりに返事をした。そんな大悪魔の怒りなどどこ吹く風で、シルキーはハタキを片手に熱血指導をスタートさせた。
シル「よく聞きなさい! 掃除とは、ただ力任せに汚れを擦り、闇雲にホウキを振り回せばいいというものではありません。効率よく、かつ美しく仕上げるために、古き良き先人たちが培ってきた『おばあちゃんの知恵袋』を最大限に活用するのです!」
景「おばあちゃんの知恵袋?」
首を傾げる景太に、シルキーはビシッと指を突きつけた。
シル「その通り! まずは床の掃き掃除です。
ホウキでただ掃くだけでは目に見えない細かなホコリが空気中に舞い上がり、結局また床に落ちて二度手間になるだけです。そこで使うのが『出涸らしのお茶っ葉』です!」
シルキーが指を鳴らすと、景太の足元に少し湿った緑茶の出涸らしが入ったボウルが現れた。
シル「その湿らせたお茶の葉を床や畳にパラパラと撒きなさい。そして、そのお茶っ葉を転がすようにホウキで集めるのです!
お茶っ葉の適度な水分がホコリや髪の毛をしっかりと吸着し、空気中に舞うのを防いでくれます。さらに、お茶に含まれるカテキンの成分によって床に殺菌効果が生まれ、自然なツヤまで出るという一石三鳥の素晴らしい知恵です!」
景「おぉ〜! すごい! ただ掃くより全然理にかなってる!」
感心して目を輝かせる景太。シルキーの熱のこもった講義はさらに続く。
シル「次に窓拭き! アラスターさん、貴方には窓をお願いします。雑巾で水拭きしたあとに、ガラスにケバや拭き跡が白く残ってイライラしたことはありませんか?」
アラ「……私は普段、家事など(自分の手では)しませんので、イライラしたことはありませんがね」
シル「口答えは不要です! そんな窓拭きの悩みを一発で解決するのが『古新聞』です!」
シルキーはアラスターの腕の中に、どっさりと新聞紙の束を押し付けた。
シル「新聞紙を軽くクシャクシャに丸め、少しだけ水を含ませてガラスを拭きなさい。そして、そのあとに乾いた別の新聞紙でサッと乾拭きをするのです! 新聞のインクに含まれる油分が、手垢や泥汚れを分解してピカピカにしてくれます。さらに、そのインクがワックス代わりとなってガラス表面をコーティングし、汚れをつきにくくする効果もあるのです。雑巾と違って糸くずも出ません! さあ、理屈が分かったら実践あるのみです!」
景「イエス・マム!」
景太は教えられた通り、お茶っ葉を床に散らし、ホウキで丁寧に集め始めた。たしかにホコリが全く舞い上がらず、お茶の爽やかな香りが部屋中に広がっていく。
ピク「も〜、なんでアタシまで……!」
文句を言いながらも、ピクシーは小さな体でハタキを持ち、棚の上や照明の傘など、手の届きにくい高い場所のホコリを落としていく。
そして、窓際では――。
アラ「フン……この程度の雑事、私の手にかかれば造作もありませんよ。契約者に後れを取るわけにはいきませんからね……!」
異様なまでのプライドに火がついたアラスターが、凄まじいスピードと精密な動きで窓ガラスを磨き上げていた。
触手や影の魔法を一切使わず、己の両手のみを使い、シルキーに教わった通り丸めた古新聞を完璧な軌道でガラスに滑らせていく。その目は完全に血走り、拭き跡ひとつ残さないという異様な執念に満ちていた。
キュッ、キュッ、キュッ! と、ただの窓拭きとは思えない激しい摩擦音が部屋に響き渡る。
シル「素晴らしい動きです、アラスターさん! その調子で角の汚れも見逃さないように!」
アラ「言われるまでもありませんよ、マム!!」
エプロンと三角巾姿で、窓を光速で拭き上げる地獄の大悪魔。景太はホウキを動かしながら、そのあまりにもシュールな光景に腹筋が攣りそうになるのを必死に堪えるのだった。
そして、お茶の出涸らしを使った掃き掃除と古新聞による窓拭きが完了すると、部屋の中はすでに驚くほどスッキリとした空気に包まれていた。
茶葉の爽やかな香りと、チリ一つなく透き通った窓ガラスから差し込む陽光が、見慣れた自室をまるで高級ホテルのように錯覚させる。
景「ふぅーっ、これで掃き掃除は終わりっと……」
景太が額の汗を拭いながらホウキを片付けると、すかさずシルキーが次の指示を飛ばした。
シル「息をつくのはまだ早いです、ケータさん! 次は現代の利器、『掃除機』の出番です!」
指示を受け、景太は押し入れから掃除機を引きずり出してきた。コンセントを伸ばしながら、ふと景太の頭に一つの疑問が浮かび上がった。
景「あのさ、マム。そもそも掃除機があるなら、最初からこれを使えばよかったんじゃないの? わざわざホウキで掃かなくても、こっちの方が早い気がするんだけど……」
もっともな疑問だった。現代っ子の感覚からすれば、スイッチ一つでゴミを吸い取ってくれる掃除機は最強の時短アイテムである。しかし、シルキーはチッチッと人差し指を横に振り、厳格な教官の顔つきで景太に歩み寄った。
シル「甘いですね、ケータさん。何故、最初から掃除機を使わなかったか。それは……『掃除機では届かないところから先にはやったほうが楽だから』です!」
景「届かないところ?」
シル「ええ。部屋の四隅、家具の隙間、敷居の溝……そういった細かな部分は、掃除機のヘッドではどうしても完璧に吸い取ることができません。
先にホウキやハタキで隅のホコリを広い場所へ掻き出しておき、最後に掃除機で一網打尽にする。これが最も無駄のない合理的な手順なのです。
加えて、いきなり掃除機をかけると、排気の風で床の軽いホコリを部屋中に舞い上げてしまう原因にもなりますからね」
景「なるほど……! だから先にお茶っ葉でホコリを抑えながら掃き掃除をしたのか!」
理にかなった解説に、景太は深く納得して目を輝かせた。空を飛んでいたピクシーも「へぇ、脳筋の根性論かと思ったら意外と頭使ってんのね」と感心したように頷いている。
シルキーはビシッと掃除機のノズルを指差した。
シル「では、掃除機を使う際のアドバイスと、ここでも役立つ『おばあちゃんの知恵袋』を授けましょう。よく聞きなさい!」
「「イエス・マム!」」
景太だけでなく、後ろで腕を組んでいたアラスターまでが(相変わらずフリフリエプロン姿のまま)無意識のうちに完璧な姿勢で返事をしてしまった。
「まず、掃除機の動かし方です! 多くの人が勘違いしていますが、掃除機は前後に激しくゴシゴシと動かせばいいというものではありません。
掃除機のブラシと吸引力は『押す時』ではなく、『引く時』に最もゴミを吸い取る構造になっています。前に押し出す時は軽く、手前に引く時はゆっくりと時間をかけて引く。これが基本の動作です!」
「引く時に、ゆっくり……」景太は手元のノズルを見つめながら呟いた。
シル「そして次が重要です。カーペットや絨毯など、繊維の奥に髪の毛や細かなチリが絡みつきやすい場所。ここで古き良き知恵『粗塩(あらじお)』の出番です!」
シルキーがパチンと指を鳴らすと、景太の足元にあるラグマットの上に、少量の粗塩がパラパラと魔法のように撒かれた。
シル「掃除機をかける前に、こうして少量の塩を撒いておくのです。塩の粒が繊維の奥に入り込んだホコリや髪の毛を絡め取り、掃除機で吸い上げやすくしてくれます。さらに、塩には湿気を吸い取る効果や、消臭・殺菌効果もあります。一見無関係に見えるキッチン用品が、実は最高の掃除道具になるのです!」
景「塩を撒いてから吸う……!? そんな方法があったなんて!」
「さらにダメ押しでもう一つ!」とシルキーは言葉を継ぐ。
シル「掃除機をかけていると、排気の独特なニオイが気になりませんか? 真のジェントルマンたるもの、空間の香りにも気を配らねばなりません。
そこで、掃除機を動かす一番最初に『お好みのアロマオイルや香水を数滴垂らした小さくちぎったティッシュ』を吸い込ませるのです! そうすれば、掃除機の中から排気と一緒に心地よい香りが部屋中に広がります!」
その言葉を聞いた瞬間、今まで不機嫌そうにしていたアラスターの耳がピクリと動いた。
アラ「ホゥ……」
アラスターは感心したように目を細め、ニヤリと三日月型の笑みを深めた。
アラ「排気の悪臭を香りに変える……それは確かに、紳士の嗜みとして非常に理にかなった工夫ですね。不快な作業を優雅な時間へと昇華させる。悪くありません」
言うが早いか、アラスターはどこからともなく最高級の葉巻とスパイスが混ざったような、彼特有のクラシカルで上品な香水を取り出した。それをティッシュに一滴だけ垂らすと、景太から掃除機のノズルを奪い取り、シュポッ! と吸い込ませた。
シル「さあ、実践と参りましょうか!」
スイッチが「強」に入れられる。アラスターは、フリルのついたエプロンを優雅に翻しながら、シルキーの教えを完璧に体現し始めた。
アラ「押す時は軽く……そして、手前に引く時は優雅に、ゆっくりと……!」
ヴィィィィィン!! というモーター音と共に、アラスターが掃除機を引くたびに、ラグマットに撒かれた塩とホコリが面白いように吸い込まれていく。そして何より、掃除機の排気口からは、先ほどの古めかしくも上品な香水の匂いがふわりと部屋中に広がり始めたのだ。
景「おおっ! 本当だ、排気が全然臭くない! むしろいい匂いがする!」
景太が感動の声を上げると、アラスターはノズルを持ったまま得意げに胸を張った。
アラ「フフフ、どうですかマム! 私にかかれば、このやかましい機械すらも極上の香炉へと早変わりするというわけです! 隅から隅まで、チリ一つ残さず完璧に美しくしてみせましょう!」
シル「その意気ですアラスターさん! 素晴らしい吸収力です! ケータさん、貴方もアラスターさんに負けずに掃除機をかけなさい!」
景「イエス・マム! アラスター、次は俺に代わってよ!」
アラ「お断りします! 私は今、非常にノッているのです!!」
自室の掃除機がけを終え、ピカピカになった部屋を見渡して達成感に浸る景太とアラスター。しかし、鬼教官と化した妖精シルキーの特訓は、まだ序の口に過ぎなかった。
シル「素晴らしい仕上がりです! ですが、真のジェントルマンの住まいは、見えない場所こそ美しく保たれていなければなりません。続いては水回り……『お風呂掃除』と『トイレ掃除』へ向かいますよ!」
景「イエス・マム!!」
完全にシルキーのペースに巻き込まれた二人は、水色のエプロンと、相変わらずフリフリの白いエプロン姿のまま、足並みを揃えて洗面所へと向かった。ピクシーも「なんでアタシまで……」とぼやきながら宙をフワフワとついていった。
[newpage]
シル「お風呂場は、一日の疲れを癒す極上のリラクゼーション空間! ここに水垢や石鹸カスが残っているなど、言語道断です。力任せにゴシゴシとスポンジで擦るのは三流のやること。ここでも古き良き『おばあちゃんの知恵袋』を活用します!」
景「それで、どうすればいいんですか?」
シル「まず、鏡や蛇口にこびりついた白いうろこ状の汚れ。あれは水道水に含まれるカルシウムなどが固まった『アルカリ性』の汚れです。これを中和して落とすために使うのが、キッチンにある『お酢』と『食品用ラップ』です!」
シルキーの合図で、浴室の棚に穀物酢とサランラップが現れる。
シル「お酢をキッチンペーパーにたっぷり染み込ませ、鏡や蛇口などの汚れが気になる部分に貼り付けます。その上からラップでピタッと覆って『お酢パック』にするのです! そのまま30分ほど放置すれば、頑固な水垢が酸の力で溶けて、あとは軽くスポンジで撫でるだけで新品のようにピカピカになります!」
アラ「ホゥ……酸の性質を利用して汚れを分解する。実に理にかなった化学反応ですね。力技ではなく、知略で汚れを落とす……良いですね」
アラスターはひどく感心した様子で頷き、自ら進んで蛇口にお酢パックを施し始めた。手つきが異常に滑らかで美しい。
シル「さらに! 浴槽の内側にザラザラと残る皮脂汚れや石鹸カス。これには『みかんや柚子など、柑橘類の皮』を使います!」
景「えっ!? みかんの皮で掃除するの!?」
シル「その通り! 柑橘類の皮に含まれる『リモネン』という成分には、油分を強力に分解する作用があります。
さらに『クエン酸』も含まれているため、水垢にも効果的。みかんの皮の内側の白い部分で浴槽を直接擦るか、皮をネットに入れてお湯に浮かべておくことで汚れがスルスルと落ちる上に、浴室全体が天然の素晴らしいアロマに包まれるのです!」
アラ「素晴らしい! 合成洗剤の人工的な匂いではなく、果実の天然の香りで空間を支配する……まさにジェントルマンのバスタイムに相応しい知恵!」
アラスターはすっかりおばあちゃんの知恵袋の虜になっていた。フリリエプロンを翻しながら、猛烈なスピードでみかんの皮を手に取り、浴槽をキュッキュッと磨き上げる。
アラ「見なさいケータくん! このリモネンの力! そして浴室を満たすシトラスの香り! 私は今、汚れと戦いながらにして最高のリラクゼーションを創造しているのです!!」
景「アラスター、完全に掃除楽しんでるじゃん……!」
浴室がみかんの香りと共にピカピカに磨き上げられた後、シルキーは休む間もなく一行を隣のトイレへと誘導した。
シル「さあ、本日の最終関門です! トイレは、来客が一人になり、最も気を抜いて空間を観察する場所。ここが汚れていたり、悪臭が漂っていたりすれば、これまでの完璧なエスコートも全て水の泡となります!」
シルキーの熱のこもった言葉に、景太はゴクリと唾を飲み込んだ。
シル「便器の頑固な黄ばみや輪染み。これらを落とすためのとっておきの魔法……それは『気の抜けたコーラ(炭酸水)』です!」
ピク「はぁ!? 飲み残しのコーラでトイレ掃除!? アンタ、ついに頭おかしくなったんじゃないの?」
ピクシーがドン引きしながらツッコミを入れるが、シルキーはふふっと余裕の微笑みを浮かべた。
シル「ピクシー、無知は罪ですよ。コーラに含まれる『炭酸』や『リン酸』には、尿石などのアルカリ性の汚れを強力に溶かす性質があるのです。飲み残して気が抜けてしまったコーラを便器の縁からぐるりと回しかけ、しばらく放置してからブラシで軽く擦るだけ。驚くほど汚れが落ちる、無駄のない最高のエコ術です!」
景「へぇーっ! 捨てるはずだったものが洗剤代わりになるんだ! すごい!」
シル「そして、トイレ掃除において最も重要な『ニオイ対策』。芳香剤で誤魔化すのは一時凌ぎに過ぎません。急な来客時、空間の悪臭を一瞬で消し去る究極の知恵……それが、この『マッチ一本』です!」
シルキーはエプロンのポケットから、小さなマッチ箱を取り出して見せた。
景「マッチ? 火をつけるの?」
シル「その通りです。トイレの悪臭の主な原因は、アンモニアや硫化水素。マッチを一本擦って火をつけると、マッチの頭薬に含まれる『硫黄』が燃え、二酸化硫黄という成分が発生します。これが悪臭成分と瞬時に化学反応を起こし、ニオイの元を完全に分解・消臭してくれるのです! 擦ったあとは、火傷に気をつけて水の中に落とすだけです」
その解説を聞いた瞬間、アラスターの赤い瞳がカッと見開かれた。
アラ「悪臭を……炎と硫黄の力で一瞬にして焼き尽くし、浄化する……。なんというドラマチックで、悪魔的で、そして優雅な消臭法!! マム、その役目、ぜひ私に!!」
アラスターは興奮冷めやらぬ様子でシルキーからマッチ箱を受け取った。
彼はフリフリのエプロン姿のまま、宝塚のトップスターのごとき華麗なターンを決めると、便器の前にスッと立ち、指先で優雅にマッチを擦った。
シュッ……ボッ!
小さな炎が灯り、微かな硫黄の匂いがトイレの空間に広がる。するとどうだろう、先ほどまで微かに残っていたトイレ特有の生活臭が、まるで魔法のようにスッと消え去ったのだ。
アラ「素晴らしい……! 炎の揺らめきと共に空間が浄化されていく。これぞ真の紳士としての嗜み! ケータくん、見ましたか! これが究極の消臭術です!」
マッチの火を見つめながら恍惚の表情を浮かべるアラスター。
その横で、景太は「イエス・マム!」と元気よく返事をしながら、気の抜けたコーラを便器に回しかけ、一生懸命にブラシで磨き始めた。
ピク「……地獄のラジオデーモンが、フリフリエプロン着てトイレでマッチ擦って感動してるわ……。もうこの光景、誰かに見せたいような、絶対見せちゃダメなような……」
それを見て、宙に浮きながら呆れ返るピクシーなのであった…。
ーーー
トイレでのマッチを使った劇的な消臭劇を終えた後も、シルキーこと『マム』の苛烈な特訓は止まることを知らなかった。
一行は休む間もなく、残された水回り――洗面台と台所へと突撃した。
シル「洗面台の蛇口や鏡のくもりには、使い古した歯ブラシと『余った歯磨き粉』です! 歯磨き粉に含まれる微細な研磨剤が、金属の輝きを傷つけることなく蘇らせます!」
景「イエス・マム! 歯磨き粉って掃除にも使えるんだ!」
景太が古い歯ブラシで蛇口をシャカシャカと磨き上げると、曇っていたステンレスがまるで新品のようにキラリと光を反射した。
さらに戦場を台所へと移すと、今度はアラスターが先陣を切った。
シル「台所のシンクのぬめりや、コンロの油汚れ。ここには『重曹』と『お酢』の合わせ技です! アルカリ性と酸性が混ざり合うことで発生する炭酸ガスの泡が、頑固な油汚れを根こそぎ浮かせます!」
アラ「ホゥ! 異なる性質のものを掛け合わせ、化学反応の爆発力で汚れを粉砕する……。まるで上質な魔法の儀式のようですね! さあ、見せてごらんなさい、貴女の力を!」
アラスターはフリフリのエプロン姿のまま、シンクに重曹を振りまき、その上からお酢をドバッと注ぎ込んだ。シュワワワッ! と激しく泡立つ様子を見て、地獄の大悪魔は「ハァーッハッハッハ! 素晴らしい! 汚れが泡と共に浄化されていきますよ、マム!」と、まるで世界を征服したかのような高笑いを響かせた。
そして――。
景「……お、終わったー!!」
家中のすべての汚れを駆逐し終えた景太は、リビングの床に大の字になって倒れ込んだ。
部屋中を見渡せば、床にはチリ一つなく、窓ガラスは外の景色を曇りなく映し出している。空気はお茶と柑橘類の爽やかな香りに包まれ、先ほどまでの「普通の小学生の部屋」が、まるで高級ホテルのスイートルームのように澄み切った空間へと変貌を遂げていた。
疲労感で体は重かったが、それ以上に景太の胸の中には、己の手で環境を美しく整えたという圧倒的な「達成感」が満ち溢れていた。
アラ「フゥ……」
アラスターもまた、満足げなため息をつきながらゴム手袋を優雅に外した。額にはうっすらと汗が滲んでいたが、その表情はどこか清々しい。
アラ「己の手で
すっかり『おばあちゃんの知恵袋』と家事の魅力に取り憑かれたアラスターは、紅茶でも飲むかのように優雅な手つきでモノクルを拭き直した。
一緒に掃除を(少しだけ)手伝わされたピクシーも、リビングのソファにペタンと座り込み、「あー疲れた……でも、まあ、綺麗になるのは悪くないわね」と羽を休めている。
激闘を終え、誰もが「これで本日の特訓は無事に終了した」と信じて疑わなかった。優雅なティータイムが始まるのだと、皆がリラックスした空気を漂わせていた。
しかし、部屋の中央でハタキを背中に隠し持ち、真っ白な三角巾を被ったまま微動だにしない鬼教官・シルキーだけは違った。
彼女は慈愛に満ちた、しかし一切の隙がない微笑みを浮かべたまま、静かに、そして冷徹に告げたのだ。
シル「皆様、大変素晴らしい働きでした。……では、15分ほどの小休止を取りましょう。休憩が終わり次第、ただちに『次のステップ』を始めます」
その言葉がリビングに落ちた瞬間、ピクシーがバッと顔を上げ、空気を切り裂くような素頓狂な声を上げた。
ピク「ヴェッ!? まだ終わりじゃないの!?」
「えっ……?」と景太も体を起こし、アラスターの三日月型の笑みもピキリと固まった。家中の掃除を完璧にこなし、達成感の絶頂にいた彼らにとって、それはまさに青天の霹靂だった。
シルキーはピクシーの驚愕の声を涼しい顔で受け流し、さらに背筋をピンと伸ばして宣言した。
シル「当然です。掃除だけが家事ではありませんから」
シルキーの背後で、目に見えない熱血指導の炎が再びゴォォォッと燃え上がるのを感じ、景太は絶望に顔を引き攣らせた。
シル「住まいを整えた後は、自らの身を包む衣類を清める『洗濯』、そして何より、真のジェントルマンの肉体と精神を形作る『料理』が残っています! 先人の知恵はまだまだ山のようにありますよ。覚悟しておきなさい!」
景(う、嘘だろ……。これ、今日中に終わるのか……!?)
ピク(だからアタシは美味しいご飯だけ食べに来たつもりだったのにぃぃーっ!)
アラ(……料理、だと? この私が、包丁を握ってキッチンに立つと言うのですか……?)
三者三様の絶望と動揺が渦巻く中、妖精シルキーの地獄の家事ブートキャンプ・第二部開幕の足音が、無情にもすぐそこまで迫っていた。
そして、15分の短い休憩が終わり、一行はピカピカに磨き上げられた天野家のキッチンへと移動した。
ーーー
シル「さて、家事の要である『料理』のステップへ移ります。ですが、指導を始める前に……まずは貴方方がどれくらい料理が出来るのか知る事から始めます。各自、自分の得意な料理を作ってみてください」
「得意な料理」という課題に、三者はそれぞれ異なる反応を見せた。
一番手に名乗りを上げたのは、目立つフリフリのエプロンを身につけた地獄のラジオデーモン――アラスターだった。
アラ「フフフ、私に料理を作らせると? いいでしょう。私の故郷ニューオーリンズが誇る、至高のソウルフードをお見せしましょう」
アラスターは優雅な手つきで冷蔵庫から食材を取り出し、包丁を握った。トントン、とリズム良く野菜を刻み、ソーセージと鶏肉を香ばしく炒めていく。フライパンから立ち上るのは、チリペッパーやパプリカ、ケイジャンスパイスの複雑で刺激的な香りだ。米と出汁、たっぷりの具材を加えてじっくりと煮詰め、仕上げに手際よく盛り付ける。
完成したのは、鮮やかな赤い色彩が目を引く本格的な「ジャンバラヤ」だった。
さっそくスプーンですくって口に運んだ景太とピクシーの目が、同時に見開かれる。
景「辛っ!! でも……美味ッ!!」
ピク「うわっ、舌が痺れるくらい辛いのに、魚介と肉の旨味がすごくて食べる手が止まらないわ……!」
口の中がカッと熱くなるほどの刺激的な辛さだが、奥深いコクと香辛料の風味がクセになり、どんどん食が進んでしまう。アラスターはマイクステッキに手を添え、誇らしげに胸を張った。
アラ「フハハ! スパイスの効いた情熱の味です。私を満足させるには、これくらいの刺激がなければね」
ピク「はぁー……こういう食べる係なら喜んでやるんだけどねぇ」
お腹を満たして満足そうに腹を叩くピクシー。すると、シルキーの冷ややかな視線がピクシーへと注がれた。
シル「……次はピクシー、貴女の番です」
ピク「あ、いやー……言っとくけどアタシ、元々妖精だから料理なんてやんないんだけど……。食べるとしても、精々その辺に生えてるフレッシュな果物だったりね?」
妖精としての生態を理由に、料理を全否定するピクシー。シルキーはしばらく無言でピクシーを見つめていたが、呆れたように小さく息を吐いた。
シル「……仕方ありませんね。貴女には後ほど、食材の洗い物と下ごしらえをみっちり叩き込みます」
ピク「ゲッ」
一瞬青ざめたピクシーだったが、今この場での調理を免れたと悟るや否や、シルキーの背後に隠れて「よっしゃ!」と小さくガッツポーズを作った。
そして、最後に番が回ってきたのは景太だった。
ピク(まあ、ケータだしねぇ……。普段お母さんに頼り切りの小学生だし、精々目玉焼きかトーストくらいじゃない?)
ピクシーは正直、景太の料理には何一つ期待していなかった。アラスターやシルキーも、彼の腕前がどれほどのものか見守る姿勢をとる。
しかし――キッチンの前に立った瞬間、景太の雰囲気がガラリと変わった。
景「よしっ、じゃあ俺は……これを作ろうかな!」
景太は戸棚からボウルと大きな小麦粉の袋を取り出すと、迷いのない手つきで粉を計量し始めた。
水と塩を絶妙な塩梅で加え、素早く混ぜ合わせる。生地がまとまると、体重をかけて力強く、かつ手早く捏ね上げていった。その無駄のない洗練された動きに、アラスターの眉がピクリと動く。
景「記事を少し休ませてる間に……次はこっち!」
生地をラップに包んで寝かせている間、景太は別のボウルを取り出し、キャベツを鮮やかな手つきでみじん切りにしていく。出汁と卵、打ち粉を絶妙な加減で混ぜ合わせ、熱したホットプレートへ流し込んだ。ジュワァァァッ! と食欲をそそる芳醇な音がキッチンに響き渡る。
さらに、景太の手は止まらない。小鍋で固めの上新粉を蒸し上げて香ばしいタレの団子を作り、隣のフライパンでは美しい狐色に焼き上げたふっくらとした生地で特製の粒餡を包み、見事などら焼きを完成させていく。
仕上げに、寝かせておいた生地を麺棒で均一な厚さに伸ばし、包丁で一定の太さにトントンと切り揃え、たっぷりのお湯で素早く茹で上げ、キンキンに冷えた冷水で締めた。
テーブルの上に並べられたのは――。
ツヤツヤと輝く極上の「手打ちうどん」、ふっくらと焼き上がりソースと鰹節が踊る「お好み焼き」、タレがとろりと絡んだ「みたらし団子」、そして和菓子屋の売り物のような「どら焼き」。
どれもこれも、一流の専門店で出しても全く遜色がないほどの完璧な仕上がりだった。
ピク「な……何よこれ……!?」
アラスターもシルキーも、目の前の光景に絶句していた。
彼らはこの時、初めて知ったのだ。天野景太という少年は、小麦粉を扱う「粉物料理」において、並外れた才能と技術を持っているということを!
景「へへっ、お好み焼きとかうどんって、作ってると楽しいから昔からよくやってたんだよね。……あ、でも味はどうかな?」
見た目は完璧だが、問題は味である。半信半疑のまま、ピクシーが箸で手打ちうどんを一本すくい、ズズッと口の中に啜り込んだ。
ピク「……!」
一口噛み締めた瞬間、ピクシーの身体がピキッと硬直した。
麺の圧倒的な弾力とモチモチとした噛み応え。噛むたびに広がる小麦の素朴な甘みと、丁寧に引かれた黄金色の出汁の旨味が、口の中で爆発的なハーモニーを奏でたのだ。
ピク「美っ味ッ!!? なにこれ、コシが凄くてめちゃくちゃ美味しいんだけど!!」
シル「美味しい……! 麺の締め加減も、出汁の塩梅も完璧です……!」
普段は厳格なシルキーまでもが目を輝かせてお好み焼きを一口食べ、その生地のふんわりとした食感と旨味に感嘆の声を上げた。
あまりのクオリティの高さにアラスターは手に持っていたモノクルをかけ直し、感心と呆れが混ざったような不気味な笑みを浮かべた。
アラ「ほう……例えどんなに普通な人間にも、神様は一つくらいは才能を与えるんですねぇ」
景「それ、褒めてる……?」
遠回しに「普段は普通以下」と言われたような気が……。
アラ「お好きに捉えてください。
……それにしてもピクシー、はしたないですよ。もう少し淑女らしく味わえないのですか?」
アラスターが視線を向けた先では、ピクシーが器に顔を突っ込む勢いで、猛烈なスピードでうどんを平らげていた。
ピク「うっさいわね! 美味いんだからしょうがないじゃない! このコシ、マジでクセになるわよ!」
文句を言い返しながら、ピクシーは「ズズッ! ズズズッ!」と勢いよくうどんを啜り続ける。
絶賛の嵐となった景太の粉物料理と、アラスターの刺激的なジャンバラヤ。
すべてを綺麗に平らげた後、一行は休む間もなく後片付けと洗い物に取り掛かった。
ここでもシルキーの「油汚れは洗う前に古布で拭き取る」「お湯と水の使い分けで洗剤を節約する」といった徹底的な指導が入り、三人は言われた通りにスポンジと布巾を動かした。食後の満足感に浸る暇もなく、ピカピカに拭き上げられた皿が食器棚へと整然と戻されていく。
すべての片付けを終え、水滴ひとつ残っていないシンクを見届けると、シルキーはパンッと手を打って三人をキッチンの前に整列させた。
シル「さて、皆様。先ほどは貴方方の料理をしっかりと見て、味わわせていただきました。景太さんの見事な粉物の技術、アラスターさんのスパイスの効いた郷土料理……それぞれ、大変よい結果が見れました」
厳格な教官の顔から一転、シルキーは穏やかな笑みを浮かべて労いの言葉をかけた。景太はホッと胸を撫で下ろし、ピクシーも「まぁ、アタシはいっぱい食べられたし満足よ」と爪楊枝をくわえ、宙に浮いている。
しかし、シルキーの目が再びキラーンと鋭く光った。
シル「しかし! 栄養のバランスと『飽き』を踏まえて毎日の食卓を考えると、レパートリーは圧倒的に多いほうが良いのです! 炭水化物ばかり、あるいは刺激の強い香辛料ばかりでは、いずれ胃腸を壊します。真のジェントルマンの食卓は、健康と彩り、そして季節感を兼ね備えていなければなりません!」
ビシッとハタキを突きつけるシルキー。その迫力に、景太は思わず背筋を伸ばした。
シル「ゆえに、先ほどの料理は見事でしたが、それはそれ! まずは和洋中の『基礎料理』から、包丁の正しい握り方、火加減の基本に至るまで、徹底的にマスターしてもらいます!」
景&ピク「「イエス・マム!!」」
アラスターの軍隊式特訓で条件反射が染み付いている景太と、すっかりシルキーのペースに飲み込まれたピクシーが、声を揃えて直立不動で返事をする。
アラ「……イエス、マム」
その横で、アラスターは眉間をヒクつかせながら、地を這うような低い声で渋々といった様子で同意した。誇り高き大悪魔が、なぜ下界のキッチンで料理の基礎から叩き込まれなければならないのか。プライドが激しく軋み声を上げていたが自ら「手本を見せる」と豪語してしまった手前、今さら引き下がることはできなかった。
そんなアラスターの葛藤など露知らず、シルキーはとんでもない爆弾発言を投下した。
シル「ああ、そうそう。大事なことを言い忘れていましたが……今日から一週間、この家事ブートキャンプは続きます。ビシバシと厳しく鍛え上げますので、そのつもりでしっかりと覚悟してくださいね」
景「い、一週間も!?」
てっきり今日一日だけの特別レッスンだと思っていた景太は、素頓狂な声を上げて目を剥いた。これからの放課後や休日がすべて、エプロン姿での家事特訓に消えるという絶望的な宣告である。
そして、景太以上に激しいショックを受けていたのが――他ならぬアラスターであった。
アラ「……ッ!!?」
声にならない衝撃。アラスターは目を見開き、片眼鏡を落としそうになるほど硬直した。
一週間。
それはつまりこれからの七日間、この『真っ白で可愛らしいフリフリのエプロンと三角巾』を身に纏い、妖精の指示に従って床を這いつくばって磨き、野菜の皮を剥き続けなければならないということだ。
地獄のラジオデーモンとして恐れられ、常に完璧なスーツ姿で優雅に振る舞ってきた彼にとって、これ以上の屈辱的な試練があるだろうか。
シル「当たり前です。一日で習得できるほど、家事というものは甘くありません。一週間後には、目をつぶっていても完璧なアイロンがけができ、冷蔵庫の残り物だけでフルコースを作れるようになっていただきますからね」
にっこりと、しかし一切の反論を許さない絶対的な圧力で微笑むシルキー。
アラ(……ま、まだ一週間も……この、屈辱的な格好を……続けなければならないと……!?)
アラスターの赤い瞳孔がギリッと収縮し、彼の周囲の空間が微かに歪んだ。
おばあちゃんの知恵袋は実に面白かったがそれとコレとは話は別。
『ジジッ……ザザザァァッ……!!』と、古いラジオのノイズ音が警告音のようにけたたましく鳴り響きかける。怒りで全身の血が沸騰し、今すぐにでも影の触手を解放して暴れ出したい衝動に駆られた。
だが――。
景「アラスター……? なんか、凄い音鳴ってるけど、大丈夫?」
アラ「……ッ、フフ……ニャ、ニャハハハハ……!! な、なんでもありませんよ、ケータくん……!」
「契約者に出来て私に出来ないとなると、逆にプライドが傷つく」という先ほどの己の決断。
アラスターは必死の形相で怒りを腹の底へと押し留めた。
顔の筋肉を引き攣らせながら、極限まで口角を釣り上げて笑い声を絞り出す。握りしめたマイクステッキにはミシミシと亀裂が入りそうだったが、表向きはあくまで「余裕のある紳士」を装うために必死で我慢していた。
ーーー
あれから一週間。
天野家における、妖精シルキーを教官に据えた『地獄の家事ブートキャンプ』は、文字通り一切の妥協なく連日連夜続いた。
学校から帰るや否や、休日の朝から晩まで。景太はランドセルを置く間もなく水色のエプロンを着用させられ、掃除、洗濯、アイロンがけ、裁縫、そして料理の基礎を徹底的に身体へ叩き込まれた。
しかも景太に至っては、シルキーの家事特訓の合間を縫うように、アラスターによる『究極の紳士学』の特訓まで組み込まれていたため、その疲労とスケジュールは小学生の限界をとうに超えるほど過酷を極めていた。
一方、地獄のラジオデーモンであるアラスターにとっても、この一週間は別の意味で地獄であった。
だが幸いなことに、あの屈辱的な『真っ白なフリフリエプロンと三角巾』を装着するのは、あくまで「レッスンの時間中のみ」で良いというルールがシルキーから言い渡されていた。
特訓が終われば、いつものスタイリッシュな赤いスーツ姿に戻れる。当然といえば当然の配慮だが、それだけでアラスターは心の底から安堵し、なんとかプライドを保ちながら一週間を乗り切ることに成功したのだった。
ちなみに、料理の特訓で毎日のように大量生産されたドーナツやクッキー、パウンドケーキなどの手作りお菓子は、決して無駄にはならなかった。
家では両親が「最近のケータは料理に目覚めたのね!」と大喜びで平らげ、ピクシーも「アタシ、もう動けないかも……」と腹鼓を打つほど食べまくった。
さらに学校へ差し入れとして持っていくと、文花をはじめとするクラスメイトたちから「お店の味みたい!」「ケータ君すごい!」と大絶賛を浴び、彼らが美味しく完食してくれたおかげで、景太の株はまたしても無自覚なうちに急上昇していた。
そして――。
長きにわたる激動の1週間が過ぎ去り、ついにその時が訪れた。
シル「これで、私が用意した教育メニューはすべて終了しました」
ピカピカに磨き上げられたリビングの中央で、シルキーが静かにハタキを下ろした。
その言葉を聞いた瞬間、景太、ピクシー、そしてアラスターの三人は、まるで長い戦争を終えた兵士のような顔つきで整列していた。
シルキーは教官としての鋭い眼光を保ったまま、三人の顔を順番に見据えて大声を張り上げた。
シル「ですが、これで全てを知ったと思っていませんか!」
景&ピク「「No, Mom(ノー、マム)!!」」
軍隊さながらの息の合ったコールアンドレスポンス。
シル「これからも日々! 精進しますか!」
景&ピク「「Yes, Mom(イエス、マム)!!」」
シル「特訓は辛かったですか!」
景&ピク「「No, Mom(ノー、マム)!!」」
(本当は死ぬほど辛かったけど!!)と、景太とピクシーは心の中で盛大に涙を流しながらも、一切の表情を崩さずに大嘘を吐き捨てた。
シル「自分で学ぶ事は出来ますか!」
景&ピク「「Yes, Mom(イエス、マム)!!」」
シル「来週もまた私と特訓したいですか?」
「「「…………」」」
それまで完璧なレスポンスを見せていた三人の動きが、ピタリと、まるで時間を止められたかのように完全に固まった。
シル「……ふふっ。まあ、良いでしょう」
やがて、シルキーが小さく吹き出し、鬼教官の仮面を下ろして本来の優しく穏やかな微笑みを見せたことで、三人はようやく肺に酸素を取り戻した。
シル「ここまで弱音を吐かずに頑張った貴方達に、私から最後の言葉を贈ります。……もう、ケータさんはアラスターさんから耳が痛くなるほど聞いているとは思いますが」
シルキーは景太の目を見つめ、透き通るような声で静かに告げた。
シル「『失敗を恐れないでください』」
景「失敗を……恐れない」
シル「ええ。一見、ありきたりな言葉ですが、人生の中で、そして誰かを思いやり、持て成す上で、これほど大事なことはありません。完璧を目指すことは美しいですが、完璧になれない自分を恐れて足を止めてしまえば、そこで成長は終わってしまいます」
シルキーの温かい言葉に、景太は深く頷いた。
すると、横に立っていたアラスターが、エプロンから解放されたいつもの赤いスーツ姿のまま解放されたご機嫌のまま一歩前へ出た。
アラ「その通りです。マムの言う通り、失敗は起きないほうが良いのですが、だからといって恐れて縮こまっていては、貴方本来の調子も出ませんし、いざという時のチャンスも掴めませんからね」
アラスターはステッキをクルリと回し、景太の肩にポンと手を置いた。
アラ「忘れないでくださいケータくん。貴方と私は固い契約で結ばれているのです。
もしもの時、貴方がどんなに取り返しのつかない失敗をしたとしても……この私が必ず貴方を守り、完璧にフォローしてみせますよ!」
景「アラスター……」
頼もしすぎる悪魔の言葉に、景太の胸がジーンと熱くなる。
アラ「ええ! たとえ大勢の淑女の前で貴方の社会の窓が全開になろうが! 不慮の事故で全裸にひん剥かれようが! この私が必ず、誰の記憶にも残らないよう完璧に対処してみせますからね!!」
景「いやいやいや!! さすがに全裸はないでしょう!?」
感動をぶち壊すあまりにも極端で変態的な例え話に、景太は食い気味に激しいツッコミを入れた。
アラ「仮にもしもの話ですよ。まあ、そういう最悪の事態が起きないように、事前の入念な対策と心構えが必要だと言うことです。そのための契約ですからね」
アラスターは愉快そうに笑い声を上げながら肩をすくめた。
景太は呆れ顔になりながらも、心の中では確かな安心感を抱いていた。
まあ、確かに景太は契約で守られてるから本当にヤバい問題は起きないだろう。もしアラスターが裏切ったり、景太を守らなかったりすれば、その時点で契約は切れるはずだし……何より信用問題にも関わる。
アラスターという底知れない悪魔を前にしても、景太がこうしてのびのびと教えを乞うことができるのは、その絶対的なルールの存在があったからこそだった。
シル「ふふっ。貴方たちは本当に良いコンビですね」
二人のやり取りを微笑ましく見守っていたシルキーが、ふわりと宙に浮き上がった。
シル「では、私はそろそろ行きますね。短い間でしたが、とても充実した一週間でした。……最後に、こちらを」
シルキーが景太の前にそっと手を差し出すと、淡い緑色の光が収束し、一枚のメダルへと姿を変えた。
それは、彼女の魂と信頼の証である『悪魔メダル』だった。
景太は両手でしっかりと、その温かいメダルを受け取った。
シル「私は、『妖精シルキー』。ケータさん、どうかその素直な心を忘れないで。……今後とも、よろしくお願いいたします」
美しいお辞儀とともに、シルキーの体は光の粒子となって窓の外の陽光の中へと溶け込み、優雅に去っていったのだった。
ーーー
その日の夜。長かった一週間の特訓とシルキーとの別れを終え、ようやく自分の部屋で静かな時間を迎えた景太は、パジャマに着替えてベッドに入ろうとしていた。
ふと部屋を見回すと、いつもなら影から現れて不気味な存在感を放っているはずの赤い悪魔の姿がないことに気づく。
景「あれ? そういえば、アラスターはどこ行ったの?」
ベッドの上で羽を休めていたピクシーが、あくびを噛み殺しながら天井近くのクローゼットを指さした。
ピク「あぁ。アラスターなら自分の部屋にいるわよ」
景「アラスターの部屋……? 俺の部屋にそんなのあったっけ?」
ピク「アンタの部屋のクローゼットよ。彼奴が影の魔法か何かで、勝手に自分の部屋に改造したの。昼間ちょっと覗いたけど、クローゼットの中とは思えないくらいめちゃくちゃ広くてクラシカルな部屋になってたわよ」
景「へ〜……って、えぇ!? アラスターのやつ、俺のクローゼットを勝手に自分の部屋にしちゃったの!?」
自分の押し入れのスペースが勝手に占領されていた事実に驚く景太だったが、ピクシーは「まぁまぁ」と小さな手で制した。
ピク「でも、今はそっとしておいたほうがいいわよ」
景「え? 何で?」
景太が不思議そうに首を傾げると、ピクシーはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、声をひそめて耳打ちした。
ピク「一週間前、あの真面目なシルキーのペースに乗せられてさ。いつの間にか真っ白で可愛らしいフリフリのエプロンと三角巾を身につけて、ノリノリで掃除機かけたりマッチ擦ったりしてハイになってたでしょ? あれ、後から我に返って振り返ったら相当ショックだったらしくて、プライドがズタズタになって引きこもってんのよ」
景「あ……確かに、アラスターにとっては一生の不覚レベルの大ダメージか……」
地獄の凄腕悪魔としてのプライドを粉々に砕かれたアラスターの境遇を思いやり、苦笑いを浮かべる景太。しかし、一度思い浮かべたその光景は、あまりにもシュールで強烈すぎた。
ピク「……でもさ、正直あれ、めちゃくちゃ受けたわよね?」
景「うん……確かに、あの真っ白なフリフリエプロンを着て満面の笑みを浮かべてたアラスターを思い出しただけでも、また笑いが……」
ふたりが顔を見合わせ、声を殺して吹き出しかけた――その瞬間である。
ズズズズ……ッッ!!!
クローゼットの隙間から、まるで部屋全体の空気が凍りつくかのような、とんでもない暗黒の圧力がドバッと放たれた。チリチリとした怪しいラジオノイズと共に、殺気を含んだ赤いオーラが漏れ出してくる。
景太とピクシーは「ひっ」と息を呑み、笑みを引きつらせたまま完全に動きを止めた。
ピク「……相当荒れてるわね……」
景「……だね。今日は静かに寝よう……」
二人は二度とクローゼットの方を見ないように固い決意を固め、静かに布団をかぶるのだった。
こうして、シルキーによる過酷かつ賑やかな家事ブートキャンプは無事に幕を閉じた。景太の家事スキルと紳士としての立ち振る舞いは格段に上がり、天野家はかつてない平和に包まれた……かに思えた。
この一週間の裏で、もう一つの「大事件」が静かに進行していたのである。
[newpage]
天野家のリビング。景太の母親は、体重計の上で膝から崩れ落ちていた。
景母「どうしよう……」
この一週間、景太が「特訓だから!」と掃除や洗濯、料理に至るまで家事のほとんどを完璧に引き受けてくれたため、母親はすっかり息子に甘えきっていたのだ。
家事から解放されてソファでゴロゴロと過ごし、さらには景太が練習で作るプロ顔負けの絶品お菓子や夕飯を、毎日「美味しいわぁ!」とお腹いっぱい食べ続けた結果…。
体重計の針は、見たこともない恐ろしい数字を指し示していた。
そして、悲劇は天野家だけにとどまらない。それぞれの自宅でも同じような悲鳴があがっていた。
学校での給食の時間、景太が「たくさん作っちゃったから」と善意でクラスに持参した手作りの焼き立てドーナツやパウンドケーキ。文花をはじめとする女子たちは、毎日その美味しさに大興奮し、「ケータくん、お店開けるよ!」「もうひとつ食べていい?」と大喜びで残さず平らげていたのだ。
そして一週間後……。
「「「太っちゃった……」」」
文花たちクラスの女子一同は、体重計が弾き出した残酷な現実に絶望し、頭を抱えて頭を真っ白にさせていた。
景太の完璧すぎる家事とスイーツ作りの才能が、巡り巡って周囲の女性たちに「美味しい悲劇」をもたらしたのはまた別の話である。
きょうの悪魔大辞典
ピク「ケータ。今日の悪魔は?」
景「『妖精シルキー』」
景「えっと…シルキーは本来、寝静まった家に現れ、バレないように家内の雑用をする家事のスペシャリスト…」
景「にしてもシルキー、軍のスパルタ隊長みたいだったな…」
ピク「全員そうみたいよ。まぁ、家事に誇りを持ってるみたいだから中途半端は嫌いなのよきっと」
景「全員が……」
その時、クローゼットがガタリと揺れた。
景「ハハ…聞いてたんだね」
ピク「ビビってたわね…」
すると、クローゼットの隙間から一枚の紙切れが。そこにはこう書かれていた。
「ビビってません」と…。
これを見たピクシーは呆れ、景太は苦笑いをした。