俺はイータの端末を覗き込んだまま、動けなかった。
画面に表示された侵略種の出現マップ。赤い点が、シイナの家を中心にきれいな円を描いている。自然発生なら、こんな分布にはならない。道路沿いに広がるとか、水辺に集中するとか、何かしらの偏りが出るはずだ。
なのに、これはどうだ。
コンパスで描いたみたいに均等な円。家から一定の距離を保って、ぽっかりと空白地帯ができている。まるで、最初からそう決められていたみたいに。
「イータ、このデータは」
「リアルタイム。さっき倒した個体の出現位置も、全部この円の上」
イータの声はいつも通り眠そうだったが、端末を操作する指だけは速い。画面が切り替わり、出現時刻の推移が表示される。最初に庭に現れた男、次に路地から出てきた群れ、その後、俺たちが誘導されるように移動した先で次々と湧いて出た連中。全部、この円の上だ。
「誘導されてたんじゃない。最初から、俺たちをここに配置させられてたんだ」
俺は顔を上げた。
通りの先、シイナの家の明かりだけが、ぽつんと闇に浮かんでいる。侵略種の群れは、あの家に一匹も近づかなかった。近づけなかったんじゃない。近づく必要がなかったんだ。
俺たちを家から遠ざけるのが目的なら、家の中にいるのは誰だ。
「シイナと、セツナだけだ」
俺の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「二人きりにしてきた」
「ツカサ」
ゼータが耳を立てる。金色の尾が、警戒するように一度だけ揺れた。こいつはもう、俺が何を言うかわかっている。
「残敵は」
「あと少し。でも、ここからじゃ家まで距離がある」
「走っても、間に合うかどうか」
俺は答えなかった。代わりに、ライドブッカーを握り直す。指が、無意識にカードを探している。今のフォームで走るより、もっと速く移動できるライダーはいる。カブト、ファイズ、あるいは――。
「ツカサ、行って」
ゼータが、短く言った。
振り返ると、金色の瞳がまっすぐ俺を見ていた。
「こっちはあたしとデルタとイータで片づける。ツカサは家に戻って」
「でも――」
「シイナたちが危ないんだろ。なら、ツカサが行くべき」
ゼータはもう、俺の返事を待っていなかった。背を向け、路地の奥に潛んでいる残敵の方へ歩き出す。デルタがその横に並び、イータが端末を構えて続く。
「早く!」
デルタが振り返らずに叫んだ。
俺は地面を蹴った。
変身は解かない。ディケイドのまま、近くの建物の壁を蹴って屋根へ跳び上がる。視界が開け、島の全景が見渡せた。海、山、住宅地。そして、ぽっかりと浮かび上がる一軒の明かり。
シイナの家までは、直線距離で数百メートル。道路を走れば遠回りになる。だが、屋根伝いなら一直線だ。
俺は走り出した。
屋根から屋根へ跳び移りながら、頭の隅で計算する。家に着くまで、あと何秒。侵略種の残党はゼータたちに任せた。問題は、家の中だ。
あの時、庭に現れた男は言った。「確認だ」と。シイナの中にあるものを確認すると。そして、あの触手でセツナを攫おうとした別の男。二人とも、目的は家の中にいる誰かだった。
俺たちが外に出た後、家に残ったのはシイナとセツナだけだ。
二人とも、今は無事なのか。
いや、考えるな。今はただ、足を動かせ。
呼吸が荒くなる。屋根瓦を蹴るたびに、膝に衝撃が走る。変身していても、全力で跳び続ければ負荷はかかる。けれど、足は止められない。
雲の切れ間から、月明かりが落ちてきた。
シイナの家へ続く一本道だけを、白く照らしている。まるで、そこだけが切り取られたみたいに。家の窓からは、まだ明かりが漏れている。補強板の隙間から、細く、けれど確かに。
俺は最後の屋根を蹴り、シイナの家の庭へ飛び降りた。
着地と同時に、空気の違和感に気づく。静かすぎる。さっきまで戦っていた通りの方からは、まだ警報と避難放送が聞こえている。なのに、この家の周りだけは、音が遠い。まるで、薄い膜に包まれているみたいだ。
玄関の扉は閉まっている。窓には補強板が下りていて、中は見えない。けれど、明かりはついている。リビングの灯りだ。
俺はライドブッカーを構え、ゆっくりと玄関に近づいた。
「シイナ。セツナ」
返事はない。
代わりに、家の中から、かすかな物音が聞こえた。何かが倒れるような、小さな音。
俺はドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。ゆっくりと、音を立てずに扉を開く。
廊下の奥、リビングの明かりが揺れている。
「――シイナ?」
もう一度、呼んだ。
やはり、返事はなかった。
俺が庭に着いた時、すべてはもう終わっていた。
月明かりの下、シイナが立っていた。
背中をこちらに向けて。両腕を後ろへ回し、セツナを胸元に抱き込んで。自分の身体を盾にするみたいに。
セツナの顔は見えない。シイナの肩越しに、淡い桃色の髪がわずかに覗いているだけだ。二人の影が、月明かりに照らされた地面でぴたりと一つに重なっている。
その影を、黒い刃が貫いていた。
男の腕から伸びた、細くて鋭い何か。最初に飛ばしてきた杭とは違う。もっと直接的で、殺すためだけに作られた刃だ。
シイナの背中から入って、胸の前で抱いたセツナまで。二人をまとめて、まるで縫い針みたいに。
音が、消えた。
警報も、避難放送も、風の音も、何もかも。
俺の耳には、何も届かない。
ただ、自分の指がライドブッカーを握りしめる感覚だけが、やけに遠くで感じられた。
右手が、ひとりでに伸びていた。
届くはずがない。この距離じゃ、もう間に合わない。わかってる。わかってるのに、指はまだ、何かを掴もうとしていた。
シイナの膝が、折れた。
セツナを抱いたまま、ゆっくりと、崩れるように。肩が傾き、腰が落ち、地面へ倒れていく。セツナの手が、力なくシイナの背中から滑り落ちた。
赤い雫が、月明かりの下を落ちていく。
一滴、また一滴。
セツナが育てていた鉢植えの白い花の花弁に、ぽたりと落ちて染み込んだ。昼間、セツナが自慢げに見せてくれた花だ。シイナが「うちの妹はすごいんだよ」と笑っていた、あの花だ。
男が、ゆっくりと振り返った。
外套の奥の闇が、俺を捉える。声は、最初に庭で聞いた時と同じ、感情のない平坦な響きだった。
「遅かったな」
俺は地面を蹴っていた。
叫び声が、自分の喉から出ているのか、まだ出ていないのか、わからない。ライドブッカーを握ったまま、ただ走る。距離を詰める。男の腕から伸びた黒い刃が、まだ濡れたまま月光を反射している。
シイナとセツナは、もう動かない。
抱き合ったまま、地面に横たわっている。シイナの腕は、最後までセツナを離していなかった。セツナの手は、最後までシイナの背中にしがみついていた。
姉妹の影が、月明かりの下で一つに溶けている。
赤い雫が、白い花を染めていく。