古ぼけた壁掛け時計の、長針と短針そして秒針が『12』のところで重なった。
部屋の外は宵闇である。時間は正子、午前0時。新たな一日が始まったということだ。
寿命が近いのだろう、チラつき始めた薄暗い電球の下、私はデンジくんに向けたクラッカーの紐を引いた。
狭い部屋の中響き渡る、パン、と軽い破裂音。そして飛び出る色とりどりの紐とキラキラの紙吹雪。
「イェーイ、デンジくんハッピーニューイヤー、イェーイ!」
「……イェーイ」
クラッカーの中身に塗れたデンジくんは、なんとも形容し難い微妙な表情を浮かべて、ピースサインを作っている。
突然クラッカーを鳴らした私に、いったいどう反応したものか、途方に暮れているような顔だ。
私は不満げに頬を膨らませながら、
「もー、せっかくの新年だよ!もっとテンション上げていこうよー」
「んー、でもさ、街の様子もそんな感じじゃないぜ?なんかシーンと静まり返っちゃってさ。日本じゃさ、寺の鐘が鳴ってたり花火が上がったり、もっと賑やかななんだけどな。今日、ホントに正月?」
私は、右手の人差し指を、顔の前でワイパーのように動かしながら、
「チッチッチッ、分かってないねぇデンジくん。台湾ではね、旧暦の正月を盛大にお祝いするかわり、1月1日はそれほど大騒ぎはしないんだよ」
「へえ、そうなのか」
「そう、潜伏先の習俗を勉強してその国に目立たず人知れず紛れ込むのはスパイの基本だよ。デンジくんも早く慣れることだね」
「すげえな、流石だぜレゼ!」
デンジくんの、お世辞とは到底思えない無邪気な褒め言葉を聞いて、私は思わず腰に手を当て、鼻高々のドヤ顔を決める。
そんな私に、しかしデンジくんは小首を傾げながら、
「でもさ、レゼ、普通の人が騒いでない日に、こんなボロアパートでクラッカー鳴らしてお祝いなんかしたら、結構目立つってことなんじゃねえの?」
……。
「あ、デンジくん!今、流れ星!流れ星が光ったよ!」
「えっ、ヘソ隠すんだっけ!?」
「違うよ、それは雷!流れ星には願い事を願うんだよ!3回願い事を唱えれば願いが叶うの!」
「じゃあ俺、幸せになりたい!楽して生きてたい!そんで、ずっとずっとレゼと一緒にいたいぃ!」
──ずっと私と一緒にいたい。
──それが、デンジくんの願い。
不意打ちに等しい愛の言葉に唖然とした私の隣で、デンジくんはぎゅっと目を瞑り、必死の面持ちで手を合わせていた。
一瞬遅れて我に返った私は、思わず彼に抱きつきそうになる。
しかし、ただでさえ痛いところを突かれた後に、衝動に身を委ねるのもどうかと思い、すんでのところで我慢する。
それでも、込み上げる愛情を抑えるためにひとかたならぬ努力が必要だったのだが。
「まったく、きみは本当に……」
私の頬が、堪えきれずに優しく持ち上がる。
おそらく三日月型にほほえんだ私の視線の先で、デンジくんはいつものしたり顔になり、
「よーし、きっちり3回願ってやったぜぇ。これでこの世界の幸せは全部俺のモンだなぁ」
「……そうだね。デンジくんは、きっと世界で一番幸せになるよ。私が、絶対にそうしてみせる」
「なら、俺の願いは叶ったも同然だな」
そう言いながら、窓の外の暗闇に視線をやるデンジくんの表情は、どこか淋しげだ。
「どうしたの、デンジくん?」
「んー?いや、別に大したことじゃねえんだけどさ。よくよく考えてみたら、俺、正月にあんま良い思い出がねぇなって」
おそらく、もう二度と帰ることができないだろうデンジくんの母国──日本のことを思い出しているのか。
胸の奥が、針で刺されたようにチクリと痛む。彼を流浪の逃亡者にしてしまった責任は、全て私にあるからだ。
世界各国を飛び回り、可能な限り痕跡を消して、ようやく辿り着いたこの国、そしてこの狭い部屋。
ここを安住の地にするためには、相応の労苦が続くだろう。まだまだ私達に、安息は遠い。
「ごめんね、デンジくん」
謝罪の言葉が思わず口をついて出る。もう、何度も言った言葉だ。そのたびにデンジくんは、翳りのない不敵な笑みで私を許してくれた。
結局、私がしているのは、許しを請うことではなく、責任の重さを彼に押し付けているだけではないのか。
自己嫌悪がひたひたと心中を這い回っていることを自覚する。
しかしデンジくんは、いつもとは違う、遠い過去を振り返る視線で宙空を見つめ、
「いや、そういうんじゃなくてさ。俺、公安に拾われる前はマジで酷い人生だったんだよ。前に言ったっけ?」
「詳しくは聞いてないかな」
「くそ親父から引き継いだ借金のせいでヤクザに飼われてよ。片目に腎臓、金玉は売っぱらって金に代えちまったし、その金は全部借金のかたに持ってかれちまった。食いもんだって、パンの耳が囓れれば上等、酷い時は虫やネズミ食って腹の虫をなだめてたんだ」
「……」
「それでも年末はさ、結構いい生活が出来てたんだぜ。忘年会っていうのか?あとはクリスマスな。食い残しの料理や廃棄のケーキなんかがポリバケツに詰め込まれてるから、たらふくうまいもんを食えた。でも、正月はどの店も閉まってるから、ろくな残飯がねぇんだよ。そんで、外は凍えるみたいに寒いしよ。そんなこんなで俺が生きるか死ぬかって状況なのに、俺以外の人間は妙に嬉しそうでお祭り気分で……。ああ、俺にはああいう幸せは一生無縁なんだなって思って、なんかつらかった」
「そっか……」
「だから、俺が、正月を祝う側の人間になれたっていうのが、なんか不思議っつうか……実感がねえんだよな」
相変わらず窓の外をぼんやりと見つめるデンジくん。
かけるべき言葉の見つからない私も、思わず彼と同じ方向を眺める。
すると、部屋から漏れ出したほのあかりに照らされて、何か、白いものがちらちらと降っていることに気がついた。
「雪か」
デンジくんが呟く。
──こんな南国でも、雪が降るんだ。
雪。故郷では、雪のない冬など考えられなかった。それも、こんな愛らしい綿雪ではない。礫のように硬い雪が暴風に乗って全身へと叩きつけられるのだ。
容赦なく体温を奪い、全てを凍てつかせる猛吹雪。視界を覆う白い闇。それは紛れもなく、閉塞と死の象徴だった。
──私は、雪が嫌いだ。
雪は、全てを覆い隠してしまう。人々の悲嘆も、無惨な死体も、生きた証しすらも。
一面の銀世界の下には奈落の入り口があり、まるでアリジゴクのように憐れな犠牲者を待ち侘びている。
だから、きっと雪の悪魔は、この世で一番残酷に違いない。
「……い、おい、レゼ!大丈夫か!」
我に返ったとき、目の前に、真剣な表情のデンジくんがいて驚いた。
「デンジくん……どうしたの……?」
「どうしたの、じゃねえよ。いきなり真っ青な顔になって身動き一つしなくなって、話しかけてもびくともしねえし……」
ほう、と、デンジくんが安堵のため息をつく。
そうか、私は、まだ……。
「レゼ、大丈夫か?疲れてるんだったら、早く寝ようぜ」
「……デンジくん、私達が最初に出会った時のこと、覚えてる?」
「ああ?あの電話ボックスの時のことか?」
「あの時、君の顔が、昔飼ってた犬に似てたって言ったよね」
再び窓の外に視線を遣る。雪は、いつの間にか止んでいた。通り雨ならぬ、通り雪だったのだろう。
「祖国でね、私は私と同じような境遇の子供達と一緒に、狭苦しい部屋に押し込められて、毎日毎日つらい実験をさせられてた。その中にね、私のことをお姉ちゃんって呼んでくれて、まるで犬みたいに懐いてくれた男の子がいたの」
「……」
「地獄みたいな吹雪の夜だった。部屋の内側が凍りついて、薄っぺらな毛布なんかじゃ到底暖は取れない。このままじゃみんな死ぬ。それが分かってたから、せめてもの温かさを求めて、私とその子は抱き合って、ふるえながら必死に寒さに耐えていた」
デンジくんを見る。どこにも、あの、名前も知らない少年の面影はない。
どうして二人が似ていると思ってしまったのだろうか、自分でもわからない。だが、確かに少年の痩せこけた笑顔が、デンジくんのそれと重なって見えたのだ。
だから、初めて出会った時、デンジくんを殺すことが出来なかった。
「そして朝になった。私は生き延びた。彼は冷たくなっていた。それだけ」
頬を、冷たい涙が一滴、つうと伝う感触。
何故、涙が流れるのか。あの少年を悼んだのか。幼き日の悲惨な境遇だった自分を憐れんだのか。それとも、あの地獄を一人だけ生き抜いて、新たな幸福を得つつある自身への嫌悪感か。
きっと、人間ならば今の感情に名前をつけて、記憶の中で弔うことが出来るのだろう。それが出来ないということは、まだ私が、爆弾の悪魔のままだということだ。
思わず軽い溜息がついて出る。
そんな私に、デンジくんは困ったような表情で頭をかきながら、
「……お互い、ろくでもねえ人生送ってきたんだな」
「……そうだね。私とデンジくんはそっくりだ」
窓枠に置かれた私の手に、デンジくんの暖かな掌がそっと重ねられる。
「でもよ、ガキのうちにゲロみてぇなどん底の最悪を味わったんなら、後は上がるだけってことだぜ。俺も、レゼも、これからどんどんハッピーになるんだ」
デンジくんは、顔を真っ赤にしながら、固い表情で続ける。
「……俺、絶対にレゼを幸せにするからよ。俺と、その……結婚、してくれねぇ?」
「えっ?」
あまりに予想外の言葉にきょとんとした私に、恥ずかしげにうつむいたデンジくんが、上目遣いで続ける。
「ごめん、本当はもっとちゃんとしたタイミングでさ、一流のホテルで贅沢なディナーでも食いながら言ったほうが良かったんだろうけど……。今のまま、レゼを放っておいたら、いつか、どっかいなくなっちまう気がしてよ」
「……」
「婚約指輪もねぇし、だいたい俺達はこの国の戸籍もまだ買えてないわけだから、ちゃんと結婚出来るのなんていつになるか、約束も出来ねぇけど──」
「いらないよ」
「えっ?」
新たな涙が頬を伝う。
さっきと違うのは、涙の暖かさと、私が笑っているということ。
こんな私にでも分かる。私は今、きっとこの世界で一番幸せなのだ。
「一流のホテルも、豪華なディナーも、婚約指輪もいらない。私は、デンジくんと結婚する。デンジくんと、一生一緒にいる。約束する」
呆然とした様子だったデンジくんの顔が、少しずつ微笑みに変わり、そして満面の笑みを浮かべた時、彼は歓喜と共に跳び上がった。
「ぃよっしゃー、やったー!」
「ちょっとデンジくん、声、大きいよ!夜中だよ、夜中!」
「あ、やべ!」
少し慌ててそう言うと、デンジくんは口を手で覆い隠した。
そして二人で見つめ合い、やがてどちらからか忍び笑いを漏らし合う。
「人生初のプロポーズは大成功だな!」
「そうだね!そして、きっときみの人生で最後のプロポーズだよ!」
「ああ、間違いねえな。レゼみたいな美女と、絶対に別れてたまるもんかよ」
自信満々に言い切ったデンジくん、その胸に顔を埋め、両腕で抱きしめる。
「デンジくん。きみは、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、死がふたりを分かつまで、私を愛し敬い慈しむことを誓ってくれますか?」
「死がふたりを分かつまで?そんなケチくせえこと言うなよ。地獄に落ちても、俺はレゼの手を離すつもりはねぇぜ」
「──そうだね。私達は、死んでも一緒だ」
顔を上に向け、目を瞑る。
少し時間があって、唇に柔らかな感触が降りてくる。
唇から伝わる暖かい体温が、全身へと広がり、幸福へと変わっていく。
身体の奥の、欲望を伝わる司る場所に、小さな火が灯ったことを自覚する。
私は、デンジくんの耳に唇を寄せ、出来るだけ蠱惑的な声色で囁いた。
「デンジくん、デンジくんはぁ、姫始めって言葉、知ってるかなぁ?」
デンジくんの喉が、ごくりと動いた。
「ひ、ひめはじめ?も、もしかして、あっと驚くタメゴローとかですか?」
「惜しい、それはハナハジメだね。っていうか、デンジくん、知識が古いよ」
下手な冗談に、私はくすくすと微笑う。
「お勉強大好きなデンジくんはぁ、姫始めが何か、教えて欲しい?」
「は、はい……おしえてほしいです……」
「正解は、私達みたいな男女が新年に初めてする、セックスのことだよ」
デンジくんの耳が、みるみる紅く染まっていく。
私は内心で微笑む。もう、彼とは何度も閨をともにしているというのに、こうしてこちらから誘うと、うぶな少年のように顔を赤らめるのは変わらない。
そのいたいけのなさが、私はとても好きだ。
「デンジくんは、私と、姫始め、したい?」
「なんか、したくなってきた……!」
「じゃあ、私をお姫様抱っこでベッドまで運んで?」
言うが早いか、私の身体は横抱きに持ち上げられて、早足でシングルベッドに持ち運ばれてしまった。
そして優しく横たえられ、息の荒いデンジくんが覆いかぶさってくる。
「きゃあ、たすけてくださーい、エッチの悪魔に襲われてまーす」
「エッチの悪魔はレゼのほうだろ、このエロ女!」
「それはそうかも。じゃあ、エッチの悪魔を、デンジくんはどうしたいのかな?」
切羽詰まった様子のデンジくん、その情欲の炎を煽るようにそう言うと、
「俺はデビルハンターだぜ?悪い悪いエロ悪魔には、人間様の恐ろしさを分からせてやらねぇとなぁ!」
「いやー、わからされちゃうー!」
そして、あとはもうめちゃくちゃだった。
二人してへとへとのぐちょぐちょになり、ベッドに横たわったまま見た初日の出は、何故だかとても黄色かった。
「もう、煙も出ねぇ……」
デンジくんが、魂が抜けたように呟く。
その横顔をそっと撫で、私は微笑んだ。
「あけましておめでとうデンジくん、今年も一年、よろしくね」