鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
没落武家の娘・松田颯。
剣を持たず、財産もなく、背負う家名もほぼ倒産寸前。
なのに本人だけが、なぜか最強レベルに前向きで図太くて、
そして世の中を値踏みできる怪物の才能を持っていました。
人買いの荷馬車から始まる彼女の旅路は、
涙よりも笑いと勢いに満ちています。
吉原という欲と人情の渦の中で、颯が何を壊し、何を掴むのか。
よければ肩の力を抜いて、彼女の大暴れにお付き合いください。
道行(みちゆき)は愉快に、売り言葉に買い言葉
ガタゴト、ガタゴト。
お尻が痛い。
いきなりで失礼。でも、これが偽らざる今の私の心境だ。地面の凸凹をこれでもかと拾い上げる、車輪の悲鳴のような軋み音。クッション性など皆無に等しい、硬い板張りの荷台。そこに藁が申し訳程度に敷かれているだけなのだから、お尻が悲鳴を上げるのも無理はない。
ここは地獄か、あるいは極楽へ向かう霊柩車か。いいえ、ただの人買い商人が使う安物の荷馬車だ。
薄暗い幌の中、淀んだ空気が充満している。カビ臭さと、埃っぽさと、それから絶望という名の湿っぽい匂い。私の周りには、同じように「商品」としてドナドナされていく娘たちが数人、うずくまっている。誰も彼もが、この世の終わりみたいな顔をしている。まあ、無理もない。親の借金のかたに売られたり、口減らしで出されたり、事情は様々だろうけれど、これから未知の世界へ売られていくのだ。不安で押しつぶされそうになるのが、普通の十代の少女の反応だ。
「うう……っ、ひっ、ぐすっ……」
「おっかあ……帰りだいよぅ……」
あちこちから聞こえる、啜り泣く声。鼻をすする音。陰気だ。あまりにも陰気すぎる。 この湿気で、私の自慢の髪がうねったらどうしてくれるのかしら。
私は懐から、愛用の手鏡を取り出す。縁が欠けているし、映りも悪い安物だけれど、今の私にとっては神器に等しい。わずかな隙間から差し込む月明かりを頼りに、前髪の状態を確認する。よし、まだ崩れていない。私の命であるこの艶やかな黒髪は、今日も完璧な角度で額にかかっている。
「……うう、うぅ……」
隣の娘が、また一段と大きな声を上げる。私の集中力が削がれる。眉間のシワは美容の敵だというのに。
手鏡を懐にしまい、その娘の方を向く。 暗がりでよく見えないけれど、田舎の素朴な娘といった風情だ。名前は知らない。興味もない。でも、これ以上私の美の空間を汚染されるのは我慢ならない。
「あーあー、そこのお嬢さん。ちょっと涙をお止めなさいな」
努めて明るく、軽やかに声をかける。娘がビクッと肩を震わせて、涙で濡れた顔を上げる。
「え……?」
きょとんとしている。自分が話しかけられるなんて思ってもみなかった、という顔だ。
「聞こえなくて? 泣くのを止めなさいと言っているの」
「だ、だって……悲しいんだもん……」
「悲しいのは結構。大いに結構だわ。親元を離れる寂しさ、将来への不安、今の自分の不遇さへの嘆き。どれも人間らしくて素晴らしい感情よ。でもね」
人差し指を立てて、チッチッと舌を鳴らす。
「その涙、成分をご存じ?」
「せ、せいぶん……?」
「そう。涙っていうのはね、塩分が含まれているの。しょっぱいのよ。海の水と同じ。つまりね、そんな塩水をいつまでも肌の上に垂れ流しているということは、顔面を塩漬けにしているのと同じことなのよ!」
娘がポカンと口を開ける。理解が追いついていないようだ。構わず私は畳みかける。
「塩漬けにされた野菜はどうなる?シナシナになるわよね?水分を奪われて、シワシワになるわよね?あなた、自分の顔を古漬けにしたいの?」
「い、いやだ……」
「でしょう? それにね、泣きすぎると目が腫れるわ。充血もする。ただでさえ、あなたは……まあ、包んで言えば『愛嬌のある』、包まずに言えば『十人並み』の顔立ちなのに、目がパンパンに腫れ上がったらどうなると思う?」
両手で自分の目の周りを囲い、グワッと広げて見せる。
「お岩さんよ。あるいは、蜂に刺された子犬。そんな顔、誰が喜ぶの?買い手がつくと思う?つかないわよね。ついたとしても、二束三文の捨て値で買われるのがオチよ」
娘の顔から、サーッと血の気が引いていくのが分かる。
「ひ、ひどい……!」
「酷い?私は親切で言っているのよ。これから私たちは商品棚に並ぶの。少しでも見栄えを良くしておかないと、損をするのは自分自身なのよ?分かったら、さっさと涙を拭いて。鼻水もね。ああ汚い。袖で拭うんじゃないわよ、着物が痛むでしょう!」
私がボロ布を投げつけてやると、娘は慌てて顔を拭い始める。素直でよろしい。教育的指導が完了したことに満足し、私は再び手鏡を取り出そうとする。
その時だ。
「おいコラ静かにしろ! ……って、なんだ今の言い草は」
幌の外、御者台の方から野太い怒鳴り声が飛んでくる。この荷馬車の主、人買いの親父だ。人相が悪く、声もダミ声。絵に描いたような悪役だけれど、根はそこまで腐っていない……と信じたいが、まあ所詮は人身売買を生業にする輩だ。
「血も涙もねえのか、お前は!仲間が悲しんでる時に、塩漬けだの値崩れだの、聞いてりゃ好き勝手言いやがって!」
親父の言葉に、私はフンと鼻を鳴らす。分かっていない。全くもって、商売というものを分かっていない。
「あら親方。盗み聞きとは趣味が悪いですね。私はね、商品管理の話をしているんですよ?」
幌の隙間から顔を出し、親父の背中に向かって声を張る。
「商品管理だと?」
「ええ、そうですとも!私たちはこれから『女』を売りにいくんです。ただの人間じゃない、値札のついた商品なんです。輸送中に傷がついたり、品質が劣化したりしたら、誰が困るんです?親方、あなたでしょう?」
親父が振り返る。月明かりに照らされたその顔は、呆れと困惑で歪んでいる。
「少しでも高く売れるように、己を磨き上げ、最良の状態を保つ。それが武士の……いいえ、女の嗜みというものでしょう?私が彼女に忠告をしたことで、彼女の商品価値は守られた。親方は私に感謝こそすれ、文句を言う筋合いはありません」
言い切って、私は胸を張る。狭い荷台の中だけど、気持ちだけは天守閣の上だ。
親父は口をパクパクさせた後、御者の手下(八五郎というらしい)に顔を向ける。
「おい八五郎……こいつ、本当に没落武家の娘か?実はどっかの悪徳商人の隠し子じゃねえのか?」
「へえ、あっしもそう思います……武士にしちゃあ、口が回りすぎやすぜ」
「失敬な!私は正真正銘、松田家の長女、颯(はやて)ですよ!父上はちょっとばかり借金の計算が苦手で、母上はちょっとばかり着物への出費が激しかっただけです!家柄は由緒正しいんですからね!」
私が抗議すると、親父は「へっ」と馬鹿にしたように笑う。
「計算が苦手だか何だか知らねえが、そのおかげでテメェはこうしてドナドナされてるんだろうが」
「うっ……そ、それは……」
痛いところを突かれる。確かにその通りだ。父上が悪徳高利貸しに騙されさえしなければ、今頃私はお屋敷で優雅にお茶を啜っていたはずなのだ。
でも、過去を悔やんでも仕方がない。私は松田颯。どんな状況でも、ただでは転ばない女だ。
「ふん!過ぎたことを言っても始まりません。重要なのは『今』、そして『未来』です!」
私は強引に話題を変えるため、そして窮屈な姿勢に耐えかねて、ずいっと身を乗り出す。 幌の隙間から這い出るようにして、御者台のすぐ後ろまで移動する。
「おい、危ねえぞ!引っ込んでろ!」
「嫌です。お尻が痛いんです。それに、親方とこれからの事業計画について話し合いたいんです」
「じ、事業計画……?」
親父が嫌そうな顔をするが、私はお構いなしだ。風が心地よい。外の空気は、中の湿気た空気とは大違いだ。 月が綺麗だ。私の前途を祝してくれているようだ。……と、思うことにする。
「ねえ親方。単刀直入に聞きますけど、私をどこに売るつもり?」
私の問いに、親父はニヤリと下卑た笑みを浮かべる。
「へっ、気になりやがるか。お前みたいに口の減らねえ、生意気なアマはな、一番しんどい店に放り込んでやるよ。しつけの厳しい、朝から晩までこき使われるような所にな」
「ほうほう、具体的には?」
「羅生門河岸(らしょうもんがし)あたりがお似合いだな。あそこなら、お前のその減らず口も、三日で聞けなくなるだろうよ」
羅生門河岸。最下層の、いわゆる「切見世」が並ぶ場所だ。環境は劣悪、客層も最悪。一度入れば、心も体もボロボロになるまで搾り取られる、まさに地獄の一丁目。
「……はあ」
大きく、これ以上ないくらい深くため息をつく。呆れて物が言えないとはこのことだ。
「なんだ、ビビったか? 今から泣いて詫び入れても遅いぞ」
「違いますよ! 駄目ですよ! 親方、あなた商売が下手ですねえ!」
「ああん!?」
狭い車内で、バン!と自分の太ももを叩く。着物の上からでもいい音が鳴る。痛い。でも、その痛み以上に、親父の目の節穴っぷりに腹が立つ。
「親方、あなたは宝石を漬物石にするつもりですか?名刀を大根切りの包丁にするつもりですか?自分の手元にある商品の価値を、まったく理解していない!」
「な、なんだと……?」
「よく見てください、この顔!」
自分の顔を、親父の鼻先に突きつける。月明かりが私の美貌を照らし出す(はずだ)。
「整った鼻筋!ぱっちりとした瞳!切れ長の眉!どこをとっても一級品でしょう?確かに今は長旅で少しばかりやつれていますが、化粧をして着飾れば、傾国の美女になる素質が満載です!」
「ちっ……器量はいいのが腹立つな……」
親父が思わず舌打ちをして、視線を逸らす。勝った。顔の良さは認めたようだ。
「それだけじゃありません!見てください、この白魚のような手足!」
袖をまくり上げ、手首を見せつける。武家の娘として、野良仕事など一度もしたことのない、白くなめらかな肌だ。
「傷ひとつ、シミひとつありません。これを作り上げるのに、どれだけの月日と、どれだけの糠袋(ぬかぶくろ)が費やされたと思っているんですか!?」
「知るかよ!」
「そして極めつけは……今はまだつぼみですが、いずれ牡丹のごとく咲き誇る予定の、この胸!」
胸元を強調するように、ぐっと背筋を反らす。正直、今はまだ「つぼみ」というより「種」に近いかもしれない。あるいは「平野に咲く一輪の花」レベルかもしれない。でも、可能性は無限大だ。父方の祖母は巨乳だったと聞く。隔世遺伝に全ての希望を託している。
親父が思わず私の胸元に視線を向け、すぐに気まずそうに目を逸らす。
「……あー、うん。まあ、なんだ。これから育つ……かもしれねえな」
「でしょう?『かも』じゃありません、『必ず』です!私の青写真では、あと三年でたわわに実る予定なんです!」
拳を握りしめる。自信を持つことが大事だ。胸の成長も、自己暗示が9割だと何かで読んだ気がする。
「顔よし、肌よし、将来性よし。これだけの素材、羅生門河岸の安店に売るなんて、ドブにお金を捨てるようなものですよ!親方、あなたは商売人として失格です!」
「ぐぬぬ……言わせておけば……」
親父が唸る。反論できないのが悔しいのだろう。だが、私の話はまだ終わらない。外見だけで勝負するほど、私は浅はかではないのだ。
「しかも私、ただ見た目がいいだけの人形じゃありません。読み書き算盤、お琴に和歌に茶の湯まで、一通り仕込まれております。いわゆる『教養ある武家の深窓の令嬢』ってやつですよ」
指を折りながら、自分のスペックを羅列していく。
「文字が読める遊女は貴重でしょう?客と和歌のやり取りができれば、格が上がります。算盤ができれば、店の帳簿だって手伝えます。お茶を点てれば、風流な客も大喜び。どうです?至れり尽くせりでしょう?」
「……ほう」
親父の目の色が、少し変わる。これは金になると思った時の顔だ。
「芸事の仕込みがいらねえのは助かるが……お前、本当にそれ全部できるのか?」
「もちろんです。琴は『さくらさくら』が弾けますし、和歌は百人一首を三つくらい暗記しています。茶の湯は……まあ、お湯を沸かすところまでは完璧です」
「……なんか微妙に怪しいな」
「謙遜ですよ、謙遜!武士は能ある鷹なんとやらで、爪を隠すものなんです!実際はもっと凄いんですから!」
嘘は言っていない。全部「一通り」は習った。極めたとは言っていないだけだ。でも、ハッタリも実力のうち。自分を高く売るためには、多少の誇張表現は必要不可欠な演出だ。
「これだけの『高機能・高性能』な商品を抱えておきながら、安売りするなんてあり得ません。親方、もっと夢を見ましょうよ。一攫千金を狙いましょうよ」
親父の肩(正確には届かないので腕のあたり)をバシバシと叩く。
「……で、どうしろってんだ」
「決まっているでしょう!吉原の大見世……そう、京極屋(きょうごくや)さんあたりに高値で売りつけるのが筋ってもんでしょう!」
「京極屋ァ!?」
親父と八五郎の声が重なる。京極屋といえば、吉原でも指折りの大見世だ。格式も高く、抱えている遊女も一流ばかりだと聞く。 そして何より、噂では絶世の美女がいるらしい。どうせ売られるなら、一番いい店で、一番いい扱いを受けたい。そしてあわよくば、その花魁とやらと肩を並べ、いずれは追い抜いて、私が店の看板になってやるのだ。
「なんでお前が店まで指定すんだよ!」
親父が叫ぶ。唾が飛んでくる。汚い。
「当然の権利です!私という逸材を預けるにふさわしい器が必要です。それに、京極屋なら親方への支払いだって弾むはずですよ?羅生門河岸で小銭を稼ぐより、ドカンと大金を手に入れた方がいいに決まっています!」
「いや、まあ、そりゃそうだが……京極屋は敷居が高いんだよ。並大抵の女じゃ門前払いだ」
「だから!その『並大抵じゃない女』が、今ここにいるじゃないですか!」
両手を広げ、満面の笑みで自分を指差す。ここ一番のキメ顔だ。
親父は私をじろじろと眺める。値踏みするような、品定めするような、そして少しばかり「こいつに関わると面倒くさそうだな」という諦めを含んだ目つきだ。
「……分かった。分かったよ」
親父がため息交じりに言う。
「とりあえず、京極屋に連れてってはやる。だがな、もし断られたら、その時は問答無用で羅生門河岸行きだ。文句は言わせねえぞ」
「交渉成立ですね!」
パチンと指を鳴らす。
「安心してください親方。私、本番に強いんです。京極屋の主人だろうが、女将だろうが、言葉巧みに籠絡して見せますよ。私の魅力にひれ伏さない人間はいませんからね!」
「……その自信がどこから湧いてくるのか、一度頭の中をカチ割って見てみたいもんだ」
親父がボソリと呟くが、聞こえないふりをする。 隣で手綱を握る八五郎が、ヒヒッと笑う。
「へへっ、親分、こりゃあ道中退屈しなさそうですねぇ」
「違げえねえ。……胃が痛くなりそうだがな」
親父は渋い顔をして、懐から煙管を取り出す。私は勝利の余韻に浸りながら、夜空を見上げる。
月は依然として明るく輝いている。まるで、私の輝かしい未来を予言しているかのようだ。
「あ、親方。ちなみに私、甘いものが食べたいんですけど。道中で団子屋とか寄りません?」
「寄らねえよ! 商品が買い食いすんじゃねえ!」
◆
「というわけで親方。ちと相談があるんですがね」
荷馬車の揺れにもすっかり慣れた頃合いだ。私はあぐらをかいたまま、前方の親父の背中へ声を掛ける。親父が面倒くさそうに片方の耳だけこちらへ向ける。
「なんだ。小便か?野壺ならそこらへんに落ちてるぞ」
「嫌ですねえ、違いますよ。もっと建設的で、夢のある、黄金色のお話です」
ニヤリと唇の端を吊り上げる。 商談の時間だ。
「私が京極屋で高値で売れたとしましょう。そうですね、例えば百両……いや、私の価値からすれば二百両は堅い。その時ですがね、その売値の二割……いや、まけて一割でいいです。私に『分け前』として還元してくださいませんか?」
荷馬車がガタリと大きく揺れる。親父が手綱を取り落としそうになりながら、勢いよく振り返る。
「はあああ!?ふざけんな!お前は商品だぞ!ただの荷物だぞ!親の借金のカタに売られる身分で、何を寝言ほざいてやがる!」
唾を飛ばしながら怒鳴る親父。顔が赤い。血圧が高そうだ。塩分過多の食生活が心配になる。
「えー、ケチ。ドケチ。守銭奴。それくらいの配慮があってもいいじゃないですか」
「配慮もクソもあるか!テメェは売られて、俺は金を貰う。それだけの関係だ!」
「ですがね親方、よく考えてもみてくださいよ。本来なら、泣いて喚いて使い物にならない娘を、私がこうして宥めて、すかして、励まして、商品価値を維持しているんですよ?運送中の品質管理から、事前の教育指導まで、私が全部請け負っているわけです」
親指で、後ろに座る他の娘たちを指し示す。彼女たちは私の指導のおかげで、今は泣くのを止め、各々肌の手入れや髪の整えに余念がない。昨日の夜なんか、私が即興で教えた「お座敷で使える小粋な都都逸(どどいつ)」の合唱練習までしていたくらいだ。
「本来なら仲介手数料……そう、『口銭(こうせん)』を頂いてもバチは当たらない働きぶりでしょう?それをたった一割で手を打とうと言っているんです。なんて慈悲深いんでしょう、私は」
「お前……自分を売るって自覚がまるでねえな……」
「ありますよ。だからこそ、自分の値段は自分で吊り上げるんです。高く売れれば親方は儲かる、私はいい店に行ける、店側は極上の遊女が手に入る。ほら、誰も損をしない。『三方よし』ってやつですよ」
近江商人も草葉の陰で拍手喝采間違いなしだ。親父は呆れ果てたように天を仰ぐ。
「……たく、末恐ろしいガキだ。借金返したあと、その足で遊郭を乗っ取りそうな勢いじゃねえか」
その言葉に、私はパチンと手を叩く。
「おっ!さすが親方、お目が高い!慧眼(けいがん)恐れ入ります!」
「は?」
「それですよ、それ。私の将来の展望。青写真その一です」
身を乗り出し、語り始める。私の壮大なる野望を。
「いいですか?まずは京極屋に入り、瞬く間に売れっ子になります。これは確定事項です。で、金持ちの旦那衆を片っ端から手玉に取り、貢がせ、貯め込んだ金で自分の借金を完済する。ここまでは序の口、いわば準備運動です」
「……じゅんび、うんどう」
「はい。自由の身になった私は、そのまま店に残り、やがては年季明けの遊女たちを束ねて独立。自分の見世(みせ)を持ちます。店の名前は『颯屋(はやてや)』……いや、『松田楼』とかも渋くていいですねえ」
妄想が膨らむ。脳内では既に、金ピカの着物を着た私が、煙管片手にふんぞり返っている姿が再生されている。
「そして商才を発揮して吉原中の店を買収し、組合を掌握し、最終的には吉原の全権を握る!松田颯、吉原に君臨する絶世の美女!眉一つ動かせば大名が転がり、吐息ひとつで蔵が建つ!目指すは、吉原の裏の支配者……女帝です!」
拳を握りしめ、高らかに宣言する。私の背後には、後光が差しているに違いない。親父が口を半開きにして、私を見ている。
「……お前、本当に武家の娘か?どっかの山賊の頭領の生まれ変わりじゃねえのか?」
「失礼な。血統書付きの武家娘ですよ。ただ、ちょっとばかり野心が服を着て歩いているだけです」
「それを世間では強欲って言うんだよ……」
親父は疲れたように首を振る。だが、その目には呆れと共に、微かな畏怖の色が見える。 ふふん、私の器の大きさに気圧されたようね。
「まあ、支配者になるのは十年計画です。とりあえず目下の楽しみは、水揚げ……つまり、初めてのお相手ですね」
私は乙女らしく(ここ重要)、頬に手を当ててうっとりとしてみせる。
「やっぱり最初は、粋で素敵な殿方がいいですね〜。お金持ちで、教養があって、優しくて、顔が良くて、私を崇拝してくれるような。そこは運かなあ。親方、京極屋にはそういう上客、多いんですか?」
「知るか! ……お前の場合、客が逃げ出さないか心配だよ」
「あら、逃がしませんよ。蜘蛛の巣にかかった蝶のように、骨の髄まで愛して差し上げますから」
私がニッコリと微笑むと、親父はブルッと震えて前を向く。八五郎が引きつった笑いで手綱を握り直すのが見える。
私の道行は、まだまだ続く。 野望と希望と、ほんの少しの計算高さを荷台に満載して。
◆
それから数日が過ぎた。 空は晴天。雲ひとつない青空が広がっている。絶好の行楽日和……と言いたいところだが、私たちは相変わらずドナドナの旅路だ。だが、状況は少しばかり変わっている。
「はい八五郎さん、握り飯。今日は塩加減、ちょっと濃いめにしておいたわよ。汗かいたでしょう?」
御者台に座り、横の八五郎に竹の皮に包んだ握り飯を差し出す。
「お、おう。すまねえな颯ちゃん。……って、なんで俺、商品に餌付けされてんだ?」
八五郎が素っ頓狂な声を上げるが、手は正直だ。しっかりと握り飯を受け取り、パクついている。具は梅干しだ。酸味が疲れた体に染み渡るはずだ。
「細かいことは気にしないの。ほら、よく噛んで。消化に悪いわよ」
「へいへい……んめぇな、これ」
「でしょう?私の握る飯は、米粒と米粒の間に適度な空気が含まれていて、口の中でほろりと解ける極上の食感なのよ。料亭の板前だって裸足で逃げ出す腕前なんだから」
自画自賛しながら、私も自分の分を頬張る。うん、美味い。冷や飯だが、噛めば噛むほど甘みが出る。これが私の血となり肉となり、未来の美貌を作るのだ。
「おい、こら颯!なんでお前がそこに座ってるんだ!」
遅れて、親父の声が飛んでくる。親父は少し離れた場所で、馬に水を飲ませていたのだ。 戻ってきてみれば、大事な商品が御者台に鎮座し、手下と仲良く飯を食っている。驚くのも無理はない。
「あら親方、お疲れ様です。親方の分もありますよ。具は昆布です」
「飯の話じゃねえ!見張りはどうした、見張りは!他の娘たちが逃げたらどうすんだ!」
「大丈夫ですよ。みんな、荷台の中でぐっすり昼寝中です。逃げる気力なんてありませんよ」
「そういう問題じゃねえ!八五郎、てめえも何くつろいでやがる!」
八五郎が「ひいっ」と首をすくめる。私はやれやれと肩をすくめる。
「いやあ親分、颯ちゃんが『私が一番逃げないんだから、私がここに座れば見張りいらないでしょ』って、強引に……」
「理屈は合ってるが、絵面がおかしいだろ!商品が御者台に座って、人買いが歩いてるなんて前代未聞だぞ!」
「いいじゃないですか、歩くのは健康にいいんですよ?親方、最近お腹が出てきてますし、ちょうどいい運動です」
「やかましいわ!」
親父が地団駄を踏む。地面の土煙が舞う。汚い。食事中に埃を立てないでほしい。
「それにね親方。私、荷台の中だと酔うんです。私の美貌が車酔いで青ざめたら、商品価値に関わるでしょう?ここなら風通しもいいし、景色もいい。私の輝きを保つためには、この特等席が必要不可欠なんです」
「お前……その口、本当に縫い付けてやろうか……」
親父がこめかみをピキピキさせながら近づいてくる。その時だ。
向こうから、一人の旅人が歩いてくるのが見えた。菅笠を被り、脚絆を着けた、ごく普通の旅人だ。 彼は私たちの一行……というか、御者台で握り飯を食う私と八五郎、そして横で喚く親父を見て、足を止める。
そして、私を見て、ほっこりと微笑んだ。
「おや、精が出ますな。道中でお昼ですかい?」
旅人が愛想よく声をかけてくる。私は瞬時に「武家の娘」から「愛想のいい町娘」へと切り替える。口元の米粒を素早く拭い、可憐な角度で首を傾げる。
「はい、お天道様が高いうちに、腹ごしらえをしておこうと思いまして」
「感心だねえ。それにしても、綺麗な娘さんだ。目元なんか、そこの親父さん似かい?」
旅人が指差したのは、鬼のような形相で立っている親父だ。
時が止まる。八五郎が握り飯を喉に詰まらせて咳き込む。親父の顔色が、赤から紫、そして土気色へと目まぐるしく変化する。
「ちげえよ!!」
親父の怒号が街道に響き渡る。鳥がバサバサと飛び立つ。
「誰がこんな生意気なアマの父親だ! 俺は……!」
「お父っつぁん、よしなよ」
親父の言葉を遮り、すかさず口を挟む。声色は甘く、優しく、親を気遣う孝行娘そのものだ。
「父は照れ屋なんです。人前で家族扱いされると、すぐに顔を真っ赤にして怒るんですよ。頑固親父で困っちゃいます」
ニッコリと愛想笑いを浮かべ、旅人に会釈する。
「ええ、これから家族で江戸見物なんです。父がどうしても、一生に一度はお伊勢さん……じゃなくて、お江戸の空気を吸いたいって言い張りまして。親孝行も楽じゃありませんわ」
「へえぇ、そうかいそうかい。親孝行だねえ。今時、こんなできた娘さんはいねえよ。親父さん、果報者だね」
旅人は心底感心したように頷き、親父の肩をポンと叩く。
「大事にしてやりなよ。嫁に行ったら寂しくなるんだから」
「だ、か、ら……!」
親父が何事か言い返そうとするが、旅人は「じゃあ、道中気をつけてな」と爽やかに手を振り、去っていく。 嵐のように現れ、勘違いという置き土産を残していった旅人。その後ろ姿を見送りながら、私は「ふう」と息をつく。
「危ないところでしたね、親方。あそこで『こいつは売り物の娘だ』なんて言ったら、通報されるところでしたよ。私の機転に感謝してください」
「嘘を吹くんじゃねえ! 詐欺師かお前は!」
親父が吠える。 まるで噴火寸前の火山のようだ。
「お前みたいな娘を持った覚えはねえ! 俺の娘はもっとこう、素直で、可愛げがあって、無口だ!」
「あら、奇遇ですね。私も親方みたいな父親を持った覚えはありません。私の父上はもっとこう、優男で、世間知らずで、頼りない人でしたから」
「自慢になってねえぞ!」
親父は地団駄を踏みすぎて、足元に小さな穴ができている。
「まあまあ、親分。旅の人も褒めてたじゃありませんか。『綺麗な娘さんだ』って」
「八五郎、てめえも調子に乗るな!……くそっ、どいつもこいつも、このアマの顔に騙されやがって」
親父は忌々しげに吐き捨て、私の手から握り飯をひったくる。そして、やけ食いのように大口を開けてかぶりついた。
「んぐっ、むぐっ……ちっ、味だけはいいのが腹立つな……」
「でしょう?私、料理もできるんです。京極屋に行ったら、厨房も仕切る予定ですから」
「お前は体を売れ!飯を炊くな!」
親父のツッコミは的確だが、今の私には馬の耳に念仏だ。私は空になった手を見つめ、新しい握り飯に手を伸ばす。
街道を吹き抜ける風が心地よい。太陽は眩しく、私の未来を照らしている……ような気がする。
「さあ、お腹も膨れたし、出発しましょうかお父っつぁん」
「誰がお父っつぁんだ! 二度と呼ぶな!」
「はいはい。じゃあ、人買いのおじ様」
「もっと悪党っぽくて嫌だわ!」
売り言葉に買い言葉。 私たちの珍道中は、まだまだ終わらない。 この調子なら、江戸に着く頃には、親父の胃袋だけでなく、心臓まで掴んでいるかもしれない。 もちろん、物理的な意味ではなく、掌握という意味でね。
空に向かって、不敵な笑みを投げかける。 さあ、かかってらっしゃい江戸の町。この松田颯が、規格外の「商品」として、殴り込みをかけてあげるわ。
「あ、八五郎さん。その水筒の水、私のなんですけど」
「ぶっ! わりぃ!」
◆
ついに、その時が来る。
長く、お尻の痛い旅路の果てに。埃とカビと、男たちの汗臭さにまみれた馬車旅の終着点。
「おい、起きろ。着いたぞ」
親方のダミ声が、まどろんでいた私の鼓膜を震わせる。私はガバッと跳ね起きる。寝ぼけ眼なんてこすらない。武家の娘は、いついかなる時も臨戦態勢なのだ。 幌の隙間から、外の空気が流れ込んでくる。 それは、今まで吸っていた街道の土臭い空気とは違う。 白粉(おしろい)の甘い香り。線香の煙たいような匂い。そして、人間の欲望と脂が煮詰められたような、濃厚でねっとりとした熱気。
私は勢いよく幌を捲り上げる。
「おお……」
思わず感嘆の声が漏れる。目の前に広がっていたのは、夜の闇を切り裂くような光の洪水だ。
道の両脇には、柳の木がゆらゆらと揺れている。
世間ではこれを「見返り柳」と呼ぶらしい。遊郭で遊び呆けた男たちが、帰り際に名残惜しんで振り返る場所だからだとか。あるいは、売られていく娘たちが、シャバの世界を最後に振り返って涙する場所だとか。 湿っぽい。実に湿っぽい由来だ。でも、今の私には、この柳が「おいでおいで」をする手招きにしか見えない。
そして、その奥。威風堂々とそびえ立つ、黒塗りの巨大な門。吉原大門(よしわらおおもん)。この世とあの世、日常と非日常を隔てる結界の入り口。
提灯の明かりが、まるで星の海のように連なっている。 遠くから聞こえる三味線の音、太鼓の響き、嬌声、呼び込みの声。それらが渾然一体となって、腹の底に響くような重低音を奏でている。
「見えた……」
御者台の縁に足をかけ、仁王立ちになる。夜風が私の前髪を撫でる。
「あれが、私の戦場(いくさば)!」
宣言する私の声は、これ以上ないほど弾んでいる。隣で手綱を握る八五郎さんが、信じられないものを見る目で私を見上げる。
「……へえ、驚いた。普通の娘はここで絶望して泣き崩れるんだけどなぁ。『嫌だ、帰りたくない』って大騒ぎして、親分に引っ叩かれるのがお決まりなんだが」
「泣いてどうなるものでもなし。涙で門が溶けてなくなるなら、いくらでも泣いてやりますよ。でも、そうじゃないでしょう?」
私は鼻を鳴らす。現実は非情だ。泣こうが喚こうが、借金は減らないし、腹は減る。
「どうせ落ちるなら、泥沼じゃなくて金色の泉に飛び込まなくちゃ。同じ『落ちる』でも、着地した先が黄金の山なら、それは『墜落』じゃなくて『着陸』なのよ」
私の理屈に、八五郎さんはポカンと口を開ける。
「ど、泥沼と金色の泉……? 随分とまあ、考え方が極端だねえ」
「人生なんてそんなものですよ。中途半端が一番いけない。やるならとことん、頂点を目指す。それが松田家の家訓です」
「初耳だが、お前の親父さん、そんな立派な人だったか?」
「いいえ。父上は『借金も極めれば徳になる』とか言ってましたけど」
「ろくでもねえ!」
八五郎さんのツッコミを聞き流し、私は着物の襟を正す。長旅で少し着崩れてしまった襟元をピシッと合わせ、帯の位置を直す。懐から手鏡を取り出し、最終確認。 よし、顔色は悪くない。むしろ興奮で頬が紅潮し、天然の頬紅を差したようだ。瞳もギラギラと……いや、キラキラと輝いている。これは売れる。間違いなく売れる。
キリッとした表情を作る。ただの田舎娘ではない。これからこの魔窟で一旗揚げようという、野心家の顔だ。
今、この瞬間から、私は「没落武家の娘」ではない。未来の「花魁(おいらん)」候補生だ。
「さあ親方、行きましょう」
馬の横を歩く親方に声をかける。
「最高値で私を売りさばいてくださいよ?私という原石を見抜けず、安値で買い叩こうとするような節穴な店主がいたら、交渉決裂して結構です」
「……お前、立場をわきまえろよ」
「わきまえているからこそ言っているんです。私の価値を下げるような商いをしたら、化けて出ますからね。毎晩枕元に立って、耳元でお経……じゃなくて、借金の利息の計算式を囁き続けてやります」
親方は顔をしかめ、深いため息をつく。その表情には、疲労と、諦めと、そしてほんの少し「厄介払いができる」という安堵が混じっている。
「……へいへい。とんでもねえ女郎蜘蛛(じょろうぐも)を拾っちまったもんだ。お前に関わったのが運の尽きか」
「あら、蜘蛛だなんて人聞きが悪い。せめて蝶と言ってください。毒蛾でもいいですけど」
「どっちにしろ害虫じゃねえか」
親方が合図を送ると、八五郎さんが手綱を振る。馬車がゆっくりと動き出す。
大門が近づいてくる。 巨大な口を開けた怪物のようにも見えるし、きらびやかな神殿の入り口のようにも見える。 門番の男たちが、鋭い眼光でこちらを見ている。普通の娘なら、あの視線だけで縮み上がるだろう。 だが、私は違う。
ニッコリと、門番たちに愛想笑いを振りまく。門番の一人が、ぎょっとして目を丸くするのが見えた。勝った。何に勝ったのか分からないけれど、とりあえず第一関門突破だ。
馬車が大門をくぐる。その瞬間、世界が変わる。
光。音。匂い。すべてが過剰で、すべてが濃厚。道の両側には、格子造りの店がずらりと並び、格子の奥には着飾った遊女たちが座っているのが見える。彼女たちの視線が、新入りの私たちに突き刺さる。
値踏みするような目、憐れむような目、無関心な目。いいわ、見てなさい。今はまだ、私は荷台の上の薄汚れた小娘かもしれない。でも、数年後には、あなたたちが私の後ろ姿を見上げることになるんだから。
「さあ、案内なさい親方!京極屋はどっちですか!」
「でかい声出すんじゃねえ!目立つだろうが!」
「目立ってなんぼでしょう!商売繁盛!」
私の怒鳴り声に、道ゆく男たちが振り返る。私は彼らに向かって、無駄に手を振ってみる。何人かが振り返してくれた。よし、掴みは上々だ。
こうして文久三年。 世の中が尊王だの攘夷だのと騒がしいこの時代に。 一人の少女が、意気揚々と吉原の門をくぐった。
彼女の名は松田颯。剣の代わりに愛嬌を、鎧の代わりに度胸を身にまとい、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)するこの欲の町に殴り込みをかけたのだ。
彼女がこの街を、そしてこれから出会うことになる鬼たちの運命を、どう掻き回し、どう引っ掻き回し、どう台無しにしていくのか。 それはまだ、誰も知らない。
知っているのは、空に浮かぶお月様と、彼女の腹の中にある真っ黒な野心だけである。
「あ、親方!あの店、団子が売ってますよ!祝いに一本どうですか!」
「うるせえ! 早く歩け!」
私の吉原伝説、これにて開幕。 乞うご期待!
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
颯の声が強すぎて筆が勝手に走り、
気づけばだいぶ長い第1話になってしまいました。
もし読んでいてクスッと笑えたり、
「この娘、将来とんでもないことするな」と思っていただけたなら嬉しいです。
物語はここから吉原へ本格突入。
颯がどんな人物たちと出会い、どう運命を掻き回していくのか、
作者自身もワクワクしながら書いています。
感想をいただけると、
次の話を書くエネルギーが一気に満タンになりますので、
「ここ好き!」「颯がうるせぇ!(褒め言葉)」など、
一言でもぜひ聞かせてください。