鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
風音はついに剣術修行へと足を踏み入れますが……その初日に、まさかの事件が起こります。
常識に従って指導する黒死牟。
常識を知らずに動く風音。
この二つが噛み合った結果、山奥には地割れが起き、黒死牟には「達磨の屈辱」が刻まれ、無惨様には「誤った師弟美談」が報告されることになりました。
上弦の壱をここまで疲弊させる新人が、かつて存在したでしょうか。
それでは、混沌と災害の稽古一日目をお楽しみください。
パン!
乾いた音が、深夜の山奥に響き渡る。私が懐から取り出した手ぬぐいを畳み、即席の扇子として自らの太ももを叩いた音だ。
もはや私の中で恒例行事となった、前回のあらすじ語り。
誰も聞いていなくてもやる。それが演者の矜持というものだ。
観客は、目の前に佇む六つの目を持つ侍、ししょーただ一人。最高の特等席だ。
「さあさあ、語って聞かせましょう、涙と笑いの風音奮闘記!吉原の闇に咲く一輪の徒花、その正体は人食い鬼の風音ちゃん!無惨様の無茶振りにより、青い彼岸花を探すスパイ活動を命じられた彼女は、大名屋敷の筆頭役人・葛城様に嫁ぐことに!新婚初夜の激闘を制し、良き妻として情報を集める日々!しかし!無惨様は満足しない!『貴様は貧弱だ』『剣を覚えろ』と、更なる無茶振りを炸裂!連れてこられたのは、魑魅魍魎も逃げ出す深夜の山奥!そこで待っていたのは、目が六つもある前衛芸術のようなお顔立ちの最強剣士、黒死牟殿でありました!いきなりの素振り一万回!筋肉痛必至!か弱い乙女の運命やいかに!!」
「…………」
静寂。 虫の声さえも遠慮するような、完全なる無音。黒死牟殿は、六つの目を瞬きもせず、私を凝視している。その表情からは、感情が一切読み取れない。呆れているのか、感心しているのか、それとも「こいつを斬っていいか」と無惨様に確認しようか迷っているのか。おそらく最後だろう。
「ししょー!見てくださいこの着こなし!」
私はめげない。鋼の精神力で話題を変える。その場でくるりと一回転して見せる。
今日の私は、いつもの艶やかな着物姿ではない。ジャジャーン!袴姿だ。それも、深い藍色の、いかにも「武芸者」といった風情のパリッとした袴だ。上は白の稽古着。襷も掛けてある。髪は高い位置でポニーテール……じゃなくて、一本に結い上げている。
「葛城家の箪笥の奥から引っ張り出してきました!旦那様の若い頃の稽古着らしいのですが、寸法を少し調整したらピッタリ!どうです?凛々しいでしょう?やはり武芸とは形から入るもの。見た目が強そうなら、敵も『おっ、こいつ出来るな』と警戒して、戦わずして勝てるかもしれません。孫子の兵法にもありそうですし!」
胸を張る。鏡で確認したが、実によく似合っていた。男装の麗人といっても過言ではない。美少女は何を着ても似合うのだ。
「……無駄口を……叩くな……」
黒死牟殿の重低音が、私の自画自賛を断ち切る。
「……着衣など……どうでもよい……。……剣士にとって……重要なのは……心技体……」
正論だ。ぐうの音も出ない。でも、ファッションはモチベーションに関わる大事な要素だと思うのだが。
黒死牟殿は、腰の刀に手をかける。抜くのか?私を斬るのか?いや、違う。彼はゆっくりと、私の方へ歩み寄ってくる。その足運びは、幽霊のように静かで、地面を踏む音さえしない。
「……剣を振るう前に……覚えるべきことがある……」
「覚えるべきこと?座学ですか?武士道とは死ぬことと見つけたり、的な?」
「……違う……。……鬼としての……『再生』だ……」
「再生?」
首をかしげる。再生なら、いつも勝手にしている。姉さん(堕姫)に殴られてもタンコブはすぐに引く。これ以上、何を覚えるというのか。
「……鬼は……首を斬られぬ限り……死なぬ……。……だが……無意識の再生と……意識的な再生は……速度が違う……。……戦いの中では……瞬時の再生が……生死を分ける……」
黒死牟殿は淡々と説く。なるほど。自動回復だけでなく、急速回復のスキルを身につけろということか。
「……見せてやる……。……よく……見ておけ……」
黒死牟殿が、左手で自身の右腕を掴む。二の腕のあたりだ。
「え?何を……」
ブシュッ!!
嫌な音がした。肉が裂け、骨が断たれる音。鮮血が噴き出す。
「ひえっ!?」
思わず悲鳴を上げて飛び退く。黒死牟殿の右腕が、ボトッと地面に落ちたのだ。自分の手で、自分の腕を引き千切ったのだ。
「い、痛い!痛いじゃないですか!何してるんですかししょー!自傷行為ですか!?ストレスですか!?無惨様のパワハラが辛いなら相談に乗りますよ!?」
慌てふためく。だが、黒死牟殿は眉一つ動かさない。断面から血が滴っているが、彼は涼しい顔でそれを見下ろしている。
そして。
ジュワワワワ……。
奇妙な音が響く。切断された右腕の断面が、泡立つように蠢く。肉が盛り上がり、骨が伸び、血管が繋がり、皮膚が覆っていく。まるで、早回しの映像を見ているようだ。ものの数秒。一回か二回、呼吸をする間に。
黒死牟殿の右腕は、元通りになっていた。傷跡一つない。落ちた腕はそのまま地面に転がっているが、本体からは新しい腕が生えている。
「……って、おお!再生した!すごい!手品みたい!タネも仕掛けもないですね!ビックリ人間大集合に出られますよ!」
拍手喝采する。グロテスクだが、それ以上に感動的だ。これが上弦の鬼の再生力か。私の「自然治癒」とは次元が違う。
「……鬼なれば……造作もないこと……」
黒死牟殿は、新しい右腕をグーパーして感触を確かめる。
「……意識を……傷口に集中させ……細胞を活性化させる……。……想像しろ……。……肉が……湧き上がる感覚を……」
彼は私を見る。その六つの目が、「次は貴様の番だ」と語っている。
「……やってみろ……」
「えっ」
自分の腕を見る。白くて、細くて、すべすべの腕。これを?切り落とす?
普通なら躊躇うだろう。恐怖で震えるだろう。だが、私は風音だ。天才にして、好奇心の塊だ。そして何より、「黒死牟殿ができるなら私にもできるはず」という謎の自信がある。
「私もできるの??え?私にも再生できる?本当ですか?トカゲの尻尾切りみたいに、ポンッと生えてくるんですか?」
「……才能が……あればな……」
「あります!才能なら売るほどあります!よし!試そう!善は急げです!」
迷いなく、黒死牟殿に手を差し出す。
「ししょー!刀貸してください!私の薙刀じゃ切れ味悪くて、ノコギリみたいにギコギコしなきゃいけないので!一発でスパッとやりたいんです!」
黒死牟殿は、無言で腰の刀を抜く。異形の刀。刀身に無数の目がついている、気色の悪い……いや、芸術的な刀だ。彼はそれを、切っ先を自分に向けて差し出してくれた。意外と親切だ。
刀を受け取る。ずっしりと重い。そして、刀身の目玉がギョロリと私を見ている。可愛い。
「いきますよー!見ててくださいね!私の華麗なる再生ショー!」
左腕を突き出す。右手に持った刀を振り上げる。
狙うは左手首。躊躇いは無用。思い切りが大事だ。
「ていっ!!」
ヒュンッ!スパァン!!
鋭い音が響く。黒死牟殿の刀は、恐ろしいほどの切れ味だった。私の手首は、豆腐のように呆気なく切断され、地面に転がった。
ドクドクドク……!
鮮血が噴き出す。赤い血だ。温かい血だ。私の命が、勢いよく外へ飛び出していく。
そして。一拍遅れて、痛覚が脳に到達する。
「!!!!!!!」
「ぎゃあああああああ!!痛い!痛い痛い!痛いぃぃぃぃ!!」
刀を放り出し、切断面を押さえて転げ回る。痛いなんてもんじゃない。焼けるような、引き裂かれるような、とてつもない激痛。涙が噴き出し、鼻水が出る。
「血が出る!止まんない!これ死ぬ!出血多量で死ぬ!薬師呼んで!旦那様ー!」
地面をのたうち回る。袴が血で汚れる。せっかくのオシャレが台無しだ。
黒死牟殿が、冷ややかな目で見下ろしている。
「……貴様……馬鹿なのか……?」
「ししょーの嘘つき!治らないじゃん!腕落ちたまんまじゃん!生えてこないじゃん!詐欺だ!誇大広告だ!訴えてやる!」
泣き喚く。傷口を見る勇気もない。ただただ痛い。
黒死牟殿は、深い深いため息をつく。そして、呆れ果てたように告げる。
「……貴様は今……『封鬼化生』で……人間になっておるだろう……」
「え?」
私の動きが止まる。涙目で黒死牟殿を見る。
「……鬼に戻らねば……再生せぬ……。……人間が……腕を切れば……痛いのは道理……」
そうだった。私は今、嫁入り先から抜け出してきたばかり。人間のフリをするために、血鬼術を発動させたままだった。つまり、今の私の肉体強度は、ただのか弱い町娘と同じ。 再生能力なんてゼロだ。
「あ」
自分の切断面を見る。生々しい傷口。白い骨が見えている。そりゃ痛いわ。人間だもの。
「……忘れてました」
テヘッと舌を出す(出そうとして激痛で顔が引きつる)。
「ししょー、先に言ってくださいよぉ。不親切設計ですね」
「……気づけ……馬鹿者……」
◆
「あ、そうでした。ええい、痛いので変身!鬼の状態(モード)!」
これ以上、人間として痛みを味わうのは御免だ。私は目を閉じ、意識を心臓へ集中させる。
ドクン!
心臓が早鐘を打つ。「封鬼化生」の術を解く。封じ込めていた鬼の血を、全身に開放する。
バクン、バクン、バクン!
心音が変わる。重く、強く、激しいリズムへ。全身の血管が膨れ上がる。体温が急激に下がり、代わりに内側から灼熱のような力が湧き上がってくる。
「ふううぅぅぅ……!」
口から白い冷気が漏れる。肌の色が変わる。人間の肌色から、青白くなり……いや、それだけではない。私の鬼としての本性は、もう少し派手だ。
ズズズ……。
皮膚が変色していく。漆黒へ。夜の闇よりも深い、艶のある黒色へ。手足の先から、顔へと、黒い浸食が広がる。
さらに。
ピキピキピキ……。
黒い肌に、亀裂が走る。ひび割れだ。だが、それは醜い傷ではない。裂け目からは、まばゆい黄金の光が漏れ出している。
真っ黒な器に、金色の筋が入ったような。そう、まるで壊れた陶磁器を漆と金粉で修復する技法、「金継ぎ」のような姿。それが、私の鬼としての真の姿だ。
瞳孔が縦に裂け、紅く輝く。額からは、小さな一本角が生える。髪の色も、黒から白銀へと変わる。
「ふふん」
立ち上がる。痛みはもうない。鬼になった瞬間、痛覚が鈍くなり、代わりに力の奔流が体を満たす。
「どうです?私の鬼の姿。闇に輝く黄金!夜空に走る稲妻!ちょっとカッコいいでしょう!!」
ポーズを決める。袴姿に、黒い肌と金の亀裂。異形だが、最高にクールだ(自画自賛)
「(……ほう……)」
黒死牟殿の六つの目が、興味深そうに私を見る。
「(……珍しい……外見だ……。……普通……鬼は醜く……あるいは異形となるが……。 ……これは……美術品のようだな……)」
黒死牟殿の心の声が、なんとなく好意的に聞こえる。やはりこの人、美的センスがあるのかもしれない。目が六つあるだけのことはある。
「さあ、再生のお時間です!」
地面に落ちている自分の左手首を拾い上げる。まだ温かい。自分の手首を拾うというのは、なかなかシュールな体験だ。
それを、切断面にあてがう。
「えいっ!」
くっつける。瞬間。傷口の亀裂から、黄金の光が一層強く輝く。
カッ!!
眩しい光が弾ける。光が接着剤となり、肉と骨を瞬時に繋ぎ合わせる。
一秒。たった一秒で、私の手首は元通りになった。傷跡さえ残っていない。ただ、繋ぎ目にうっすらと金の線が残っているだけだ。まさに金継ぎだ。
「やったーー!くっついた!動く!指も動く!」
左手をグーパーさせる。完璧だ。神経も血管も、元通りに繋がっている。
「便利な体!これなら加須底羅の食べ過ぎで太っても、腹の肉を切り落とせば痩せられますね!画期的!世の女性たちが泣いて羨ましがりますよ!」
究極の減量法を発見してしまったかもしれない。食べたいだけ食べて、余分な肉は切り落として再生。鬼の再生力を使えば、健康被害もゼロだ。天才だ。私はやはり天才だ。
「……発想が……狂っておる……」
黒死牟殿が、ボソリと呟く。その目には、深い深い闇が宿っている。「こいつには関わりたくない」という、切実な拒絶の意思が見える。
「何を言うんですかししょー!鬼の能力は有効活用してこそです!戦いだけじゃなくて、美容と健康にも役立てないと!」
袴の埃を払う。
「さて、再生もマスターしましたし、次はいよいよ剣技ですね!今の私なら、どんな攻撃も怖くありません!切られても治るし、最悪、首が飛んでも自分で拾って乗せればいいんですよね?」
「……首は……死ぬ……」
黒死牟殿が即答する。
「えっ、死ぬんですか?鬼なのに?」
「……日輪刀で……首を落とされれば……死ぬ……。……普通の刀でも……繋がりが断たれれば……死にはせぬが……動けぬ……」
「なるほど。じゃあ首だけは死守します。首ガードの構えを教えてください」
両手で首を隠すような変なポーズをとる。
黒死牟殿は、刀を構え直す。その切っ先が、私に向けられる。
「……構えろ……。……これから……千本……打ち込む……。……受け切れねば……体中が……切り刻まれるぞ……」
「千本!?さっき一万回って言ってませんでした!?減った!?ラッキー!」
「……実戦形式だ……。……死ぬ気で……避けろ……」
黒死牟殿の姿が、ブレる。消えた?いいえ、速すぎるのだ。
「ひいぃぃぃぃ!?」
本能的に枝を振り回す。ガキンッ!!重い衝撃が手に走る。受け止めた?いや、弾き飛ばされただけだ。
「次……」
「待って!タンマ!心の準備が!」
「……戦場に……待ったは……ない……」
無慈悲な連撃が始まる。私は泣きながら、必死に枝を振り回し、転がり、逃げ惑う。
痛い。切られる。再生する。また切られる。再生する。
私の金継ぎの体は、黄金の光を明滅させながら、壊れては治り、治っては壊れるを繰り返す。これは修行ではない。解体ショーだ。
「ししょー!休憩!お茶休憩しましょう!加須底羅持ってきてますから!」
「……いらん……。……続けろ……」
深夜の山奥。私の悲鳴と、黒死牟殿の冷徹な指導の声が、朝まで響き渡るのだった。
この夜、私は一つの真理を学んだ。「形から入るのも大事だが、中身が伴わないとただの肉塊になる」と。そして、「黒死牟殿は意外とスパルタだが、殺さない程度に手加減してくれる優しい(?)人だ」ということも。
まあ、腕を切り落とされた時点で優しさの定義が崩壊している気もするが、細かいことは気にしない。 私は天才なのだから。
「あー!また切れた!今度は足ー!?くっつけなきゃ!タイムタイム!」
「……遅い……」
私の夜は、まだまだ長い。
◆
「そりゃ!とうりゃーー!!」
意味はない。ただ、声を出すと腹筋に力が入り、回避行動の初速が上がる気がするからだ。
私の目の前には、六つの目を持つ侍、黒死牟殿――またの名を「ししょー」が立っている。彼の手には、先ほど私が使っていた木の枝……ではなく、彼が持参した木刀(のような何か)が握られている。 その形状は歪で、所々に棘のような突起があり、見ているだけで痛そうだ。あれで叩かれたら、私の柔肌なんて一瞬で青あざになるだろう。鬼だからすぐ治るけれど、痛いのは嫌だ。
「……まずは……躱してみろ……」
ししょーの低い声が響く。
「……攻撃を……受けぬように……。……死ぬ気で……動け……」
「了解です!死ぬ気はありませんが、生きる気なら満々です!」
元気よく答える。そして、その場で反復横跳びのような奇妙なステップを踏み始める。
ブンッ!!
ししょーの木刀が振られる。速い。目にも止まらぬ速さだ。普通なら、「あ、振ったな」と認識した時には、すでに首が飛んでいる速度だ。だが、私には見える。いや、見えてはいないのだが、なんとなく分かるのだ。「あ、そっちは危ない」という、野生の勘とでも呼ぶべき直感が、私の脳髄に信号を送ってくる。
体を捻る。右へ避けると見せかけて、左へ。さらに、足を滑らせたふりをして、地面スレスレまで体を沈める。
ヒュンッ!
頭上を、凄まじい風圧が通り過ぎる。前髪が数本、散った気がする。
「おっと!危ない危ない!ししょー、今の本気で首を狙ってましたよね?私の美しい首筋に傷がついたらどうするんですか!旦那様が悲しみますよ!」
文句を言いながら、ゴロゴロと地面を転がって距離を取る。格好悪い?知ったことか。生き残るためには、泥に塗れることも厭わない。それが私の美学だ。
「……口を……動かすな……。……足を……動かせ……」
ししょーは無慈悲だ。間髪入れずに、第二撃、第三撃を繰り出してくる。縦斬り、横薙ぎ、突き。変幻自在の剣筋だ。
だが。
(……ふふん。ししょー、意外と優しいわね)
心の中で余裕をかます。
(あんなに速く振ってるように見えるけど、実際には私に当たるギリギリ手前で、殺気)を漏らしてくれている。『ほら、ここに来るぞ』って教えてくれているみたい。接待稽古かな?やっぱり、新入りの美少女には甘いのね。孫と遊ぶおじいちゃんみたいで微笑ましいわ)
調子に乗って、ひょいひょいと避ける。まるで舞を踊るように……と言いたいところだが、実際には酔っ払ったカエルが跳ね回っているような動きだ。規則性ゼロ。リズム感ゼロ。あるのは、「ここにはいたくない」という拒否反応だけ。
その時だ。
ししょーの木刀が、奇妙な軌道を描く。ただ振るっただけではない。その剣先から、何かが飛び出した。
三日月だ。不規則な大きさの、黄色く輝く三日月型の刃のようなものが、空中に撒き散らされたのだ。大小様々、回転しながら私の方へ飛んでくる。
「わあ、綺麗!」
目を輝かせる。夜の闇に浮かぶ、無数の三日月。幻想的だ。血鬼術の一種だろうか。それとも手品だろうか。
興味本位で、近くを飛んでいた小さな三日月に、人差し指を伸ばしてみる。シャボン玉のように、突いたら消えるのではないかと思って。
スパッ。
「あ痛っ!?」
指先に、鋭い痛みが走る。見れば、人差し指の先端が切れ、血が滲んでいる。切れた。シャボン玉じゃない。剃刀だ。
「……最近は三日月が出るようになったんですね。触ってみたら切れました。ちょっと怖いです。危ないですよ、こんな刃物を撒き散らしたら!子供が拾って怪我したらどうするんですか!」
指を舐めながら抗議する。再生力ですぐに治るが、痛いのは事実だ。
「だから避けろー!」
大げさに叫び、迫りくる三日月群から逃げ回る。右へ左へ、上へ下へ。地面に這いつくばったり、木に登ったり、なりふり構わない回避行動だ。
ふと、ししょーの顔を見る。六つの目が、爛々と輝いている。だが、その表情は……。
(……ん?)
違和感を覚える。
(なんか……ししょー、どんどん息が上がってる……?肩で息をしてる気がする。そう言えば、顔色が悪いわね。いつも悪いけど、今日は特に土気色だわ。目も充血してるし……六個とも真っ赤だわ)
私の脳内で、ある仮説が組み上がる。
(そうか。ししょーは、もう四百年以上生きている古株の鬼。人間で言えば、還暦どころか仙人の域だ。いくら鬼とはいえ、寄る年波には勝てないのかもしれない。こんな深夜に、若くてピチピチの私に付き合って動き回るのは、老体には堪えるのね……)
哀れみがこみ上げてくる。ごめんなさい、ししょー。私が元気すぎるせいで、無理をさせてしまって。これはもう、稽古というより老人介護だ。労わらなければ。
「おいたわしや……ししょー」
木刀を避けながら、慈愛に満ちた声で呼びかける。
「もう十分です。無理はいけません。腰を痛めますよ?四十肩ならぬ四百肩になりますよ?休憩しましょう。甘いものでも食べて、一息ついてください」
懐に手を入れる。常に携帯している、私の魂の燃料。油紙に包まれた黄金色の秘宝。
「これ、どうぞ」
ししょーの攻撃の合間を縫って、彼の目の前に加須底羅を差し出す。一切れだけ残しておいた、虎の子の加須底羅だ。惜しいけれど、ししょーの健康のためなら安いものだ。
「糖分は脳の疲れに効きますよ。卵と砂糖の滋味溢れる味わいが、疲れた体に染み渡るはずです。さあ、遠慮なさらず!」
ししょーの動きが、ピタリと止まる。木刀が中空で静止する。六つの目が、一斉に私の手の中の加須底羅に釘付けになる。
時が止まる。静寂。そして、その静寂を破ったのは、ししょーの喉の奥から漏れる、低く、地を這うような唸り声だった。
「…………」
ししょーの眉が動く。六つの目が、それぞれ別の角度に釣り上がる。額の血管が、ビキビキと音を立てて浮き上がる。
(おや?感動しているのかな?弟子の優しさに、言葉も出ないほど感激しているのね)
さらに加須底羅を突き出す。
「あ、食べない?恥ずかしがり屋ですねえ。じゃあ私が半分……」
加須底羅を割ろうとした、その瞬間。
ゴゴゴゴゴ……!!
地響きのような音がした。地震か?いいえ、違う。ししょーから放たれる気配だ。先ほどまでの静かな威圧感とは違う。荒々しく、暴力的で、触れれば切れるような鋭利な殺意の波動。
「……舐めるな……」
ししょーが呟く。
「……貴様……私を……愚弄するか……?」
「えっ?違いますよ?労いです。介護……じゃなくて、敬老の精神です」
「……黙って……死ね……」
ドォォォン!!
爆発音がした。ししょーが木刀を一振りしただけだ。なのに、そこから放たれた衝撃波が、爆風となって私を襲う。
そして、現れたのは三日月。先ほどまでの可愛いサイズではない。私の背丈ほどもある、巨大な三日月の刃だ。しかも、一つや二つではない。十、二十、いやもっと。視界を埋め尽くすほどの斬撃の嵐が、私に向かって殺到する。
周囲の木々が、豆腐のように両断され、なぎ倒されていく。地面がえぐれ、土砂が舞い上がる。災害だ。これはもう、剣術ではなく自然災害の類だ。
「おおっ!」
吹き飛ばされながらも、感嘆の声を上げる。
「すごい!加須底羅を見せたら急に元気になった!糖分を見るだけで脳が活性化したんですね!プラシーボ効果!良かった!まだまだ現役ですねししょー!」
空中で体をひねり、迫りくる巨大三日月を回避する。右へ、左へ、宙返りして。まるで嵐の中の木の葉のように。
「……死ね……!!」
ししょーが吠える。珍しい。いつも冷静沈着な彼が、感情を露わにして怒鳴っている。 よほど加須底羅が嬉しかったのだろう。食べ物の恨み……じゃなくて、食べ物の喜びは偉大だ。
「でも、ししょー!」
地面に着地し、さらにバックステップで距離を取る。
「三日月が大きいだけで、動きが大味です!数が多いからって当たるもんじゃありませんよ!隙間だらけです!」
三日月と三日月の間を、縫うようにすり抜ける。当たれば即死の刃だ。カスっただけで体が両断される威力だ。だが、当たらない。不思議と、当たらないのだ。
「ほっ、はっ、よっと!」
掛け声と共に、めちゃくちゃな動きで逃げ回る。ある時は地面を転がり、ある時は木を蹴って三角飛びをし、ある時はただ単に足を滑らせて転んだおかげで斬撃を回避する。
計算ではない。予測でもない。ただの偶然と、私の天性の「悪運」の産物だ。
「(……何故だ……)」
ししょーの心の声が、風に乗って聞こえてくるようだ。困惑している。最強の剣士が、混乱している。
「(……何故……当たらぬ……。……こやつの動き……理合いが……全くない……。……呼吸も……筋肉の動きも……視線も……。……全てが……デタラメだ……)」
ししょーの六つの目が、高速で動いている。私の次の動きを読もうとしているのだ。「透き通る世界」とやらで、私の筋肉の動きや血流を見ているらしい。だが、無駄だ。
なぜなら。私自身、次に自分がどう動くか分かっていないからだ。
「あ、蝶々!」
目の前を飛ぶ蛾に気を取られ、ふらりと横に動く。その直後、私の元いた場所を巨大な三日月が通過し、後ろの大木を粉砕する。
「危ない危ない。虫を殺生するところでした」
「(……予測が……できぬ……)」
ししょーの木刀を持つ手が、ワナワナと震えている。怒りか、それとも理解不能な現象への恐怖か。
「(……こやつ……天才か……?……それとも……ただの……混沌の塊か……)」
ししょーの思考が、迷宮に入り込んでいく。 武の理を極めた者ほど、理屈の通じない相手には弱いものだ。私はまさに、その「理屈の通じない存在」の筆頭なのだ。
「ししょー!もっと激しくお願いします!まだ汗もかいてませんよ!加須底羅のカロリーを消費しないと、太っちゃいます!」
挑発する。いや、応援する。
「……貴様ぁぁぁ……!!」
ししょーの全身から、どす黒い闘気が立ち昇る。本気だ。さっきまでのは準備運動だったらしい。刀身から無数の刃が伸び、刀そのものが長く、禍々しく変形していく。
「月の呼吸……伍ノ型……」
「あ、技名あるんですね!カッコイイ!」
「月魄災渦!!」
ししょーが刀を振るうことなく、ただ立っているだけで、周囲の空間が斬撃で埋め尽くされる。渦を巻くような、逃げ場のない三日月の嵐。
「ぎゃああああああ!!これは無理!これは避けられない!反則です!審判!イエローカード!」
悲鳴を上げながら、地面に穴を掘って潜ろうとする。モグラ作戦だ。侍の戦い方ではないが、生き残れば勝ちなのだ。
轟音と共に、森の一部が消滅する。土煙が晴れた後には、更地になった地面と、その中央で土まみれになって震える私、そして肩で息をするししょーの姿があった。
「……生きて……おるか……」
ししょーが問う。
「……はい。なんとか。髪の毛がチリチリになりましたが」
土の中から顔を出す。アフロヘアのように爆発した髪型になっている。
「……見事だ……。……今のを……躱すとは……」
ししょーが刀を収める。その顔には、諦めにも似た疲労感が漂っている。
「今日は……ここまでだ……。……帰れ……」
「えっ、もう終わりですか?まだ加須底羅食べてないですよ?」
「……持って帰れ……。……二度と……私の前で……その菓子の名を……出すな……」
ししょーは背を向ける。その背中は、来た時よりも一回り小さく、そして老け込んで見えた。
「お疲れ様でした、ししょー!また明日も来ますね!明日は羊羹を持ってきます!」
元気に手を振る。ししょーがガクッと膝を折るのが見えたが、きっと躓いただけだろう。
こうして。私の地獄の(ししょーにとっては)稽古は、一日目を無事に(?)終えたのだった。 剣の腕が上がったかどうかは定かではないが、逃げ足と図太さだけは確実にレベルアップしている。
帰ったら、旦那様に甘えて髪を梳かしてもらおう。そして、この武勇伝を……いや、それは内緒だ。「ちょっと転んじゃって」と可愛く言い訳をする練習をしながら、私は夜明け前の道を急ぐのだった。
◆
「……隙あらば……斬りかかって……よい……」
ししょーが、切っ先を下げて無造作に立つ。隙だらけに見える。だが、その六つの目は、私の全身の毛穴の数まで数えているかのように、じっとこちらを見据えている。怖い。シンプルに視線が痛い。
「えっ、いいんですか?そんなこと言って、また手首切り落とす気でしょう?私、学習能力は高いんですよ?同じ手には食らいませんからね」
警戒する。これは罠だ。「斬っていいよ」と言いつつ、近づいた瞬間にカウンターで細切れにする、いわゆる「後の先」というやつに違いない。武術の定石だ。
「……構わぬ……。……貴様の剣……見てみたい……」
ししょーが促す。どうやら本気らしい。
「怪我させちゃいますよ?私、手加減とかできないタイプなんです。力加減が0か100しかない極端な性格なので。もし万が一、ししょーのその立派な着物が破れたり、自慢の六つの目のうち一つが潰れたりしても、洗濯代も治療費も出しませんからね!」
「……心配……無用……。……当てられるものなら……当ててみろ……」
挑発だ。完全に子供扱いされている。まあ、実際の実力差は大人と赤子以上にあるのだから、当然なのだが。
しかし。天才・風音を舐めてもらっては困る。私はこの数時間(体感では数年)の地獄の素振りによって、何らかの極意を掴みかけている気がするのだ。例えば、肩の力を抜くとか。深く呼吸するとか。あと、早く終わらせて帰りたいという強い意志とか。
「よし!言いましたね?二言はありませんね?武士に二言はないと言いますからね!」
刀を構える。正眼の構え。基本中の基本だ。
ししょーは動かない。岩のように静止している。その姿からは、「いつでも来い」という余裕と、「どうせ当たらん」という傲慢さが滲み出ている。
(……ふふん。ししょーは相変わらず動きがゆっくりだからなー。私の動きが見えているつもりでしょうけど、今の私は一味違いますよ。なんたって、空腹ですからね!)
息を吸う。吐く。そして。
「えい!!」
踏み込む。何の予備動作もなく。呼吸を整えることもなく。殺気を込めることもなく。 ただ単に、「あ、今だ。今ならいける気がする」と思った瞬間に、体が勝手に前に出た。
ザシュッ!!
乾いた音が響く。手に、重い手応えが残る。
「……あれ?」
立ち止まる。刀を振り抜いた姿勢のまま。
「当たった!」
声を上げる。素振りの成果だ。とにかく、私の刀はししょーの体を捉えたのだ。
「ししょー!やりましたよ!私、才能あるかもしれま……」
私が振り返り、ししょーの姿を確認した、その時だった。
ドサッ。ゴロン。
奇妙な音がして、何かが地面に転がった。
「…………」
「…………」
沈黙。深夜の山奥に、気まずい静寂が流れる。
私の目の前には、ししょーがいた。正確には、ししょーの「一部」がいた。
頭はある。胴体もある。だが。
両腕がない。両足がない。
私の放った一撃は、どういう物理法則が働いたのか分からないが、ししょーの四肢を同時に、かつ綺麗に切断していたのだ。地面に転がる、ししょーの手足。そして、その場に崩れ落ちる、胴体だけのししょー。
それはまるで。子供の遊び道具。積み木崩し。あるいは。
「あ、ししょーが、達磨になった」
思わず呟く。赤い着物を着ているせいか、手足のないその姿は、縁起物の達磨そのものに見える。あとは選挙で当選した時に目を入れるだけだ(もう六つあるけど)
「どーしよー。やりすぎちゃった。加減できないって言ったのに。これ、弁償ものかな? 接着剤あるかな?」
おろおろする。まさか、最強の上弦の壱が、こんなにあっさりバラバラになるとは。もしかして、ししょーはカルシウム不足で骨が脆くなっていたのだろうか。
「(……馬鹿な……)」
地面に転がったししょーの顔が、驚愕に染まっている。六つの目が、限界まで見開かれている。
「(……再生が……追いつかぬほどの……速さ……ではない……。剣速は……凡庸……。 軌道も……拙い……。なのに……)」
「(……何故……私は……反応できなかった……?殺気が……ない……。予備動作が……ない……。呼吸の乱れも……筋肉の収縮も……視線の誘導も……。何一つ……前兆がなかった……。まるで……木の葉が落ちるような……自然現象……。あるいは……赤子が手を伸ばすような……純粋無垢な……凶行……)」
ししょーは混乱している。武の極地にある彼にとって、私の「適当な一撃」は、理解の範疇を超えた「未知の剣」だったのだ。まあ、私自身もどうやったのか分かっていないのだから、彼に分かるはずがない。
「ししょー、大丈夫ですか?痛いですか?手伝いましょうか?あ、でも手がないから私の手も借りられないですね」
親切心で声をかける。
すると。
「……ふん……ぬうううっ!!」
ししょーの顔に、青筋が浮かぶ。いや、青筋どころではない。血管がミミズのようにのたうち回り、どす黒い紋様が浮き上がってくる。怒りだ。本気の怒りだ。プライドを傷つけられた武人の、激情だ。
シュルルルッ!!
音がする。地面に落ちていた手足が、意志を持ったように胴体へと引き寄せられる。
一瞬。瞬きする間もなく。ししょーの四肢は、完全に再生していた。それだけではない。 彼の持つ刀が、形を変える。刀身が伸び、枝分かれし、無数の目がギョロギョロと動き出す。禍々しさ倍増。本気モードだ。
「……良かろう!!……そこまで……やるか……小娘……!!」
ししょーが吠える。大気が震える。
「……久方ぶりに……私の血が……沸いたぞ……。……稽古ではない……。……殺し合いだ……!!……行くぞ!!!!」
ししょーが構える。さっきまでの接待モードではない。殺す気満々の、必殺の構えだ。
普通なら、ここで恐怖に震えて失禁するところだろう。だが、私は風音。天才的なポジティブシンキングの持ち主だ。
「いえーい! 完全復活!さすがししょー!再生速度が段違いですね!私の金継ぎも速いと思ってましたが、上には上がいますね!尊敬します!」
拍手する。
「えーと、ししょーのそれ凄いですね。刀からビームみたいなの出すやつ。月の呼吸?? カッコイイです!私もそれやりたいです!じゃあ真似しよう!パク……いえ、オマージュさせていただきます!」
木刀を構え直す。ししょーの構えを、見様見真似でコピーする。足の位置、腰の角度、腕の高さ。形だけは完璧だ。私の観察眼は、伊達に姉さんの着物の柄を瞬時に数えたりしていない。
「……貴様に……私の剣が……扱えるものか……」
ししょーが冷ややかに言う。だが、私は止まらない。イメージする。月を。夜空に輝く、美しい三日月を。そして、それをバラ撒く自分を。
「いきますよー!見ててください、私の才能の開花を!」
息を吸い込む。深く、強く。
「月の呼吸!壱の型!……えいやっ!」
叫びと共に、木刀を横薙ぎに振るう。全身全霊の力を込めて。鬼の怪力を、一点に集中させて。
ブォォォォォン!!
轟音が響く。三日月は出ない。光る刃も飛ばない。
その代わり。
ドゴォォォォォ!!
凄まじい暴風が巻き起こる。単なる筋肉任せの衝撃波だ。空気を無理やり圧縮して叩きつけただけの、物理的な風圧。それが、扇風機の強風の数万倍の威力となって、前方の地面を抉り取る。
地面が割れる。土砂が吹き飛ぶ。木々が根こそぎ倒れる。
「わあ」
自分の起こした破壊に、目を丸くする。
「やったー!できた!三日月は見えませんけど!なんか凄い風が出ました!これなら洗濯物も一瞬で乾きますね!」
月が出ていないことなど些細な問題だ。威力があればそれでいい。
「……できておらぬ!!」
ししょーのツッコミが、爆風を切り裂いて届く。
「ただ……思いっきり……振っただけだ!!呼吸も……へったくれも……ない!!それは……剣技ではない……!ただの……腕力だ!!」
ししょーが、珍しく声を荒らげて否定する。武の理を冒涜された気分なのだろう。
「えー?でも地面割れましたよ?結果オーライじゃないですか?」
「……違う……。……そうではない……。……はあ……」
ししょーが、ガクリと膝をつく。疲れている。肉体的な疲労ではなく、精神的な徒労感が彼を襲っているようだ。
「……もうよい……。……今日は……解散だ……。……私は……少し……頭を冷やす……」
「えっ、帰っちゃうんですか?せっかく達磨ごっこで盛り上がったのに」
「……帰れ……」
ししょーは背を向けて、森の奥へと消えていく。その背中は、最強の鬼とは思えないほど哀愁に満ちていた。
◆
その夜。私は葛城家の寝室に戻っていた。旦那様は、私の隣ですやすやと眠っている。幸せそうな寝顔だ。まさか妻が、山奥で侍を達磨にしたり、地面を割ったりしてきたとは夢にも思っていないだろう。
布団の中で、こっそりと念話を飛ばす。報告業務だ。できる部下は、日々の進捗を欠かさない。
『無惨様!風音です!聞こえますかー?』
『……報告か』
即座に返信が来る。無惨様も暇なのだろうか。
『どうだ、剣技の習得は。黒死牟の手を焼かせていないだろうな』
『はい!ご安心ください!ししょーはすごい剣士ですね。そして何より、人格者です』
『黒死牟がか?』
無惨様の声に、疑念の色が混じる。黒死牟殿は厳格で、融通が利かないことで有名らしい。
『ええ。私のために、わざと手加減して、ゆっくり動いてくださるんです。私が初心者だからって、自信をなくさないように配慮してくださって……』
言葉に熱を込める。感動的な師弟愛の物語を捏造……いや、演出する。
『私の自信をつけるために、わざと斬られて、達磨になるという体を張ったギャグまで披露してくれました!!「ほら、私ほどの剣士でも油断すればこうなるのだぞ」と、身を持って教えてくださったのです!あんなに強いのに、弟子のためにあそこまで道化になれるなんて……。私、涙が出ました。あの方こそ、真の教育者です!』
『…………』
沈黙。無惨様が絶句している。
『(黒死牟が……達磨に……?)』
無惨様の脳裏に、手足のない黒死牟殿が地面に転がっているシュールな映像が浮かんでいるのが伝わってくる。
『(あの黒死牟が、新入りに遅れを取るはずがない。剣の腕において、奴の右に出る者などいない。だとすれば……風音の言う通りなのか?あの堅物が、風音の奇抜な性格に合わせて、指導方針を変えたのか?体を張って、笑いを取りに行ったというのか?)』
無惨様の推測が、あらぬ方向へと暴走していく。
『(……苦労をかけるな、黒死牟よ。あやつも、長い時を経て丸くなったということか。 あるいは、風音のような馬鹿には、それくらいの衝撃が必要だと判断したか……)』
無惨様の中で、黒死牟殿の評価が「厳格な剣士」から「苦労人の保父さん」へと書き換えられていく。
『……そうか。ならば、その恩に報いるよう励め。黒死牟の厚意を無駄にするな』
『はい!ししょーの介護……じゃなくて、ご指導、頑張ります!明日はお手玉でも持っていって、一緒に遊ぼうと思います!』
『……ほどほどにな』
プツン。通信が切れる。
「ふふふ。これでししょーの評価も爆上がりですね。私ってば、なんて良い弟子なんでしょう」
自画自賛しながら、布団を被り直す。隣の旦那様が、寝返りを打って私の方を向く。その腕が、無意識に私の腰に回される。
温かい。やっぱり、人間の体温はいい。山奥の冷たい風とは大違いだ。
「おやすみなさい、旦那様。明日も平和で、美味しい一日になりますように」
旦那様の胸に顔を埋める。葛城様、ごめんなさい。貴方の妻は、貴方が思っているよりもずっと、たくましくて、そしてちょっとだけ(?)嘘つきです。
でも、それもこれも、青い彼岸花を見つけて、貴方を……そして姉さんたちを守るため。 ……ということにしておこう。
私の新婚生活と、剣術修行の日々は、まだまだ続く。とりあえず明日は、ししょーへの差し入れに、羊羹と接着剤を持っていこうと思う。達磨になった時のために。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
読者の皆さまの感想は、次の方向性の指針になります。
もしよければ――
「黒死牟の胃痛が好き」
「風音の天災ムーブもっと見たい」
「無惨様が一番かわいそうでは?」
「達磨事件で声出して笑った」
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