鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら   作:斉宮 柴野

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パン!

乾いた音が、葛城家の庭先に響き渡る。

私が懐から取り出した手ぬぐいを畳み、即席の扇子として自らの膝を叩いた音だ。

もはや私のライフワークとなった、前回のあらすじ語り。観客は、庭の池で泳ぐ鯉と、松の木にとまっているカラスだけ。カラスが「アホか」と鳴いた気がするが、無視して進めよう。

「さあさあ、語り明かそうぞ、我らがヒロインの華麗なる二重生活!吉原の泥沼から大名屋敷の奥座敷へ、玉の輿に乗った天下の美少女・葛城颯こと、風音!無惨様からの『青い彼岸花を探せ』という無理難題と、『剣を覚えろ』という無茶振りを背負い、昼は良き妻、夜は人食い鬼、深夜は最強剣士・黒死牟殿のサンドバッグとして生きる日々!地獄の特訓の末、謎の回避能力と図太さを手に入れた私は、ついに木冊体の若き隊士・鱗滝左近次と運命の邂逅を果たす!正義の味方と人食い鬼の人妻!本来なら殺し合うはずの二人が、なぜかお茶飲み友達に!?禁断の恋か、それともただの食欲か!風音の明日はどっちだ!!」

「……奥方様。一人で何をブツブツ言っておられるのですか」

背後から、呆れを含んだ、しかしどこか熱っぽい視線を感じる。私はニッコリと振り返る。そこには、私の新しいおもちゃ……じゃなくて、お友達が立っていた。



恩讐の彼方より、勘違いの恋路来たる

時刻は遡り、今日の昼下がり。

 

場所は城下町の大通り。人通りは多いが、どこかピリピリとした空気が漂っている。無理もない。最近、この街では若い娘ばかりが狙われる「神隠し」が多発しているのだから。

 

買い物籠を下げ、上機嫌で歩いている。籠の中身は今夜の夕餉の材料だが、私の腹の中には昨夜食べた町娘(二人前)が詰まっている。満腹だ。肌の調子もすこぶる良い。やはり若い娘のコラーゲンは、美容液百本分に匹敵するわね。

 

そんな私の視界に、一人の男が入ってくる。黒い詰襟の洋装に、腰には刀。木冊体の隊服だ。まだ天狗の面はつけていない、素顔の青年。鱗滝左近次くんだ。

 

彼は険しい顔で、通行人に聞き込みをしている。眉間に皺を寄せ、真剣そのものだ。 うーん、可愛い。あんなに真面目な顔をしているのに、どこか抜けているというか、隙だらけなのがたまらない。

 

忍び足で近づく。気配を消すのはお手の物だ。血鬼術『封鬼化生』のおかげで、鬼の臭いも完全に消えている。さらに、旦那様のコレクションから拝借した、高級な白檀の香油をたっぷりとつけているから、私の匂いは「いい匂いのするお姉さん」そのものだ。

 

「やあやあ、左近次くん。略して『さっくん』!」

 

背後から、彼の耳元で囁く。

 

「……!?」

 

鱗滝くんが、ビクッと肩を跳ねさせる。驚き方が猫みたいで可愛い。彼はバッと振り返り、私を確認すると、ほっとしたように、それでいて困ったように眉を下げる。

 

「……葛城の奥方様。背後に立たれるのは苦手ですので、やめていただきたい」

 

「あらごめんなさい。狩人の性でつい」

 

扇子で口元を隠し、流し目を送る。

 

「狩人……?」

 

鱗滝くんが怪訝な顔をする。彼にとって、狩人という言葉は敏感に反応するワードなのだろう。

 

「ええ。男心を狩る、愛の狩人よ」

 

「…………(赤面)」

 

鱗滝くんの顔が、ボッと音を立てて赤くなる。耳まで真っ赤だ。相変わらず反応が良い。からかい甲斐があるわあ。

 

「(溜息)……それで、今日はどのようなご用件で。あまりお一人で出歩かないよう、忠告したはずですが」

 

彼は咳払いをし、努めて冷静に振る舞おうとしている。でも、視線が泳いでいる。私の顔を見ようとして、照れて逸らし、でもやっぱり見たくてチラチラ見ている。分かりやすい。この子、私のこと好きね?完全に惚れてるわね?人妻だと知っていながら、この純情な反応。背徳的だわあ。

 

「さっくんこそ。この街で色々嗅ぎ回っているらしいじゃない?若い女の子が次々と消えていく……神隠しだとか」

 

話題を変える。確信犯的に。

 

「ええ。……犯人は狡猾です。足取りが全く掴めない。匂いも残さず、痕跡も残さず、煙のように消え失せる」

 

鱗滝くんの表情が引き締まる。木冊体としての顔だ。彼の鼻は特別に利くらしい。鬼の気配や、微かな血の匂いさえも嗅ぎ分けるという。その彼が「分からない」と言うのだから、犯人は相当な手練れだ。

 

「怖い話ねえ。全く、誰が犯人なんだろう?(すっとぼけ)」

 

首をかしげて見せる。名演技だ。

 

(私です。ごめんね、さっくん。犯人は目の前にいる美しき人妻よ。でも証拠はないわ。  骨まで残さずボリボリ食べてるし、着物は質に入れたりせず、その場で燃やして灰にしてるし。私の胃袋の中まで捜査令状は出ないでしょう?完全犯罪ってやつよ)

 

心の中で舌を出す。灯台下暗し。一番怪しい人物が、一番安全な場所にいる。

 

「奥方様も、お気をつけください。犯人は、美しい女性を好むようですから」

 

鱗滝くんが、真剣な眼差しで私を見つめる。

 

「あら。それって、私が美しいってこと?口説いてるの?」

 

「い、いえ!事実を申し上げたまでで……!その……あ、危ないですから!」

 

彼は慌てて否定するが、顔は正直だ。真っ赤になりながら、それでも私を守ろうとするその姿勢。キュンとくるわね。いつか食べるのが楽しみだわ。

 

「ふふ。ありがとう。でも大丈夫よ。私には、とっても強い護衛がいるもの」

 

「護衛……?」

 

「ええ。あなたよ、さっくん」

 

彼の手を取る。剣ダコのある、武人の手だ。

 

「あなたが守ってくれるんでしょう?か弱い私を」

 

「……っ!!」

 

鱗滝くんの手が震える。彼は何かを決意したように、私の手を握り返す……ことはできず、ガチガチに固まってしまった。

 

「は、はい……!命に代えても……!」

 

重い。言葉が重い。でも、その重さが心地よい。

 

「じゃあ、報酬をあげなきゃね。うちでお茶でもどう?旦那様もいるから、安心していいわよ」

 

悪魔の誘い……じゃなくて、健全なお茶会への招待状を渡す。鱗滝くんは「旦那様」という単語に一瞬曇った表情を見せたが、すぐに「……喜んで」と頷いた。やっぱり、私に会いたいの一心なのね。可愛い奴め。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして現在。葛城家の広々とした庭。縁台には、赤い毛氈が敷かれ、優雅なティータイムが開催されている。メンバーは三人。この屋敷の主であり、私の愛する夫。木冊体の若き隊士・鱗滝左近次くん。そして、その二人に愛され、かつ捕食者である私・葛城颯。

 

側から見れば、仲睦まじい夫婦と、その親戚の若者といった風情だろう。だが、その内実は混沌だ。

 

葛城様は、穏やかな笑顔で鱗滝くんにお茶を勧めている。

 

「いやあ、鱗滝殿。若いのに熱心にお役目に励まれて、感心ですな。君のような若者が街の治安を守ってくれていると思うと、私も研究に専念できますよ」

 

旦那様は、鱗滝くんを「公儀の隠密」だと信じている。そして、私の「お友達」として好意的に受け入れている。人が良すぎる。目の前の若者が、自分の妻に横恋慕しているとは夢にも思っていないのだ。

 

「いえ……。葛城殿こそ、このような若輩者を招いていただき、恐縮です。本来なら、任務中の身でお邪魔するべきではないのですが……」

 

鱗滝くんは恐縮しきりだ。正座した膝の上で、拳を固く握りしめている。彼の視線は、葛城様への敬意と、私への熱情と、そして「人妻に手を出そうとしている自分への罪悪感」がない交ぜになって、忙しく動いている。

 

「遠慮しないで。さっくんは私の『目の保養』なんだから」

 

お茶請けの饅頭を齧りながら、爆弾発言を投下する。

 

「……奥方様、その呼び方は……」

 

鱗滝くんが顔を引きつらせる。「さっくん」呼びが恥ずかしいのか、それとも「目の保養」扱いに戸惑っているのか。

 

「なに?嫌なの?」

 

「いえ、嫌というわけでは……。ただ、武人として少し締まりがないと言いますか……。それに、葛城殿の前で……」

 

彼はチラリと旦那様を見る。気を使っているのだ。なんて健気な子。

 

「可愛いからいいの!ねー旦那様?」

 

旦那様に同意を求める。

 

「ははは。そうだね。颯がそこまで気に入るなんて珍しい。きっと、田舎に残してきた弟のように思っているんだね」

 

旦那様が爽やかに笑う。鈍感力がカンストしている。弟?そんな健全な感情なわけがない。

 

(弟?いえ、『非常食』兼『観賞用』です)

 

心の中で訂正する。

 

(可愛いペットであり、いざという時のカロリー源であり、そして私の退屈な日常を彩るスパイス。弟なんて生温るい関係じゃないわ)

 

「ほら、さっくん。お饅頭お食べ。あーんしてあげようか?」

 

食べかけの饅頭を差し出す。

 

「け、結構です!自分で食べられます!」

 

鱗滝くんが慌てて自分の饅頭を口に放り込む。喉に詰まらせて咳き込む姿もまた、愛らしい。

 

それにしても。鱗滝くんの鼻は、本当に優秀らしい。彼が時折、クンクンと鼻を動かして、不思議そうな顔をしているのを私は見逃さない。

 

(迷っているわね、さっくん。私の匂いに)

 

香油をたっぷりとつけている。だが、それだけではない。「封鬼化生」の術は完璧だが、それでも「何か」を感じ取っているのかもしれない。鬼の臭いではない。もっと本能的な、危険な香り。

 

でも、彼はそれを「鬼」だとは認識していない。なぜなら、彼は私に恋をしているからだ。恋は盲目。そして嗅覚さえも狂わせる。彼が感じている違和感を、彼は「恋のドキドキ」だと脳内変換しているのだ。あるいは、「人妻という禁断の果実の匂い」だと勘違いしているのかもしれない。

 

(ふふふ。哀れで可愛いさっくん。貴方が私の正体に気づく日は来るのかしら?それとも、気づかないまま私に骨抜きにされるのかしら?)

 

お茶を啜る。宇治の高級茶だ。美味しい。人間として生きる喜びを噛み締める。

 

「ところで、鱗滝殿」

 

旦那様が話題を変える。

 

「例の神隠しの件ですが、何か手がかりは?」

 

「……はい。まだ確証はありませんが、被害者の足取りを追うと、ある共通点が見えてきました」

 

鱗滝くんの顔つきが変わる。仕事モードだ。

 

「共通点?」

 

「ええ。消えた娘たちは皆、日中に『着物の良さそうな御婦人』と会話している姿を目撃されています。おそらく、その御婦人が何か情報を握っているか、あるいは……」

 

ドキッ。

 

私の心臓が一瞬止まる。バレてる?いや、目撃情報があるだけだ。私の顔までは割れていないはず。変装……はしていないけれど、私の美貌は見る者によって印象が変わる「魔性の女」仕様だから大丈夫なはずだ。

 

「まあ、怖い。御婦人が犯人ってことですか?女の人攫い?」

 

白々しく驚いてみせる。

 

「いえ、まだ分かりません。ただ、その御婦人は非常に口が達者で、親しげだったとか。  ……まるで、獲物を誘う蜘蛛のように」

 

鱗滝くんが鋭い視線を庭に向ける。勘が鋭い。

 

「怖いですねえ、旦那様。私みたいに、口が達者で親しみやすい美人も、疑われちゃうかしら?」

 

旦那様の腕にすがりつく。

 

「ははは。まさか。颯は虫も殺せない優しい子じゃないか。ねえ、鱗滝殿?」

 

旦那様が同意を求める。

 

鱗滝くんは、私を見る。その目は、捜査官の目ではない。恋する男の、蕩けた目だ。

 

「……はい。奥方様のような……清らかな方が、そのような非道を行うはずがありません。奥方様からは……とても良い香りがしますから」

 

彼は頬を染めて断言する。勝った。完全に私のフェロモン勝ちだ。香油と色仕掛けのコンボは最強ね。

 

「嬉しいこと言ってくれるじゃない。やっぱりさっくんは私の味方ね!」

 

ウィンクを送る。鱗滝くんは撃ち抜かれたように硬直する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……罪なき娘を奪うなど、決して許されぬ悪行。犯人が鬼であれ人であれ、必ずや私が、その報いを受けさせてやります」

 

さっくんの声は低いけれど、力強い。正義の味方そのものだ。私が犯人だと知ったら、その刀で私の首を撥ねようとするのかしら。それとも、愛ゆえに苦悩して、「君を斬って私も死ぬ!」なんて心中コースかしら。どっちもドラマチックで悪くないわね。

 

「報い、ですか」

 

湯呑みを傾けながら、優雅に微笑む。

 

「まあ、世の中うまくできてますからねえ!良いことをすれば良いことが返ってくる……わけではないけれど、恩なり徳なりを施せば、それなりの報いが返ってくる。みたいな?」

 

「因果応報ですね」

 

「そう。そして恨みを買えば、仇が返ってくる。それが『恩讐』よね!」

 

頷く。深い言葉だ。でもね、さっくん。貴方は一つ勘違いをしているわ。

 

その点、私は安心!完全無欠の品行方正だもの!

 

心の中で胸を張る。

 

だって、私が食べた娘たちを見てみなさいよ。あのまま生きていたって、貧乏な長屋で、酒乱の亭主の暴力に怯えたり、姑にいびられたり、病気で苦しんだりするだけの人生だったかもしれないじゃない?薄汚い世界で、皺だらけのお婆さんになって一生を終えるより、今一番美しい瞬間に、私の血となり肉となり、永遠の美貌の一部になれたのよ? これって、究極の栄転じゃない?

 

私の体の中で、彼女たちは永遠に生き続ける。私の美しさを支える礎として。私の活力として。これ以上の幸せがあるだろうか。いや、ない。

 

つまり私は『徳』を積んでいる!人助けをしている!救済している!歩く慈善事業団体、それが私よ!

 

私の論理は完璧だ。どこにも破綻はない。自己正当化?いいえ、真理の発見です。

 

「ふふっ。私は死んでも極楽に行けること間違いなしな、いい女だわ。閻魔様も、私の顔を見たら『どうぞどうぞ、特等席へ』って案内してくれるはずよ」

 

「……奥方様?なぜそこで自信満々に?」

 

さっくんがポカンとしている。私の高尚な精神性に、理解が追いついていないようだ。

 

「日頃の行いが良いからよ。私、毎日三食きっちり食べて、よく寝て、旦那様を愛しているもの。これ以上、人として正しい生き方があるかしら?」

 

「は、はあ……。確かに、健康的ではありますが……」

 

さっくんは苦笑いする。困ったような顔も可愛い。いつかその顔を、恐怖と絶望……じゃなくて、快楽で歪ませてあげたいわ。

 

 

 

 

 

 

 

「おや、茶が切れてしまったね」

 

旦那様が、急須を振って言う。

 

「颯、すまないが代わりの茶葉を持ってきてもらえるかい?」

 

「あら旦那様。座っていてくださいな。私が……と言いたいところですが、足が痺れて動けませんの」

 

嘘をつく。鬼が正座ごときで痺れるわけがない。ただ、旦那様を席から外させて、さっくんと二人きりになりたいだけだ。策士だわ、私。

 

「そうか、無理はいけないね。じゃあ私が取ってこよう。鱗滝殿、少し待っていてくれ」

 

「あ、すみません葛城殿。お気遣いなく……」

 

旦那様は笑顔で立ち上がり、母屋の方へと歩いていく。その背中が完全に見えなくなるまで、私はじっと見送る。そして。

 

庭には、私とさっくんの二人だけ。小鳥のさえずりさえも、空気を読んで静かになった気がする。

 

居住まいを正し、少しだけ着物の襟を寛げる。白いうなじが、初夏の風に晒される。さあ、どう出る?若き木冊体士よ。

 

すると。空気が変わった。

 

「…………」

 

さっくんの雰囲気が、一変する。先ほどまでの、純朴で照れ屋な好青年ではない。鋭い。刃物のような鋭利な気配が、私に向けられる。

 

彼は鼻をひくつかせている。犬のように?いいえ、獲物を探る狼のように。

 

(……おかしい)

 

さっくんの心の声が、表情から読み取れるようだ。

 

(この奥方様からは、微かにだが……違和感のある匂いがする。白檀の香油の奥に、何か別の……。人の匂いだが、どこか人工的な……。作り物のような、完璧すぎる匂い)

 

バレてる?いや、まだ確信には至っていない。私の血鬼術『封鬼化生』は、生物学的にも人間に偽装している。匂いも人間そのものだ。だが、彼のような勘の鋭い「野性児」には、その「完璧さ」がかえって不自然に映るのかもしれない。

 

そして。彼の視線が、私の顔から、首元へ。そして手首へと移動する。じっと。穴が開くほど見つめている。

 

凝視。それはもう、無礼なほどに熱心な視線だ。彼の瞳孔が開いている。呼吸が荒くなっている。額に汗が滲んでいる。

 

(……この視線。獲物を狙うような……。いや、私の考えすぎか?だが、この衝動はなんだ?彼女を見ていると、胸がざわつく。抑えきれない何かが、体の中で暴れだす)

 

さっくんは葛藤している。膝の上の拳が震えている。今にも飛びかかりそうな、ギリギリの緊張感。

 

普通なら、「怪しまれている」と警戒するところだろう。姉さん(堕姫)なら、「殺気よ!逃げなさい!」と叫ぶところだ。

 

だが。私は風音だ。世界一ポジティブで、自分に都合のいい解釈しかしない天才だ。

 

あら……

 

扇子で口元を隠し、流し目を送る。

 

旦那様がいなくなった途端、この熱い視線!分かりやすいわあ。さっくんったら、絶対私にベタ惚れよね!夫の目を盗んで、人妻を貪るような目つき!

 

これは殺気ではない。欲情だ。抑圧されたリビドーの爆発寸前の状態だ。

 

あの目!私の首筋を見てる……。あそこは頸動脈が通っている急所。つまり、キスマークをつけたい場所ナンバーワンよ!食いつきたいのを我慢してる顔だわ!「今すぐ押し倒して、その白い肌に歯形をつけたい」って顔に書いてある!

 

間違いない。彼は今、理性と本能の狭間で揺れ動いているのだ。「人妻だから駄目だ」という倫理観と、「欲しい」というオスとしての本能が戦っている。

 

可愛いわねえ。そんなに我慢しなくていいのに。私なら、ウェルカムよ?旦那様公認(ではないけど)の愛人枠、空いてますよ?

 

少し体を乗り出す。わざと隙を見せる。誘うように。

 

「ねえ、さっくん。どうしたの?そんなに怖い顔して。私に何か……『したい』ことでもあるのかしら?」

 

意味深に問う。

 

「っ……!」

 

さっくんが息を呑む。彼の理性の糸が、ピーンと張り詰める音が聞こえるようだ。

 

「……奥方様。あなたは……一体……」

 

「一体、なに?」

 

「……いえ。何でもありません。ただ……あなたは、とても……」

 

彼は言葉を濁す。「怪しい」と言おうとしたのか。それとも「美しい」と言おうとしたのか。私の中では後者で確定だ。

 

「とても、魅力的?ふふ。正直でよろしい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ふふ。さっくん」

 

湯呑みを置き、扇子で口元を隠しながら、上目遣いに彼を見る。

 

「はい」

 

彼は即答する。軍人のような、短く硬い返事だ。でも、声が上擦っている。

 

「そんなに見つめられると、穴が開いちゃうわ。私の顔に、何かついていて?それとも……食べちゃいたいくらい、可愛い?」

 

小首をかしげる。あざとい。自分でも引くほどあざといが、男というのはこういうベタな攻撃に弱いものだ。

 

「……失礼。少し、気になることがありまして」

 

さっくんは視線を逸らそうとしない。真面目だ。不器用なほどに真面目だ。その真剣な眼差しが、捜査官としての疑惑なのか、それとも恋する男の執着なのか。私には後者にしか見えない。

 

「気になる?私のどこが?」

 

さらに畳み掛ける。攻め時だ。旦那様が戻ってくるまでの、僅かな空白時間。ここで彼を完全に陥落させておく必要がある。

 

わざと、着物の襟元に手をかける。少しだけ、くつろげるように。白く滑らかな鎖骨が、初夏の日差しに晒される。頸動脈がドクンドクンと脈打つ、生命の急所。鬼にとっても、そして男にとっても、最も食欲をそそる部位だ。

 

身を乗り出す。縁台ごしに、彼との距離を詰める。私の吐息が彼に届く距離まで。

 

「我慢しなくていいのよ?」

 

「若いんだから。衝動に正直になっても、誰も責めはしないわ。ここは私の庭。見ているのは、空のアホなカラスだけよ」

 

「……衝動?」

 

さっくんが息を呑む。彼の視線が、私の目から、露出した鎖骨へと吸い寄せられる。喉仏が大きく動く。ゴクリ、という音が聞こえた気がした。

 

彼の額に、玉のような脂汗が浮いている。拳が震えている。膝の上の布を握りしめすぎて、指の関節が白くなっている。

 

ああ……

 

内心で歓喜する。

 

なんて分かりやすいの。葛藤しているわ。「人妻に手を出してはいけない」という倫理観と、「この女を我が物にしたい」という雄の本能が、彼の中で関ヶ原の戦いを繰り広げているのね!

 

彼は、私の匂いに気づいている。「違和感」を感じている。だが、それを「鬼の気配」だと断定できない。なぜなら、彼の心が私に奪われているからだ。「怪しい」という警鐘を、「恋しい」という大音量のファンファーレがかき消しているのだ。哀れで、そして愛おしい。

 

ガシッ!!

 

突然、強い力が私の手首を掴んだ。彼が、耐えきれずに私の手を取ったのだ。熱い。火傷しそうなほどの手の熱さだ。

 

「……っ!」

 

彼は何も言わない。ただ、私を見つめている。その目は充血し、獣のようにギラついている。今にも私を押し倒し、その喉元に食らいつかんばかりの勢いだ。

 

きゃっ!

 

ときめく。恐怖ではない。興奮だ。

 

手!手を出してきたわ!我慢の限界を超えたのね!顔を真っ赤にして、涙目になって……そんなに私が魅力的!?人妻への背徳感と戦いながら、それでも触れずにはいられなかったのね!可愛い!!食べちゃいたい!!

 

私の食欲も刺激される。この純情な青年の、煮えたぎるような血。きっと甘酸っぱくて、濃厚で、極上の味がするに違いない。ああ、お腹が空いてきた。旦那様というメインディッシュを温存するために、彼を前菜にしてしまいたい衝動に駆られる。

 

でも、ダメだ。ここで彼を食べたら、物語が終わってしまう。それに、まだ旦那様が戻ってきていない。楽しみは後にとっておくものだ。

 

「ダメよ、さっくん」

 

彼の手を握り返す。優しく、諭すように。

 

「旦那様が戻ってくるわ。焦らなくても、私は逃げない。貴方のその情熱は、もっと相応しい場所と時間のためにとっておいて」

 

「……奥方様。貴女は……」

 

さっくんが、絞り出すように声を出す。

 

「貴女は……一体……何者なのですか……。この匂い……この引力……。私は……自分が自分でなくなってしまいそうだ……」

 

彼は苦しんでいる。私というブラックホールに吸い込まれそうになっている。正解だ。私は底なしの沼だ。一度ハマれば、二度と抜け出せない。

 

「何者、か」

 

「ただの、恋する人妻よ。少しだけ……欲張りなだけのね」

 

「……っ」

 

鱗滝くんが、何かを言いかける。問い詰めようとしたのか、それとも愛の告白をしようとしたのか。

 

その時だ。

 

「お待たせ」

 

のんきな声が、背後から降ってくる。旦那様だ。一番いいところで、一番空気を読まずに、一番平和な顔をして戻ってきた。

 

「お茶菓子も持ってきたよ。あそこの有名なお店の羊羹だ。鱗滝殿も甘いものは好きかな?」

 

旦那様はお盆を持って、ニコニコと立っている。私とさっくんの手が重なっていることにも気づいていないのか、それとも「仲が良いな」くらいにしか思っていないのか。本当に、この人の鈍感さは世界遺産レベルだ。

 

「……!!」

 

さっくんが、弾かれたように手を離す。バッと姿勢を正し、直立不動になる(座ったままだけど)

 

「……か、葛城殿!お気遣い、感謝いたします!」

 

声が裏返っている。顔はトマトのように赤い。完全に「現場を見られた間男」の反応だ。

 

「ちっ……」

 

小さく舌打ちをする。扇子で隠しながら。

 

「いいところだったのに。旦那様ったら、間の悪い人」

 

「ん?何か言ったかい?颯」

 

「いいえ!羊羹、嬉しいですわ!さっくんと一緒にいただきましょうね!」

 

満面の笑みを取り戻す。さっくんは俯いて、肩を震わせている。罪悪感で押しつぶされそうだ。その背中をさすってあげたい。「大丈夫よ、バレてないわよ(貴方の恋心は)」と慰めてあげたい。

 

 

 

 

 

 

 

楽しいお茶会も終わり、夕暮れ時。 空が茜色に染まり、カラスたちがねぐらへ帰る時間。それは、私たち鬼にとっての「おはよう」の時間でもある。

 

門の前まで、さっくんを見送りに出る。旦那様は書斎に戻ってしまったので、二人きりだ。

 

「では、これにて。……長居をしてしまい、申し訳ありませんでした」

 

さっくんが深々と頭を下げる。その顔には、疲労の色が濃い。私という猛毒に当てられて、精神力を消耗しきったようだ。

 

「いいのよ。楽しかったわ。またいつでもいらっしゃい」

 

色っぽく見送る。

 

鱗滝くんは、一度だけ私を見る。その瞳には、まだ迷いと、熱情と、そして警戒心が入り混じっている。彼は優秀な木冊体士だ。本能が警鐘を鳴らし続けているのだ。「この女は危険だ」と。「近づくな」と。でも、彼の心臓は「離れたくない」と叫んでいる。

 

「……奥方様」

 

彼は低い声で告げる。

 

「夜道には、くれぐれも気をつけてください。この辺りは……『鬼』が出ますから」

 

「鬼?」

 

「ええ。人を食らい、人の世を乱す、悲しき化け物です。奴らは、人の皮を被り、人のふりをして、すぐ近くに潜んでいるかもしれません。……意外と、貴女のすぐ側に」

 

警告だ。私に対する、精一杯の探りだ。「私はお前を疑っているぞ」という意思表示であり、同時に「危険な目に遭ってほしくない」という願いでもある。

 

でも、私には通用しない。私は天才だから。

 

「ええ、気をつけるわ。怖い話ねえ。でも、もし鬼が出たら、さっくんが助けに来てくれるんでしょう?」

 

「……もちろんです。貴女を守るためなら、私は……」

 

彼は言葉を飲み込む。「鬼になっても構わない」とでも言いそうになったのだろうか。

 

「ふふ。頼もしいわ」

 

私は彼の胸元に指を這わせる。隊服のボタンを一つ、指で弾く。

 

「さっくんも、気をつけてね。鬼に食べられないように。それとも……私になら、食べられてもいい?」

 

意味深な問いかけ。ダブルミーニングだ。「捕食」と「情事」どちらの意味で取るかは、彼次第。

 

「っ……!」

 

さっくんが赤面する。そして、逃げるように背を向ける。

 

「……し、失礼する!また、改めて伺います!」

 

彼は駆け出していく。夕闇の中へ。その足取りは、まるで何かに追われているかのように速い。自分の心臓の音から逃げているのかもしれない。

 

「ええ。夜這いなら、いつでも歓迎よ?窓の鍵、開けておくから」

 

背中に向かって投げキッスを送る。聞こえていないふりをしていたが、彼の耳が真っ赤だったのを私は見逃さない。

 

「ああん、照れちゃって。逃げるように帰っていったわ。可愛い子」

 

一人、門の前で笑う。夕風が私の髪を揺らす。もうすぐ日が落ちる。私の時間だ。

 

(罪な女ね、私。大名屋敷の筆頭役人を骨抜きにし、あまつさえ、敵対組織である木冊体の剣士まで虜にしてしまうなんて。私の魅力は、種族の壁も、立場の壁も超えるのね。

 

自分の頬に手を当てる。熱い。これは恋の熱か、それとも食欲の熱か。

 

……まあ、彼がもし本気で私に斬りかかってきたら。私の正体に気づいて、刃を向けてきたら。その時は、美味しくいただいちゃうけどね。

 

ペロリと舌を出す。さて、今夜はどんな夜にしようか。旦那様との愛の巣でくつろぐか、それともししょーの元へ行ってまた達磨遊びをするか。あるいは、さっくんの夢枕に立って、更なるトラウマ……じゃなくて、恋心を植え付けに行くか。

 

選択肢は無限大だ。なぜなら私は、自由で、強欲で、そして最高にイケてる鬼なのだから。




ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

今後、鱗滝くんは颯の正体に近づくのか。
それとも恋心が先に限界を迎えるのか。
颯は彼を玩具として遊ぶだけなのか、それとも……?

次回も、甘くて危険で、少し切ない颯の物語をお届けします。
ぜひ引き続きお付き合いください。
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