鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
乾いた音が、鳥の鳴き声さえ遠慮するような静寂の朝に響き渡る。
私が懐から取り出した手ぬぐいを畳み、即席の扇子として自らの膝を叩いた音だ。
場所は、大名屋敷の庭の片隅、誰も見ていない物置の陰。観客は、壁を這うヤモリ一匹と、私の脳内に住まう愉快な仲間たち(主に自画自賛するもう一人の私)だけ。
「さあさあ、語って聞かせましょう、愛と食欲の風音奮闘記!吉原の泥沼から這い上がり、本草学の大家・葛城様の妻の座を射止めた、天下の美少女・葛城颯こと、風音! 無惨様からの『青い彼岸花を探せ』という無理難題と、『剣を覚えろ』という無茶振りを背負い、昼は良き妻、夜は人食い鬼、深夜は最強剣士・黒死牟殿のサンドバッグとして生きる日々!地獄の特訓の末、謎の回避能力と図太さを手に入れた私は、ついに鬼狩りの剣士・鱗滝左近次を手玉に取り、奇妙な愛の三角関係を構築!正義の味方と人食い鬼の人妻!本来なら殺し合うはずの二人が、なぜかお茶飲み友達に!?禁断の恋か、それともただの非常食の確保か!そして迫りくる時代の波!鳥羽伏見の戦火が、私たちの食卓を脅かそうとしている!風音の明日はどっちだ!」
パン!
もう一度膝を叩き、私は一人で満足げに頷く。完璧な導入だ。これぞ講談師も裸足で逃げ出す名調子。誰も聞いていないのが惜しいくらいだ。
さて、現実に戻ろう。
今日の私は、いつもの優雅な奥様スタイルではない。袖を襷で吊り上げ、頭には手ぬぐいを姉さん被りにし、裾を少し短めにからげている。いわゆる「本気のお掃除モード」だ。
ここ葛城家は、大名屋敷に出入りする筆頭役人の家だけあって、そこそこ広い。廊下は長いし、部屋数は多いし、庭の手入れも大変だ。普通なら下女や奉公人がやる仕事だが、今の私はエネルギーが有り余っている。昨夜、山でししょーと追いかけっこをして、またしても手足を切り落とされたり生やしたりしたせいで、細胞が活性化して仕方がないのだ。 この溢れんばかりの活力を発散しなければ、屋敷の柱を齧ってしまいそうになる。
「よし、やるわよ!」
雑巾をバケツに突っ込み、固く絞る。雑巾が悲鳴を上げるほど固くだ。
「まずは廊下の雑巾がけ!目標タイム、五秒!」
「よーい、どん!」
ドンッ!
足元の板が軋む音と共に、私は弾丸のように飛び出す。もちろん、血鬼術『封鬼化生』は発動中だが、あえて出力を絞り、身体能力を「人間としてギリギリ可能な範囲」まで引き上げている。
シュバババババババ!!!
私の手足が高速で回転する。残像が見える。間違いなく見えている。私の本体はすでに廊下の向こう側に到達しているのに、まだスタート地点に私の残像が「いってきます」と手を振っているのが見えるようだ。
「折り返し!」
ターンを決める。滑りながら、廊下の角を曲がる。遠心力で雑巾が千切れそうになるが、私の握力がそれを許さない。
「ふーっ!終了!」
ゴール地点で立ち上がり、額の汗(かいてないけど)を拭う。振り返れば、そこには鏡のように磨き上げられた廊下が、朝の光を反射して輝いている。チリ一つない。埃一つない。ハエが止まろうとして滑って転ぶレベルの仕上がりだ。
「……颯さん」
背後から、呆れと驚きが入り混じった声が聞こえる。お義母様だ。この家の実質的な支配者であり、私にとっては姑にあたる人物。普段は穏やかだが、武家の女としての誇りが高く、礼儀作法には少々うるさい。
「あ、お義母様!おはようございます!見てください、廊下がピカピカですよ!顔が映ります!」
雑巾を持ったまま、満面の笑みで振り返る。お義母様は、口を半開きにして廊下を見つめている。あまりの光沢に目が眩んだのだろうか。
「そ、掃除も何も……。颯さん、貴女は役人の妻なのですよ。家事は下女に任せればよいのです。それに、そんな……獣のように廊下を疾走するなど、武家の娘としての品位が……」
お義母様が眉をひそめる。ごもっともだ。 奥方様が雑巾がけでドリフト走行をしている図など、前代未聞だろう。
「お義母様!ご安心ください!これもまた、愛する旦那様が快適に過ごすための修練なのです!旦那様は埃に敏感でしょう?少しでも空気が淀んでいると、くしゃみをされます。 そんな旦那様を、見えない敵から守るのが、妻の務めではありませんか!」
力説する。旦那様ファースト。この言葉を出せば、お義母様は弱いはずだ。
「そ、それはそうですが……。下女のフネにもプライドというものが……」
「それに、下女のフネさんでは、天井の裏の埃までは見えませんから!私には見えます! あそこの梁の隙間!あそこの障子の桟の裏側!全てお見通しです!」
私の視力は、ししょーほどではないが、普通の人間よりは遥かに良い。夜目が利く鬼の目は、昼間の微細な汚れも見逃さないのだ。
「さあ、次は台所です!朝餉の支度も私がやります!今日の味噌汁は、出汁からこだわりますよ!」
お義母様の返事を待たず、台所へと突撃する。嵐のような嫁だ。お義母様が後ろで「あ、あらあら……」と呟いているのが聞こえる。
◆
台所。そこは私の戦場であり、実験室だ。まな板の前には、立派な大根が一本、鎮座している。太くて、白くて、瑞々しい大根だ。美味しそうだ。生で齧り付きたい衝動を抑え、私は包丁を握る。
「フンッ!」
気合一閃。包丁が閃く。
トトトトトトトトトト……。
小気味良い音が響く。目にも止まらぬ速さだ。大根を手に持ち、包丁を細かく動かしながら、桂剥きにしていく。
シュルシュルシュル……。
大根が、まるで白い反物のように薄く、長く伸びていく。厚さは紙よりも薄く、向こう側が透けて見えるほど均一だ。職人芸?いいえ、鬼芸だ。
「よし、完璧!」
剥き終わった大根を掲げる。全長三尺(約一メートル)。途切れることなく繋がっている。これを芸術と呼ばずして何と呼ぶか。
「……すご……」
台所の隅で、下女のフネさんが腰を抜かしている。ごめんねフネさん。私の料理はおままごとじゃないの。命懸けのエンターテインメントなのよ。
「煮物も私が一番美味い!文句は言わせません!味付けは、旦那様の好みに合わせて、少し甘めで濃いめに!隠し味には、私の愛情と、ほんの少しの蜂蜜を!」
鍋に向かって調味料を投入する。計量カップなど使わない。目分量だ。天才の直感が、黄金比を導き出すのだ。
グツグツと煮える鍋。漂う出汁の香り。幸せの匂いだ。
「……味見」
小皿に煮汁を取り、口に含む。鬼の味覚ではない。術で人間になっている今の私の舌には、繊細な出汁の旨味と、醤油の香ばしさがはっきりと感じられる。
「ん~っ!最高!天才!私ってば、料理の才能まであるなんて!」
自画自賛しながら、お尻を振って踊る。
そこへ、お義母様が恐る恐る入ってくる。
「颯さん……。あんなに大きな音を立てて……。一体何を……」
お義母様の視線が、まな板の上の「透ける大根」に釘付けになる。そして、鍋から漂う極上の香りに、鼻をひくつかせる。
「……これ、貴女が?」
「はい!少し早いですが、味見をどうぞ!」
小皿を差し出す。お義母様は、疑わしそうに一口啜る。
「……!」
目が開く。
「……ど、どうですか?」
「…………」
お義母様は無言だ。そして、もう一口。 さらにもう一口。
「(ぐうの音も出ない)……そ、そうね。味は……確かに……お店より美味しいわね……。料亭の板前でも雇ったのかと思ったわ……」
お義母様の完敗宣言だ。勝った。嫁姑戦争、完全勝利である。
「ありがとうございます!旦那様もきっと喜んでくれますね!」
ニカっと笑う。
(旦那様は優しい。私のような、素性も知れない元遊女を、正妻として迎え入れてくれた。鬼だと知らずに、毎日優しく微笑んでくれる。だから好き)
鍋をかき混ぜながら思う。
(何かを返せたら良いけど……。私は金も地位もない。あるのは、この体と、少しばかりの知恵と、腕力だけ。だから、私は『愛』を返しているつもりだ。掃除も、料理も、夜の営みも。全ては彼への恩返しであり、愛の証だ)
(そう、私は旦那様を愛しているのだ。食欲とは別に。心の底から)
鬼が人を愛する。滑稽な話だ。どうせいつかは死に別れる運命なのに。彼は老いて死に、私は若いままで生き続ける。その結末を知っていながら、今この瞬間の温もりに溺れている。
「……ま、今は考えないでおきましょ」
蓋をする。美味しい匂いと共に、少しだけ切ない気持ちも閉じ込めるように。
◆
昼下がり。屋敷を抜け出し、城下町の外れにある茶屋へ向かう。もちろん、旦那様には「お友達とお茶をしてきます」と言ってある。嘘ではない。 相手が「木冊体士」だということを除けば。
人目を避けた茶屋の個室。向かい合って座っているのは、鱗滝左近次くん、略してさっくんだ。彼は今日も黒い隊服を着て、刀を傍らに置いている。真面目な顔で、出された団子を見つめている。
「……奥方様。あまり二人で会うのは感心しません。葛城殿に申し訳が立たない」
さっくんが、重々しく口を開く。開口一番、説教だ。真面目か。いや、真面目だからこそ、人妻と密会しているという事実に耐えられないのだろう。
「いいじゃない、減るもんじゃなし。それに旦那様も公務で忙しいし、私も息抜きが必要なのよ。完璧な奥様を演じるのも、結構疲れるのよ?」
団子を頬張りながら答える。あんこが甘い。人間モードの味覚は最高だ。
「演じる、ですか。……貴女は、葛城殿の前では演技をしているのですか?」
さっくんの目が鋭くなる。彼は鋭い。私の言葉の端々にある「嘘」を嗅ぎ取ろうとしている。
「あら、言葉のアヤよ。誰だって、愛する人の前では『いい女』でいたいものでしょう? すっぴんの寝起きの顔より、化粧をした綺麗な顔を見せたい。そういう乙女心よ」
はぐらかす。
「……そうですか」
彼は納得していないようだが、それ以上は突っ込まない。彼は私に惚れている。だから、決定的な疑いを持ちたくないのだ。信じたいのだ。私がただの、少し自由奔放なだけの人妻だと。
でも……
最近、少し胸がざわつく。京の都の方で、何やら不穏な動きがあるという。幕府と、新しい政府軍との対立。戦の気配だ。旦那様も、最近は帰りが遅い。役人として、あるいは医師として、何かの準備に追われているようだ。
「ねえ、さっくん」
団子の串を置き、彼を見る。
「もし『悪い鬼』がいなくなったら……。さっくんたち『木冊体』もいなくなっちゃうの?」
「……木冊体ではなく鬼殺隊ですが」
彼は律儀に訂正する。何度言っても間違える私に、諦め半分といった顔だ。
「鬼がいなくなれば、我々の役目は終わります。鬼殺隊は、鬼を狩るためだけに存在する組織。平和になれば、解散することになるでしょう。故郷へ帰る者もいるでしょうし、別の職に就く者もいるでしょう」
彼は淡々と語る。それは、彼らにとっての悲願であり、理想の未来なのだろう。
「……そう。故郷に、帰っちゃうのね」
ポツリと漏らす。
「……奥方様?」
さっくんが不思議そうな顔をする。私の声が、思ったよりも湿っぽかったからだろうか。
さっくんがいなくなるかもと思うと、ちょっと辛い……
胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような感覚。空腹感とは違う。もっと冷たくて、頼りない感覚。
なんでかな?好みの顔だとは思うけど、私には愛する旦那様がいるし。別に、彼がいなくなったって、生活に困るわけじゃない。非常食のストックが一つ減るだけよ
自分に言い聞かせる。彼は敵だ。いつか殺し合うかもしれない相手だ。いなくなってくれた方が、私にとっては好都合なはずだ。なのに。
……これが『情』ってやつ?お気に入りの玩具を取り上げられた子供のような?あるいは、美味しいおやつが販売中止になった時のような喪失感?
胸に手を当てる。人間の心臓が、トクトクと脈打っている。鬼の心臓なら、こんな曖昧な感情は焼き尽くしてしまうのに。人間になっている今は、この切なさがダイレクトに響く。
「どうかしましたか?顔色が……」
さっくんが身を乗り出す。心配そうな目。その純粋な優しさが、今は少し痛い。
「ううん、なんでもないわ。ただ、あんこの甘さが沁みただけ」
ニカっと笑ってみせる。
「寂しくなるわねえ。さっくんがいなくなったら、誰をからかって遊べばいいのよ」
「……からかう前提ですか」
彼は呆れて息をつくが、その目元は少し緩んでいる。
「まあ、鬼がいなくなるなんて、夢物語です。始祖である鬼舞辻無惨を倒さぬ限り、戦いは終わりません。私は……死ぬまで剣を振るい続けるでしょう」
彼の言葉には、覚悟が滲んでいる。死ぬまで。その言葉が、重く響く。
そうね。貴方は死ぬまで戦う。そして、その相手は……私かもしれない
団子の残りを口に放り込む。甘い。でも、少しだけ塩っぱい味がした気がした。
◆
数日後の夜。
旦那様の箸が進まない。普段なら「美味しいね、颯」とニコニコしながらお代わりをしてくれるのに、今日は心ここにあらずといった様子で、虚空を見つめている。
「……旦那様?」
私が声をかけると、彼はハッと我に返った。
「ああ、すまない。考え事をしていてね」
「何かあったのですか?お役目で難しい問題でも?」
努めて明るく聞く。良き妻モード全開だ。
旦那様は箸を置き、居住まいを正した。その顔は、私が今まで見たことがないほど真剣で、重かった。
「……颯。大事な話がある」
「はい、旦那様。……改まって、どうされました?まさか、浮気ですか?もしそうなら、相手の女性の住所を教えてください。今すぐお宅訪問して、話し合い(物理)をしてきますので」
冗談めかして言うが、内心では少しドキッとしている。この真剣さは、ただ事ではない。
「違うよ。……京の方で、戦が始まるそうだ」
「戦?」
首をかしげる。戦なんて、講談の中だけの話だと思っていた。平和ボケしたこの時代に、まさか本物の戦争が?
「鳥羽・伏見のあたりで、幕府軍と薩長軍がぶつかる。すでに不穏な動きがあり、いつ火蓋が切られてもおかしくない状況だ」
旦那様の声は低い。
「私は医師として、幕府軍についていくことになった」
「……え?」
私の手から、茶碗が滑り落ちる。 スローモーションのように落ちていく茶碗。だが、私の鬼としての反射神経がそれを許さない。床に激突する寸前、私の手がシュッ!と伸びて、茶碗をキャッチする。中身も一滴も零していない。神業だ。
「戦場へ?旦那様が?いけません!お断りしてください!」
茶碗をテーブルに叩きつけるように置く。
「旦那様は刀も握れないお人好しですよ!?虫も殺せない、ただの学者先生じゃありませんか!そんな人が戦場に行ったら、一秒で死んじゃいます!流れ弾に当たって、ドカンで、さようならですよ!?」
想像しただけでゾッとする。私の愛する旦那様が、血まみれになって倒れている姿なんて、見たくない。
「医師としてだ」
旦那様は静かに、しかし力強く言う。
「人を殺すためではない。救うために行くんだ。傷ついた兵がいれば、敵味方関係なく救うのが私の務めだ。それが、医術を志した者の誇りだからね」
「誇り……」
その言葉に、私は押し黙る。旦那様の目は、揺るぎない。普段の穏やかで優しい瞳の奥に、鋼のような信念が見える。
「……すまない、颯。少しの間、留守にする。家のことは母上と……君に任せるよ」
「…………」
何も言えなかった。鬼としての力があれば、旦那様を無理やり気絶させて、どこか遠くへ攫って逃げることもできた。無惨様に頼んで(怒られるだろうけど)、旦那様を鬼にしてしまうという禁じ手だってある。そうすれば、彼は死なない。永遠に私のそばにいてくれる。
でも。あの真剣な目を見たら、できなかった。彼の誇りを、私のエゴで踏みにじることはできなかった。
後に知ったが、これは時代の変わり目となる大きな戦だった。鳥羽・伏見の戦い。それが幕末の動乱を決定づけ、明治という新しい世を呼ぶきっかけとなった。私は……ただの傍観者として、その渦に巻き込まれていくしかなかったのだ
◆
出発の朝。空は憎らしいほどに晴れ渡っていた。玄関先には、旦那様の荷物がまとめられている。薬箱、着替え、そして少しの食料。戦場へ行くにしては、あまりにも心許ない装備だ。
着物の襟を正し、三つ指をついて旦那様を見送る。これが今生の別れになるかもしれないなんて、考えたくもない。でも、覚悟はしておかなければならない。それが武家の妻というものだ(元遊女だけど)
「……ご武運を」
「お怪我などなさいませぬよう。……必ず、必ず帰ってきてくださいね。五回戦の約束、まだ果たされていませんから」
最後に、少しだけふざけてみせる。湿っぽい別れは似合わないから。私の強がりだ。
「(苦笑)……ああ。必ず帰るよ。君の料理が恋しくなるだろうな」
旦那様は優しく笑い、私の頭を撫でる。
そして。彼はふと、真面目な顔になって私を見つめた。
「颯」
「はい」
「仁義八行。我も人、彼も人。ならば平等だろう。」
「……え?」
きょとんとする。何を言っているのだろう。お経か何かだろうか。
「私が大切にしている言葉だ。どんな立場の人であれ、敵であれ味方であれ、同じ人間だ。命の重さは平等だ。……君も、どうか忘れないでいてほしい」
旦那様はそう言い残し、くるりと背を向ける。
それが、私への最後の言葉だった。祝福のようであり、呪いのようでもある言葉。
鬼である私に、「人間として生きろ」と言っているようにも聞こえた。
「行って参ります」
旦那様が歩き出す。その背中が、朝陽の中に溶けていく。小さく、小さくなっていく。
私は、その姿が見えなくなるまで見送った。涙は出なかった。鬼だから涙腺が枯れているのか、それとも我慢しているのか。自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥に、ぽっかりと大きな穴が開いたような感覚だけが残った。寒い。旦那様がいなくなった家は、こんなにも広くて、寒い場所だったのか。
◆
その日の午後。私は街外れの神社にいた。木々に囲まれた静かな境内。人影はない。ただ、木漏れ日が揺れているだけだ。
「……奥方様」
背後から声がかかる。振り返ると、青年が立っていた。さっくんだ。
「急な呼び出しとは。何かありましたか?」
彼は心配そうに私を見る。私の呼び出しに応じ、任務の合間を縫って駆けつけてくれたのだ。なんて律儀で、優しい子なのだろう。普段なら「愛の逃避行よ!」とか言ってからかうところだが、今の私にはそんな気力もなかった。
「さっくん」
彼に背を向けたまま、ポツリと語り出す。
「旦那様が、戦場へ行ったわ。京の戦へ」
「……そうですか」
さっくんの声に、驚きはない。彼もまた、公儀隠密として、情勢を知っていたのだろう。
「葛城殿は医師として立派な方だ。多くの命を救うために、自ら志願されたのでしょう」
「うん。立派よ。立派すぎて、馬鹿みたい」
石灯籠を蹴る。コツン、と虚しい音がする。
「不安だよ。戦なんてさ。鉄砲とか大砲とか、バンバン撃ち合うんでしょう?あんな優しい人が、そんな場所で生き残れるわけないじゃない」
自分の手を握りしめる。鬼の手だ。この手なら、岩をも砕ける。人を引き裂くこともできる。日光だって克服したし、上弦の鬼とも(一方的に斬られるとはいえ)渡り合える。 私は天才だ。自称だけど、スペックは高いはずだ。
(でも……。人間の起こす『戦争』という巨大な暴力の前では、私は無力だ)
個人の武力なんて、たかが知れている。大砲の弾を全て斬り落とすことなんてできない。 数千、数万の兵士が殺し合う戦場で、たった一人の医者を守り抜くことなど、神様でもなければ不可能だ。
「私が天才でも、戦は止められない。……ねえ、さっくん」
「はい」
「あなた、刀なんて持ってるんだから……。旦那様を助けてくれないかな?」
縋るように言う。無理なお願いだと分かっている。
「……私は鬼殺隊です。我々の敵は『鬼』のみ。人の戦には介入できません。それは隊律違反になります」
さっくんは静かに、しかしきっぱりと断る。そうだよね。彼には彼の正義がある。組織の掟がある。私情で動くことは許されない。
「……無理かな。そうだよね。ごめん、変なこと言って」
俯く。地面の砂利を見つめる。視界が少し滲む。
「……でも」
振り返る。その顔は、いつものふざけた表情ではなく、弱りきった少女の顔だったと思う。演技ではない。素の私だ。
「もし……もし近くを通ることがあったら。あの優しくて不器用な医者を、守ってあげて。……お願い。対価なら、私の体でも何でも払うから」
自分の体を差し出すように手を広げる。彼が望むなら、一晩でも二晩でも付き合う。血を吸わせろと言うなら、いくらでもくれてやる。それくらいの価値が、あの人にはあるのだ。
「…………」
さっくんは目を見開く。そして、困ったように眉を下げる。私の必死さが、痛いほど伝わったのだろう。
「……対価など要りません」
彼は短く言う。
「約束はできませんが……。私の剣が届く範囲であれば、善処します。私も……葛城殿には恩がありますから」
彼は強く頷いてくれた。恩なんて、お茶を飲ませてもらったくらいのものだろうに。義理堅い男だ。
「……ありがとう。さっくん」
心からの感謝を込めて微笑む。彼がいれば、少しは安心できる。彼は強い。そして何より、運が良い気がする。私と出会って、まだ食われていないのだから。
「では、私はこれで。奥方様も、お気を強く持ってください」
さっくんは一礼し、去っていく。その背中を見送りながら、私は空を見上げる。
京の空は、ここからは見えない。でも、きっと今頃、黒い煙が上がっているのだろう。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
旦那様の出陣、さっくんとの静かな会話……
この先、颯の運命は大きく動き出します。
ぜひ、今回の颯についての感想や、
「この場面が特に刺さった!」など教えていただけると嬉しいです。