鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
乾いた音が、広い屋敷の静寂に吸い込まれる。私が手ぬぐいを畳んで作った扇子……ではなく、今日は本物の仏具(おりん)を叩いた音だ。場所は葛城家の仏間。線香の煙が揺らぎ、阿弥陀様が少し困ったような顔でこちらを見下ろしている。
「さあさあ、語って聞かせましょう、激動の風音奮闘記!吉原からお嫁に来て、幸せな新婚生活を送るはずだった我らがヒロイン!しかし運命の悪戯か、時代のうねりか!愛する旦那様は『医者の務め』と称して京の戦へ旅立ち、残されたのは私と姑の二人きり!嫁姑戦争勃発か!?と思いきや、お義母様は私の完璧すぎる家事能力にひれ伏し、平和な日々が続く……はずでした!なのに!なのにですよ!旦那様がいない寂しさに耐えかねたのか、お義母様ったらコロリと逝ってしまわれました!急病!ポックリ!大往生!残されたのは広い屋敷と、莫大な家事と、そして天才的な私の空元気!風音の明日はどっちだ!!」
葛城颯
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チーンともう一度おりんを鳴らし、手を合わせる。位牌が二つ並んでいる。一つは旦那様の亡き父上。もう一つは、先日亡くなったお義母様のものだ。
「……はあ」
ため息が出る。お義母様は良い人だった。私の正体(元遊女であり人食い鬼)を知ることもなく、最後まで「出来た嫁だ」と褒めてくれた。死ぬ間際も、「息子を、葛城の家を頼みますよ」と私の手を握り締めていた。その手の冷たさが、まだ私の掌に残っている気がする。
立ち上がり、喪服の裾を払う。悲しくないと言えば嘘になる。でも、泣いている暇はない。私はこの家の主婦(あるじ)代理なのだ。
葛城の家は、私が支えなくてはならない。家臣たちへの指示、家計のやりくり、屋敷の掃除。やることは山積みよ。私が倒れたら、誰が旦那様の帰る場所を守るの?
拳を握りしめる。
跡継ぎ?そういえば、親戚のおじさんたちが「子供はまだか」とうるさかったわね。今はいない。旦那様とは、あんなに(一方的に)愛し合ったけれど、コウノトリは来なかったみたい。
普通の人間なら、ここで絶望するところだ。夫は戦場で生死不明、姑は他界、子供もいない。お先真っ暗だ。
……だけど、私が産む。それで解決だ。
私の天才的な脳みそが、斜め上の解決策を弾き出す。
旦那様が帰ってきたら、百連発くらいして即座に身籠ればいい。もし旦那様が疲れて無理だと言うなら、私の血鬼術で肉体改造をして、単為生殖でもなんでもしてみせるわ。私は鬼だもの。体の構造くらい、気合と力でどうにでもなるはずよ。分裂すれば、私の分身ができるかもしれないし!
「よし、頑張ろう。前を向こう。私は天才。不可能はないわ!」
仏壇の前でガッツポーズを決める。阿弥陀様が呆れて目を逸らした気がしたが、気のせいだろう。
◆
「奥方様、お知らせでございます」
家臣の爺やが、廊下の向こうから走ってくる。 息が切れている。
「どうしたの?慌てて。また野良猫が魚を盗んだの?」
「い、いえ、そうではなく!戦です!鳥羽・伏見の戦が、終わったそうでございます!」
「終わった?」
身を乗り出す。
「はい!わずか三日で決着がついたとか!幕府軍は敗走し、大坂城へ退いたとの由!」
三日。たった三日?相撲の興行だって十五日はやるというのに。人間の戦争というのは、随分とあっけないものね。
「ということは、旦那様も帰ってくるのね?」
「そ、それが……。まだ何とも。敗走した兵たちが、バラバラに逃げ帰ってきている最中でして……。殿のお姿は、まだ……」
爺やが言葉を濁す。町には、傷ついた兵や、敗残兵が溢れかえっているという。混乱の極みだ。
「……そう」
私は冷静に頷く。
「旦那様は帰ってこない。……まあ、お医者様だもの。負け戦ならなおさら、怪我人が多いから忙しいに違いないわ」
私の脳内変換が発動する。
そうよ。旦那様は責任感が強い人だもの。「俺が殿を務める!」とか言って刀を振るうタイプじゃないけれど、「患者がいる限りここを動かない!」と言って、野戦病院に残るタイプだわ。きっと今頃、包帯を巻きまくって大忙しね。私の作ったおにぎりでも差し入れしたいところだわ。
「心配いりませんよ、爺や。便りがないのは無事な証拠です。死んだという知らせが来ていないのなら、生きているに決まっています」
「は、はあ……。奥方様がそう仰るなら……」
爺やは不安そうだが、私の自信満々な態度に少し気圧されたようだ。
死ぬわけがない。だって、私の旦那様よ?私に愛され、毎晩生き血を吸われる(比喩)危機を乗り越えてきた男よ?運の強さは天下一品のはず。
私の人生に「不幸」という文字はない。あるのは「上昇」と「歓喜」と「食欲」だけ。だから、これは悲劇の序章じゃない。感動の再会へ向けた、長い長い溜めの時間なのよ。
空を見上げる。京の空は遠い。でも、きっと同じ空の下で、旦那様も私のことを考えているはずだ。「ああ、颯の味噌汁が飲みたい」とか、「颯の太ももが恋しい」とか考えているに違いない。
「待っててやるわよ、旦那様。帰ってきたら、延滞料金として倍返しで可愛がってあげるから」
強がりではない。確信だ。天才の予感は外れないのだ。
◆
夜。屋敷のみんなが寝静まった頃。私は一人、寝室で正座していた。旦那様のいない布団は広すぎて、冷たい。でも、今夜は感傷に浸っている場合ではない。仕事だ。鬼としての、任務の報告がある。
目を閉じ、意識を内側へ沈める。血の繋がりを辿り、あの不機嫌な支配者の元へ。
『……ツーツー。あ、繋がりましたね。もしもし、無惨様?風音です。今、お時間よろしいでしょうか?』
『……貴様か』
脳内に響く、地獄の重低音。無惨様だ。相変わらず不機嫌そうだが、応答してくれるあたり、暇なのかもしれない。
『報告か。くだらぬ世間話なら、貴様の脳を焼き切るが』
『滅相もございません。本日は、とびきりの「吉報」をお持ちしました』
勿体ぶって言う。私の手元には、旦那様の書斎から見つけ出した、古びた薬学書がある。そこには、驚くべき事実が記されていた。
『……というわけで。文献によれば、「青い彼岸花」は、昼間にしか咲かない花であるとのこと』
『……!』
無惨様の気配が、ピクリと動く。
『それも、一年のうち数日。ほんの僅かな期間、太陽が出ている間だけ花を開き、夜には閉じてしまう。あるいは、枯れてしまう特殊な生態を持つようです』
これは大発見だ。鬼の歴史を覆す、衝撃の事実だ。
『つまり。無惨様や、他の鬼たちが千年間見つけられなかったのは、能力不足でも、運が悪かったわけでもありません。単に、「活動時間」がズレていただけなのです。夜に行動する鬼が、昼にしか咲かない花を見つけられるはずがありません。道理です』
沈黙。長い長い沈黙。無惨様が、情報を咀嚼し、理解し、そして歓喜に震えているのが伝わってくる。
『……!!昼間……だと!?』
無惨様の声が、上擦る。
『そうか……そうだったのか……!灯台下暗し……!まさか、太陽の下にあったとは……!忌々しい太陽が、私の悲願を隠していたとは……!』
怒りと、喜びが入り混じったような感情の波が押し寄せてくる。
『でかした……!よくぞ突き止めた!風音、貴様……やはり使えるな!他の無能な上弦どもが何百年かけても辿り着けなかった真実に、わずか一年で到達するとは!』
褒められた。あの無惨様に、手放しで褒められた。これは鬼としての最高の名誉だ。出世街道まっしぐらだ。ボーナス(血液)も弾むかもしれない。
『貴様の重要度は増したぞ。引き続き捜索を続けよ。咲く場所、咲く時期、全てを特定しろ』
『御意。私は天才ですから。任せてください』
プツン。通信が切れる。無惨様は興奮冷めやらぬまま、他の鬼たちにも檄を飛ばしに行ったのだろう。
部屋に、静寂が戻る。行燈の火が、チロチロと揺れている。
「……ふう」
やった。大金星だ。これで私の立場は盤石だ。鬼としても、スパイとしても、これ以上ない成果を上げた。
「……」
なのに。私の心は、冷え切っている。ちっとも熱くない。天才だと褒められたのに、胸の奥に鉛が詰まったように重い。
無惨様にお褒めの言葉を頂いた。私は天才だ。だから大丈夫。私の人生設計は完璧だわ。
自分に言い聞かせる。でも、視線は無意識に、隣の空いた布団へと向かう。
……なのに、旦那様は帰ってこない。
もう、季節が変わろうとしている。鳥羽・伏見の戦いが終わってから、ずいぶんと経つ。 それなのに、連絡一つない。
上野の方で、「彰義隊」という人達が戦って死んだと聞いた。
先日、江戸の町でも戦があった。旧幕府軍の生き残りたちが、上野の山に立て籠り、新政府軍と戦ったのだ。一日で終わった短い戦いだったが、多くの血が流れた。
まさかと思って……。死体置き場を見て回ったけれど。
屋敷を抜け出して探し回った。寺の境内に並べられた遺体。むしろを被せられた、物言わぬ塊たち。その一つ一つをめくり、顔を確認した。腐臭と血の匂いが充満する中で、私は(心は悲鳴を上げていたが)探し続けた。
旦那様はいなかった。ほら、やっぱり生きている。
膝を抱える。見つからなかったことは、希望だ。でも、同時に不安の種でもある。どこにいるの?怪我をして動けないの?それとも、記憶を失ってどこかの村娘に介抱されているの?(もしそうなら、その村娘ごと食べてやるけど)
「……旦那様」
「早く帰ってきてください。お義母様のお葬式も、私一人で立派に出したんですよ?褒めてくださいよ。頭を撫でて、『よくやったね』って言ってくださいよ」
返事はない。あるのは、虫の声だけ。
立ち上がる。窓を開ける。月が出ている。かつて、ししょーと修行した時と同じ、綺麗な月だ。
「……探しに行こうかしら」
私の足には、無限のスタミナがある。私の鼻は、犬より利く(さっくん程じゃないけど)。日本中を探し回れば、きっと見つかるはずだ。
でも、できない。私は「葛城家の奥方」だ。家を守ると約束した。勝手に家を空けて放浪することは、旦那様との約束を破ることになる。
「待つ女は辛いわねえ。いっそ、あちこちで暴れて有名になれば、旦那様の方から見つけてくれるかしら?『吉原の鬼嫁、大暴れ』って瓦版に載るとか」
冗談を言ってみるが、笑えない。
◆
ザーザーと、空から無限に水が落ちてくる。屋根を叩く音、庭の木々を打つ音、そして雨樋を流れる水の音。それら全てが、私の鼓膜を不愉快に振動させる。
私は今、広い屋敷の居間で、一人ぼんやりと長火鉢の前に座っている。お義母様が亡くなってからというもの、この屋敷は無駄に広すぎる。私が歩けば床が軋み、私が咳払いをすれば虚しく反響する。孤独だ。天才的な美貌と才能を持つ私には、孤独というスパイスも似合うかもしれないけれど、限度というものがある。
「……暇ね」
火箸で灰をいじりながら呟く。
「旦那様がいないと、張り合いがないわ。完璧な家事をしても褒めてくれる人がいないし。お風呂上がりに、私の艶やかな姿を見て顔を赤らめる人もいない。つまり、私の魅力を発散する場所がないのよ。これは由々しき事態だわ。資源の無駄遣いよ」
外は土砂降り。こんな夜は、獲物を狩りに出るのも億劫だ。雨で濡れると着物が重くなるし、髪がペタッとして可愛さが半減してしまう。鬼だから風邪は引かないけれど、気分が乗らない。
「あーあ。誰か来ないかしら。泥棒でもいいわ。いま来たら、熱いお茶を出した後に、背骨をへし折って差し上げるのに」
物騒な願望を口にする。ストレスが溜まっているのだ。旦那様成分が不足している禁断症状かもしれない。
その時だった。
ドンドンドン。
音がした。雨音に混じって、確かに戸を叩く音が。幻聴ではない。私の鋭敏な聴覚が、木製の引き戸が物理的に叩かれた振動を捉えている。
「……あら?」
こんな夜更けに?しかも、この豪雨の中で?
「もしかして……旦那様!?」
私の脳内に、電流が走る。そうよ。戦が終わって、帰ってきたのかもしれない。怪我をして、足を引きずりながら、愛する妻の元へ帰ってきた感動の帰還!
「はい!今開けます!お待ちください旦那様!今すぐ着替えと、温かい抱擁を用意しますから!」
弾かれたように立ち上がる。居間を飛び出し、廊下を疾走する。ドリフト走行で角を曲がり、玄関へ滑り込む。
「お帰りなさいませ!」
ガララッ!!
勢いよく戸を開ける。冷たい夜風と、雨の飛沫が吹き込んでくる。
そこに立っていたのは。
「…………」
旦那様では、なかった。
黒い服。腰に刀。そして、雨に濡れて張り付いた髪。川に落ちた野良犬のような、濡れ鼠状態の男。
「……あら!さっくん!」
左近次くんだった。私の可愛いおもちゃ……じゃなくて、お友達。
「突然どうしたの?こんな嵐の夜に、人妻の家を訪ねてくるなんて。ついに我慢できなくなったの?それとも、雨宿りにかこつけた夜這いかしら?久しぶりねえ、嬉しい来客だわ!」
正直、少しガッカリした。旦那様じゃなかったから。でも、さっくんでも十分だ。この退屈な夜を紛らわせてくれるなら、誰でも歓迎だ。
「さあ、入って入って!そんなところに立っていたら、風邪を引いちゃうわよ。木冊体の剣士様が、風邪で寝込んだなんて笑い話にもならないわ」
彼の手を引く。冷たい。氷のように冷え切った手だ。雨に打たれ続けたせいだろうか。
彼は、抵抗しない。されるがままに、土間へと上がる。彼の足元から、水滴がボタボタと落ちて、三和土を濡らす。
「上がって、上がって!今夜はご馳走よ!ちょうど羊羹の買い置きがあるの。あと、お酒もあるわよ。旦那様の秘蔵のやつ。旦那様が居ないから、私がこの家の主!私の許可があれば、何でもありよ!だから遠慮なくお上がりなさいな!」
喋り続ける。沈黙が怖いからではない。久々の会話相手に、テンションが上がっているだけだ。そう、私は寂しかったのだ。誰かの声が聞きたかったのだ。
手ぬぐいを持ってくる。彼の頭に被せ、ワシャワシャと拭いてあげる。
「もう、びしょ濡れじゃない。水も滴るいい男ってやつ?でも、これじゃ床が水浸しよ。後で雑巾がけしなきゃ」
さっくんの顔を覗き込む。
「…………」
彼は、黙っている。手ぬぐいの下から見えるその顔は、酷く青白く、そして疲れ切っている。目の下に隈ができている。頬がこけている。三日三晩寝ていないような、幽鬼のような顔だ。
「ん?どうしたの?なぜ黙ってるの?お腹が空きすぎて声も出ないの?それとも、私に見惚れて言葉を失っちゃった?」
笑ってほしかった。「からかわないでください」と、いつものように顔を赤くしてほしかった。
でも。彼の目は、笑っていない。赤く充血したその瞳は、私を真っ直ぐに見つめているけれど、焦点が合っていないような、虚ろな光を宿している。
「さっくん……?」
私の笑顔が、少し引きつる。嫌な予感がする。背筋に、冷たい雨水が入り込んだような悪寒が走る。
ゆっくりと口を開く。その唇は、乾いてひび割れている。
「……奥方」
「なに?改まって」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。
深く息を吸い込む。そして、吐き出すように告げた。
「貴女の旦那様……。葛城殿は……亡くなられた」
「…………」
時が止まる。雨の音が消える。私の呼吸も止まる。
世界から、音が消失した。残っているのは、目の前の男の口元と、彼が吐き出した言葉の残響だけ。
亡くなられた。死んだ。あの人が。私の旦那様が。
「…………は?」
間抜けな声を出す。意味が分からない。日本語なのは分かるけれど、単語の配列がおかしい。
「……え?なんて?」
聞き返す。聞こえなかったふりをする。聞き間違いに決まっている。
さっくんは、逃げない。視線を逸らさない。悲痛な、泣き出しそうな顔で、私を見据えて、もう一度言う。
「戦で……。砲弾が飛び交う中……逃げ遅れた怪我人を、必死に手当てしておられた」
彼は、見てきたように語る。いや、見てきたのだ。その目に焼き付けてきた光景を、私に伝えているのだ。
「……その最中。流れ弾を受けて。胸を……」
彼は自分の胸に手を当てる。
「私は……。たまたま近くにいて、駆けつけました。臨終に……立ち会えました」
彼は言葉を詰まらせる。
「最期に。貴女の名を呼んで。『ありがとう』と。それだけを言い残して……」
「…………はは」
私の口から、乾いた笑いが漏れる。空気が漏れるような音だ。
「奥方……」
「嘘よ」
認めるわけにはいかない。そんな馬鹿な話があるものか。
「そんな話を聞く予定は、私の人生の工程表にはないよ」
手ぬぐいが、私の手から滑り落ちる。床に落ちて、湿った音を立てる。
「だってそうでしょう?私は天才・風音よ?吉原で一番の出世頭で、太夫にも褒められた女よ?私が選んだ旦那様が、そんな、どこにでもあるような陳腐な悲劇で退場するわけがない」
早口でまくし立てる。
「彼は帰ってくるの。私の料理を食べて、私の膝枕で寝て、私と子供を作るの。そう決まっているの。私がそう決めたの!」
「…………」
彼は、何も言わない。ただ、痛ましげに私を見ている。その目が嫌だ。同情するような、哀れむようなその目が。真実を語っているその目が。
怒りが湧いてくる。悲しみよりも先に、猛烈な怒りが。理不尽に対する怒り。運命に対する怒り。そして、この残酷な事実を突きつけてきた、目の前の男に対する理不尽な怒り。
ガッ!!
手を伸ばす。さっくんの胸ぐらを掴む。着物の襟が引きちぎれそうなほど強く。
「……っ!」
さっくんが呻く。私は力を込める。加減などしない。手加減なんて忘れた。
グッ……。
さっくんの体が、宙に浮く。鍛え上げられた大の男の体が、私の片腕一本で、軽々と持ち上げられる。彼の足が床から離れ、ブラブラと揺れる。
「奥方……!その力……」
さっくんが驚愕の声を上げる。私の細腕から繰り出される異常な腕力。人間のものではない力。バレたかもしれない。でも、もうどうでもいい。
「私の人生は!」
彼の顔を睨みつけて。
「上昇と歓喜に満ちているものなのに!私が幸せになる物語なのに!私が主役で、私が脚本家で、私が監督なのよ!勝手に書き換えないでよ!」
私の目から、涙が溢れる。止まらない。熱い液体が、頬を伝って落ちる。
「なぜ貴方から!そんな話を聞かされなければならないの!?貴方はただの遊びでしょう!?私の退屈を紛らわせるおもちゃでしょう!?貴方に、私をこれほど失望させる権利があるの!?」
理不尽な言葉をぶつける。八つ当たりだ。分かっている。彼が悪いわけじゃない。彼は、約束通り旦那様の元へ駆けつけ、最期を看取ってくれた恩人だ。感謝すべき相手だ。
でも、許せない。彼が持ってきた「死」という現実が、許せない。
「……っ、申し訳ない……」
さっくんは、宙に浮いたまま、苦しげに息をする。抵抗しない。私の暴力的な力に、身を任せている。
「守れなかった……!貴女との約束を……果たせなかった……!私の力が……及ばなかったばかりに……!」
彼は泣いている。自分の無力さを悔いて。私の悲しみを、自分のことのように受け止めて。
「謝るな!!」
絶叫する。喉が裂けそうなほどの大声で。
「謝ったら本当になるじゃないか!!貴方が謝ったら、旦那様が本当に死んだことになってしまうじゃないか!取り消してよ!嘘だと言ってよ!『ただの冗談です、外に旦那様が待ってます』って笑ってよ!」
彼を揺さぶる。首がガクガクと揺れる。
「お願いだから……。私の幸せを壊さないでよ……」
力が抜ける。怒りが、急速に冷たい絶望へと変わっていく。膝から崩れ落ちる。胸ぐらを掴んだまま、ずるずると座り込む。
彼は私を抱きとめる。優しく、強く。
「……すまない」
◆
「……なぜ?」
声が掠れている。
「……なぜ死んだの?あんなに良い人が。あんなに、私を大切にしてくれた人が」
普通なら「運命」とか「寿命」とか、そんな言葉で片付けるのだろう。でも、私は天才だ。凡人と同じ納得の仕方では、私のプライドが許さない。もっと合理的な、もっと納得のいく理由があるはずだ。
カチリ。
パズルのピースが嵌まる音がした。
「……ああ、そうだ。恩讐だ」
「……奥方?」
さっくんが、怪訝そうに私を見下ろす。涙で濡れた私の顔を、彼は手ぬぐいで拭ってくれている。優しい手だ。でも、その優しささえも、今の私には痛い。
「そう……私は旦那様から、こんなにもたくさんの物を貰った。愛も、住処も、身分も、優しさも。あの日、吉原から連れ出してくれた手。私に向けられた温かな眼差し。全部、全部、私が欲しくてたまらなかったもの」
指を折って数える。片手じゃ足りない。両手でも足りない。
「なのに私は、何も返せていなかった」
自分の胸に手を当てる。そこにあるのは、無惨様の血と、計算高い鬼の心だ。
「……私が返したのは、偽りの愛と、演技と、利用価値だけ。隠れ蓑。旦那様を愛しているふりをして、その実、彼の知識や財産を利用していただけ。料理だって掃除だって、全部自分の居場所を守るための手段だった」
「そんなことは……」
さっくんが否定しようとする。でも、私は首を振る。
「だからバチが当たったんだ」
これは罰だ。神様か仏様か、あるいはもっと意地の悪い何かが下した、当然の報いだ。
「天秤が釣り合わなくなったから、世界が強制的に釣り合いを取ったんだわ。一方的に貰いすぎた愛の代償として、旦那様の命が持っていかれたのよ。等価交換。いえ、利息を考えれば妥当な取り立てね」
虚ろに笑う。
そうよ。私が……返していなかったから……旦那様は死んだ。私がもっと早く、心からの愛を返していれば。あるいは、私が鬼であることを明かして、彼を不死の眷属にしてしまっていれば。結末は違っていたかもしれない。
後悔。もしも。たられば。そんな無意味な言葉が、脳内をグルグルと回る。
「それは違います!奥方!」
さっくんが、私の肩を強く掴む。私を現実に引き戻すように。
「葛城殿は立派な最期でした!誰かのせいなどではありません!彼自身の意志で、彼自身の誇りのために、戦地へ赴き、そして散ったのです!貴女のせいなどでは……断じてない!」
彼の声は熱い。真剣だ。私の論理を、真っ直ぐな正論で正そうとしている。
でも、届かない。今の私には、その正しさが逆に苦しい。
「違わないよ、さっくん」
彼の手を払い除ける力もなく、ただ首を振る。
「この世界は天秤なの。私がここまで積んだ仁義八行では、釣り合わなかった。それだけ……そう思わないと……私は……私が許せない……」
旦那様の死が無駄死にだったなんて思いたくない。運が悪かっただけなんて思いたくない。だから、私のせいにしたいのだ。私が悪者になれば、旦那様の死には「理由」が生まれる。
それは私の贖罪であり、業となる。
「……奥方」
彼は、言葉を失う。かける言葉が見つからないのだろう。狂った女の戯言だと、呆れているのかもしれない。
ゴロゴロゴロ……。
遠くで雷が鳴る。雨脚が強くなる。屋敷の中は、死んだように静かだ。暗い。寒い。この広すぎる空間に、私一人。
怖い。一人が怖いなんて、鬼になってから初めてだ。
「……ねえ」
震える手で、さっくんの着物の袖を掴む。濡れて重たい袖だ。
「今日は、帰らないで」
「しかし……」
彼は躊躇う。当然だ。人妻の家に、男が泊まるなど。しかも、夫の訃報が届いたその夜に。不謹慎極まりない。
「私は一人で夜を越えられない」
「この広い屋敷で、旦那様のいない暗闇に一人でいたら、私は狂ってしまう。ししょーの所へ行く気力もない。姉さんに会わせる顔もない。……お願い、さっくん」
涙に濡れた目で。計算された色仕掛けではない。「上目遣いで落とす」なんてテクニックを使う余裕もない。ただの、剥き出しの弱さだ。孤独に怯える、一匹の生き物としてのSOSだ。
「私のことを少しでも……少しでも『女』として気にしてくれるなら……お願い。私を、一人にしないで。誰でもいいの。温かいものが、側にいてほしいの」
最低な言葉だ。「誰でもいい」なんて。彼を利用しているだけだ。でも、今の私には彼しかいない。
「…………」
さっくんは、動かない。雨音が、私たちの間の沈黙を埋めていく。
彼は葛藤している。武士としての義理。人としての倫理。そして、彼の中に眠る、私への想い。
やがて。彼の腕が動く。私を突き放すためではない。私を、抱き寄せるために。
ギュッ。
「……っ!」
強い力。骨がきしむほど強く、彼は私を抱きしめた。濡れた隊服越しに、彼の心臓の音が聞こえる。ドクン、ドクンと、痛いほど激しく脈打っている。
「……誰でもいいなどと、言わないでください」
彼の声が、耳元で震える。
「私は……貴女が、欲しかった」
「え……?」
今、なんて?
「ずっと……初めてお会いした時から。葛城殿には申し訳ないと思いながら、それでも……貴女を目で追っていた。貴女が笑うたびに、私の心は乱れた。貴女が私をからかうたびに、私は嬉しくて、そして苦しかった」
告白だ。こんな、最悪のタイミングで。最悪のシチュエーションで。でも、それは嘘偽りのない、彼自身の魂の叫びだ。
「夫を亡くしたばかりの貴女に、こんなことを言う私は卑怯者です。鬼殺隊士としても、人としても失格だ。……ですが」
彼は私の肩に顔を埋める。熱い息がかかる。
「今夜だけは。貴女の弱さに、つけ込ませてください。一人にしません。私が……貴女の隙間を埋めます」
「さっくん……」
彼の背中に手を回す。濡れた背中。頼もしくて、そして少しだけ震えている背中。
ああ……
温かい。痛いほどに、強い力。これが、男の人の力なのね。
遊女として、何人もの男を知った。客として、体を重ねた。夫として、旦那様にも愛された。けれど、旦那様は優しかった。私を壊れ物のように扱い、決して強く抱きしめることはなかった。
でも、彼は違う。彼は、私を「女」として求めている。壊してもいい、奪いたい、という激しい所有欲を感じる。
私は初めて、『男の人』に抱かれた気がした。
雷が鳴る。稲光が、重なり合う二人の影を障子に映し出す。
私たちは倒れ込む。冷たい畳の上へ。喪服の帯が解かれる音。濡れた隊服が脱ぎ捨てられる音。
私は受け入れる。彼の熱を。彼の罪悪感を。そして、彼の愛を。
雨は降り続く。 私たちの罪を洗い流すように、あるいは隠すように。 長く、激しい夜が始まった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
彼女を救ったのは、ずっと彼女を見続けていた青年でした。
決して褒められた行動ではありません。
二人とも罪悪感を抱えています。
でも、あの瞬間の颯には「温かさ」が必要でした。
この夜が、二人の未来にとって光になるのか。
あるいは影となるのか。
ぜひ感想を聞かせてください。