鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
乾いた音が、江戸の朝霧を切り裂く。 私が懐から取り出した手ぬぐいを畳み、即席の扇子として自らの膝を叩いた音だ。場所は、京の都から少し離れた街道沿い。観客は、道端の地蔵と、隣で眉間に深い皺を刻んでいる若き剣士だけ。
「さあさあ、語るも涙、聞くも涙の風音奮闘記!吉原の泥沼から這い上がり、大名屋敷の奥方様へと華麗なる転身を遂げた私でしたが、運命の歯車は残酷に回る!愛する旦那様は、時代の荒波に揉まれ、戦場の露と消えたのです!悲しみに暮れる未亡人!広い屋敷に一人残された孤独!その隙間に入り込んだのは、なんと敵対組織『鬼殺隊』の若き剣士・鱗滝左近次!雨の夜、私は彼に身を委ねました。それは加須底羅よりも甘く、羊羹よりも重く、そして何よりも罪深い味でした。でも、私はこの傾いた天秤を元に戻さなければいけないの。仁義八行を規範として、人として、鬼として、何よりも天才・風音として! 新たな旅立ちの予感!」
パン!
もう一度膝を叩き、私は満足げに頷く。完璧な導入だ。これぞ講談師も裸足で逃げ出す名調子。隣の彼が、この世の終わりのような顔をしていることを除けば、最高の朝だ。
スパイの天才事務員と、許されざる恋
「……奥方」
低く、押し殺したような声。鱗滝左近次くん、略してさっくんだ。彼は大きな葛籠を背負い、黒い隊服の上に旅装束を重ねている。その顔には、隠しきれない疲労と、それ以上に深い罪悪感が張り付いている。
「人前で、そのように大声を出すのは……」
「あら、誰もいないわよ。お地蔵様も『ええ声や』って笑ってるわ」
ニッコリと微笑む。今日の私は、いつもの華やかな着物ではない。旅歩きに適した、地味な木綿の着物に、脚絆と草履。髪も手ぬぐいで姉さん被りにしている。いわゆる「訳ありの旅の女」スタイルだ。素材が良い(私が可愛い)ので、これまた哀愁が漂って絵になる。
「さあ、行きましょうか。私の新しい職場へ」
歩き出す。振り返らない。背中には、旦那様と暮らした屋敷がある。あの温かい日々が、思い出が、詰まった場所。でも、もう戻らない。戻れないのだ。
抱かれたあと、さっくんは『ついてきてほしい』と私に言った。
昨夜の記憶が蘇る。情事のあと、乱れた着物のまま、彼は土下座せんばかりの勢いで私に言ったのだ。『このまま貴女を一人にはしておけない』と。『私の目が届く場所で、貴女を守りたい』と。
連れられて葛城の家を出た。駆け落ち、というやつね。近所の人には『実家に帰ります』と書き置きを残したけれど、実際には若い男と逃避行。
自分の足元を見る。一歩進むごとに、旦那様との距離が開いていく。
多分、この人は私を好きなんだろう。恩人の妻を奪い、組織の掟を破ってまで連れ出すほどに。……私はどうなのだろう。
胸の奥がざわつく。空腹感ではない。もっと重くて、ドロドロとした何か。旦那様への申し訳なさか。さっくんへの情か。それとも、自分の運命に対する諦めか。
……分からない。天才の私にも、分からないことがあるなんてね。
頭を振る。感傷に浸っている場合ではない。私には、やらなければならないことがある。 鬼として、生きていくための「手続き」が。
「ちょっと待ってて、さっくん。お花摘みに行ってくるわ」
「えっ、あ、はい。お気をつけて。あまり遠くへは……」
街道を外れ、茂みの中へと入っていく。さっくんの視線が届かない場所まで。
そこで私は、目を閉じる。意識を内側へ。血の奥底へ。
『……もしもし。無惨様、聞こえますか?風音です』
脳内通話を開通させる。早朝だというのに、無惨様の気配はすぐに繋がった。
『……風音か。何の用だ。青い彼岸花は見つかったのか』
不機嫌そうな重低音。相変わらずだ。
『いえ、本日はご報告がありまして。……旦那様が、亡くなりました』
『……ほう』
無惨様の声色が変わる。同情ではない。「で、どうする?」という、道具の使い道が変わることへの関心だ。
『大名屋敷という拠点を失いました。ですが、転んでもただでは起きないのが私、風音です』
勿体ぶって言う。
『鬼狩りの男……鱗滝左近次という若造に取り入りました。この男は「木冊体」という組織の人間。色仕掛けで籠絡し、骨抜きにしました。今、彼の手引きで、木冊体の本拠地へ向かっています』
『……何?』
無惨様の驚きが伝わってくる。
『私が彼についていけば、敵の内情を探れます。拠点の場所。隊員の数。呼吸と呼ばれる剣術の秘密。そして、お館様と呼ばれる当主の首。全て丸裸にしてみせます』
畳み掛ける。嘘ではない。結果的にそうなるだけだ。
『灯台下暗し。敵の懐にこそ、最高安全な隠れ家があるのです。いかがでしょうか、この作戦』
沈黙。無惨様が、私の大胆不敵な提案を吟味している。
『……面白い』
無惨様が嗤った。
『鬼殺隊の内部に、鬼を送り込むか。誰も思いつかぬ……いや、思いついても実行できぬ愚策にして奇策。貴様のその、人間を欺く天性の才能あればこそか』
『お褒めに預かり光栄です。私は天才ですから』
『でかした。許す。存分に探れ。鬼狩りどもの喉元に刃を突きつけ、絶望の底に叩き落としてやれ。吉報を待っているぞ』
『御意』
プツン。通信を切る。
……ちょろい。
茂みの中で、ほっと息をつく。
「スパイ活動」そう定義すれば、私の行動は合理的だ。ただの駆け落ちじゃない。ただの現実逃避じゃない。これは崇高なる任務なのだ。
そう思うことで、私は自分を保っている。旦那様を裏切って、別の男についていく自分を、「任務だから仕方ない」と正当化しているのだ。なんて卑怯な女だろう。
「……でも、本当はどうしよう?」
自分の胸に手を当てる。心臓の鼓動が速い。
胸の奥がざわつく。これは空腹?それとも……罪悪感?いや、私がそんな高級な感情を持っているはずがないわ。きっと朝ご飯を食べてないからね。
「お待たせ、さっくん!」
茂みから飛び出し、何食わぬ顔で彼に駆け寄る。さっくんは、私が戻ってきただけで、ホッとしたような顔をする。その顔を見ると、胸が痛むと同時に、甘い痺れが走る。
「さあ、行きましょう。地獄の底まで……じゃなくて、貴方の家まで」
私たちは再び歩き出す。太陽が昇る。私の鬼としての本能が、日差しを嫌がって皮膚の奥で疼く。でも、術のおかげで焼け焦げることはない。この身を焼くのは、太陽ではなく、私の業だけだ。
◆
数日後。私たちは、とある山深い里に到着していた。地図にも載っていない、霧に包まれた隠れ里。ここが、木冊体の拠点の一つらしい。
里の入り口には、藤の花が咲き乱れていた。季節外れの藤だ。紫色の花房が、カーテンのように垂れ下がっている。
「……うっ」
思わず鼻を押さえる。臭い。強烈な臭いだ。鬼にとって、藤の花は毒であり、忌避すべきもの。その香りは、腐った卵と焦げたゴムを混ぜて煮込んだような悪臭に感じられる。
「奥方?どうされました?顔色が……」
さっくんが心配そうに覗き込む。
「い、いえ。少し、花の香りが強くて。……私、花粉に弱いの」
血鬼術『封鬼化生』で肉体を人間に変えているから、近づいても体が崩れることはない。 でも、本能的な拒絶反応までは消せないようだ。吐き気がする。頭がガンガンする。
くっ……。これが最初の試練ね。この悪臭の中で暮らすなんて、拷問だわ。でも、負けない。私は加須底羅のために太陽さえ克服した女よ。藤の花くらい、鼻栓でどうにかしてやるわ!
気合で吐き気を飲み込み、里へと足を踏み入れる。
案内されたのは、質素だが手入れの行き届いた屋敷だ。そこで待っていたのは、木冊体の上官と思われる、初老の男だった。鋭い眼光。歴戦の剣士特有の、隙のない佇まい。
「鱗滝。……その女子は?」
上官が、私を値踏みするように見る。さっくんが一歩前に出る。彼は緊張でガチガチになっている。そりゃそうだ。組織に無断で、部外者(しかも人妻)を連れ込んだのだから。
「……彼女は、葛城颯殿。先の戦で、鬼の襲撃に巻き込まれた被害者です」
さっくんが口を開く。事前に打ち合わせた設定だ。
「夫を……鬼に殺され、家を焼かれ、身寄りをなくしました。私が現場に駆けつけた時には、すでに……」
彼は言葉を詰まらせる。演技ではない。彼の中では、旦那様を救えなかったことは「鬼に殺された」のと同じくらい悔しいことなのだ。
「彼女は、行く当てがありません。それに、鬼を目撃してしまったため、普通の生活に戻るのは困難かと。……文官の娘であり、読み書き算盤に長けています。隊の事務方として、保護を願い出たい」
さっくんが頭を下げる。深く、深く。
上官は、じっと私を見る。
「ふむ……。不憫なことだ。しかし、ここは戦場だぞ。鬼を狩るための修羅の庭だ。か弱き女子に務まる場所ではない」
上官が断ろうとする。ここだ。私の出番だ。
さっと目を伏せる。長い睫毛を震わせる。袖で口元を覆い、肩を小刻みに震わせる。
「……うぅ……」
漏れる嗚咽。儚げな溜息。私の頭の中で、悲劇のヒロインのBGMが流れる。
「……旦那様を……。愛する旦那様をお守りできなかった私に、生きる価値など……」
涙声で語る。
「目の前で……あの人が……あんな無残な姿に……!私は……私は悔しくて……!ただおめおめと生き延びるくらいなら、いっそ死んでしまいたい……!」
上官を見上げる。潤んだ瞳で。決意と悲しみが入り混じった、絶妙な表情で。
「でも!鱗滝様が、命を救ってくださいました。ならば、この命……せめて皆様のお役に立てたいのです!鬼を……あの恐ろしい鬼共に、一矢報いたいのです……!私にできることなら、雑巾がけでも、炊事でも、なんでもやります!お願いです、私を……置いてください!」
額を畳に擦り付ける。完璧だ。女優賞ものだ。
上官の表情が、見る見るうちに崩れていく。厳格な剣士の顔から、孫娘を見るおじいちゃんの顔へ。
「……なんと健気な」
上官が目頭を押さえる。
「夫を奪われた悲しみを、戦う力に変えようというのか。その志、天晴れだ。鱗滝、良い者を連れてきたな」
「は、はあ……」
さっくんが引きつった顔で頷く。私の演技力に引いているのか、それとも嘘が通ってホッとしているのか。両方だろう。
「許可しよう。事務方の手伝いを頼む。ちょうど、戦費の計算や物資の管理ができる者が不足していたのだ。剣士どもは、剣を振るうことしか知らん脳筋ばかりだからな」
「ありがとうございます!粉骨砕身、働かせていただきます!」
顔を上げる。涙はすでに乾いている。
チョロい。人間って、どうしてこうも「悲劇」に弱いのかな。さっくん、顔が引きつってるわよ。もっと堂々としなさい。共犯者でしょう?
◆
質素な部屋。飾り気のない壁。そして、男の匂いが染み付いた布団。私たちは今、その中で身を寄せ合っている。
行燈の火は消した。 頼りになるのは、障子越しに差し込む月明かりだけ。その淡い光が、隣にいる若き剣士の苦悩に満ちた横顔を照らし出している。
「……許されないことだと、分かっている」
さっくんの声が、暗闇に重く響く。事後の余韻に浸る甘い声ではない。
「恩人である葛城殿を裏切り……。隊の規律を破り……。あまつさえ、貴女のような一般人を、鬼の棲む危険な最前線に連れ込んでしまった」
彼は自分を責めている。真面目だ。本当に、呆れるほど真面目だ。私なら「バレなきゃ正義」と舌を出すところだが、彼の良心はそれを許さないらしい。
「なら、やめる?」
彼の胸板に指を這わせながら、意地悪く問う。
「ここを出ていく?私をどこかの宿場町にでも捨てて、貴方は清廉潔白な剣士様に戻る?」
「……できない」
即答だった。彼は私の手を掴む。痛いほど強く。
「できないんだ……」
彼は苦しげに、けれど熱を込めて私を抱き寄せる。私の体が、彼の逞しい体に密着する。鼓動が聞こえる。ドクン、ドクンと、迷いながらも激しく脈打つ命の音。
「初めて会った時から……。ずっと、貴女が欲しかった」
何度聞いても、背筋がゾクゾクするほど甘美な響きだ。
「夫がいると分かっていても……。葛城殿と笑い合う貴女を見るたびに、胸が張り裂けそうだった。心のどこかで……ずっと、貴女を見ていた。浅ましい男だと軽蔑してくれて構わない。だが、もう……貴女を手放すことなど、私にはできない」
彼の腕に力がこもる。私の骨がきしむほどだ。それほどの独占欲。執着。ああ、なんて心地よい束縛だろう。
「……さっくん」
暗がりでも、彼の瞳が潤んでいるのが分かる。
この世の理は全て計算できる。一足す一は二。損得勘定、利害の一致。世の中は数式でできている。
だけど、『恩讐』には逆らえない。
恩には恩を。仇には仇を。そして、愛には愛を。あるいは、罪には罰を。
彼がこれほどの罪を背負ってまで、私を求めてくれるなら。妻を奪うという、武士として最大の禁忌を犯してまで、私を選んでくれたなら。それに見合う『対価』を返さなくては釣り合わない。
天秤だ。心の中にある天秤が、ガタンと音を立てて傾く。彼が捧げた「誠実さの喪失」という重りに対し、私が捧げるべきものは何か。
「いいわ」
彼に囁く。悪魔の契約書に署名するように。
「なら、貴方の愛には対価を返そう。私の愛も、体も、全部貴方のものにしてあげる」
彼の首に腕を回す。
「旦那様のことは忘れましょう。今は、貴方と私だけ。貴方が地獄に落ちるなら、私が先導してあげる。道連れ上等よ」
……まあ、私は鬼だから元々地獄行き確定だけどね!むしろ地獄は私の庭みたいなものよ!案内料くらいまけてあげるわ!
心の中で舌を出す。私は悪い女だ。彼を騙し、利用し、そして快楽の沼に沈めようとしている。でも、彼もそれを望んでいるなら、これは「需要と供給」の合致だ。
「……颯」
彼は私の名を呼ぶ。「奥方」ではなく、名前で。
「愛している……」
彼の唇が、私の唇を塞ぐ。不器用で、必死で、熱い口づけ。私はそれを受け入れる。彼の生命力を吸い取るように、深く、濃く。
夜は長い。私たちの罪深き蜜月は、まだ始まったばかりだ。明日の朝、どんな顔をして起きればいいのかは、明日考えればいい。今はただ、この人間の温もりに溺れていたい。
……あ、お腹すいた。後でさっくんの血、ちょっとだけ貰おうかな。指先切って舐めるくらいなら、蚊に刺されたのと変わらないわよね?
◆
翌朝。私は戦場にいた。血と肉が飛び散る戦場ではない。もっと陰湿で、埃っぽくて、精神を削られる戦場だ。
鬼殺隊の拠点にある、事務方の帳場。そこは、地獄絵図だった。
「……なんですか、これは」
入り口で立ち尽くす。目の前に広がる光景に、開いた口が塞がらない。
部屋中を埋め尽くす、紙、紙、紙。山積みになった書類が、今にも雪崩を起こしそうだ。棚は重みで歪み、床には墨のシミが点々とついている。空気は淀み、カビと古紙の匂いが充満している。
そして、その書類の山に埋もれるようにして、数人の初老の隊士たちが頭を抱えている。 彼らは現役を退いた剣士たちらしいが、今は筆という慣れない武器を手に、見えない敵と戦っているようだ。
「いやあ……。各地から届く報告書がバラバラでねえ……」
事務員A(恐らく責任者)の爺さんが、疲れ切った顔で眼鏡の位置を直す。
「解読するだけで一日が終わるんだ。若者たちの字は汚いし、方言はきついし、血痕で滲んでるし……」
「言い訳は結構です!」
山積みの書類の一つを手に取る。
「(パラパラ……)」
高速で文字を追う。……酷い。予想以上に酷い。
「討伐数の記録が適当すぎます!『すごいの倒した』とか『いっぱいいた』とか、子供の日記ですか!正確な数と、鬼の特徴を記述させなさい!日付も抜けてる!これじゃいつの戦果か分からないでしょう!」
次々と書類をめくる。怒りが湧いてくる。事務処理の不手際は、私にとって「不味い料理」を出されたのと同じくらい許しがたいことなのだ。
「給金の計算もおざなり!この『田村』って隊士、先月より働いてるのに手取りが減ってますよ!?これじゃ命がけで戦ってる隊士が浮かばれませんよ!労働意欲の低下は組織の弱体化に直結します!」
「そ、それは……計算が合わなくて、適当に調整を……」
「適当!?お金の計算を適当にするなんて、商人の風上にも置けません!……あ、ここは文学者の集まりでしたっけ。失敬」
さらに別の帳簿を開く。
「階級制度はあるようだけど……。『甲』とか『乙』とか、十干を使ってるのは風流でいいですけど、昇格の基準が曖昧すぎます!『なんか強そうだから上げた』とか、備考欄に書いてありますけど正気ですか!?明確な評価基準を作りなさい!」
バンッ!帳簿を机に叩きつける。埃が舞い上がる。
「不満が出るわよー!現場の隊士から暴動が起きますよ!組織の腐敗は事務の停滞から始まるんです!兵站と管理が杜撰な軍隊は、戦う前に負けるんです!」
腕まくりをする。手ぬぐいを姉さん被りにする。掃除の時と同じ、本気モードだ。
「そ、そう言われましても……。人手が足りなくて……。我々も、剣なら振れるんですが、算盤はどうも……」
爺さんたちがオロオロしている。可哀想に。適材適所という言葉を知らない人事担当者の被害者たちだ。
「貸してごらんなさい!」
爺さんの手から算盤をひったくる。
「私がやります。いえ、やらせてください。このままでは気持ち悪くて夜も眠れません(昼寝はするけど)!」
椅子に座る(ないから木箱に座る)。筆を執る。墨をする。
「まずは、このゴミの山を『未処理』『処理済み』『保留』『破棄』に分別します! さあ、爺様たち!私の指示通りに動いてください!剣の稽古だと思って、紙と格闘するんです!」
「は、はいっ!」
私の気迫に押され、爺さんたちが直立不動になる。
「いきますよ!風音流・超高速事務処理術!名付けて『千手観音乱れ打ち』!」
パチパチパチパチパチ……!!
私の指が、算盤の上で舞う。残像が見える。計算というよりは、指先の運動だ。音速を超えた指の動きが、空気を切り裂く音がする。
「あ、そこの書類!日付順に並べて!そっちは地域別に!おい、茶飲んでる暇があったら墨をすれ!」
「ひぃぃ!」
現場は戦場と化した。私は鬼軍曹となり、老兵たちを叱咤激励しながら、書類の山を崩していく。
……ふふん。楽しい。やっぱり、数字が綺麗に揃っていくのは快感だわ。人間を食べる時の快感とはまた違う、知的な興奮!
これぞスパイ活動!敵の組織構造を把握し、資金の流れを掴み、人員配置を丸裸にする!ついでに業務効率化して、感謝までされる!一石二鳥どころか一石四鳥ね!
無惨様も、まさか私が敵の経理担当になっているとは思うまい。情報を得るにはこれが一番手っ取り早いのだ。
数時間後。そこには、綺麗に整頓された棚と、正確な帳簿、そして白目を剥いて倒れている爺さんたちの姿があった。
「ふう。一丁上がり!」
筆を置く。完璧だ。今月の収支報告書、完成。
「……すごい」
◆
「ええ。どうにもこの木冊体は、書類というものに疎いようね。剣の腕は立つかもしれないけど、事務能力は赤点よ。まあ、脳みそまで筋肉でできているような連中ばかりだから仕方ないけれど」
愛のある毒舌だ。
「でも、だからこそ改革のしがいがあるわ。無駄を省き、効率化し、組織としての地力を上げる。これは色々、やりがいがあるわねえ!」
目を輝かせる。本当に楽しいのだ。混沌としたものを秩序立てていく過程が。そして、自分がこの組織をコントロールしているという全能感が。
(木冊体……。まだ言ってるのか。隊服の背中に『滅』の字が大きく書いてあるのを見ているはずだが……)
さっくんが小声で何か突っ込んでいるが、聞こえない。
「……あ、ああ。助かるよ。君のおかげで、皆も動きやすくなる。前線で戦う者たちにとっても、後方支援がしっかりしていることは、何よりの安心材料だ」
さっくんは感謝の言葉を口にする。その顔には、私への誇らしさと、そして少しばかりの申し訳なさが混ざっている。私のような一般女性(と思っている)を、こんな激務に巻き込んでしまったことへの罪悪感だろう。
「気にしないで。私は好きでやってるんだから」
彼に微笑みかける。
ふふん。これで組織の中枢に入り込んだわ。
心の中で、黒い笑みを浮かべる。
私が事務を握れば、隊士の動きも、柱の配置も、物資の流れも、全部把握できる。誰がどこで何をしているか。どの隊士が強くて、どの隊士が弱いか。お館様の居場所の手がかりだって、兵站の記録から割り出せるかもしれない。無惨様に報告し放題よ!
完璧なスパイ活動だ。私は敵の組織を内側から食い荒らすシロアリだ。彼らが私に感謝すればするほど、彼らの首を絞めることになる。皮肉で、残酷で、そして最高に愉快な喜劇だ。
「さあ、帰りましょうか。今夜はさっくんの部屋で、ゆっくり疲れを癒したいわ」
彼の手を取る。さっくんは顔を赤らめ、「……ああ」と頷く。
私たちは並んで歩き出す。夕日が二人の影を長く伸ばす。
しかし。天才・風音は気づいていない。致命的な計算ミスを犯していることに。
彼女が事務を効率化させたことで。給金が上がり、隊士たちの士気が爆上がりしていることに。情報の伝達速度が上がり、鬼の出現情報が即座に共有されるようになったことに。 不正がなくなり、予算が適切に配分され、武器や防具の質が向上したことに。
つまり。結果として、鬼殺隊の組織運営が円滑になり、鬼狩りの精度と速度が劇的に向上してしまっていることに。
頑張れば頑張るほど、鬼たちが狩りやすくなる。無惨への特大の利敵行為……いや、裏切り行為が、今ここから始まろうとしていた。
「あ、さっくん。明日は厨房のおばちゃんたちと仲良くなる予定だから。メニューに加須底羅を追加させるわ!」
「……それは無理だと思うが」
颯は、弱さを晒した直後に強くなるタイプではありません。
むしろ、強く振る舞うことで弱さから逃げる女です。
今回、彼女が鬼殺隊の事務へ飛び込んだのは
決して純粋な使命感からではなく、罪悪感と孤独をごまかすためでした。
しかしその逃避が、結果的に鬼殺隊を強くし、彼女の立場をより複雑にします。
無惨のスパイとして。
さっくんの愛人として。
そして、鬼でありながら人を救う存在として。
颯の嘘は誰を守り、本音は誰を傷つけるのか?
この先の破綻か成長か、その分岐点が、すでに静かに動き始めています。
次回も、颯らしく予想外の方向へ物語が進むので、楽しみにしていてください。