鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら   作:斉宮 柴野

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パン!

乾いた音が、鬼殺隊本部の帳場に響き渡る。私が懐から取り出した手ぬぐいを畳み、即席の扇子(ハリセン)として自らの膝を叩いた音だ。

場所は、相変わらず埃っぽい、けれど私が整理したおかげで劇的に使いやすくなった事務室。 観客は、壁に掛けられた『滅』の額縁と、私の事務処理能力に恐れをなして部屋の隅で震えている爺さん事務員たちだけ。

「さあさあ、語って聞かせましょう、天才・風音の華麗なる転身記!吉原の泥沼から這い上がり、大名屋敷の奥方様へと上り詰めた私でしたが、運命とは残酷なもの!愛する旦那様は戦場の露と消え、残された私は悲しみの未亡人!しかし!転んでもただでは起きないのがこの私!敵対組織である『鬼殺隊』の若き剣士・鱗滝左近次……通称さっくんを色香で籠絡し、その手引きで敵の本拠地へと潜入成功!現在は事務員として、腐敗した組織の経理を立て直し、無惨様へのスパイ活動と、さっくんとの秘密の同棲生活を両立させるという、まさに八面六臂の大活躍!私の指先一つで、鬼殺隊の財政は黒字転換!ですが、ここで新たな問題が浮上します!それは……私の愛するさっくんの、死亡率の問題です!風音の明日はどっちだ!!」

パン!

もう一度膝を叩き、満足げに頷く。完璧な導入だ。これぞ講談師も裸足で逃げ出す名調子。誰も聞いていないのが惜しいくらいだ。

「……あの、颯さん。また独り言ですか?そろそろお茶の時間にしませんか?」

隣の席で、事務員の田村さんが恐る恐る声をかけてくる。最近では私の淹れるお茶(茶柱が立つ確率百パーセント)の虜になっている。

「あら、ええ、そうですね。頭を使いすぎて、糖分が不足してきました。羊羹でも切りましょうか」

ニッコリと微笑む。手元の書類をパタンと閉じる。そこには、各地から送られてきた『戦死者名簿』があった。



吉原の女は剛腕にして、鰹風味の師匠

鬼殺隊……

 

聞けば聞くほど、物騒な名前だわ。木冊体(きさつたい)だと思っていた頃の、牧歌的なイメージはどこへやら。『鬼を殺すための部隊』つまり、彼らの仕事は、私たち鬼と殺し合いをすること。当たり前のことだけど、事務方として数字を見ていると、その現実がリアルに迫ってくる。

 

名簿に並ぶ名前。 昨日まで給金の計算をしていた隊士の名前が、今日は死亡欄に移動している。消耗品のように。使い捨ての駒のように。

 

ということは……。さっくんも、いつか死ぬってこと?

 

私の脳裏に、さっくんの顔が浮かぶ。真面目で、不器用で、私を愛してくれる可愛い男の子。彼もまた、剣士だ。今は私の近くにいるけれど、いつ指令が下り、遠くの戦場へ飛ばされるか分からない。そして、そこで出会うのが、もし『上弦』の鬼たちだったら?

 

……無理ね。即死だわ。さっくんは強いけれど、それは人間の中での話。あの上弦の連中……特に、ししょー(黒死牟)みたいな化け物と戦ったら、一瞬でミンチにされて、ハンバーグの具材にされてしまうわ。

 

想像するだけで寒気がする。私の大事な非常食兼、愛人兼、精神安定剤が、挽肉になるなんて。そんなの、私の美学に反する。私の所有物が、勝手に壊されるなんて許せない。

 

危険すぎるわ!そんなの私の人生設計にない!さっくんには、長生きしてもらわないと困るのよ!少なくとも、私が飽きるまでは!あるいはお腹が空いて食べるまでは!

 

バキッ!!

 

乾いた音が響く。私が手に持っていた筆が、真ん中からへし折れた音だ。田村さんが「ひぃっ」と悲鳴を上げて椅子から転げ落ちる。

 

「あら、ごめんなさい。筆が脆かったみたい。安物はこれだから困りますわね」

 

折れた筆をゴミ箱に投げ捨てる。顔は笑顔だが、内心は修羅だ。

 

「これは私の『恩讐』に係る案件よ」

 

「旦那様は、私を愛してくれた。私も旦那様を愛していた。でも、私は旦那様を守れなかった。戦争という巨大な暴力の前で、私は無力だった」

 

それは、私の心に残る、消えない棘だ。天才である私の、数少ない敗北の記憶。

 

「だからこそ。今度は守らなきゃいけない。私が彼を守らねば、旦那様の死に対する釣り合いが取れない。天秤が傾いたままでは、私のプライドが許さないのよ」

 

事務机を蹴飛ばし(軽く)、仁王立ちになる。

 

「決めた!私も剣士になろう!」

 

「は?」

 

田村さんが、床に這いつくばったまま顔を上げる。

 

「颯さん……?剣士って……貴女、事務員ですよ?しかも未亡人で……か弱い女性で……」

 

「か弱い?誰がですか?私はこう見えて、握力には自信があるんですよ。リンゴくらいなら片手でジュースにできます」

 

冗談ではない。岩だって粉砕できる。

 

ししょー(黒死牟)との修行で鍛えた私には、剣術なんて余裕余裕!あの深夜の山奥で、数千回の素振りと、達磨落としのような実戦形式の斬り合いを生き延びたのよ?あの六つ目の達磨さん……黒死牟殿より強い人間なんて、そうそういないでしょうしね!

 

私の脳内計算機が弾き出す。黒死牟殿の強さを100とするなら、一般隊士は2くらい。 さっくんでも10くらいだろうか。私は……まあ、再生能力込みで50くらいはいけるはずだ。つまり、人間相手なら無双できる。

 

(※注:風音の自己評価はかなり高めに設定されていますが、実際の戦闘技術は素人に毛が生えた程度です。ただ身体能力がチートなだけです)

 

「善は急げです!田村さん、後は任せましたよ!今日の残業は貴方の奢りです!」

 

「ええっ!?颯さん、どこへ行くんですか!?」

 

「愛の説得工作へ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

行燈の火が揺れる。二人の影が、障子に大きく映し出される。

 

「だめだ」

 

さっくんが、短く、しかし強い口調で言った。彼は正座し、腕を組んで、私を見据えている。その顔は、いつものデレデレした表情ではなく、鬼殺隊士としての厳しい顔だ。

 

「なぜ?私、事務だけじゃなくて現場でも役に立ちたいの。計算も得意だけど、体動かすのも好きなのよ?ほら、見てこの二の腕。プニプニしてるけど中身は筋肉よ?」

 

袖をまくり、力こぶを作ってみせる。見た目は柔らかそうな白肌だが、その密度は鋼鉄並みだ。

 

「……君のような美しい人が、刀を持つ必要はない」

 

さっくんは首を横に振る。頑固だ。石のように硬い。

 

「剣を振れば、その白魚のような手にタコができる。皮膚が硬くなり、節くれ立ち、血に染まることもある。……私は、それが我慢できない」

 

彼は私の手を取る。両手で包み込み、愛おしそうに撫でる。彼の手はゴツゴツしていて、剣ダコだらけだ。武人の手だ。対して私の手は、白く、滑らかで、傷一つない。(すぐに再生するから当然なのだが)

 

「君は、葛城殿が命を懸けて守ろうとした人だ。そして、私が生涯をかけて守り抜くと誓った人だ。君を戦場に出すくらいなら、私は腹を切る」

 

重い。愛が重い。でも、その重さが嬉しい反面、今は少し邪魔だ。

 

「んー…… (鬼だから再生するし、タコなんてできないんだけどな~)」

 

言えない。「私、実は鬼なんで平気です! 腕とか切り落とされても生えてきます!」なんて言ったら、即座に彼の刀が私の首を狙ってくるだろう。恋人同士の修羅場が、物理的な殺し合いに発展してしまう。

 

「さっくんの気持ちは嬉しいわ。でもね、守られているだけじゃ嫌なの。私も貴方を守りたいの。背中合わせで戦う夫婦剣士なんて、素敵だと思わない?」

 

「思いません」

 

即答。取り付く島もない。

 

「戦場は地獄だ。鬼は……君が想像するような、生易しい相手ではない。醜悪で、残忍で、人の理が通じない化け物だ」

 

知ってるわよ。だって私がその化け物だもの。鏡を見るたびにこんにちはしてるわよ。

 

「君があの惨状を目にしたら……きっと心が壊れてしまう。私は、君の笑顔を曇らせたくないんだ」

 

さっくんは私を引き寄せ、抱きしめる。そして、そのまま布団へと押し倒す。彼の体温が、重みが、私を封じ込める。

 

「君は、私に守られていればいい。ここで……私の帰りを待っていてくれればいいんだ」

 

彼は私の耳元で囁く。甘い声だ。麻薬のような、思考を奪う声だ。普通なら、ここで「はい、貴方♡」とトロけて終わるところだろう。

 

だが。私は風音だ。ただの従順な女ではない。自我が富士山より高い、最強の鬼嫁(予定)だ。

 

……言うわけにもいかないし。口で言っても聞かないなら、体で分からせるしかないわね。さっくん、貴方は虎の尾を踏んだのよ。眠れる獅子……じゃなくて、腹ペコの鬼を起こしてしまったのよ。

 

彼には見えていない。私の瞳孔が、興奮で縦に割れていることを。

 

「……あらそう」

 

彼の胸板に手を置く。そっと、優しく。

 

「生意気な口には、お仕置きが必要ね。さっくん。貴方は私が『か弱い女』だと思っているようだけど……。吉原の女を舐めないで頂戴」

 

「え……?」

 

さっくんが動きを止める。私の雰囲気が変わったことに気づいたようだ。

 

「……今夜は、私が『上』よ」

 

ドンッ!!

 

腰を跳ね上げる。同時に、彼の胸板を押す。鬼の怪力が、火を噴く。

 

「うわっ!?」

 

さっくんの体が宙に浮く。上下が逆転する。私が上。彼が下。いわゆる、マウントポジションだ。

 

「な、何を……!?」

 

さっくんが目を白黒させている。鍛え上げられた剣士が、女一人に押し倒されたのだ。 混乱して当然だ。

 

彼の手首を掴み、枕元に押し付ける。彼の抵抗を、力尽くで封じ込める。

 

「勝負よ、さっくん」

 

彼を見下ろす。捕食者の目で。

 

「私が勝ったら、剣士になることを認めなさい!もし貴方が勝ったら……大人しくお留守番してあげる」

 

「ば、馬鹿な!そんな勝負、受けるわけが……!」

 

「拒否権はないわ。だって、もう始まっているもの」

 

帯を解く。シュルリ、という衣擦れの音が、静かな部屋に響く。

 

「さあ、耐えられるかしら?私の『攻撃』に。吉原仕込みの四十八手プラスアルファ、全弾撃ち込んであげるわ!」

 

「ちょ、待っ……!颯!落ち着け!話し合いを……!」

 

「問答無用!覚悟しなさい!いただきまーす!!」

 

彼に覆いかぶさる。それは柔道でもレスリングでもない。もっと原始的で、もっと激しく、そしてもっと粘着質な、夜の格闘技だ。

 

(暗転)

 

激しい衣擦れの音。畳が軋む音。そして、鱗滝左近次の、悲鳴とも歓喜ともつかない降参の声が、夜明けまで響き渡るのだった。

 

「ま、参った!参ったから!」

 

「まだまだ!あと三回戦よ!」

 

「死ぬ!私が死ぬ!」

 

「大丈夫、貴方は若いもの!再生能力はないけど、若さでカバーよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は今、さっくんに連れられて、地図にも載っていないような深い山奥を歩いている。目指すは、彼の師匠である育手、鰹田様の道場だ。

 

「……颯。疲れていないか?無理なら、背負うが」

 

さっくんが心配そうに振り返る。彼は大きな荷物を背負っているのに、息一つ乱していない。さすがは鍛え上げられた肉体だ。美味しそうだ。後ろからふくらはぎに噛み付きたい衝動を、私は必死に抑える。

 

「大丈夫よ、さっくん。私はこう見えて、足腰には自信があるの。吉原では、逃げる客を追いかけて三里(約十二キロ)くらい走るのは日常茶飯事だったもの」

 

そんな遊女はいない。鬼ごっこの鬼役なら得意だが。

 

「そうか。やはり、君は底知れないな」

 

さっくんは感心したように頷く。信じている。本当に、この男の純粋さは国宝級だ。博物館に飾りたい。

 

「それより、さっくん。あとどれくらい?私、もうお腹と背中がくっつきそうなの。  物理的に」

 

「もうすぐだ。あの杉の木の向こうに、道場がある」

 

彼が指差す先。鬱蒼とした木々の合間に、古びた建物が見える。そして。

 

……くんくん。

 

鼻をひくつかせる。

 

……この匂い。

 

風に乗って漂ってくる、独特の香り。香ばしいような、塩気を含んだような、食欲をダイレクトに刺激するこの香り。

 

間違いないわ。これは……極上の出汁の香り!

 

私の脳内で、土鍋の中で踊る鰹節の映像が鮮明に再生される。黄金色のスープ。立ち上る湯気。ああ、日本人の心。

 

「急ぎましょう、さっくん!私の鼻が、そこにご馳走があると告げているわ!」

 

「えっ、ご馳走?師匠は質素な食事しかしないはずだが……」

 

さっくんの手を引き、駆け出す。待ってろよ、鰹田師匠。その名の通り、私の期待に応えてくれる味だと信じているぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ご紹介します。私の師、育手の鰹田様です」

 

さっくんが緊張した面持ちで紹介する。師匠と呼ばれた男は、ゆっくりとこちらを向く。鋭い眼光。私を頭の先から足の先まで値踏みするような視線。

 

「ふむ。鱗滝が女を連れてくるとはな……。しかも、随分と派手な……」

 

鰹田様は眉間に皺を寄せる。私の着物が、山奥には似つかわしくないほど鮮やかだからだろう。元遊女のセンスは隠せないのだ。

 

「じゅるり」

 

音がした。私の口元から。いや、喉の奥から。制御できない食欲が、液状化して溢れ出そうになっている音だ。

 

「?颯?」

 

さっくんが怪訝そうに私を見る。

 

いけない。あまりにも美味しそうな匂いがするから、つい理性が飛びそうになったわ。

 

慌てて扇子(手ぬぐい)で口元を拭う。

 

鰹田さん……。なんて良い出汁が出そうな名前。そしてこの匂い。熟成された人間の旨味が凝縮されているわ。きっと、血の一滴まで濃厚なスープになるに違いない。ああ、お腹が空いた。今すぐ頭からガブリといきたいけれど、それは流石に早食いが過ぎるわね。

 

深呼吸をして、己を律する。まずは挨拶。食事の前の「いただきます」と同じくらい重要な儀式だ。

 

「……初めまして。葛城颯と申します」

 

しとやかに三つ指をつく。上目遣いで、獲物……じゃなくて、師匠を見上げる。

 

「鱗滝様から、素晴らしい剣の使い手だと伺っております。どうか、この不束者をご指導くださいませ」

 

完璧な挨拶だ。だが、私の視線は彼の首筋の動脈にロックオンされたままだ。

 

「……ふん。口の減らぬ女だ。その目で私をどうするつもりだ?まるで、晩のおかずを見るような目で……」

 

鋭い。さすがは育手だ。殺気と食欲の違いを見抜いているのか、それとも単に悪寒がしているだけなのか。

 

「いえいえ、食べませんよ?本当よ?ただちょっと、熱湯にくぐらせたいなーって思っただけです。湯通しして、ポン酢でさっぱりといただきたいなーって」

 

「??(悪寒)」

 

鰹田様が身震いする。意味は分かっていないようだが、生物としての危機感を感じ取ったらしい。

 

「颯、失礼だぞ。師匠は食べ物ではない」

 

さっくんが窘める。相変わらず真面目だ。

 

「分かってますよ。比喩です、比喩。尊敬の念を、食欲に例えた高度な文学的表現です」

 

これで掴みはオッケーだ(多分)。

 

 

 

 

 

 

 

挨拶もそこそこに、私たちは道場の裏手にある修練場へと移動する。そこには、大小様々な木刀や、打ち込み用の丸太が並んでいる。汗と泥の匂い。男臭い場所だ。

 

「女が剣士になりたいだと?笑わせるな」

 

鰹田様は、腕を組んで私を見下ろす。差別的だ。だが、頑固親父なら標準的な反応だろう。

 

「鬼狩りは遊びではない。鬼の首は硬く、その力は常人を遥かに凌駕する。生半可な腕力では、刀を振るうことすらままならんのだ」

 

彼は説教を垂れる。ごもっともだ。 普通の人間ならね。

 

「まずはこれを振ってみろ。普通の女には、持ち上げることすら……」

 

鰹田様が、一本の木刀を放り投げる。

 

ドサッ!地面に落ちた時、重い音が響く。土煙が舞う。

 

それは、普通の木刀ではなかった。太い。丸太を削っただけのような太さだ。長さも五尺(約百五十センチ)はある。

 

そして何より、色が黒い。鉄木か何かだろうか。見るからに重そうだ。

 

「これは、隊士の筋力を鍛えるための特注品だ。重さは五十斤(約三十キログラム)ある。これを千回振れるようになって、初めて入り口に立てると思え」

 

鰹田様が意地悪く笑う。私が泣き言を言って諦めるのを期待しているのだ。

 

周りで稽古をしていた練習生たちが、手を止めてこちらを見ている。

 

「あんな細い姉ちゃんに無理だろ」

 

「怪我するぜ」

 

ひそひそ話が聞こえる。

 

ふふふ。舐められたものね。

 

心の中でほくそ笑む。三十キロ?漬物石より軽いじゃない。私が毎晩、ししょー(黒死牟殿)との特訓で振らされている鉄の棒に比べれば、爪楊枝みたいなものよ。

 

「えっと……。この木刀を振ればいいのね」

 

着物の袖を襷で結ぶ。裾をからげる。準備万端だ。

 

木刀に手を伸ばす。片手で。

 

「おい、片手じゃ無理だ!腰を痛めるぞ!」

 

練習生の一人が叫ぶ。親切だ。後でお礼に飴ちゃんをあげよう。

 

「ふんっ」

 

ヒュンッ!!

 

手首のスナップだけで、その極太木刀を持ち上げる。重さを感じない。

 

「……え?」

 

鰹田様の目が点になる。さっくんは「やはり」という顔で頷いている。

 

そのまま、素振りを開始する。

 

ブンッ!!

 

爆音が響く。ただ振っただけではない。風圧だ。木刀が空気を圧縮し、衝撃波となって前方に放たれる。

 

ザザザザ……!

 

庭の砂利が吹き飛ぶ。突風が巻き起こり、鰹田様の髪がオールバックになる。練習生たちが尻餅をつく。

 

ブンッ!!ブンッ!!ブンッ!!

 

右へ、左へ。片手で軽々と、まるで指揮棒を振るかのように、五十斤の木刀を振り回す。 残像が見える。扇風機のような音が鳴り響く。

 

「……ふう。こんな感じですか?」

 

十回ほど振って、ピタリと止める。息一つ切れていない。汗一滴かいていない。

 

「……何見てるのみんな?口開けて。ハエが入るわよ?」

 

キョトンとして周囲を見回す。全員が石像のように固まっている。鰹田様だけが、顎が外れそうなほど口を開けて震えている。

 

「えっ……。あの木刀、五十斤はあるぞ……?それを片手で……?しかも、あんな速度で……?」

 

練習生たちが、お化けを見る目で私を見ている。失礼な。私はお化けじゃなくて鬼よ。 似たようなものだけど。

 

「これ、大して重くないわよ?漬物石より軽いです。うちの旦那様……葛城様をお姫様抱っこする方が、よっぽど重いわ」

 

木刀を指先でくるくると回す。ペン回しの要領だ。

 

「な、なんと……」

 

鰹田様が、呻くように声を漏らす。

 

「女の細腕で……。あり得ん……。貴様、一体何者だ……?どこの流派だ……?」

 

「流派?ありませんよそんなもの」

 

木刀を地面に突き刺す。ズプッ、と深々と刺さる。

 

「こんなもの振れないようじゃ、吉原の遊女にはなれないわよ?」

 

腰に手を当て、ドヤ顔で言い放つ。

 

「あそこじゃね、酔っ払った相撲取りを片手で投げ飛ばし、布団部屋から百貫(約三百七十五キログラム)の荷物を運ぶのが朝飯前ですから!お客様が暴れたら、帯一本で縛り上げて天井から吊るすの。遊女は体力勝負なのよ!美貌と剛腕、それが花魁の条件よ!」

 

※注:大嘘です。そんな遊女はいません。いたら吉原は格闘技の聖地になっています。

 

だが。私の自信満々な態度と、目の前の現実(物理的な破壊力)が、嘘を真実に変えていく。

 

「(真顔で)……そうだったのか」

 

さっくんが、深く頷く。

 

「吉原の遊女たちは、それほど精強なのか……。華やかな世界の裏には、壮絶な修練があるのだな。美しさとは、強さの上に成り立つものか。勉強になる」

 

(信じるのか鱗滝……)

 

鰹田様が、信じられないものを見る目で弟子を見る。でも、否定できない。目の前で私が木刀を振り回してしまったからだ。

 

「お分かりいただけましたか、師匠?」

 

私は鰹田様に詰め寄る。

 

「私はただの女じゃありません。吉原で鍛え上げた、エリート中のエリートです。だから、入門を許可してください。そして、呼吸の極意を教えてください。ついでに、美味しい出汁の取り方も」

 

鰹田様は、しばし呆然としていたが、やがて諦めたようにため息をついた。

 

「……分かった。認めよう。貴様の腕力だけは、本物だ」

 

「やったー!ありがとうございます!」

 

飛び跳ねる。

 

「ただし!剣は力だけではない!呼吸と、技と、心が揃ってこそだ!明日から地獄を見るぞ!泣いて逃げ出すなよ!」

 

鰹田様が威厳を取り戻して怒鳴る。

 

「望むところです!地獄なら慣れてます!毎晩ししょー(黒死牟)と散歩してますから!」

 

「散歩?何のことだ?」

 

「なんでもありません!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、遅れるなよ!この山は足場が悪い!一瞬の油断が命取りになるぞ!」

 

前を行く鰹田様が、肩で息をしながらも怒鳴る。その背中は汗でびっしょりだ。香ばしい。まるで燻製にした魚を、さらに炭火で炙ったような、食欲をそそる匂いが漂ってくる。さすがは鰹田様。汗までいい出汁が出そうだ。

 

「はーい!大丈夫ですよ、師匠!私、こう見えても足には自信がありますから!」

 

元気よく答える。息など切れていない。汗一つかいていない。なぜなら、今の速度は私の最高速度の百分の一程度だからだ。散歩だ。これは、ただの森林浴だ。

 

「口をきく余裕があるのか……!ならば、もう少し速度を上げるぞ!」

 

鰹田様が加速する。目の前には、険しい岩場がそびえ立っている。ほぼ垂直の崖だ。普通なら、鎖や梯子がなければ登れないような場所。それを、鰹田様は岩の出っ張りに足をかけ、器用に登っていく。

 

「ついて来れるか!ここは古来より、修験者たちが修行に使った難所……」

 

鰹田様が得意げに振り返る。私が下で立ち往生していると思って。

 

しかし。

 

「えーと、この山を登って下ってくればいいのね!行ってきまーす!」

 

草履の紐を締め直すと、岩場を見上げる。登る?いいえ、走るのだ。道がなければ作ればいい。重力が邪魔なら無視すればいい。

 

タッ!

 

地面を蹴る。体がふわりと浮く。岩壁に足をかける。垂直に。

 

タタタタタタタッ!!

 

駆け上がる。壁を。トカゲのように?いいえ、重力を忘れたリスのように。足の裏に吸盤がついているわけではない。ただ単に、重力に引かれるよりも速く足を動かし、岩の僅かな凹凸を蹴り続けているだけだ。物理法則?そんなもの、吉原に置いてきたわ。

 

「あら? 鰹田さん!お先に失礼しますね!」

 

風のように通り過ぎる。

 

「なっ……!?」

 

鰹田様が目を剥く。岩にしがみついたまま、顎が外れそうなほど口を開けている。その口の中に、小さな羽虫が飛び込んだのが見えたが、教えてあげるのは野暮というものだろう。

 

「あまりゆっくりでは鍛錬になりませんよ!ほらほら、後ろから突きますよー!カンチョーしちゃいますよー!」

 

岩壁を走りながら、わざと速度を落として彼を煽る。真下から、彼のお尻を狙うふりをする。

 

「はぁ、はぁ……なんだあの娘は……!天狗か!?山の主か!?それとも山姥の変化か!?」

 

失礼な。私は山姥なんて皺くちゃな妖怪じゃないわ。ピチピチの人妻よ。中身は人食い鬼だけど。

 

……それにしても。

 

岩の頂上に飛び乗り、下界を見下ろしながら考える。

 

鬼の力も使っていないのに、人間ってこんなに遅いの?

 

今の私は、血鬼術『封鬼化生』によって、肉体を人間に変えている。鬼としての怪力や再生能力は封印され、あくまで「人間として鍛えられる限界」の身体能力になっているはずだ。ししょー(黒死牟)との特訓の時もそうだった。人間モードだと、すぐに息が上がるし、筋肉痛になるし、お腹が空く。

 

でも、これって……。一般人から見たら、十分異常なのね。

 

自分の手を見る。白く、細い手。でも、この手で岩を砕くことも、大木をへし折ることも、今の私なら造作もない気がする。

 

やっぱり私は、生まれついての天才(フィジカルモンスター)だったのね。鬼になる前から、素質があったんだわ。これなら血鬼術を解かなくても、鬼殺隊の最高位……柱くらいにはなれるんじゃない?

 

これはいける。鬼の力を使わずに、人間として最強の剣士になる。そうすれば、太陽の下でも堂々と戦えるし、無惨様にも「人間社会に完全に溶け込みました」と報告できる。 まさに一石二鳥。

 

「おーい、師匠ー!早く来ないと、私が先に頂上で加須底羅食べちゃいますよー!」

 

下に向かって手を振る。遥か下の方で、豆粒のような鰹田様が、必死に岩にしがみついているのが見えた。頑張れ、美味しそうな師匠。貴方が頂上に着く頃には、私はお昼寝タイムに入っていることでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕暮れ時。空が茜色に染まり、カラスたちがねぐらに帰る頃。私たちは道場の庭に戻ってきていた。

 

「ぜぇ……はぁ……、ぐふっ……」

 

鰹田様は、地面に大の字になって倒れている。泡を吹いている。白目を剥いている。魂が口から半分出かかっている。完全に限界を超えた老人の姿だ。

 

対する私は、涼しい顔で立っている。汗一つかいていない。むしろ、適度な運動でお腹が空いてきたくらいだ。

 

「すごいぞ、颯。師匠についていくとは。いや、師匠を追い越して、頂上で昼寝までしていたとは」

 

さっくんが、感心したように私に水筒を渡してくれる。彼は今日、別メニューで薪割りをしていたらしい。

 

「ええ、まあね。ちょっと散歩がてら、山頂の空気を吸ってきただけよ。景色が良かったわ」

 

水筒の水をごくごくと飲む。美味い。運動の後の水は格別だ。

 

(追い回されたんだが……)

 

鰹田様が、地面に埋まりながら恨めしそうに呟く。聞こえないふりをする。

 

「さて、颯。体力があるのは分かった。だが、力任せに振るだけでは鬼は斬れない」

 

さっくんが真面目な顔になる。剣士の顔だ。

 

「鬼の首は硬い。特に、年月を経た強力な鬼になればなるほど、鋼鉄のように硬くなる。  単なる腕力だけでは、刀が折れるか、弾かれるだけだ」

 

「ふーん。じゃあ、もっと力を入れればいいんじゃない?」

 

「違う。力の使い方を変えるんだ。我々は『全集中の呼吸』というものを使う」

 

「全集中……?」

 

聞き慣れない言葉だ。いや、事務方で書類整理をしていた時に、何度か目にした単語だ。 『水の呼吸』とか『炎の呼吸』とか。てっきり、必殺技の名前か、あるいはヨガの一種かと思っていた。

 

「そうだ。肺を大きくし、血中に大量の空気を取り込むことで、骨と筋肉が慌てて熱くなり、身体能力を飛躍的に向上させる技術だ。これにより、人間でありながら鬼のように強くなれる」

 

さっくんが説明する。なるほど。酸素ドーピングということか。

 

なるほど!鬼の力を使わずに強化する技術!酸素を大量に取り込めば、代謝が上がる。代謝が上がれば、消化吸収も良くなる。つまり……!

 

私の脳内で、方程式が完成する。

 

呼吸を習得すれば、さらに加須底羅が美味しく食べられるかも!いくら食べても太らない体!無限の胃袋!これぞ、全集中の真髄!

 

私の目が輝く。モチベーションが爆上がりだ。

 

「分かりました!頑張ろう!私、呼吸の達人になります!吸って吸って吸いまくります!」

 

「よし、その意気だ。まずは、腹に力を入れて……」

 

「ふんぬうううううう!!」

 

私はさっくんの説明も聞かずに、とりあえず全力で力んでみる。丹田に力を込める。全身の血管を膨張させるイメージで。

 

プシュー……。

 

何も起きない。ただ、顔が茹でダコのように赤くなり、耳から湯気が出ただけだ。そして、猛烈な空腹感が襲ってきただけだ。

 

「……あれ?強くなった気がしないわ。ただお腹が減っただけよ?」

 

「……まあ、最初からできる者はいない。だが、筋はいい(というか体が強すぎる)」

 

鰹田様が、よろよろと起き上がる。ゾンビのような回復力だ。さすがは元剣士。

 

「教えてやろう。わしの使う呼吸は『水の呼吸』あらゆる呼吸の基本であり、変幻自在の型を持つ、最も使い手の多い呼吸だ」

 

鰹田様が、腰の刀を抜く。その構えは、先ほどまでの死に体が嘘のように美しい。静かな水面のように、揺らぎがない。

 

「水の呼吸……」

 

復唱する。

 

「水……。そして師匠は、鰹田様……。鰹……水……」

 

私の脳内で、二つの単語が化学反応を起こす。

 

「分かったわ!鰹なのに水!つまり、煮付けになりますね!あるいはお吸い物!出汁の呼吸ですね!」

 

「食うなと言っておろう!!」

 

鰹田様の怒鳴り声が、夕暮れの山に響き渡る。カラスたちが驚いて飛び立つ。

 

「違いますよ、師匠。私は真面目です。水と鰹が出会えば、そこには『旨味』が生まれる。つまり、水の呼吸とは、敵を美味しく調理するための剣術ということですね?」

 

「断じて違う!貴様、頭の中は食べることしかないのか!」

 

「はい!衣食住は基本ですから!」

 

胸を張る。

 

「はぁ……。前途多難だ……。鱗滝、こやつは本当に大丈夫なのか?」

 

鰹田様が頭を抱える。さっくんは苦笑いしながら、私の方を見る。

 

「大丈夫ですよ、師匠。彼女は……やると決めたらやる女です。その執着心は、鬼をも凌ぎますから」

 

「ふふん。褒め言葉として受け取っておくわ。さあ、教えてちょうだい、出汁の呼吸!私を最強のグルメ剣士にして!」

 

木刀を構える。お腹が鳴る。グゥ~という音が、道場に大きく響いた。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
風音の「剣士になる宣言」は、彼女なりの愛と執着から来ています。

そして今回は、育手である鰹田様が、風音の規格外さを
身をもって理解する回でした。

次回は、いよいよ「呼吸の習得」に入ります。
もちろん普通には進みません。

・水の呼吸=出汁の呼吸説の暴走
・さっくんの胃痛
・育手の寿命が縮む

などなど、カオスはまだ続きます。
ぜひ次話もお楽しみに!
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