鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら   作:斉宮 柴野

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文久三年。吉原遊郭に、ひとりの台風がやってきました。
その名は松田颯――田舎娘にして、無自覚の天災。

彼女が最初にやらかしたのは、花魁道中のど真ん中に突撃し、
吉原最高峰の白露太夫(のちに判明する鬼・堕姫)へ
「私を弟子にしてくださーい!」と叫ぶという大事件でした。

死んでもおかしくない暴挙の末、颯はなぜか太夫の興味を引き、
京極屋の禿として迎え入れられることに。

吉原が静かだった時代は、今日をもって終わりを告げます。

最恐の鬼と、最強の勘違い娘。
二人の出会いが生むのは、破滅か、革命か。


吉原大乱:颯、白露太夫にケンカを売る

「……ふふ、ふふふ」

 

笑いがこみ上げてくるのを止められない。 喉の奥から、クックックという怪しい音が漏れる。周りの娘たちは、相変わらず「怖いよぅ」「帰りだいよぅ」と合唱を開催しているけれど、私には聞こえない。彼女たちの周波数と、私の周波数は決定的に違うのだ。

 

私は呼吸を整える。深く吸い込むと、白粉(おしろい)の甘ったるい香り、伽羅(きゃら)の線香の匂い、酒の蒸れた匂い、そして男たちの脂ぎった熱気が肺を満たす。健康的とは言い難いが、これぞ「生きている」匂いだ。

 

私は一歩、前へ出る。そして、吉原大門の真正面で、バッと両手を大きく広げる。 右足を踏み出し、左足を引き、首をぐるりと回して見得を切る。歌舞伎役者も裸足で逃げ出す、完璧だ。

 

「さあさあ、やって参りました吉原遊郭!」

 

腹の底から声を出す。私の美声が、夜の喧騒を切り裂いて響き渡る。門番のおじさんがギョッとして槍を取り落としそうになっているが、知ったことではない。観客がいるなら、演じるのが女優というものだ。

 

「人の欲と金が渦巻き、時には命も落とす魔境!ある者は夢を見て、ある者は夢に破れ、骨までしゃぶられる愛憎の坩堝(るつぼ)!」

 

片手を突き上げ、天を指差す。

 

「そこに降り立ちたるは、没落武家の最高傑作、松田颯!この不世出の美少女の運命やいかに!!?……よっ! 日本一!」

 

しーん。

 

一瞬の静寂。そして、ザワザワという困惑のさざ波が広がる。

 

「なんだあの娘?」

 

「気でも触れたか?」

 

「いや、威勢がいいな」

 

聞こえてくるのは称賛の声……だと脳内で変換しておく。

 

「……何やってんだお前。恥ずかしいからやめろ」

 

背後から、低くドスの効いた声が聞こえる。親方だ。顔を真っ赤にして、手のひらで顔を覆っている。他人のふりをしたい気配が全開だ。

 

八五郎さんに至っては、馬の影に隠れてしまっている。失礼な。

 

「いやあ親方、一度やってみたかったんですよ。吉原と言えば、やっぱりこれでしょう?出雲阿国(いずものおくに)を気取ってみました。どうです?傾(かぶ)いてたでしょ?」

 

悪びれもせず、クルリと振り返って親方にウィンクを送る。親方は深いため息をつき、頭を振る。

 

「阿国は男装して踊ったんだよ。お前みたいなペラペラの着物の小娘じゃねえ。それに、阿国が踊ったのは四条河原だ。場所も微妙に違う」

 

「おや?」

 

目を丸くする。親方、ただの悪徳商人かと思いきや、意外と歴史に詳しい。

 

「親方、博識ですねえ。ただの悪党にしては教養がある。読み書きも達者だし、そろばんの弾き方も妙に様になってるし」

 

ニヤリと笑い、親方の顔を覗き込む。強面で、眉間に深い皺が刻まれたその顔。でも、その立ち居振る舞いには、どこか一本芯の通った「型」があるような気がしていたのだ。

 

「……もしかして、どこかの没落したお武家様だったり? お家騒動に巻き込まれて、やさぐれて、裏稼業に身を落とした……なんて、三文芝居みたいな過去があったりして?」

 

「……うるせえよ。余計な詮索すると値段下げるぞ」

 

親方がプイと顔を背ける。その耳が、提灯の明かりに照らされて、ほんのりと赤くなっているのを見逃さない。

 

「あ、図星だ。顔が赤い」

「うるせえと言ってるだろうが!ほら、さっさと行くぞ!京極屋が待ってんだ!」

 

親方は私の背中をど突くようにして歩き出す。ふふん、やっぱりね。道理で、私の武家娘としての振る舞いに対して、いちいち細かいツッコミが入るわけだ。元同業者……いや、元「武士」としての矜持が、私のインチキ作法を許せないのだろう。可愛いところがあるじゃないか、親方。

 

私の「お父っつぁん」候補として、少し好感度上昇だ。

 

私たちは大門をくぐる。 そこから先は、五十間道(ごじっけんみち)と呼ばれる仲ノ町(なかのちょう)だ。

 

「うわあ……」

 

今度こそ、本気の感嘆の声が出る。道の両側には、桜の木が植えられている。 季節はまだ春ではないはずだが、吉原の魔法か、あるいは造花か、満開の桜が咲き誇っているように見える(よく見たらやっぱり造花か、植え替えられたばかりの狂い咲きかだが、綺麗なら何でもいい)

 

道の真ん中を歩く私たち。その左右には、引手茶屋がずらりと並んでいる。二階の手すりからは、客引きの男たちが声を張り上げ、一階の格子の中からは、華やかな着物を着た遊女たちがこちらを見ている。

 

「おい、見ろよ。新しい商品だぜ」

 

「また田舎から買われてきたのかねえ」

 

「お、あの子、結構可愛いじゃん」

 

男たちの視線、女たちの視線。好奇心、値踏み、欲望、嫉妬。あらゆる視線が私に突き刺さる。普通の娘なら、この視線の集中砲火に耐えきれず、うつむいて震えるところだ。 私の後ろを歩く娘たちも、案の定、親方の背中に隠れるようにして小さくなっている。

 

だが、私は違う。私は松田颯。視線は力、注目は栄養源だ。私は背筋をピンと伸ばし、顎を少し上げ、道を歩く。

 

「ごきげんよう、お兄さん! 素敵な着物ね!」

 

「あら、お姉さん、その簪(かんざし)似合ってるわよ!」

 

「そこの旦那! 私を買うなら今が底値ですよ! 将来は十倍になりますからね!」

 

手当たり次第に愛想を振りまく。 手を振り、笑顔を飛ばし、時には投げキッスまでサービスする。

 

「……おい、颯。お前、本当にやめろ。俺の胃に穴が開く」

 

「何言ってるんですか親方。営業活動ですよ、営業活動。顔を売っておいて損はありません」

 

「お前はこれから京極屋に売られるんだよ!他の店に色目使ってどうする!」

 

「競合他社への牽制です」

 

「意味が分からねえ!」

 

親方との漫才を繰り広げながら歩いていると、やがて一際大きな、立派な建物が見えてくる。軒先には立派な提灯が下がり、入り口には屈強な男衆が立っている。京極屋だ。吉原でも指折りの大見世。私がこれからお世話になる(そして乗っ取る予定の)城である。

 

店の前で、一人の老婆が待っていた。 派手な着物に、厚塗りの白粉。 顔のシワの一つ一つに、この街の歴史と、金勘定の厳しさが刻み込まれているような、貫禄のある老婆だ。 遣手婆(やりてばば)。遊女たちの管理・教育係であり、店の影の実力者。

 

彼女の査定一つで、私の初期ランクが決まる。いわば、面接官であり、最初のボスキャラだ。

 

「お待たせしました、お婆さん……いや、お姉様」

 

親方が愛想笑いを浮かべて頭を下げる。私も倣って、深々とお辞儀をする。礼儀作法は完璧だ。武家の娘だからね。

 

「ふん……」

 

老婆は鋭い目つきで、私たちを一瞥する。その目は、人間を見ている目ではない。魚市場でマグロの鮮度を見極める目だ。

 

「おやまあ……。今回はまた、粒ぞろいだねえ」

 

老婆の視線が、私の後ろの娘たちを舐めるように見て、最後に私で止まる。じっと見られる。顔、体つき、手足、そして目。私は視線を逸らさない。むしろ、目力で圧倒し返すつもりで、ニッコリと微笑み返す。

 

「へい。特にこいつは玉が違いますぜ。京極屋さんにぜひと思いましてね」

 

親方が私の肩をポンと叩く。

 

「松田颯と言います。口は減りませんが、器量は保証します」

 

「……ふむ」

 

老婆が近づいてくる。甘ったるい香の匂いが強くなる。彼女は私の顎を指でくいっと持ち上げ、左右に顔を向けさせる。

 

「肌のキメはいいね。骨格も悪くない。今は痩せっぽちだが、飯を食わせて磨けば、それなりに見られるようになるだろうさ」

 

「それなり、じゃありませんよお婆さん。国一番になります」

 

私が口を挟むと、親方が「ひいっ」と息を呑む。 老婆の目が細められる。

 

「……器量はいいが、気が強そうだね。この街じゃ、強情な女は長生きできないよ?」

 

「気だけじゃありませんよお婆さん。運も愛嬌も最強です。それに、気が強いんじゃなくて、志が高いんです」

 

顎を持ち上げられたまま、堂々と言い返す。

 

「私は雑草じゃありません。大輪の牡丹です。踏まれても枯れませんが、水をやればやるほど美しく咲きますよ。投資する価値、あると思いません?」

 

老婆が一瞬、呆気にとられたような顔をする。それから、ふっと口元を歪めた。笑ったのか、呆れたのか。

 

「……口も減らないねえ。威勢がいいのは嫌いじゃないが、客の前でその減らず口を叩いたら、折檻部屋行きだよ」

 

「その時は、お婆さんが助けてくれると信じてます」

 

「調子のいい子だこと」

 

老婆が手を離す。どうやら、一次試験は合格らしい。親方が胸を撫で下ろしているのが気配で分かる。

 

その時だ。

 

通りの向こうから、チリン、チリンという、涼やかな鈴の音が響いてきた。

 

それは不思議な音だった。祭りの囃子とも、神社の鈴とも違う。もっと重く、それでいて澄んだ、空気を震わせるような音。

 

ザワザワとしていた仲ノ町の喧騒が、潮が引くように静まり返る。 道ゆく人々が、慌てて左右に分かれ、道を開ける。 まるで、神様か何かが通るかのように。

 

「……なんだ?」

 

私が首を傾げると、親方が私の袖を引いて、道端に寄せる。

 

「おい、頭を下げろ。道中(どうちゅう)だ」

 

「道中?」

 

「花魁道中だよ。この街の『華』のお通りだ」

 

人混みが割れ、その奥から、光の塊が近づいてくる。

 

先頭には、提灯を持った男衆。 その後に、禿(かむろ)と呼ばれる少女たちが続く。 そして、その中心に。

 

彼女はいた。

 

三枚歯の黒塗りの高下駄。それを履き、八文字を描くように、ゆっくりと、厳かに歩を進める女性。 身に纏っているのは、燃えるような紅色の打掛(うちかけ)。

 

そこに金糸銀糸で刺繍された、豪華絢爛な模様。髪には、数え切れないほどの鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)が挿され、光を受けてきらきらと輝いている。

 

重そうだ。物理的にも、存在感的にも。彼女が歩くたびに、空気が張り詰め、ピリピリと肌を刺すような威圧感が放たれる。

 

そして、その顔。白い肌に、紅い唇。切れ長の瞳は、この世の全てを見下しているかのように冷たく、そして妖艶だ。美しい。ただ美しいという言葉では足りない。禍々しいまでの、暴力的なまでの美貌。人間離れしている。本当に、同じ人間なのかと疑いたくなるほどの完成度。

 

白露太夫(しらつゆだゆう)。彼女こそが、京極屋の看板にして、吉原の頂点に君臨する花魁。(のちに私が知ることになるが、その正体は鬼である)。

 

「…………!!」

 

目を見開き、口をぽかんと開ける。呼吸をするのも忘れて、その姿に見入ってしまう。

 

圧倒的な気配。私が目指すべき「頂点」が、具体化して歩いている。

 

周りの男たちは、息を呑み、言葉を失い、ただただ彼女を見つめている。私の後ろの娘たちなんて、恐怖で震え上がっている。これが、頂点の力か。

 

「す、凄い……」

 

私の口から、素直な言葉が漏れる。

 

「この世のものとは思えない……」

 

親方が、横で頷く。

 

「だろう?あれが今、吉原で一番の……白露太夫だ。京極屋の稼ぎ頭であり、生ける伝説だ。どうだ、お前のちっぽけな自信なんて、吹き飛んだだろう?」

 

親方は勝ち誇ったように言う。確かに、格が違う。今の私なんて、彼女に比べれば、道端の小石……いや、石ころについた苔(こけ)かもしれない。あの衣装、あの化粧、あの取り巻きの数。すべてが別次元だ。

 

花魁が、私の前を通り過ぎようとする。 その時、彼女の視線が、ふとこちらを向いた気がした。 冷ややかな、虫けらを見るような目。 ゾクッとするような寒気が背筋を走る。 怖い。 本能が警鐘を鳴らす。あの女には関わるなと。

 

でも。でもね。

 

私の心の中に宿る、根拠のない自信という名の怪物が、ムクリと鎌首をもたげる。

 

「綺麗だ……」

 

私はうっとりと呟く。

 

「まるで、私と同じくらいに!」

 

「ぶふっ!!」

 

親方が吹き出す音が聞こえる。周りにいた見物人の数人が、ズッコケそうになる気配がする。静まり返っていた空気に、奇妙な亀裂が入る。

 

「……お、お前……」

 

親方が信じられないものを見る目で私を見る。

 

「お前の自己評価はどこまで高いんだよ!!天井知らずか!!今のを見て、なんで『私と同じくらい』って感想が出てくるんだよ!鏡を見ろ!100万回見ろ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、あの人の店に行く」

 

「あん?」

 

親方が間の抜けた声を出す。返事なんて待っていられない。許可?そんなもの、事後承諾で十分だ。 人生における好機というのは、ハゲ頭の親父の前髪のようなものだ。一瞬で掴まなければ、二度と手に入らない。

 

親方の手を、これ以上ないほどの力で振りほどく。手首を捻り、親指の付け根を攻める関節技だ。護身術は嗜みである。

 

「あだっ!?」

 

親方が悲鳴を上げる隙に、私は地面を蹴る。下駄の鼻緒が指に食い込む痛みなど、これからの栄光に比べれば蚊に刺された程度だ。

 

目標、前方五十間。 進路、直進。障害物、多数。

 

「どいてどいてー!未来の花魁のお通りだよー!」

 

声を張り上げ、人混みの中へと突っ込んでいく。見物人の男たちが、突然の乱入者に驚いて道を空ける。颯の猪突猛進だ。

 

「おい!なんだあの小娘!」

 

「道中の邪魔だぞ!」

 

罵声が飛ぶ。関係ない。雑音だ。私の耳には今、あの涼やかな鈴の音と、自分の心臓が高鳴る音しか聞こえていない。

 

道中の列を守る若衆(用心棒)たちが、私の接近に気づく。

 

屈強な男たちが、壁のように立ちはだかる。普通ならここで足がすくむ。

 

だが、私は松田颯。壁があるなら、よじ登るか、ぶち破るか、あるいは笑顔ですり抜けるだけだ。

 

「おい!邪魔だ!下がれ小娘!」

 

若衆の一人が、太い腕を伸ばして私を掴もうとする。甘い。動きが大振りすぎる。私は上体を低く沈め、その腕の下をくぐり抜ける。畳の縁を歩かないのと同じくらいの感覚だ。

 

「ごめんあそばせ!ちょっと急いでるの!」

 

男が空を切って体勢を崩す。その隙に、私はさらに加速する。

 

もう、目の前だ。圧倒的な光の洪水。むせ返るような香の匂い。そして、氷のような冷気。

 

「そこのきらびやかなお姉さーん!!」

 

ありったけの声を張り上げて。求愛のダンスを踊る孔雀のように、自分を誇示して。

 

「……?」

 

行列が、止まる。時が、止まる。

 

中心にいた彼女――白露太夫が、ゆっくりと足を止める。その動作一つ一つが、計算され尽くした舞踏のようだ。 彼女が顔を動かす。 鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)が、シャラリと鳴る。

 

彼女の視線が、私を捉える。美しい瞳だ。宝石のように硬質で、そして底なし沼のように暗い。その瞳が、不快そうに細められる。眉間に、微かな皺が寄る。

 

瞬間。 周囲の温度が、一気に氷点下まで下がった気がした。肌が粟立つ。本能が「逃げろ」と叫んでいる。

 

これは人間が発する殺気ではない。もっと根源的な、捕食者が獲物を見る時のそれだ。

 

「……何?」

 

彼女の唇が動く。声は低く、そして鈴の音よりも美しく響く。

 

「私の道を塞ぐなんて、死にたいの?」

 

ひゅうっ、と風が鳴る。周囲の見物人たちが、恐怖で息を呑む気配がする。誰もが、私の死を確信しただろう。無礼討ちにされても文句は言えない。ここは吉原、掟が全ての国だから。

 

だが。私の脳内変換機能は、今日も絶好調だ。

 

(……なんて凄味!なんて迫力!これがトップの風格!)

 

感動で震える。死にたいのか、と聞かれた。つまりこれは、「死ぬ覚悟でこの世界に飛び込む気概はあるのか?」という、最終面接の質問に違いない!

 

白露太夫の目の前、鼻先が触れそうなほどの至近距離で急停止する。土煙を巻き上げて止まる私を、彼女は無表情で見下ろしている。

 

「捕まえろ!無礼者だ!」

 

「叩き出せ!」

 

遅れて反応した若衆たちが、私に殺到する。左右から腕を掴まれ、羽交い締めにされる。 痛い。乱暴だ。女性を扱う手つきではない。

 

「離してよ!私は商談をしてるの!」

 

もがきながら叫ぶ。私の目は、白露太夫から逸らさない。ここで目を逸らしたら負けだ。商売も、喧嘩も、そして人生も。

 

「ねえ太夫!私の話を聞いて!」

 

「……」

 

太夫は無言だ。ゴミを見るような目で私を見ている。素晴らしい。その冷徹な視線こそ、私が目指す極致だ。

 

「貴女みたいな花魁になりに来ました!!」

 

宣言する。吉原のど真ん中で、愛の告白にも似た野心の告白を。

 

「そのなり方を、私に教えてください!!」

 

「…………は?」

 

完璧な美貌が、一瞬だけ崩れる。呆気にとられたように、ぽかんと口が開く。ああ、その顔も人間味があって可愛い。

 

「おい!つまみ出せ!太夫に近づけるな!」

 

「こいつ、気が触れてやがる!」

 

若衆たちが私を引きずろうとする。私は足を踏ん張り、地面にへばりつくようにして抵抗する。下駄が脱げる。足袋が汚れる。でも、口だけは動く。

 

「待って!乱暴しないで!私は商品よ!傷がついたらどうするの!」

 

若衆の腕に噛み付こうとして、避けられる。

 

「ねえ太夫、よく見て!私、いい素材だと思いません?この顔!この度胸!そしてこの声の大きさ!」

 

自分の顔を突き出す。泥で少し汚れているかもしれないが、輝きは失われていないはずだ。

 

「貴女の隣に置くなら、私くらいの美少女じゃなきゃ釣り合わないでしょ!?他の有象無象じゃ、貴女の引き立て役にもなりませんよ!」

 

「……」

 

太夫の目が、点になっている。理解が追いついていないようだ。無理もない。天才の思考は凡人には理解できないものだ。

 

「私を雇えば損はさせません!貴女が太陽なら、私は月!いえ、貴女が満月なら、私は……えっと、すごく明るい星!とにかく、二人が並べば吉原は無敵!世界征服だって夢じゃないわ!」

 

「……お前、何を言っているの?」

 

太夫が呻くように言う。その声には、怒りを通り越して、純粋な困惑が混じっている。

 

そこへ。

 

「ば、馬鹿野郎!!」

 

悲鳴のような声と共に、親方が転がり込んでくる。顔面蒼白だ。白粉を塗った私よりも白い。呼吸も絶え絶えに、私の横に滑り込み、地面に頭を擦り付ける。

 

「す、すいません太夫!こいつは田舎から出てきたばかりの猿でして!人間の言葉も常識も分からねえんです!すぐに回収しますんで!煮るなり焼くなり……いや、焼くのは勘弁してやってくだせえ!」

 

親方は震えている。まるで蛇に睨まれた蛙だ。失敬な。私は猿じゃない。未来の鳳凰だ。

 

「ちょっと親方、邪魔しないでよ。今、いいところなんだから」

 

「黙れ!殺されるぞ!てめえ、相手が誰だか分かってんのか!」

 

「京極屋の看板、白露太夫でしょう?だから直談判してるんじゃない」

 

ふんと鼻を鳴らす。中間管理職を通すと話が遅くなる。直接企画書を叩きつけるのが、一番手っ取り早い出世術なのだ。

 

「申し訳ございません、申し訳ございません……!」

 

親方は必死に謝り続け、若衆たちも私を引き剥がそうと力を込める。私は宙に浮く。 ああ、ドナドナされる。

 

「離してー!私をその店に連れてってー!私は伝説になる女なのよー!」

 

手足をバタつかせ、駄々っ子のように暴れる。その姿は、まるで捕獲された野生動物だ。 白露太夫は、そんな私を冷ややかに見つめている。もう駄目か。羅生門河岸行きが確定か。

 

そう思った時だ。

 

「……待ちなさい」

 

凛とした声が、騒動を断ち切る。

 

若衆たちの動きが止まる。親方がビクッと体を硬直させる。私も、空中で静止する。

 

白露太夫が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。 カラン、コロン。 高下駄の音が、私の心臓を叩く。

 

彼女は私の目の前まで来ると、じっと私の顔を覗き込む。その瞳の奥で、何かが揺らめいている。 興味? 好奇心? それとも、珍しい玩具(おもちゃ)を見つけた子供のような、残酷な輝き?

 

「……お前、名前は?」

 

彼女が問う。

 

私は吊り下げられたまま、ニカっと笑う。最高の角度で、最高の笑顔を。

 

「松田颯! 疾風(はやて)のように現れて、吉原の頂点を掠(かす)め取っていく女よ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……何この小娘(ガキ))

 

太夫の心の声が、聞こえた気がした。いや、妄想ではない。彼女の表情がそう語っているのだ。

 

(吉原に来て、いきなり『なり方を教えろ』だと?頭のネジが全部抜け落ちているのか?それとも田舎の風土病か?)

 

太夫の眉間に、微かな不審の色が浮かぶ。 無理もない。 普通の娘なら、この状況では泣き喚くか、絶望して下を向くか、あるいは恐怖で失神するのが相場だ。親元を離され、借金のかたに売られ、見知らぬ男たちに囲まれているのだから。

 

(なのに、こいつの目……『死んでない』どころか、ギラギラしてやがる。まるで飢えた獣だ。いや、獣というよりは……金に汚い商人の目だ)

 

太夫の視線が、私の瞳の奥にある野心を覗き込む。

 

(五十年……いや、もっと長く生きてきて、こんな人間初めて見たわ)

 

彼女の唇の端が、ほんのわずかに持ち上がる。 それは、美しい笑みだった。 ただし、慈愛に満ちた聖母の笑みではない。 罠にかかった獲物を見つけた狩人の、あるいは新しい玩具を見つけた残酷な子供の笑みだ。

 

「颯、か。……強そうな名前ね」

 

「ええ、風のように駆け抜け、嵐のように全てをさらう。いい名前でしょう?でも、ここで働くなら新しい名前が必要ですよね」

 

ニカっと笑う。

 

「今のところ、源氏名は募集中です! 『極上太夫(ごくじょうだゆう)』とか『大判小判太夫(おおばんこばんだゆう)』とか、景気のいい名前がいいですね!」

 

「……ふん」

 

太夫が鼻を鳴らす。呆れているのか、感心しているのか。おそらく前者だろうが、反応があるだけ脈ありだ。

 

「面白いわね」

 

太夫が呟く。その言葉を聞いた瞬間、周囲の空気が凍りつく。遣手婆が、信じられないものを見る目で太夫を見る。

 

「た、太夫?気に入られたんですか?しかしこんな礼儀知らず……育ちが悪すぎますよ。言葉遣いもなっちゃいないし、何より頭がおかしい」

 

「頭がおかしいのは、この街全員でしょう?」

 

太夫は冷たく言い放つ。正論だ。ぐうの音も出ない。

 

「それに、顔も悪くない」

 

太夫の冷たい指先が、私の頬に触れる。

冷たい。氷のようだ。でも、その感触はなめらかで、陶器のように美しい。

 

「威勢がいいのは嫌いじゃないわ。泣くだけの女は見ていて飽きるし、すぐ壊れるから詰まらない」

 

太夫はニヤリと口角を上げる。その笑顔は、見る者を魅了し、同時に恐怖のどん底に突き落とすような、魔性の笑みだ。

 

「この娘、私が貰うわ」

 

鶴の一声。

 

「京極屋に入れなさい」

 

太夫が遣手婆に命じる。

 

「は、はい……太夫がそう仰るなら……」

 

婆さんが慌てて懐から帳面を取り出し、何かを書き留める。親方が、地面にへばりついたまま、顔だけ上げて私を見る。 その顔には「助かった」という安堵と、本当に行っちまうのかという一抹の不安が混ざっている。

 

空に向かって拳を突き上げる。

 

「やったー!!交渉成立!」

 

叫び声が、吉原の夜空に木霊する。勝った。 私は勝ったのだ。羅生門河岸の掃き溜めではなく、最高級の舞台への切符を手に入れたのだ。

 

「ありがとうございます太夫!見る目がありますね!私への投資は絶対に損させませんよ!利回り三百割は確実です!」

 

私がまくし立てると、太夫は少しだけ顔をしかめる。うるさい、と思っているのだろう。 だが、一度決めたことは覆さないのが大物の流儀だ。

 

「私の禿(かむろ)にしてあげる」

 

禿。花魁の身の回りの世話をする、見習いの少女のことだ。掃除、洗濯、雑用、そして花魁道中での付き従い。下働きと言えば下働きだが、付き人兼研究生になれるということだ。一番近くで技術を盗める、最高の位置。

 

「……せいぜい、泣いて逃げ出さないようにね?」

 

太夫が、意地悪く目を細める。

 

「私の躾は厳しいわよ?生半可な覚悟じゃ、三日と持たない。前の禿は、心を病んで田舎へ帰ったわ」

 

「逃げる?まさか!」

 

鼻で笑い飛ばす。

 

「逃げるくらいなら最初から来ませんよ!私がここを去る時は、暖簾分けして独立する時か、この店を買い取った時だけです!」

 

私の宣言に、太夫がキョトンとする。そして、堪えきれないように肩を震わせる。

 

「くっ……あはははは!」

 

高笑い。鈴を転がすような、しかしどこか狂気を孕んだ笑い声。

 

「店を買い取る?お前が?あははは!傑作だわ!」

 

ひとしきり笑った後、太夫は私の耳元に顔を寄せる。誰にも聞こえない声量。吐息だけの言葉。

 

「(……生意気なガキ)」

 

その声は、甘い毒のように鼓膜に染み込む。

 

「(骨の髄までしゃぶり尽くして、技を盗む……だったかしら?)」

 

「ええ、もちろん」

 

「(いいわよ。精々頑張りなさい。……そして、美味しそうに育ったら)」

 

太夫の舌が、チロリと唇を舐める気配がした。

 

「(食ってやるわ。……頭から、バリバリとね)」

 

(……なるほど!)

 

心の中でポンと手を打つ。

 

(『食ってやる』……つまり、私の才能や若さを吸収して、さらに美しくなるつもりね! なんて貪欲!なんて向上心!それこそが美の秘訣!)

 

私は感動する。頂点に立つ人間は、他人を養分にしてでも輝こうとする。

 

「望むところですよ、太夫!」

 

太夫の顔を見つめ返し、不敵に笑う。

 

「私を食えるものなら食ってみなさい!ただし、私は消化に悪いですよ?喉に詰まらせて、逆に私が太夫を乗っ取っちゃうかもしれませんからね!」

 

「……ふん」

 

太夫は興味を失ったように、あるいは満足したように、すっと体を離す。

そして、再び前を向く。

 

「行くわよ。道中を続けるわ」

 

太夫が歩き出す。 カラン、コロン。 高下駄の音が、再び吉原に響き渡る。 若衆たちが慌てて列を整え、禿たちが太夫の後ろに続く。

 

私は、その場に残された親方の方を振り返る。

 

「じゃあね、親方! 元気で!」

 

「お、おう……」

 

親方は頭を抱えている。

 

「あんな化け物の巣窟に放り込んでよかったのか……」と自問自答している顔だ。 大丈夫。 化け物には化け物をぶつけるのが一番だ。私も化け物だから。

 

「さあ、お婆さん!案内して!」

 

遣手婆に向かって手を差し出す。

 

「へいへい……。とんでもないお荷物を背負い込んじまったねえ」

 

婆さんは溜息をつきながら、懐からそろばんを取り出し、パチパチと弾き始める。

 

「松田颯……仕入れ値はこれくらいで、教育費がこれくらい……。元を取るには何年かかるかねえ」

 

「半年で黒字にしますよ!」

 

「口だけは達者だねえ」

 

こうして。 文久三年の吉原に、一人のとんでもない新人が爆誕した。

 

最恐の鬼・白露太夫こと堕姫。 そして、最強のポジティブ勘違い娘・松田颯。

 

この二人の出会いが、化学反応を起こすのか、それとも大爆発を起こすのか。 少なくとも、京極屋の静かな日々は、今日で終わりを告げたことだけは確かだ。

 

私は太夫の背中を追いかける。その輝く背中に、いつか追いつき、追い越すために。 私の道行は終わらない。 ここからが、本当の戦いだ。

 

「あ、ちょっと待って太夫! 私、お腹空いたんですけど! 京極屋の賄(まかな)いって美味しいですか!?」 「(……殺してやろうかしら、今ここで)」

 

太夫の小さな呟きは、祭囃子(まつりばやし)にかき消されて、私の耳には届かなかった。 夜空に浮かぶ月だけが、私たちの奇妙な共同生活の始まりを、静かに見下ろしていた。




颯、ついに白露太夫の縄張りに正式加入しました。
颯の野心は天井知らず、太夫の興味は冷酷にして鋭利。

この二人が並んだとき、吉原はどう変わるのか。
颯は本当に花魁を目指すのか、それとも太夫に喰われてしまうのか。

吉原の物語は、まだ始まったばかり。
どうぞこの先も颯の暴風にお付き合いください。
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