鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら   作:斉宮 柴野

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吉原に生きる鬼、堕姫。
彼女にとって人間は、ただの飾りであり、金であり、
そして──食材でしかなかった。

天才で、生意気で、度胸がバグっていて、
なぜか堕姫を世界一の美女として崇拝する変わった少女。

名を風音という。

これは、
吉原最強の太夫と、
鬼の正体さえ笑って受け入れる天才禿との、
奇妙で危険で、どうしようもなく愛おしい物語。

堕姫が風音を育て、
風音が堕姫を変えていく──
そんなふたりの夜の始まりである。


吉原白露と風音 ──鬼と娘の契り

吉原。この世の春を謳歌し、夜ごとに欲望という名の花が咲き乱れる不夜城。その頂点に君臨するのは誰か。言うまでもない。私だ。京極屋の白露(しらつゆ)

 

その正体は、五十年もの時を生き、数多の人間を喰らい続けてきた鬼、堕姫(だき)である。

 

私は美しい。鏡を見るたびに溜息が出るほど美しい。透き通るような白い肌、艶やかな唇、男を狂わせる肢体。この世の全ての美は、私のためにあると言っても過言ではない。 逆に言えば、私以外のものは全て有象無象、ただの餌か、あるいは視界に入れるのも汚らわしいゴミである。 ……はずだった。あの日、あいつを拾うまでは。

 

 

 

 

(回想)

 

あれは、まだ肌寒い春の夜のことだったかしら。いつものように、私は退屈していた。 道中の最中に邪魔をしてきた小娘。売られてくる娘たちはどいつもこいつも、芋臭い田舎娘ばかり。栄養失調でガリガリか、逆に垢抜けない贅肉がついているか。美意識の欠片もない肉塊を見るのは、私の美しい瞳に対する暴力と言っていい。

 

「……で?死にたいの?」

 

私は気だるげに問う。目の前には、一人の少女が仁王立ちしている。名前は……確か、松田とか言ったかしら。着物を脱がされ、肌着一枚の姿で、寒そうにするでもなく、怯えるでもなく、ただじっとこちらを見上げている。

 

「へ、へい。太夫。この娘は、なんと言いますか……その、威勢がいいと言いますか……」

 

婆さんが言葉を濁す。珍しいことだ。いつもなら「金の卵でございます」とか何とか、歯の浮くようなお世辞を並べ立てるのに。私は少しだけ興味を持ち、少女の顔を覗き込む。

 

(……ふん。近くで見ても悪くないわね)

 

これが、私の偽らざる第一印象だ。確かにまだ子供だ。体つきも未成熟だし、色気なんてものは薬にしたくてもない。けれど、素材はいい。泥を落として磨けば、そこそこ見られる宝石になる予感がする。肌のきめ細やかさ。骨格。そして何より、瞳の力。普通の人間は、私と目が合うと本能的に恐怖を感じて視線を逸らす。けれど、この娘は違う。 逸らすどころか、私の顔のパーツ一つ一つを観察し、あまつさえ「ほうほう」と頷いていやがる。

 

(……そして、間違いなく美味くなる)

 

私の鬼としての本能が告げる。こいつは、上玉だ。今はまだ青い果実だけれど、熟した時の甘露は想像するだけで垂涎ものだ。人間の価値なんて、最終的には「食って美味いか不味いか」その点において、こいつは合格点を余裕で超えている。

 

「いいのよ、お婆さん。この娘、私が預かるわ」

 

私がそう告げると、婆さんはホッとしたような、それでいて「本当にいいんですか?」と心配するような、奇妙な顔をする。

 

「太夫、本当にこの子を禿に?まだ海のものとも山のものとも……それに、少々口が過ぎる娘でして」

 

「構わないわ。私が直々に躾けるもの」

 

煙管の吸口を噛む。

 

「私の手にかかれば、どんな駄馬でも名馬になる……あるいは、名馬になる前に死ぬか、どっちかよ」

 

「ひいっ……」

 

婆さんが縮み上がる。私は少女に向き直る。

 

「おい、あんた」

 

「はい! なんでしょう、超絶美女のお姉様!」

 

……はい? 今、こいつ何て言った? 超絶美女?当たり前の事実だけど、初対面で、しかもこの状況で、淀みなくそれを口にする度胸。お世辞には聞こえない。本心から言っている響きだ。……悪い気はしないわね。

 

「名前は……そうね、『風音(かざね)』にするわ」

 

「風音!」

 

少女――風音は、パァッと顔を輝かせる。

 

「良い名前ですね!風の音!爽やかで、軽やかで、それでいてどこか風流!センスありますねお姉様!私の人生の第二章にふさわしい源氏名です!」

 

ベラベラとよく喋る。静寂を愛する私の部屋が、一気に市場のような騒々しさになる。 なるほど、風の音というよりは、隙間風のような騒がしさだ。だから風音にしたのだけれど、本人は気に入ったらしい。

 

「……口答えしたら舌を抜くわよ。あと、お姉様じゃない。太夫と呼びなさい」

 

「はい!承知しました白露太夫!一生ついていきます!」

 

こいつ、本当に分かってるのかしら。私は軽く殺気を飛ばす。普通の人間なら失禁するレベルの圧だ。けれど風音は、「わあ、涼しい!」みたいな顔をしてニコニコしている。

 

(……変なのを拾っちゃったかしら)

 

まあいいわ。どうせ、すぐに泣いて辞めるか、私の癇癪に触れて殺されるのがオチよ。精々、私の非常食として、冷蔵庫の中で震えているがいいわ。

 

(回想終了)

 

……とまあ、そう思っていたのが数ヶ月前。私の予想は、大きく裏切られることになる。 良い意味でも、悪い意味でも。

 

 

 

 

【現在:京極屋・回廊】

 

「姉さん、足元お気をつけて。そこの床板、昨日私が雑巾掛けした時にささくれを見つけたので、今朝大工を呼んで直させました。でもまだ乾ききっていないので、左端を歩いてください」

 

すたすたと先導して歩く小さな背中。禿の着物を着た風音が、的確な指示を飛ばしてくる。

 

「……あんた、いつの間に床の修繕まで手配したのよ」

 

「気づいた時が直す時、です。姉さんの美しい足の裏にトゲが刺さったら、吉原中の損失ですからね」

 

風音は振り返りもせずに言う。その口調は軽いが、仕事は完璧だ。廊下はピカピカに磨き上げられ、塵一つ落ちていない。

 

私の部屋の生花は毎日絶妙なバランスで活け替えられているし、私の好みの物は言わなくても用意されている。以前の禿たちは、私の顔色を伺ってオドオドするばかりで、何をやらせてもトロくてイライラさせられたものだ。

 

「熱い! お茶が熱すぎる!」と茶碗を投げつければ、「申し訳ありません!」と泣いて謝るだけ。けれど風音は違う。私が茶碗を投げつけようと振りかぶった瞬間に、「あ、姉さん。その茶碗は九谷焼(くたにやき)の名品で、今の市場価格だと金二両はします。投げるならこっちの安物の湯呑みにしてください」と、素早く代用品を差し出してくるのだ。

 

結果、私は安物を壁に叩きつけ、ストレスを発散し、かつ経済的損失も防げる。 ……腹が立つくらい合理的だ。

 

「いやあ白露太夫、今日の着合わせはまた一段と粋だねえ」

 

すれ違いざま、常連の客が声をかけてくる。脂ぎった顔の中年男だ。金払いはいいが、話が長くて退屈な男である。

 

「あら、旦那様。お目が高い」

 

営業用の艶然とした笑みを浮かべる。

 

「今日の緋色の打掛に、この若草色の帯。春の芽吹きを考えてみましたの」

 

「ほう!さすが太夫、季節の移ろいをその身に纏うとは、風流だねえ」

 

「ええ、私の『風音』が選んだのでありんす」

 

扇子で口元を隠し、横に控える風音に視線を流す。そう、実はこの組み合わせ、今朝私が「どれも気に入らない!全部燃やして!」と衣装部屋で暴れていた時に、風音が「姉さん、今日は天気がいいので、この組み合わせなら陽の光に映えて、姉さんの肌の白さが三割増しに見えますよ」と提案したものだ。悔しいけれど、私の審美眼に叶うものだった。

 

「ほう!あの小さな禿が?」

 

男が驚いたように風音を見る。

 

「末恐ろしいねえ。この若さで太夫の色気を引き立てるとは」

 

「恐縮です旦那様」

 

風音は深々とお辞儀をする。

 

「ですが、素材が良すぎて、何を合わせても似合ってしまうのが悩みの種でして。私はただ、画竜点睛の瞳を書き入れたに過ぎません」

 

……こいつ。私の持ち上げ方を心得てやがる。男は「はっはっは、違いない!」と上機嫌で去っていく。 私は心の中で舌打ちをする。人間相手の世辞なんて反吐が出るけれど、店の売上は私の自由になる金だ。金があれば、より美しい着物が買える。豚どもから金を巻き上げるのも、鬼である私の遊びの一つだ。

 

【京極屋・控室】

 

客あしらいを終え、私は控室に戻る。 ふぅ、と息をついて長椅子に座ると、すかさず風音が冷たい手拭を持ってくる。

 

「お疲れ様です、姉さん。首筋、冷やしますか?」

 

「ええ。……ああ、あの男の脂臭さが鼻につくわ」

 

「消臭のために、部屋に白檀を焚いておきました。あとで着物も風通ししておきます」

 

風音は手際よく私の世話を焼く。その手つきは、子供とは思えないほど慣れている。

没落武家の娘だとか言っていたけれど、本当に武家か? 実は大奥の御年寄の生まれ変わりじゃないの?

 

「ねえ姉さん」

 

風音が私の肩を揉みながら、声を潜める。

 

「さっきの羽振りの良いお客様……あの海運業の旦那様ですが」

 

「ああ、あの成金?景気良さそうじゃない」

 

「深入りしない方がいいですよ。目が笑っていませんでした」

 

風音の手が、私の肩の凝りを的確に捉える。

 

「あの目、人を殺したことがある目です。それも、一人や二人じゃない。裏で阿片か抜け荷に関わっている可能性があります。役人が動いているという噂もありますし、巻き込まれたら姉さんの美しい経歴に傷がつきます」

 

眉をひそめる。

 

「……人を殺した目なんて、この街には掃いて捨てるほどいるわよ。私だってそうだし」

 

「姉さんの殺気は『捕食者』のそれですが、あの男のは『野蛮な殺戮者』のそれです。美しくないです。血生臭くて、泥臭い匂いがします」

 

美しくない。その言葉は、私にとって最大の判断基準だ。

 

「ふん……。じゃあ、切り捨てるわ。で?代わりの金蔓は?」

 

「向こうの座敷にいた、地味な鼠色の着物の旦那様。あの方を落としましょう」

 

「はあ?あの枯れ木みたいな爺さん?貧乏くさいわよ」

 

「いえいえ、見かけによります。あれは日本橋の大店(おおだな)、呉服屋『越後屋』の隠居様です。隠居して暇を持て余していますが、懐には隠し財産が唸るほどあります」

 

風音はニヤリと笑う。

 

「しかも、ああいう手合いは派手な遊びより、姉さんのような『高嶺の花』に冷たくあしらわれつつ、たまに見せる……もとい、優しさに飢えているものです。姉さんが『つまらない話ね』と一蹴した後に、『でも、その帯は悪くないわ』と一言添えれば、イチコロですよ」

 

呆気にとられる。こいつ、まだ十歳そこそこよね?なんでそんな老獪な手管を知っているの?

 

「……あんた、どこでそんな情報仕入れてくるのよ」

 

「厨房のおばちゃんたちと仲良くなりまして」

 

風音はあっけらかんと言う。

 

「情報は台所から漏れるんですよ。出入りの業者、見習いの若衆、古株の掃除婦……彼らは『壁に耳あり』の実体です。私が漬物の漬け方を教えたり、肩を揉んであげたりすると、面白いくらい情報を吐いてくれます」

 

漬物で買収される個人情報。恐るべきは台所か。

 

「それに、姉さんの悪口を言っていた下男がいたので、さりげなく彼がサボっている時間を帳場に報告して、解雇にしておきました。環境整備も私の仕事ですから」

 

風音は事もなげに言う。私の知らないところで、私の敵が排除されている。優秀すぎて怖いくらいだ。

 

「……へえ。優秀じゃない」

 

素直に感心する。鬼の世界でも、これほど使える手駒はそうそういない。あいつら、力馬鹿か、あるいは私の美しさに嫉妬するブスばかりだもの。

 

「でしょう?私がいるだけで姉さんの売上、三割増しです。先月の集計、見ました?過去最高益ですよ」

 

風音は胸を張る。そのドヤ顔が、妙に腹立たしくも愛らしい。

 

「調子に乗るな。……ああ、でも本当に」

 

私は風音の方を向く。彼女は私のために、新しいお茶を淹れているところだ。無防備なうなじ。白く、柔らかな首筋。そこを流れる血管。トクトクと脈打つ、生命の音。

 

(……いい匂いがしてきたわね)

 

食欲が、ふわりと湧き上がる。ただの空腹ではない。美食家としての好奇心だ。ここに来たばかりの頃は、ただの「素材」だった。けれど、日々の労働と、こいつ自身の妙な思考、そして私の側で磨かれた美意識が、こいつの魂……とでも呼ぶべきものを、芳醇に熟成させている。

 

賢さというスパイス。度胸という隠し味。そして、私への絶対的な忠誠心(あるいはただのファン心理)という甘み。

 

「姉さん?」

 

私の視線に気づき、風音が振り返る。私は思わず、顔を近づける。鼻先が触れる距離。 クン、と匂いを嗅ぐ。

 

甘い。最高級の菓子のように、あるいは極上の果実のように。生き血の匂いが、これほどまでに食欲をそそるとは。

 

「……そろそろ食べ頃かしら」

 

私の口から、無意識に言葉が漏れる。こいつの首筋に牙を立て、その温かい血を啜れば、さぞかし満たされるだろう。私の美しさはさらに磨かれ、力は溢れ出すはずだ。

 

風音は、私の言葉を聞いて、キョトンとする。そして、あろうことか、自分の懐を探り始めた。

 

「えっ、ご飯ですか?すみません、気がつきませんでした!私としたことが!」

 

……は?

 

「姉さん、小腹が空いたんですね?今日は新鮮な鯛が入っていると厨房で聞きました。お造りにさせましょうか?それとも、少し重いですが、鴨の治部煮なんかも……」 「…………」

 

私は絶句する。こいつ、私が「自分を」食べようとしていることに、微塵も気づいていない。それどころか、私の夜食の心配をしている。

 

「(チッ……まだ気づいてない鈍感さがまた可愛いわね)」

 

心の中で舌打ちをする。普通、鬼気迫る顔で「食べ頃」と言われたら、自分の命の危機を感じるものだ。こいつの危機管理能力はどうなっているの?さっきの客の分析能力はどこへ行ったの?

 

……正解は、多分「食欲旺盛な美人上司」くらいにしか思っていない、だろう。その能天気さが、たまらなく癪に障る。と同時に、今ここで食ってしまうのが惜しい、という気持ちも湧いてくる。

 

「……そうね、おあずけよ」

 

風音から顔を離し、ふんと横を向く。

 

「えっ、おあずけですか?我慢は肌に悪いですよ?」

 

「いいの。今食べたら、胃もたれしそうだわ」

 

そう、まだ早い。こいつはもっと美味くなる。もっと知識をつけ、もっと美しくなり、そして絶望か歓喜の頂点で、最高に熟した時。その時こそ、私の「最高の晩餐」となるのだ。それまでは、精々私の手足として、こき使ってやる。

 

「意味深ですねえ。まあ、姉さんがそう言うなら。あ、じゃあ代わりに、羊羹切ってきますね。虎屋のいいやつ隠しておいたんです」

 

風音は嬉々として部屋を出て行く。その後ろ姿を見送りながら、私は自分の唇を舐める。

 

「……変なのを飼っちゃったわね」

 

独り言が、部屋に響く。けれど、その声色は、自分でも驚くほど楽しげだった。私は帯の締め付けを少し緩め、長椅子に深く沈み込む。鬼の愛娘。そんな言葉が脳裏をよぎり、私は「馬鹿馬鹿しい」と一笑に付す。

 

愛?鬼にそんなものはない。あるのは執着と食欲だけ。あいつはただの非常食。賞味期限が来るまで、大切に保管しておくだけのことよ。

 

……ただ、その賞味期限を、もう少し先延ばしにしてもいいかな、とは思うけれど。

 

「姉さーん!お茶、熱いのとぬるいの、どっちがいいですかー!」

 

「適温に決まってるでしょ!馬鹿!」

 

廊下から聞こえる間抜けな声に、私は怒鳴り返す。まったく、騒がしい非常食だこと。

 

 

 

 

 

 

季節は巡る。吉原の柳が芽吹き、セミが鳴き、紅葉が散り、そしてまた雪が降る。その速さは、私の体感時間で言えば瞬き数回分といったところだけれど、人間にとっては劇的な変化の時らしい。

 

私の目の前に、一人の女がいる。いや、少女と女の境界線にいる、一番危うくて、一番艶やかな生き物。

 

「姉さん!姉さんったら!起きてます?」

 

目の前でパタパタと手を振られる。視界が揺れる。私は気だるげに瞼を持ち上げる。

 

そこにいるのは、風音だ。禿特有の、あのおかっぱ頭はもう卒業した。今は、振袖新造としての装い。髪は桃割れに結い上げられ、鮮やかな紅色の振袖を纏っている。背も伸びた。出会った頃は私の腰あたりをウロチョロしていた豆粒だったのに、今では私の肩まで届きそうなほどスラリとしている。体つきも……悔しいけれど、女らしくなってきた。 胸元や腰に、柔らかな曲線が生まれている。

 

(……チッ。生意気な)

 

心の中で舌打ちをする。私が丹精込めて(主に罵倒しながら)叩き込んだ姿勢、歩き方、所作。それらが、この小娘の骨格に染み込み、開花しつつある。まるで、自分が描いた絵画が動き出したような、あるいは粘土細工に命が宿ったような、奇妙な感覚。

 

「姉さん!見てみて、これ!『カステーラ』っていうんですって!」

 

風音が、興奮気味に何かを差し出してくる。桐の箱に入った、黄色い直方体の物体。 甘ったるい、卵と砂糖が焦げたような匂いが鼻をつく。

 

「……また変なもの持ってきたわね」

 

顔をしかめる。風音は、私の嫌そうな顔などお構いなしだ。

 

「長崎から取り寄せた舶来品ですよ!南蛮渡来のハイカラなお菓子です!卵と砂糖の塊! ふわふわで、しっとりしてて、口の中でとろけるんですって!絶対美味しいから食べてみて!」

 

「……いらない」

 

プイと顔を背ける。

 

「私は甘いものは好まないの。それに、人間の食い物なんて……」

 

言いかけて、止める。「吐き気がする」と言いそうになったが、それは私の正体に関わることだ。私は鬼だ。人間の食事など、泥を食うようなもの。私が欲しいのは、その菓子を持っているお前自身の肉と血だけなのだ。

 

「……ふん。気が向いたらね」

 

適当にあしらう。けれど、風音は諦めない。こいつの辞書に「空気を読む」という言葉はないし、「遠慮」という文字はインク切れで印刷されていない。

 

「もー。姉さん細すぎなんだから。ちゃんと食べないと、その美しいラインが崩れますよ?」

 

風音が、カステーラの一切れを私の口元に突きつけてくる。

 

「ほら、あーん」

 

「……あんたねえ」

 

ピキリとこめかみを震わせる。

 

「誰に向かって口きいてるの。私の口は、そんなスポンジみたいな黄色い塊を入れるためにあるんじゃないのよ」

 

「じゃあ何を入れるんですか?霞でも食べてるんですか?仙人ですか?」

 

「……世界一の美女、白露太夫様です。美しさだけで腹が膨れるのよ」

 

「へえー、便利ですねえ。でも、糖分は脳の栄養ですよ?姉さん、最近カリカリしてるから、これ食べて甘い顔になってくださいよ」

 

甘い顔、だと?私は扇子で風音の手をパチンと叩く。

 

「痛っ」

 

「調子に乗るんじゃないわよ。新造になったからって、いい気にならないで。あんたなんて、まだ私の装飾品の一つに過ぎないんだから」

 

「装飾品!いい響きですね。姉さんを飾る宝石ってことですよね?」

 

風音は叩かれた手をさすりもせず、ニカっと笑う。

 

「姉さんは綺麗ですねえ。……私と同じくらいに」

 

「…………」

 

時が止まる。鏡を見る。そこには、絶世の美女である私と、その横で自信満々に並ぶ風音の姿。確かに、風音は美しくなった。私の厳しい指導(という名の八つ当たり)に耐え、私のメイク術を盗み、私の表情筋の動きまで模倣した結果だ。姉妹と言われても通用するレベルには仕上がっている。だがしかし。

 

「あんたの自己評価は、相変わらずうなぎ登りだねえ!!」

 

天井知らずか。どこまで登るつもりだ。天竺か。

 

「謙遜は美徳じゃないって、姉さんが言ったんじゃないですか」

 

「言ったけど!限度があるでしょ限度が!私と『同じくらい』なんて、あと百年早いわ!」

 

「えー、じゃあ九十九年後に期待してください」

 

風音はケラケラと笑いながら、カステーラを自分の口に放り込む。

 

「ん〜!美味しい!ほっぺた落ちそう!姉さん本当にいらないんですか?私が全部食べちゃって、さらに美肌になっちゃいますよ?」

 

「勝手におし。ブクブク太って、豚になればいいわ」

 

「豚になっても、私は世界一可愛い豚になりますから大丈夫です」

 

憎たらしい。本当に憎たらしい。こいつのは、もはや病気だ。精神の構造がどうなっているのか、一度頭蓋骨を割って中身を見てみたい。

 

(……可愛くない。生意気だ)

 

鏡の中の風音を睨みつける。カステーラを頬張り、幸せそうに目を細める顔。その唇の端についた黄色い欠片。

 

(でも……)

 

私が教えた化粧。紅の引き方一つ、白粉の濃淡一つ、全て私が叩き込んだ通りだ。私が教えた仕草。首をかしげる角度、指先の動き、笑う時の目の細め方。私が教えた着付け。 帯の結び目、襟の抜き加減。

 

その全てを吸収して、風音は私好みの完璧な女に育っていく。まるで私自身の分身を見ているようだ。いや、私の理想を具現化した人形と言ってもいい。

 

(……禿を卒業したら食うつもりだった)

 

当初の計画ではそうだった。少し肉付きが良くなったら、すぐにでも。でも、新造になった今、私の考えは変わりつつある。食欲が減退したわけではない。むしろ増している。 今ここで、その喉笛を噛み切りたい衝動に駆られることもある。けれど。

 

(新造になったら、もっと美味くなる)

 

美しさは、外見だけではない。経験、知性、そして女としての深み。それらが加わることで、魂の味はより濃厚になるはずだ。太夫になったら……。吉原の頂点に立ち、数多の男を足元に跪かせ、その絶頂の中で私に食われる。それこそが、最高の極上肉になるんじゃないか?

 

「……ふふ」

 

想像するだけで、涎が出そうだ。育成というのは、意外と奥が深いものね。

 

「あ、姉さん笑った。やっぱり食べたかったんですね?」

 

「違うわよ!」

 

 

 

その日の深夜。京極屋は眠りにつく。宴の後の静寂。遠くで犬の遠吠えが聞こえるだけの、丑三つ時。

 

自分の部屋で、鏡台に向かっている。化粧を落とし、髪を下ろす。鏡に映る私は、依然として美しい。けれど、その美しさは人間のものではない。蒼白な肌。紅い瞳。闇に溶け込む、魔性の美。

 

「なあ……」

 

唐突に、背後から声がする。気配はない。音もない。影から滲み出るように、その声は響く。

 

「お前。随分と入れ込んでるなぁ、あの新造に」

 

驚かない。鏡越しに、背後の影を見る。そこには、痩せこけた、醜悪な、けれど世界で一番頼りになる私の半身。兄、妓夫太郎が立っている。

 

「お兄ちゃん!びっくりさせないでよ」

 

振り返り、頬を膨らませる。

 

「ノックくらいしてよね。」

 

「へへっ……鬼にノックもクソもねえだろうよ」

 

妓夫太郎は、ぬるりと床を這うように移動し、私の隣に座り込む。

 

その体からは、古い血のような匂いがする。私にとっては落ち着く、家族の匂いだ。

 

「で?どうなんだよ」

 

妓夫太郎は、ガリガリと自分の首を掻きむしりながら、上目遣いに私を見る。

 

「あのガキ……風音、だったか。食わねえのか?」

 

「……」

 

「もう十分美味そうだぜ。肌のツヤもいい。生命力が溢れてやがる。俺が見た中じゃ、ここ十年で一番の上玉だ」

 

妓夫太郎の舌が、ギロリと光る。

 

「お前が食わねえなら、俺が食っちまってもいいんだぞ?お前には別の、もっと脂の乗った遊女を捕まえてきてやるからよぉ」

 

「駄目っ!!」

 

反射的に叫ぶ。自分でも驚くほどの大声だ。

 

「あ?」

 

妓夫太郎が目を丸くする。

 

「あの子は私のよ!私が拾って、私が育てたの!私が水やりして、肥料やって、剪定したのよ!食べる権利は私にあるの!」

 

立ち上がり、兄の前に立ちはだかる。まるで、大事な宝物を守る子供のように。

 

「……へえ」

 

妓夫太郎は目を細める。その視線は、私の心の奥底を見透かすようだ。

 

「お前、まさか……」

 

「ち、違うわよ!変な勘繰りはやめて!」

 

慌てて言い訳を並べる。

 

「まだよ……まだ早いの。あの子はまだ未完成なの。カステーラで言えば、まだ生地を混ぜている段階よ!焼けてないの!」

 

「カステーラ……?」

 

「そう!男のあしらい方も、夜の床技も、まだ完璧じゃないわ。まだあの子は、男を知らない処女(うぶ)な娘なのよ。そんな淡白な味、私のお口には合わないわ!」

 

「もっと熟してから……男の愛憎を知り、裏切りを知り、絶望を知り、それでも輝こうとする業の深さを身につけてから……最高の状態で食べるのよ!それが美食家としての私の流儀なの!」

 

息を切らして言い切る。論理的だ。完璧な理屈だ。ただ食いしん坊なだけではない。私は食に妥協しない、高尚な鬼なのだ。

 

妓夫太郎は、しばらく黙って私を見つめていた。そして、ポリポリと頬を掻きながら、ため息をつく。

 

「そうかい……。まあ、お前がそこまで本気で『おままごと』を楽しんでるなら、好きにすりゃいいさ」

 

兄は、私の嘘――いや、自分自身への言い訳に気づいている。気づいた上で、許してくれているのだ。いつもそうだ。お兄ちゃんは、私には甘い。

 

「ただな」

 

妓夫太郎の声が、少しだけ低くなる。

 

「情が移って、食えなくなんじゃねえぞ?」

 

「っ……!」

「人間なんざ、所詮は裏切る生き物だ。可愛がれば可愛がるほど、後で痛い目見るのはお前だぜ。……俺たちは鬼だ。それを忘れんなよ」

 

痛い目。その言葉が、胸にチクリと刺さる。情?私が?人間に?まさか。あり得ない。 私は美しい。私は強い。私は永遠を生きる上位種だ。 風音はただの家畜だ。家畜に名前をつけて可愛がることはあっても、最後には食卓に並べる。それが自然の摂理だ。

 

「まさか!心配しすぎよお兄ちゃん」

 

笑い飛ばす。努めて明るく、残酷に。

 

「私は鬼よ?人間なんて餌にすぎないわ。風音が最高に美味しくなったら、躊躇わずバリバリ食べてあげる。あの子だって、私の血肉になれるなら本望でしょうしね」

 

「……だといいんだがな」

 

妓夫太郎は、つまらなそうに鼻を鳴らす。そして、再び影の中へと沈んでいく。

 

「まあ、精々いい肉に育てな。俺は腹減ったから、羅生門河岸あたりで野良犬でも漁ってくるわ」

 

「ええ、行ってらっしゃい。……あ、お兄ちゃん」

 

消えゆく兄に声をかける。

 

「お土産はいらないからね。特に、汚いおっさんの腕とか持ってこないでよ。部屋が臭くなるから」

 

「へっ、分かってるよ」

 

気配が完全に消える。部屋に再び静寂が戻る。

 

長椅子に倒れ込む。天井を見上げる。天井の木目は、複雑な模様を描いている。

 

「……情なんて、移ってないわよ」

 

誰にともなく呟く。

 

「ただ、あの子がいなくなったら……誰が私の帯を選ぶの?誰が私の代わりにカステーラを食べるの?誰が私と張り合って『世界一』を自称するの?」

 

それは、不便だ。そう、不便なのだ。だから、まだ食べない。便利だから生かしておくだけ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

寝返りを打つ。明日は風音に、三味線の特訓をさせよう。あの子、リズム感はあるけれど、指使いが雑だ。完璧な太夫になるには、芸事も一流でなければならない。教えることは山ほどある。食べ頃になるのは、まだまだ先だ。 そう、ずっと先でいい。

 

「……ふあ」

 

あくびが出る。私は瞳を閉じる。夢の中に、生意気な新造の笑顔が浮かばないことを祈りながら。

 

「姉さん、寝相悪すぎですよー」

 

翌朝、風音の呆れた声で起こされる未来が、今の私には容易に想像できた。そしてそれを、少しだけ楽しみにしている自分がいることも、認めざるを得ないのかもしれない。 ……あくまで、暇つぶしの一環として、だけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜の帳が下りる。吉原という街は、夜こそが真昼だ。男たちの欲望と、女たちの溜息が混ざり合い、ねっとりとした熱気となって街全体を覆い尽くす。そんな喧騒から少し離れた、京極屋の奥深く。私の部屋は、静寂に包まれていた。

 

……はずだった。

 

「んぐ、むぐ……っ」

 

微かなうめき声が、私の帯の中に吸い込まれていく。今夜の獲物は、隣の店からさらってきた中堅の遊女だ。少しばかり肌が荒れているが、若いし、そこそこ脂が乗っている。 ここ最近、風音の教育だの、店の売上管理だので忙しく、まともな食事を摂っていなかった。空腹は美容の敵だ。 肌のツヤを保つためにも、定期的な栄養補給は欠かせない。

 

私は、本来の姿――白髪に、隈取のような模様が浮かぶ鬼の姿に戻っていた。何本もの帯が生き物のようにうねり、女を締め上げ、その肉を取り込んでいく。至福の時間だ。喉を通り過ぎる生命の熱さ。 腹の底から湧き上がる力。ああ、やっぱり人間はいい。裏切りも嘘も、帯の中でミンチにしてしまえば、ただの純粋な栄養素だ。

 

「……ふう」

 

女の体が半分ほど帯に沈んだところで、私は小さく息をつく。ふと、障子の方を見る。 鍵はかけた。閂もしっかりとかけた。誰も入ってくるはずがない。風音は今頃、私が言いつけた三味線の練習で、指に豆を作って泣いている頃だろう。あるいは、帳簿の整理で目を回しているかもしれない。あの子は真面目だ。私の言いつけは絶対に守る。「私の部屋には、私が呼ぶまで入るな」という命令も、忠実に守っているはずだ。

 

そう、油断していた。私は自分が「絶対的な支配者」であることにあぐらをかいていたのだ。風音という存在が、私の想像の斜め上を行く行動力を持っていることを、一瞬忘れていた。

 

ガタッ。

 

不自然な音がした。閂が外れる音ではない。もっとこう、細い針金か何かで、隙間から器用に金具をずらしたような、コソ泥特有の音だ。

 

「え?」

 

私が声を出すのと同時だった。スパーン! と勢いよく襖が開く。

 

「姉さん、忘れ物ー!あと、肩凝りに効くツボ押し棒も見つけ……あ」

 

風音が入ってくる。手には、私が昨日「失くした」と騒いでいた鼈甲の櫛と、何やら奇妙な形の木の棒を持っている。満面の笑みだ。「褒めて褒めて!」と言わんばかりの、尻尾を振る犬のような笑顔だ。

 

そして。その笑顔が、固まる。

 

時が止まる。世界から音が消える。

 

私の姿。白髪。異形の帯。その帯に飲み込まれかけ、白目を剥いている半裸の遊女。床に滴る鮮血。私の口元にも、べっとりと赤い血がついているはずだ。

 

言い逃れようのない、現行犯。完全なる捕食現場。

 

「…………」

 

風音の目が、点になる。持っていた櫛と棒が、手から滑り落ちる。カラン、コロン。乾いた音が、やけに大きく響く。

 

堕姫(私)の脳内会議が、光の速さで開催される。

 

(終わった……)

 

絶望の二文字が、脳裏に巨大な明朝体で浮かび上がる。

 

見られた。私の正体。鬼としての姿。人間を食らう化け物としての本性。

 

この子は賢い。ただのバカなら、「わあ、姉さんすごい仮装!」で誤魔化せたかもしれない。でも、風音は違う。私の部屋から時々消える遊女の噂、私が昼間に出歩かない理由、そして私の異常な身体能力。それらの点と点が、今この瞬間の光景によって、一本の線……いや、極太の縄となって繋がったはずだ。

 

(すぐに悲鳴を上げるか、逃げ出すか)

 

恐怖。嫌悪。拒絶。人間が鬼に向ける感情は、その三つしかない。今まで私を慕っていたあの瞳が、汚らわしいものを見る目に変わる。「化け物!」と叫ばれる。「人殺し!」と罵られる。

 

(……ああ、残念だ)

 

胸の奥が、冷たくなる。怒りではない。悲しみ?まさか。ただの喪失感だ。育ててきた家畜を、自分の手で処分しなければならないという、徒労感だ。

 

(殺さなきゃ)

 

正体を知った人間は、生かしておけない。特に、この子は知りすぎた。私の弱点も、生活習慣も、隠し財産の場所も。逃がせば、鬼殺隊という厄介な連中に情報を売られるかもしれない。口封じをするしかない。

 

(せっかくここまで育てたのに。私の最高傑作になるはずだったのに!)

 

帯が、殺意を帯びて蠢く。飲み込みかけの遊女を放り出し、風音へと鎌首をもたげる。 風音は動かない。腰を抜かしたのか?恐怖で声も出ないのか?

 

ごめんね、風音。美味しく食べてあげるから。せめて、苦しまないように、一瞬で。

 

「……見たわね?」

 

私の口から、地獄の底から響くような声が出る。威圧。これで完全に心を折って、抵抗する気力を奪う。

 

風音は、ゆっくりと瞬きをする。そして、小さく呟いた。

 

「……妖怪変化の類だったとは」

 

冷静だ。妙に冷静だ。腰を抜かすどころか、腕組みをして「ふむふむ」と頷いている。 何こいつ。胆力がおかしい。

 

帯を伸ばす。鋭利な刃物のように硬質化した帯の先端を、風音の真っ白な首元に突きつける。皮膚一枚手前で寸止めする。殺意と、僅かなためらい。殺したくない。本音を言えば、殺したくない。だって、明日から誰が私の髪を梳くの?誰が私の愚痴を聞くの?誰が「姉さんは世界一!」って言ってくれるの?

 

でも、駄目だ。私は鬼だ。情に流されてはいけない。

 

「さようなら、風音。短い間だったけど、楽しかったわよ」

 

帯に力を込める。首の皮が切れ、赤い血が滲む。恐怖に歪む顔が見たかった。最後に「助けて」と泣き叫ぶ声が聞きたかった。そうすれば、私も心置きなく、鬼として引導を渡せたのに。

 

しかし。風音の口から出た言葉は、命乞いではなかった。

 

「食べる前に……」

 

風音は、私の帯を素手で掴んだ。そして、ギラギラした瞳で、私を……いや、私の胸元を凝視した。

 

「私、姉さんのおっぱい揉みたいです」

 

「…………はい?」

 

私の思考回路が、焼き付く。 帯の動きが止まる。今、こいつ、何て言った?命乞い?呪詛?違う。おっぱい?

 

「だって美人だし……」

 

風音は、頬を紅潮させて熱弁を振るう。

 

「白髪も素敵!その隈取も良い!むしろ人間より神秘的で興奮します!でもね、私が一番気になってたのは、その帯の下に隠された至高の果実なんですよ!」

 

「は……はあ?」

 

「男の人とはあるけど、女の人とはないし……。相手が人外なら尚更興味があります!どうせ死ぬなら、その凄いのを触ってから逝きたい!それが私の最後の晩餐です!」

 

風音は一歩、踏み出す。首元の帯が食い込むのも構わずに。

 

「お願い姉さん!一回だけ!減るもんじゃないし!」

 

「…………」

 

沈黙。京極屋の奥座敷に、重苦しい沈黙が流れる。遊女のうめき声も止まっている。気絶したらしい。そりゃそうだ。こんなカオスな状況、正気じゃいられない。

 

(……あは)

 

私の内側から、乾いた笑いが込み上げてくる。

 

(あはははは!)

 

何よそれ。何なのこいつ。鬼だと知っても、人を食ってるところを見ても、食われると分かっても。こいつの中の「私」は、「恐ろしい怪物」じゃなくて「憧れの美女」のままなの?恐怖よりも性欲(?)が勝るの?死ぬ間際に考えることが、「おっぱい揉みたい」なの?

 

馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ。そして、どうしようもなく……愛おしい馬鹿だ。

 

「……あんた、本当にバカね」

 

帯の力を抜く。殺意が、霧散していく。こんな面白い玩具、壊せるわけがない。

 

「よく言われます。で、揉んでいいですか?」

 

風音の手が、わきわきと動いている。

 

「……いいわよ。その代わり」

 

私は、スルスルと元の姿に戻る。白髪が黒髪に変わり、隈取が消え、いつもの「白露太夫」の姿になる。帯も、ただの豪華な西陣織に戻る。気絶した遊女は、とりあえず押入れに放り込んでおく。

 

呆れたように、でもどこか嬉しそうに、風音の頭を小突く。コツン、といい音がする。

 

「一生、私の側にいなさい」

 

これは命令ではない。契約だ。悪魔の契約よりも、もっと重くて、もっと粘着質な。

 

「あんたはもう、逃げられないわよ。私の正体を知ったんだから。今日からあんたは共犯者よ。地獄の底まで付き合ってもらうから」

 

脅し文句のつもりだった。「嫌だ」と言われる覚悟もしていた。

 

けれど、風音は即答した。

 

「望むところです!地獄だろうが何だろうが、姉さんがいるならそこが都です!むしろ、姉さんが鬼なら、鬼ヶ島観光開発しましょう!」

 

「……観光開発?」

 

「はい!人間を脅して金を集めて、豪華な御殿を建てて、毎晩宴会です!楽しそう!」

 

こいつ……。 私よりも悪党の素質があるんじゃないかしら。

 

「(……ああ、やっぱり)」

 

心の中で嘆息する。もう、食べられない。物理的に無理だ。こんなに面白くて、こんなに私を見てくれる人間を、腹の中に消してしまうなんて勿体ない。消化してしまうには、こいつは「劇薬」すぎる。

 

「じゃあ、契約成立ですね!さあ、報酬の前払いを!」

 

風音が両手を広げて迫ってくる。本当に揉む気か。

 

「待ちなさい。まずは……この部屋の片付けが先よ」

 

「えー」

 

「えー、じゃない。あの押入れの女、裏口に捨ててきなさい。それが終わったら、考えてあげるわ」

 

「秒で終わらせます!」

 

風音は押入れを開け、気絶した遊女を米俵のように担ぎ上げる。

その背中は、頼もしいというより、逞しすぎて笑えてくる。

 

こいつは私の娘で。私の弟子で。私の所有物だ。

 

風音。お前を吉原一の太夫にしてやる。誰にも負けない、最強の花魁に。そして、いつか人間が滅びるその日まで、私を楽しませ続けなさい。

 

「あ、姉さん。ついでにこの女の人の財布、抜いておいていいですか?迷惑料として」 「……好きにしなさい。半分よこしな」

 

「了解です! 商売繁盛!」

 

風音が出て行った後、私は一人、畳の上に座り込む。ふと、自分の胸に手を当てる。心臓はない。鼓動もしない。けれど、そこには温かさがあった。

 

「……馬鹿な子」

 

櫛を拾い上げ、髪を梳く。鏡に映る私の顔は、鬼のそれではなく、どこにでもいる……いや、どこにもいない、幸せな姉の顔をしていた。

 

これから忙しくなりそうだ。鬼殺隊にバレないように立ち回る方法も、風音に教え込まなくては。あの子なら、柱の一人や二人、口先だけで騙して追い返してしまうかもしれないけれど。

 

吉原の夜は長い。私たちの夜は、まだ始まったばかりだ。

 




ここまで読んでくださってありがとうございます。

堕姫と風音、
このふたりを動かしてみて改めて思ったのですが──
相性が良すぎて危険です。
互いに毒であり、甘露であり、
そして何より最高の相棒になり得る組み合わせでした。

少しでもこの関係が「面白い」「続きが読みたい」と感じていただけたら、
ぜひ感想を残していただけると励みになります。

ふたりの物語は、この先もっと深く、
もっと濃く、
もっと危険に堕ちていきます。

感想で応援していただければ、
堕姫も風音も喜んで夜の帳をくぐって戻ってきますので(笑)
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