鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
夜の闇に潜む鬼を斬るのが私の役目と申せど、世の中そうは問屋が卸さない。
かつて確かに首を落としたはずの美丈夫が、あろうことか異国の地で南蛮菓子の修行を積み、至高の『加須底羅』を引っ提げて舞い戻ってきたからさあ大変。
本来ならば、血で血を洗う復讐の刃を交えるところ。
だが奴が突きつけてきたのは、舌の上でとろける砂糖と、卵の芳醇な誘惑であった。
憎き敵が丹精込めて焼き上げた菓子。一切れたりとも口にせず、問答無用で斬り捨てるのが隊士の矜持。
しかし、これが腹立たしいほどに美味いのだ。
日輪の刃で斬れども斬れども、翌朝には満面の笑みで新作を持参する、不死身にして執念深き菓子の運び屋。
果たして私の中で繰り広げられる、鬼殺の重き倫理と、底なしの食欲の果てなき大相撲は、どちらに軍配が上がるのか。
家計は助かる、お腹も満ちる。意地と胃袋が激しく火花を散らす、因縁と甘味の奇妙天頂な果たし合い。
本日はあのパサパサ加須底羅事件の顛末から続くその一部始終を、とくとご覧に入れよう。
【焼け跡の向かいの民家】
これは、あの最低最悪のパサパサ加須底羅事件の、ほんの少し後の話である。
いや、少しと言っても、私の中ではかなり大きな事件だ。だって不味い加須底羅を出されたのだ。鬼と戦うとか、屋敷が半壊するとか、そういうことはまあ世の中にはある。
けれど、あれほど整った造作の男が、あれほど保存状態の悪い焼き菓子を堂々と出してくるなど、なかなかない。人間としても鬼としても、そして甘味を愛する女としても、到底看過できない大罪である。
その甘雷が生きていると知るのは、もう少し後になる。
だからまず、後から本人の口から聞かされることになる、実に腹立たしい生存のからくりを話しておく。
あの戦いの夜、私たちは確かに甘雷の首を落とした。奴は最後まで「水分が……」などと菓子職人のような未練を垂れ流しながら灰になっていった。私はそれを見届け、千草は顔だけは惜しかったと嘆き、弥太郎は寝ることしか考えていない。そこで話は終わり、のはずだった。
ところが甘雷は、焼け跡から少し離れた向かいの民家に、分身を一体だけ避難させていたのだ。
用心深い。腹立たしいことに用心深い。
しかも後で聞くところによれば、本人は窓の隙間から私たちが立ち去る姿を恨めしそうに眺め、己の掌に爪が食い込むほど強く握りしめていたそうだ。
「屈辱だ……!許さんぞ……!必ず……必ず復讐してやる!特にあの、一番偉そうな態度の颯という生意気な女!」
ここまでは分かる。敵なのだから、復讐くらいはするだろう。鬼というのはだいたい執念深いし、見目麗しい男ほど負けを認めない。そこまではいい。
問題は、その次である。
「待っていろ……!必ず貴様が『美味しい』と泣いて悔しがるほどの、至高の加須底羅を作れるようになってみせる!」
……方向が違う。
私への復讐が、なぜ菓子修業になるのか。そこは剣の腕を磨くとか、血鬼術を鍛えるとか、もっと真っ当な道があるでしょうに。なのに奴は、焼け跡から奇跡的に無事だった洋菓子の道具を掘り出し、風呂敷に大切に包み、決意に満ちた足取りで夜の闇へ消えていったという。
「目指すは異国情緒あふれる本場・長崎!南蛮の秘儀を盗み、菓子の腕を極限まで磨くのだ!!」
後でその話を聞いた時、私はしばらく言葉を失った。
復讐の方向性が根本からおかしい。
◇◇
【宿屋】
さて、そんな甘雷の明後日へ突き抜けた誓いなど、その時の私は知る由もない。こちらはこちらで大問題に直面していた。
初任務を終えた宿屋の広間で、私は隠の皆様に囲まれている。完全に包囲されている。鬼に囲まれるよりある意味恐ろしい。鬼なら斬ればいいが、事務方は斬れない。斬ったら味方から大目玉を食らうし、何より後処理の書類が膨れ上がる。事務の恨みは鬼より深いのだ。
「葛城さん!さすがにやりすぎですよ!」
「屋敷を一軒丸ごと跡形もなく吹き飛ばして、我々がどれほど後始末や町方への根回しに手間をかけると思っているんですか!」
「いや、あれは敵の分身の血鬼術が多すぎて、仕方がなく……」
「一切の言い訳無用です!」
別の隠が、私の目の前に紙の束をどさりと置いた。重々しい音が畳に響く。
「葛城さん、貴女自身が先日、帳場で立案・導入した『作戦行動による器物損壊報告書・改訂版』の規定に従って、詳細な始末書を提出していただきます!」
「私が?」
「貴女が」
「私の規定で?」
「貴女の規定で」
「全五十項目?」
「全五十項目です。正確な被害見積もり、破損物の一覧、再発防止策、現地住民への説明方針、町方への根回し状況、使用した呼吸の型、各技の威力、巻き添え危険度、そして今後の器物損壊抑制策も添えてください」
膝から力が抜け、両の掌が冷たい井草を捉える。
視界が暗く歪んでいくのが分かった。
そ、そんなァーッ!!
過去の優秀すぎる私が。
今の私の首を強く絞めているゥーッ!!
鬼より恐ろしい事務処理の罠!
自分で作った規定に自分で縛られる。これぞ自縄自縛。
いや、私は確かに作った。作ったわよ。だって現場の後始末があまりに雑だったのだもの。誰がどれだけ壊したか、どの程度まで必要な破壊か、後で検証できないと改善が進まない。そう思って、私は大変に優れた報告書を作ったのだ。必要な項目を過不足なく並べ、責任の所在を明らかにし、再発防止まで求める、実に立派な様式を。
まさか、それが自身の退路を断つことになるとは。
「加えて、貴女が作った厳格な規定により、今回の甚大な損害分は、貴女の今月の給金から天引きです」
「減給!?」
「減給です」
「鬼よりひどい!」
「鬼を斬る側が家を吹き飛ばしているんです。文句は言えません」
指先が細かく痙攣を起こしている。握りしめた筆の軸が、やけに生々しく冷たかった。
一項目目、作戦開始時刻。
二項目目、交戦場所。
三項目目、主たる損壊物。
この時点で心が折れそうだ。主たる損壊物。屋敷。以上。いや、以上では済まない。壁、柱、畳、障子、天井、茶器、ちゃぶ台、庭木、近隣の塀。全部書く。筆を走らせながら思う。私はなぜこんなに真面目な書式を作ってしまったのか。過去の私よ、もう少し未来の自分に優しくしてほしかった。
視界の隅では、千草が座布団に身を沈め、不満げに唇を尖らせているのが見えた。
「お姉様、早く終わらせて帰りましょうよ」
「手伝いなさいよ!」
「私、書類仕事は嫌いです」
「壊したでしょうが!」
「私は美しく壊しただけです」
「書類には美醜欄がないの!」
広間の隅からは、弥太郎の規則正しい寝息が聞こえてくる。仕事をしろ。せめて起きろ。いや、起きたところでこの男が損壊見積もりに役立つ気はしない。
そんな弥太郎に対して、千草は妙に不満げな様子を見せている。その理由を知るのは、夜になってからのことだった。
◇◇
その夜。
隣室から、千草のくぐもった声が壁越しに響いてくる。私は別室で始末書の続きを書きながら、ふと耳をそばだてた。
「……ちっ。肝心な時に役立たずなんだから」
対する弥太郎からは、規則正しく空気を震わせる音だけが返ってくる。
後で千草から聞かされた話によれば、数刻前、彼女は弥太郎を色仕掛けで起こし、自身の魅力を知らしめようと試みたらしい。けれど、弥太郎はそれどころではない。というか、睡眠中の弥太郎は完全に別物である。
黄昏の呼吸・無の境地、とでも言うべきなのか、全身がただひたすら眠るためだけの物体になっている。千草が声をかけても、髪を撫でても、頬をつついても、腕を絡めても、何の反応もない。
色気どころか生命の躍動すら感じられない。まるで布団に人格を与えたような有様だ。
「悔しい……!女としてのプライドがずたずたよ!私の極上の手練手管が、寝ている男には一切通用しないなんて!」
「……すー……」
「もういいわよ、今夜はただの柔らかい抱き枕で我慢してあげる!」
そう文句を垂れながらも、結局は弥太郎のぬくもりに身を預けて眠りについたらしい。
何だかんだ言って、あの二人もよく分からない均衡で成り立っているらしい。
◇◇
【長崎】
一方、その頃の甘雷は長崎にいた。
これも後から聞く話だが、あの男は歴史ある南蛮菓子店の前で、額を石畳に擦りつける勢いで地に伏していたという。
「頼む!この通りだ!私を弟子にしてくれ!最高の卵の泡立て方と、砂糖の配合の秘伝を知るまでは、ここを梃子でも動かん!」
店主は相当困り果てたらしい。
しかも体力が無尽蔵なため、どれだけ待たせても微動だにしない。追い払っても翌日また来る。掃除を手伝わせると恐ろしく手際が良い。卵を運ばせると一つも割らない。客前に立たせると町娘が群がる。
結果、店主は折れた。
甘雷は弟子入りを果たしたのだ。
そして、そこからが恐ろしい。鬼の無尽蔵の体力を使った長時間の修業、分身能力を用いた並列作業、火加減の見張りと生地の混ぜ合わせを同時にこなす異常な効率。焼き場に一人、卵係に一人、砂糖係に一人、包装係に一人、客寄せに一人。全員が同じ顔の美丈夫。
店は当然のように繁盛する。町娘たちは「長崎に美しすぎる菓子職人がいる」と騒ぎ立て、遠方からも客が押し寄せる。商売というのは残酷だ。味と顔が揃うと、驚くほど金が動く。
やがて甘雷は、南蛮菓子の秘伝を身につけ、さらに自身の血鬼術を菓子作りへ全振りするようになる。明治政府の要人から、東京で茶菓子を任せたいと声がかかるほど名声を得た。普通なら立身出世の美談である。めでたい。実にめでたい。
だが、あいつの目的はそこではない。
「あの女に、美味いと言わせる。そして悔しがらせる」
つまり復讐である。
復讐の形が、菓子職人としての大成。
やっぱり方向がおかしい。
◇◇
季節は巡る。
数ヶ月後の朝。共同生活所と呼ぶには少し濃すぎる面子が集う場所で、私は掃除当番として箒を手にしていた。朝の空気は肌に冷たく清々しい。鳥のさえずりも聞こえる。今日こそ始末書のない穏やかな一日になると信じていた。
そこに、爽やかな笑顔を浮かべた男が立っていた。
甘雷である。
「やあ、颯。おはよう」
手から力が抜け、乾いた音を立てて箒の柄が床に転がった。
「あんた!あの時、確かに首だけ残して死んだはず!甘雷!?」
気付けば、柄に手をかけ、黄金に輝く黒雷の刃を鞘から走らせていた。朝の光が冷たい刃に反射してきらめく。
「生きていたのね!今度こそ完全に細切れの挽肉にしてやるわ!」
当の対象は、微塵も動揺を見せない。
むしろ、待ってましたと言わんばかりに、上質な桐箱を恭しく差し出してきた。
「いや待て、斬るのは構わん!だが、斬るのはこの加須底羅を食べてからにしてもらおうか!」
桐箱の蓋が開く。
箱の中から立ち昇る、卵と砂糖が焦げた芳醇な匂いが鼻腔をくすぐる。
視界に飛び込んできたのは、見事な黄金色に焼き上げられた加須底羅だった。
表面は指先が吸い付くほどにしっとりと潤いを保ち、底に敷き詰められた大粒のざらめが、かすかな光を反射して煌めいている。
柄を握りしめたまま、微かに指先が強張る。
「……っ!?」
口内に唾液が溢れそうになる。
いや出ていない。出ていないはず。出ていないということにする。
「長崎で血の滲むような修行をした成果だ。卵は厳選した特選、砂糖は上質な和三盆を使用。さあ、食え!そしてその美味しさに泣いてひれ伏せ!」
「敵の菓子など……」
拒絶の言葉を紡ごうとした。
だが、香りが強すぎる。
甘い。
しかもこれは焼きたてに近い。箱の中にほんのりとした熱が籠もっている。保存状態も良い。湿度管理も完璧。くやしい。とてもくやしいが、まず食べないと批評もできない。食べずに斬るのは、美食家として不誠実だ。
抗えない香りに誘われ、気が付けばひと切れを舌の上に乗せていた。
「……加須底羅ァ〜」
溶けた。
本当に悔しい。
死ぬほど悔しいけれど、とてつもなく美味い。
しっとりとして口溶けの良い生地。卵の香りが濃密に広がる。甘さは強いが決して下品ではない。底に敷かれた大きめのザラメが、噛むたびにじゃりっと心地よく崩れる。しかも後味が重くない。これはちゃんとしている。ちゃんとしたどころではない。完璧に近い。
最後の一口まで味わい尽くす。
箱の端に落ちた欠片まで指で拾い上げる。
それから、ゆっくりと刀を握り直した。
「……くっ、美味しいじゃない!」
甘雷が満足げに頷く。
「そうだろう!ついに俺の芸術を認めたな!」
「でも、美味しくても、あんたは敵よ!斬る!」
鋭い刃風が空気を裂く。
私は一切の躊躇なく甘雷の首を落とした。
美味いものは美味い。敵は敵。それは別勘定である。
これで終わり。
そう思った翌朝。
玄関を開けると、また甘雷が立っていた。
「やあ、颯。昨日の抹茶味はどうだった?今日は手に入りづらい黒糖味を持ってきたぞ」
なんで今日も普通に生きてるのよーッ!!
二日目も斬る。
三日目も斬る。
四日目も斬る。
不味ければ斬る。
美味くても鬼だから斬る。
しかし、いくら刃を振るっても、翌朝には別の分身がにこにこと新作菓子を持ってやってくる。抹茶、黒糖、蜂蜜、柚子、栗、時には羊羹との合わせ技まである。最初は怒り狂った。もちろん怒る。けれど毎日極上のおやつが届く。さらに家計にやさしい。そうなると、人間、いや鬼殺隊士というものは現実を見ざるを得ない。
「……まあ、毎日のおやつ代が完全に浮くから、家計の節約になっていいか」
五日目の朝、私はあっさりと現実を受け入れた。
甘雷は嬉しそうに目を細める。
「ついに屈したか」
「屈してないわ。利用しているの」
「どちらでもいい。食え」
「食べるけど斬るわよ」
「構わん。明日も来る」
「本当に気持ち悪いわね、あんた」
そう毒づきながらも、指先はしっかりと箱を受け取っている。甘い香りには勝てない。勝てないものは、勝てないと認めた上で制度化する方が賢い。そこで私は、玄関脇に「甘雷対応箱」を設置した。来たら菓子を置く。私は食べる。食べ終えたら斬る。灰は庭の端に捨てる。極めて円滑な事務運用だ。自分で規定まで作る。こうしてまた、私は未来の自分の首を絞めるのかもしれないが、極上の菓子のためなら仕方ない。
◇◇
【鬼殺隊本部】
この件は当然、鬼殺隊本部にも報告される。
私は書類を提出した。ただし、少しだけ表現を整えてある。「不死身の変態鬼が毎朝菓子を持ってくる」とありのまま書けば余計な混乱を招く。「対象個体は分身体による反復接触を行う。接触時には菓子類を提示。危険度は中、胃袋への影響は大」としておいた。うん、だいぶ穏当だ。
後で耳にしたところによると、報告書を目にした者たちは一様に口を閉ざし、額に手を当てていたという。
「……報告によれば、この甘雷という鬼。本体がどこにいるのか、全く手がかりが掴めんそうです」
「数百の分身が全国の都市に散らばっている上に、それぞれが独立して大繁盛の菓子店を営んでいると……?」
「しかも、人間を喰うどころか、最高の菓子を提供して地域経済の発展に多大な貢献をしている」
「斬る理由はある。鬼だからだ。しかし本体を突き止めねば終わらない」
「さらに各地の店を潰すと、町人から苦情が来る可能性が高い」
「菓子の評判が良すぎる……」
お館様は、しばらくの沈黙の末にこう告げたらしい。
「……手が出せないね。本体を突き止めて全滅させない限り無限に復活するのなら、現状は監視に留めよう」
その判断は正しい。
正しいが、何だかものすごく悔しい。
鬼殺隊本部が「菓子店として地域経済に貢献しているから一旦放置」という結論を出すのは、だいぶ歴史に残る異例の事態である。
◇◇
さらに問題は続く。
ある晴れた昼下がり。私は人間の姿で日傘をさし、城下の通りを歩いていた。封鬼化生は便利だ。陽の光の下を歩けるし、甘味の味も分かる。今日は葛城様への土産に干菓子でも買おうと思っていた。そう、穏やかな昼である。穏やかなはずだった。
甘雷が、堂々と店先に立って客引きをしている。
「いらっしゃいませ。焼きたての加須底羅、ただいま切り分けております」
町娘たちが頬を染めて歓声を上げている。
昼間だ。
太陽の下だ。
甘雷が平然と陽光を浴びて立っている。
気付けば、踏み出そうとした足が縫い付けられたように動かなくなっていた。
「ちょっと!あんた、なんで真っ昼間の太陽の下で行動できるの!?」
視線が真っ直ぐにこちらを射抜く。
「ああ、それか」
それか、ではない。大問題だ。
甘雷は店先で得意げに語り始めた。
「以前、あのお方から、お前の血鬼術『封鬼化生』の話を少し聞いてな。そこから大いなる閃きを得たのだ」
「はあ?」
「つまり、分身を作る際に、内臓や骨格、肌の質まで完全に人間と同じ構造で生成すれば、日光で焼かれないのだ」
喉の奥で言葉が詰まった。
「……はあ?」
「もちろん、鬼の私は闇の底に隠れている。だが分身たちは人間そのものだ。俺は全員が本体のようなものだから、こうして昼間に堂々と店に出られる。便利だぞ?昼夜問わず、二六時中の商いが可能だ」
こいつ、菓子のことになると天才か……?
本気でそう思った。
悔しい。とても悔しい。私の封鬼化生を参考にして、分身だけ人間化させる。理屈としては通る。通ってしまう。しかも商いへの応用が早い。昼夜問わず営業。分身による全国展開。味の均一化。接客の顔面偏差値まで高い。これは強い。商売として強すぎる。
甘雷が、店先からこちらを見つめる。
その視線が、ほんの一瞬だけ私の胸元へと落ちた。
私は即座に日傘の柄を引き寄せ、視線を遮る。
「どこ見てるのよ」
「全国津々浦々を探しても、お前ほど騒がしく、食い意地が張って、見目麗しい娘はなかなかいなくてな」
「途中に余計な悪口が混ざってるわよ」
「私の極上の加須底羅で、その身も心も甘く満たし、いつか『悔しいけれど美味しい』と心底認めさせるのが、今の私の最大の夢なのだ」
「……気持ち悪い。お巡りさん呼びますよ?」
「呼んでもよい。今日の警邏の者には、すでに焼きたてを差し入れてある」
「根回しが早い!」
「商いの基本だろう」
くっ。
そこを突かれると弱い。商いの基本と言われると、反射的に納得してしまう自分がいる。腹立たしい。非常に腹立たしい。
胸の前で両腕を交差させ、警戒を露わにする。
「それにしても、あんた、復讐する気はないの?」
「ある」
「復讐として、お前が毎日『美味しい』と言わざるを得ない菓子を届ける」
今日は蜂蜜と卵の香りが一段と濃密だ。焼き上がりも絶好だろう。
「新作だ。今日は特別に、しっとり感をさらに高めた。水分保持のための配合も変えてある」
「……毒は?」
「入れていない。お前に不味いと言われる方が毒より怖い」
「そこだけは信頼できるのが嫌ね」
指先が、無意識のうちに箱を受け取っていた。
受け取ってしまう。
仕方ない。これは検査だ。敵情視察だ。菓子職人の成長を監視するための業務だ。そう思えば何も問題ない。……たぶん。
「また明日の朝、鱗滝の家へ届ける」
「来なくていい」
「来る」
「斬るわよ」
「斬れ。明後日も来る」
「本当に最強の付きまといね、あんた……」
甘いおやつは大事だ。私の中で、倫理と食欲が相撲を取ると、大体食欲が勝つ。昔からそうだ。今さら直らない。
かくして甘雷は、最強の付きまといにして、明治最高の菓子職人として、私の生活圏に居座ることになった。
事あるごとに新作の菓子を届ける。
私は食べる。
美味いと悔しがる。
斬る。
翌日また来る。
便利な菓子の運び屋としての地位が、あまりにも自然に確立されてしまった。
「……まあ、家計は助かるし」
今日の加須底羅も本当に美味しいのだ。
ならば仕方ない。
仕方ないったら、仕方ないのである。
颯「さあ、始まりました『明治コソコソ噂話』! 今回のテーマは、読者の皆様も気になっているであろう疑問。『そもそも明治時代に、長崎で南蛮菓子の修業なんて本当にできたの?』です!」
千草「どうでもいいですわ。美しく焼き上がっていて、私の舌を満足させる美味しさであればそれで。ねえ、弥太郎もそう思いませんこと?」
弥太郎「……すー……長崎……ざらめ、おいしい……すー……」
颯「寝言で食レポしないでよ! ええと、結論から言うと、可能どころか『長崎こそが本場中の本場』だったのよ。江戸時代から出島を通じて南蛮の砂糖や製法が独占的に入ってきていたから、長崎には独自の菓子文化が根付いていたの」
千草「へえ。あの男、意外とまともな場所に修業へ行ったんですのね」
颯「そうなのよ。明治に入っても、長崎の老舗には門外不出の卵の泡立て技術や、季節ごとの釜の火加減、独自の配合の秘伝があったと言われているわ。だから、本気で菓子の道を極めようと思ったら、長崎の門を叩くのは一番理にかなっているの」
千草「なるほど。……まあ、それを『人喰い鬼』が『私怨と復讐のため』にやるのが、致命的におかしいのですけれど」
颯「本当にね! 執念の使い所を完全に間違えてるのよ、あいつは!」
弥太郎「……むにゃ……底のザラメが……じゃりっとして……最高……」
颯「ちょっと弥太郎! あんた絶対、さっきまで私の分の加須底羅食べてたわね!?」
甘雷「――フハハハハ! その通り!!」
颯「うわっ!? なんであとがきにまで出張ってくるのよ!」
甘雷「語らせてもらうぞ! 長崎での修業はまさに地獄のようだった! 卵の黄身と白身の完璧な分離、その日の湿度による水分の微調整、そして何より、南蛮渡来の技術と最高級の和三盆を融合させるための終わみなき探求……! すべては、颯! お前に『悔しいけれど美味しい』と涙を流させるためだ!」
千草「あら、今日もわざわざ焼きたてを持ってきてくれたの? 気が利きますわね。弥太郎、お茶を淹れてちょうだい」
弥太郎「……ん……(もぐもぐ)」
甘雷「ふふん、存分に味わうが良い! 今日の生地は一晩寝かせて、さらにしっとり感を増してある至高の出来だ!」
颯「ちょっと、なんであんたたち普通に受け取って食べてるのよ!? っていうか甘雷、あんた長崎の自分の店はどうしたのよ!」
甘雷「案ずるな! 本店も東京の支店も、二百の分身が昼夜問わず完璧に回している!」
颯「だからその無駄な商売の才能が一番腹立つのよォォーーッ!!」
【挿絵表示】