鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
そんな世界に、ひときわ妙な娘――風音が飛び込みました。
ただの娘ではありません。痛みに叫びつつ笑い、死にかけながら揉み、
ついには無惨様すら「疲れる」と呟かせる胆力の持ち主。
今回は、そんな彼女の誕生の瞬間を描きました。
吉原に一輪、常識外れの鬼の花が咲く、その始まりの物語です。
どうぞ、お楽しみください。
パン!
乾いた音が、京極屋の一室に響き渡る。私が手に持った扇子を、自身の膝で叩いた音だ。
「さてさて、語り明かそうぞ前回のお話!」
私は居住まいを正し、喉の調子を整える。目の前には、この部屋の主にして、私の絶対的な飼い主。
そして、昨晩その衝撃的な正体を私に晒したばかりの、白露太夫(しらつゆだゆう)が座っている。彼女は今、気だるげに頬杖をつき、この世の終わりみたいな顔で私を見ているけれど、そんなことは気にしない。芸人は、客の反応が冷たくても、舞台に立った以上はやり遂げねばならないのだ。
「時は文久の世、所は江戸の不夜城、吉原遊郭!泣く子も黙る京極屋の看板、天女の如き白露太夫!その正体は〜!なんと天女とは真逆!闇に生き、人を喰らう鬼だというではありませんか!」
扇子を掲げ、調子よく節をつけて語る。講談師の真似事だ。緊迫した状況こそ、笑いで吹き飛ばす。これが私の処世術であり、精神安定のための儀式である。
「そこに出くわしましたは、これまた絶世の美少女、風音!未来の花魁候補生たる彼女、あわや鬼の餌食かと思いきや!幸運にもその豊満な胸を揉ませてもらい、命も拾ったこの女の運命や!いやさ、運命やいかに!!」
パン!もう一度、扇子を叩く。決まった。完璧な導入だ。私は満足げに息を吐き、ドヤ顔で太夫を見る。
「………」
太夫からの反応はない。ただ、氷点下の視線が、正座する私を見下ろしているだけだ。 その瞳は、「こいつ、本当に頭の作りがどうなっているのかしら」という純粋な疑問と、「殺しておけばよかった」という微かな後悔で彩られている。
「……あんた、何やってんの?」
しばらくの沈黙の後、太夫の口から零れたのは、至極真っ当な質問だ。
「え?いえ、こういうのは最初が肝心かと。癖になっていまして」
扇子を懐にしまいながら、真顔で答える。
「昨日の今日ですからね。衝撃的な展開すぎて、一度あらすじを整理しておかないと、私の脳内処理が追いつかないんですよ。こうして口に出すことで、現実を受け入れる準備運動をしているわけです」
「本当に変な娘……」
太夫は深いため息をつく。その吐息すらも、伽羅の香りがして美しい。鬼だと分かった今でも、やっぱりこの人は綺麗だ。人を食う化け物?関係ない。美しさは正義だ。たとえその正義が、少々血生臭いとしても。
「でも、可愛いでしょ?」
首を少し傾げ、上目遣いで太夫を見る。必殺の「愛嬌アピール」だ。太夫は一瞬、嫌そうな顔をするが、すぐにはぐらかすように視線を逸らす。
「(ため息)……否定できない私がいるのが腹立たしいわ」
勝った。チョロい。最強の鬼だろうが何だろうが、身内への情には弱いらしい。この人は、根が寂しがり屋なのだ。でなければ、正体を知った人間を、こうして五体満足で生かしておくはずがない。
「ふう……」
太夫は、手に持っていた長煙管を、コトンと火鉢の縁に置く。その音が、空気の変わり目だ。おふざけはここまで。 ここからは、大人の話し合いの時間らしい。
太夫の纏う空気が変わる。遊女としての艶やかなものではなく、昨晩見た、あの底冷えするような「捕食者」の空気に。
「いい、風音。ふざけるのはおしまいにしなさい」
太夫の声が低くなる。私は背筋を伸ばす。正座を崩さず、真っ直ぐに太夫を見る。
「あんたは私の正体を見た。私の秘密を知った。本来なら、その瞬間に喉笛を食いちぎって終わりよ。でも、あんたは生きている。私が生かした。……理由は分かるわね?」
「はい。私のことが大好きだからですね」
「違うわよ!!」
太夫が叫ぶ。おっと、また空気を壊してしまった。
「……コホン。いいえ、違わないけど、それだけじゃないの。生かしておくには、条件があるのよ。ただの人間として、私の側に置き続けるわけにはいかない。あんたも、『こちらの側』に来てもらう必要があるわ」
こちらの側。その言葉の意味を、私は瞬時に理解する。闇の世界。人ならざる者の領域。
「あんたも、鬼になるしかないの」
太夫の紅い瞳が、怪しく光る。鬼になる。それは、人間を辞めるということだ。親からもらった体を捨て、化け物に成り果てるということだ。普通の娘なら、ここで泣いて拒絶するか、恐怖で震え上がるだろう。「嫌だ!人間でいたい!」と。
だが。私の脳内には、別の回路が走っている。そろばんだ。巨大な、商売用のそろばんが、ガシャンガシャンと弾かれる音がする。
「なるほど」
「つまり、転職のお誘いですね。人間という『職種』から、鬼という『職種』への配置転換。では、その鬼とやらになる上での『利点』と『欠点』について、詳しく説明をお願いします。契約書に判を押す前に、労働条件を確認するのは社会人の常識ですから」
「……相変わらず、商魂たくましいわね」
太夫は呆れ顔だ。しかし、嫌がってはいない。むしろ、私の反応を面白がっている節がある。
「いいわ。教えてあげる」
「まず、欠点。日の光を浴びれば死ぬこと。太陽の下は歩けない。少しでも浴びれば、塵になって消えるわ」
「ふむふむ……」
脳内の帳面に書き込む。太陽光厳禁。吸血鬼みたいだ。いや、日本の鬼もそうなのか。
「それは問題なしですね」
「私ら、吉原の遊女ですよ?昼間は泥のように眠り、日が落ちてから活動する夜行性です。お天道様なんて、ここ数年まともに拝んでませんし、日焼けは美白の大敵ですから。 むしろ、強制的に夜型生活になるなら、好都合なくらいです」
「……まあ、そうね。この街にいる限り、それは大した枷にはならないわ」
太夫も頷く。吉原は、巨大な鳥籠だ。塀に囲まれ、外へ出ることは許されない。そして夜こそが、この街の「昼」なのだ。
「次に……これが一番大きな問題かもしれないわね」
太夫の声が、少しだけ重くなる。
「人の血肉を喰らわねば生きられないこと」
昨晩の光景が蘇る。帯に巻かれた女。血に染まった太夫の口元。あれを、私がやるのか。
「普通の食事も、味がしなくなるわ。美味しく感じるのは、人間の肉と血だけ。あんた、それができる?昨日まで普通に会話していた相手を、餌として見ることができる?」
太夫が試すような目で私を見る。怖いかどうかを聞いているのではない。覚悟があるかを聞いているのだ。
少しだけ考えるふりをする。人食い鬼。字面だけ見れば、恐ろしい。忌むべき存在だ。
でも。
「怖いというより……不思議ですね」
「不思議?」
「ええ。だって姉さん」
太夫に問いかける。
「私たち遊女も、毎晩のように男の人に『食べられて』いるようなものじゃないですか?」
太夫が怪訝な顔をする。私は続ける。
「お金で買われて、布団の上で貪られて、精気を吸い取られて。心も体も、消費されていく。男たちは、私たちを『商品』として、あるいは『餌』として食い散らかしていくわけです。だったら」
「こっちが物理的に食い返したって、文句言われる筋合いはないと思いません?食うか食われるかの違いでしょ?むしろ、今まで一方的に食われていた私たちが、食物連鎖の頂点に立って逆襲する。これって、ある意味で究極の男女平等……いや、女尊男卑の実現なのでは?」
「……っ!」
太夫の顔が、ボッと音を立てて赤くなる。
「はしたないこと言ってんじゃないよ!!」
太夫が私の頬をつねる。痛い。爪が鋭い。
「事実なのにぃ!痛い、姉さんつねらないで!皮が伸びちゃう!」
「あんたのその、歪んだ屁理屈!どこで習ったのよ!」
「吉原大学、人生学部です!」
「そんな大学はない!」
太夫は真っ赤になって怒っている。人を殺して食うことには何のためらいもないのに、こういう「男女の営み」の生々しい話になると、途端に初心になる。この反応が可愛くて、ついついからかってしまう。
「まあ、冗談はさておき」
つねられた頬をさすりながら、真面目な顔に戻る。
「要は、生きるためなら何でも食えってことですよね。了解しました。私、好き嫌いはありません。出されたものは残さず食べる主義です。それに、姉さんみたいに綺麗になれるなら、人間の肉だろうが毒だろうが、喜んで平らげますよ」
私の言葉に、太夫は少しだけ毒気を抜かれたような顔をする。
「……あんた、本当に狂ってるわね。まあいいわ。素質はあるってことにしておく」
太夫は気を取り直すように、コホンと咳払いをする。
「じゃあ、利点の話をするわ」
これが本題だ。私が一番聞きたかった部分。
「老いないこと。病気にならないこと。傷がすぐに治ること」
太夫は自分の滑らかな肌を撫でる。雪のように白く、陶器のように滑らかな肌。五十年以上生きていると言っていたが、その姿は十代の娘のように瑞々しい。
「そして、永遠に美しくいられることよ」
永遠の美。その言葉の響きに、私の心臓が高鳴る。ドクン、ドクンと脈打つ。
この吉原で、私は数多の遊女を見てきた。かつては美しかった姉さんたちが、年を取り、病に侵され、皺を刻み、誰にも顧みられなくなって朽ちていく姿を。美しさは、儚い。 花と同じで、いつかは散る。それが自然の摂理だ。
でも、鬼になれば。その摂理を覆せる。永遠に、この全盛期の輝きを保ったまま、君臨し続けられる。
「……採用!」
食い気味に叫ぶ。机(ないけど)をバンと叩く勢いだ。
「なります!私、永久不滅の美女になります!どこにサインすればいいですか?血判状ですか?それとも魂の譲渡契約書ですか?なんでも持ってこーい!」
「……早いわね」
太夫が若干引いている。
「迷いはないの?もう、人間には戻れないのよ?」
「迷ってたら美しさは逃げますよ。好機は前髪しかないんです。掴める時に掴まないと。 それに、姉さんとずっと一緒にいられるんでしょう?だったら、迷う理由なんて一つもありません」
満面の笑みで答える。嘘偽りのない本心だ。この人と一緒なら、地獄の釜の底だって、きっと楽しい遊園地になる。
◆
突如として、その時は訪れた。
「……っ!?」
姉さんの喉から、ヒッと息を呑むような、あるいは引きつったような音が漏れる。先ほどまでの、妖艶で余裕たっぷりの美貌が、一瞬にして凍りついたように強張る。その瞳孔が、針のように極限まで収縮し、ガタガタと震え始めたのだ。
「え、姉さん?どうしました?急に武者震いですか?感動のあまり震えが止まらない的な?」
私が能天気に尋ねると、姉さんは私の頭を乱暴に掴み、床に押し付けた。
「馬鹿!口を慎みなさい!……頭を下げろ!這いつくばれ!」
「むぐっ!床の味がしますけど!?」
「いいから黙って!……あの方が……あの方がいらしたわ」
あの方。 姉さんが常々口にしていた、絶対的な上司。鬼の世界の社長。その気配が、襖一枚隔てた向こう側に、確かに存在していた。
部屋の空気が、質量を持って押し寄せてくる。重い。空気が鉛になったかのような重圧感。肌にピリピリと突き刺さるような、不快で、それでいて圧倒的な禍々しさ。これはただ事ではない。私の生存本能(だいぶ壊れているが)が、けたたましく警報を鳴らしている。「ヤバい客が来た」と。
――スッ。
音もなく、襖が開く。恐ろしく静かに。
そこには、一人の男が立っていた。
上質な着物を着流し、その上から黒い羽織を羽織っている。仕立てがいい。生地の光沢を見れば、それが最高級の絹織物であることは、呉服屋の情報を網羅している私には一目瞭然だ。そして、その顔。
(……うわあ)
床に頭を擦り付けながら、上目遣いにその人物を盗み見る。
(すごい美形)
第一印象は、それだった。切れ長の瞳、通った鼻筋、整った唇。造作の一つ一つが、神様が丹精込めて彫り上げた芸術品のようだ。姉さんも美しいが、この男の美しさは種類が違う。冷たく、硬質で、触れれば切れそうな、氷の刃のような美しさ。年齢は二十代半ばから後半といったところか。大人の色気と、少年の残酷さが同居しているような、不思議な雰囲気を持っている。
男は、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れる。履物を脱ぐ音さえしない。重力仕事を放棄しているのかと思うほどの足運びだ。
「……堕姫」
男が口を開く。その声は、低い。地獄の底から響いてくるような、あるいは真冬の風が廃屋を吹き抜けるような、寒気のする声だ。けれど、不思議と耳に心地よい響きを持っている。
「首尾はどうだ」
「は、ははっ……!」
姉さんが、今まで見たこともないような速さで土下座をする。額が床にめり込む勢いだ。
「こ、こちらに控えておりますのが、私の秘蔵っ子にございます……。先日申し上げました、有望な……」
姉さんの声が震えている。可哀想に。完全なるパワハラ会議の様相だ。私は、姉さんを助けるためにも、ここは一つ、出来る部下としてのアピールをしておかねばならない。
意を決して、顔を上げる。
「お初にお目にかかります。風音と申します」
ニッコリと、営業用スマイル全開で挨拶する。第一印象が勝負だ。ここで気に入られれば、鬼社会での出世コースも夢ではない。
男の視線が、私に向く。紅い瞳。猫のように縦に割れた瞳孔。その目は、人間を見ている目ではない。道端の石ころか、あるいは踏み潰すべき害虫を見下ろすような、絶対的な冷酷さに満ちている。
(……ひえぇ、目力が強い)
心の中で縮み上がる。 だが、同時にあることに気がついた。
(……ん?)
男の顔を、じっと凝視する。まじまじと見る。穴が開くほど見る。
美形だ。それは間違いない。だが、その肌の色。白すぎる。透き通るような白さといえば聞こえはいいが、これは違う。血の気が全くない。青白いを通り越して、土気色に近い白さだ。目の下には、うっすらと隈のような影もある。頬も少しこけているように見える。
(……不健康そうだなぁ)
私の脳裏に、職業病とも言える「お節介精神」が鎌首をもたげる。私は遊女だ。客の体調管理も仕事のうち。顔色の悪い客がいれば、消化のいい料理を勧め、無理をさせずに休ませるのが、一流の気遣いというものだ。この男、どう見ても栄養失調か、内臓を患っている顔色だ。社長業が忙しいのだろうか。激務で睡眠不足なのだろうか。
「……なんだ」
私の視線に気づいたのか、男が不愉快そうに眉をひそめる。
「私の顔に、何かついているか」
「いえ、何かついているといいますか……」
正直に、そして親身になって答えることにした。健康は資本だ。まずはそこを指摘して、労ってあげることで、懐に入り込む作戦だ。
「旦那様、ひどく顔色が悪いですよ?」
「……」
「ちゃんと食べてらっしゃいますか?三食バランスよく摂ってます?肌が真っ白で、血管が透けて見えそうですよ。貧血気味なんじゃないですか?レバーとかほうれん草とか食べた方がいいですよ」
「風音……っ!?」
隣で姉さんが、呼吸困難になったような音を立てる。何を驚いているのだろう。私は当たり前の心配をしているだけなのに。
「働きすぎはいけませんよ。今すぐ床を敷いて、暖かくして養生された方がよろしいかと。まるで死人のようで……見ていて痛々しいです」
瞬間。
ピキッ。
何かが切れる音がした。部屋の空気が、凍りつくのを通り越して、爆発寸前の火薬庫のような密度に変わる。
男の額に。あの美しい、陶器のような額に。どす黒い青筋が、ミミズのように浮かび上がった。
「……ほう」
男の口元が歪む。笑っているのではない。それは、獲物に牙を剥く直前の、獣の表情だ。
「私の顔色は、そんなに悪いか?」
声のトーンが、オクターブ下がった気がする。
「死にそうに見えるか?病人に見えるか?長く生きられそうにないと、そう見えるか?」
「え、あ、はい。割とガチで」
空気を読まずに頷く。嘘はいけない。早期発見早期治療が一番だ。
「姉さーん、葛湯持ってきてー!旦那様、風邪ひいてるかもー!」
「無惨様!申し訳ございません!!」
姉さんが絶叫に近い声で謝罪する。
「その子はまだ、世間を知らない猿でございます!悪気はないのです!ただ目が節穴なだけで……!すぐに躾け直しますゆえ、どうかお慈悲を……!」
「黙れ」
男の一言で、姉さんが金縛りにあったように動かなくなる。そして、男の視線が、完全に私一人に固定される。
(……あれ? もしかして私、地雷踏んだ?)
遅まきながら、私は気づく。この男、もしかして「顔色コンプレックス」持ちか?健康状態を指摘されるのが地雷のタイプか?
男が、ゆっくりと右手を上げる。その指先が、スルスルと伸びる。ゴムのように?いや、植物の蔦のように。そして、私の顎をガシリと掴んだ。
「うぐっ……!?」
強い力。万力で締め上げられるようだ。爪が皮膚に食い込み、血が滲むのが分かる。痛い。骨がきしむ音がする。
男の手によって、私の体は宙に持ち上げられる。足が床から離れ、ブラブラと揺れる。
「小娘。口の利き方を教えてやる」
男の顔が近づく。その瞳孔が、妖しく揺らめいている。綺麗だ。でも、怖い。生物としての格の違いを、まざまざと見せつけられる。
「私が病人だと?死人のようだと言ったな?ならば、その死人の血がどのようなものか、その身を持って味わうがいい」
男が、空いているもう片方の腕を、自らの爪で引き裂く。ブシュッ!という音と共に、鮮血が噴き出す。赤い血だ。でも、その匂いは独特だ。鉄錆ような、あるいは腐りかけの花のような、濃厚でむせ返るような匂い。
男は、その傷口を、私の口元へと押し付ける。
「飲め」
命令。拒否権はない。大量の血が、滝のように私の口の中へと注ぎ込まれる。
「んぐっ、ごぼっ……!!」
溺れる。液体で溺れる。息ができない。口を閉じようとしても、顎を固定されていて閉じられない。鼻をつまむ暇もない。ただひたすらに、食道を通過して胃袋へと流れ込んでくる、熱い、熱い液体。
(うわ、鉄の味!めっちゃ血!まずっ!というか濃い!)
美味しいとか不味いとかの次元ではない。喉が焼けるようだ。胃の中で、溶岩が暴れ回っているような感覚。
「私の血だ。与えるのではない。溺れさせてやる。致死量など優に超える量を、そのちっぽけな器に注ぎ込んでやる」
男は無慈悲に言い放つ。これは授与ではない。処刑だ。毒殺だ。
私の腹が、パンパンに膨れるような錯覚を覚える。意識が遠のきかけるが、熱さがそれを許さない。全身の血管という血管に、この男の血が侵入し、駆け巡り、そして私の細胞を叩き起こしていく。
『起きろ!変化しろ!俺に従え!』
そんな命令が、響き渡る。
「……ぷはっ!ごほっ、ごほっ……!!」
ようやく男が腕を離す。私は床に叩きつけられる。咳き込むたびに、口から赤い飛沫が飛び散る。着物が血で染まる。畳が赤く濡れていく。
「はぁ……はぁ……う、うう……」
痛い。痛いなんてもんじゃない。
直後。本当の地獄が始まった。
「……………ううう……うあああああ!!」
悲鳴が、勝手に喉から飛び出す。
◆
「痛い、痛い、痛いぃぃぃ!」
声にならない叫びが、私の喉から絞り出される。熱い。胃袋に流し込まれた『あの方』の血が、まるで煮えたぎった鉛のように、私の全身を駆け巡っている。血管という血管が膨れ上がり、今にも破裂しそうだ。骨がきしむ。筋肉がねじ切れる。内臓が雑巾絞りされているような、あるいは体内でお祭りの太鼓を乱れ打ちされているような、暴力的な激痛。
これが鬼になるということか。聞いてない。こんなに痛いなんて聞いてない。利点の説明ばかりで、副作用の説明が不足している。消費者契約法違反だ。奉行所に訴えてやる。 あ、でも奉行所に行く前に死ぬかもしれない。
「はあ、はあ……姉さん、姉さん……!」
薄れゆく視界の中で、私は必死に手を伸ばす。救いを求めて。この地獄の業火から、私を引き上げてくれる蜘蛛の糸を求めて。
「風音!しっかりしなさい!死ぬんじゃないわよ!」
姉さんの悲鳴が聞こえる。ああ、姉さん。私の美しい飼い主。涙で滲んだ視界に、姉さんの姿が映る。恐怖で青ざめ、震えながらも、私を抱き止めようとしてくれている。
その時。私の目に入ったのは、姉さんの顔ではない。その下。帯の上にふわりと乗った、豊かな膨らみだ。
極限状態の私の脳裏に、天啓が走る。
あそこだ。あそこに行けば、助かる。あそこは極楽浄土の入り口だ。あそこには、母なる大地のような包容力と、鎮痛作用のある不思議な成分が含まれているに違いない。
「おっ……おっぱい……」
「は?」
姉さんの素っ頓狂な声が聞こえる。ごめんね姉さん。今の私には、理性とか羞恥心とか、そういう高級な機能は搭載されていないの。あるのは、生存本能と、未知なる快楽への探究心だけ。
残された最後の力を振り絞り、姉さんの胸元へとダイブする。
「うりゃあ!」
「きゃあっ!?」
ドサリ、という音と共に、私は姉さんの胸に顔を埋める。柔らかい。信じられないほど柔らかい。最高級の羽二重餅よりも、つきたての餅よりも、遥かに柔らかく、そして温かい。
両手で、その豊満な双丘をわしづかみにする。ガシッ。遠慮なんてしない。これは治療だ。緊急医療行為だ。
「ふうぅ……落ち着く……」
痛みが、ふっと遠のく気がする。この弾力。この香り。姉さんの匂いと、白粉の甘い香りが混ざり合って、私の脳髄を痺れさせる。
「姉さんの豊満なこれが、私に安らぎを与えてくれる……。痛み止めより効く……南無阿弥陀仏……」
顔をうずめたまま、うわ言のように呟く。痛みはまだある。全身の細胞が暴れ回っている。でも、この感触がある限り、私は正気を保っていられる。おっぱいは偉大だ。万病に効く。古の医学書にも書いてあるはずだ。書いてなければ私が書き加える。
「……っ、あんたねえ!」
頭上から、姉さんの焦った声が降ってくる。
「無惨様の前で何させてんのよこいつ!!離れなさい!殺されるわよ!」
姉さんが私を引き剥がそうとする。でも、私は離れない。スッポンのように食らいつく。 ここを離れたら、私は痛みの海に溺れて死んでしまう。
「嫌です!ここは私の聖域です!無惨様の血が毒なら、姉さんの胸は解毒剤です!中和してるんです!科学反応です!」
「意味が分からない!バカ!変態!」
姉さんの罵倒が心地いい。ポカポカと背中を叩かれるが、今の私にはマッサージにしか感じられない。
ふと、気配を感じる。背中に突き刺さるような、冷ややかで、それでいて重苦しい視線。
無惨様だ。忘れていた。この部屋にはまだ、あの顔色の悪い最強の鬼がいるんだった。
「…………」
無惨様は無言だ。沈黙が痛い。物理的な痛み以上に、この沈黙が精神を削ってくる。普通なら、即座に首を刎ねられても文句は言えない状況だ。神聖なる儀式の最中に、上司の目の前で、その部下の胸を揉みしだく新入り。地獄絵図だ。混沌の極みだ。
でも、私は止まらない。止められない。揉む手が勝手に動く。右、左、右、左。一定のリズムで揉むことで、私の心拍数が安定していく。
「……ほう」
頭上から、低い声が降ってくる。無惨様の声だ。怒っているのか?呆れているのか?
「割と余裕だな、貴様は」
その声には、微かな驚きの色が混じっているように聞こえた。
姉さんの胸に顔を埋めたまま、必死に反論する。
「よ、余裕?ありませんよ!必死です!精神統一です!これは座禅と同じです!煩悩を消すために、敢えて煩悩の塊に触れているんです!」
「……そうか」
無惨様の声が、少しだけ近づく。気配が濃厚になる。殺されるか?
ガバッと顔を上げる。姉さんの胸から離れ、乱れた髪もそのままに、無惨様の方を向く。 私の目は虚ろかもしれないが、光だけは失っていないはずだ。涙とよだれで顔はぐちゃぐちゃだけど。
「……はあ、はあ……。それに……無惨様……」
「なんだ」
「……あ、あとでいつものように、先っちょしゃぶらせてください」
「…………」
時が止まる。姉さんの顔色が、土気色を通り越して透明になりそうだ。
「も、申し訳ございません!申し訳ございません!!」
姉さんが私の頭を床に叩きつける。痛い。
「こいつ錯乱しております!血の毒で脳がやられたのです!普段はもう少しマシな狂い方をするのですが、今日は特に酷くて……!どうかお慈悲を!殺すなら一思いに!」
姉さんの必死のフォローが、逆に私の異常性を際立たせている気がする。でも、私は本気だ。赤子が母親の乳首を求めるように。あるいは、精神安定のために指をしゃぶるように。今の私には、何かを口に含んでいないと、魂が口からエスケープしてしまいそうなのだ。それが「先っちょ」という表現になったのは、あくまで私の語彙力が幼児退行した結果であって、他意はない。……たぶん。
床に頭を押し付けられたまま、薄目で無惨様の様子を窺う。怒髪天を突くか?それとも、汚らわしいものを見る目で軽蔑するか?
「……(顔を上げて)……あれ?」
無惨様の表情が、予想と違う。眉間のシワが、少しだけ緩んでいる。その瞳の色は、先ほどまでの「絶対零度の冷徹」から、なんというか……「珍獣を見る目」に変わっている。
「なんか……無惨様の視線が、少し冷たくなった……いや、生暖かくなった?」
私が呟くと、姉さんが小声で叫ぶ。
「(絶対呆れてるのよ!殺されないだけ奇跡だと思いなさい!)」
無惨様は、ふんと鼻を鳴らす。そして、私を一瞥する。その目には、確かに興味の光があった。これほどの激痛の中で、なおもふざけた言動を繰り返す、私の図太い生命力に対しての。
「……どうやらこの量にも適応するか」
無惨様が呟く。そうなのだ。気づけば、先ほどまでの、体が破裂するような激痛は引いている。代わりに、体の奥底から、熱い力が湧き上がってくるのを感じる。心臓の鼓動が力強くなる。視界がクリアになる。夜の闇が、昼間のように明るく見える。聞こえなかった音が聞こえる。遠くで鳴く虫の声、廊下を歩く遊女の衣擦れの音、そして姉さんの早鐘のような心音。
自分の手を見る。爪が伸びている。少し尖っている。でも、醜くはない。桜貝のように美しい、鬼の爪だ。
適応した。私は、あの致死量の血を飲み干し、消化し、自分のものにしたのだ。
「まあ良い。その不敬、不問にする」
無惨様が背を向ける。興味が失せたというよりは、「これ以上関わると疲れる」と判断したような背中だ。
「……励めよ」
一言だけ残し、無惨様の姿が揺らぐ。霧のように、煙のように。その輪郭が溶け、闇へと消えていく。最後に残ったのは、あの独特な血の匂いだけ。
部屋に、静寂が戻る。残されたのは、汗だくでボロボロの私と、寿命が百年くらい縮んだ姉さん。
「……はあ」
大きく息を吐き、その場に大の字に寝転がる。
「はい!おもさげながんす(申し訳ございません)!顔色悪いって言ってスンマセン!…でも本当のことだったんどすぅ……」
つい、故郷の方言が出る。緊張の糸が切れた証拠だ。
「……どこの人間だあんたは!江戸っ子じゃなかったのか!!」
姉さんが鋭くツッコむ。元気そうで何よりだ。
「いやあ、生き返りました。姉さんのおかげです」
ニカっと笑い、姉さんを見上げる。姉さんは、乱れた着物を直し、髪を整えながら、私を睨みつけている。でも、その目は怒っていない。安堵の色が浮かんでいる。
「……もう、勝手におし」
姉さんは、私の横にドカリと座り込む。そして、懐から手拭いを取り出し、私の汗を拭いてくれる。
「あんた、本当に死ぬかと思ったわよ。あんな量の血……普通の鬼なら破裂して木っ端微塵よ」
「私もそう思いました。三回くらい三途の川を見ましたし、向こう岸でおじいちゃんが手招きしてました。でも、姉さんのおっぱいが走馬灯に出てきたので、帰ってきました」
「……そう。私の胸は彼岸への通せんぼ役ってわけね」
姉さんは呆れながらも、私の頭を撫でる。その手つきは優しい。
「でも、よかった。……本当に、生きててよかった」
姉さんの声が、少しだけ湿っぽくなる。起き上がり、姉さんの肩に頭を乗せる。
「言ったでしょう? 私はしぶといんです。ゴキブリ並みの生命力と、雑草魂が売りなんです。これからは鬼として、姉さんの騎士になりますからね」
「ナイト?何それ。また南蛮の言葉?」
「騎士ってことです。姉さんを守り、姉さんのために戦い、姉さんのために稼ぐ。最強のパートナーですよ」
「ふん。口だけは達者なんだから」
姉さんは笑う。私も笑う。
こうして。吉原の夜明け前。一人の新しい鬼が誕生した。
松田颯あらため、風音。無惨様の大量の血にも耐え抜いたその肉体と精神は、常識外れの強靭さを秘めている。そして何より、その心臓には「恐怖」という機能が実装されていない。
吉原の夜に、どんな花を咲かせるのか。それは狂い咲きの徒花か、それとも大輪の牡丹か。あるいは、食虫植物か。
それはまた、次回のお楽しみ。
「あ、姉さん。そういえばさっきの『先っちょ』の件ですけど」
「まだ言うか! 忘れなさい! 二度と言うな!」
「えー、じゃあ反対側……」
「殺すわよ!?」
風音の鬼化エピソード、いかがでしたでしょうか。
本来は恐ろしく荘厳な儀式――のはずが、
なぜか胸に飛び込み、健康診断をし、無惨様を呆れさせる結果となりました。
それでも、彼女は確かに鬼になりました。
ただの鬼ではなく、
笑いも涙も胸も揉みしだきながら前へ進む、吉原最強の雑草鬼です。
次回、彼女がどんな騒ぎを巻き起こすのか。
そして姉さん(堕姫)は何回ツッコミを入れる羽目になるのか。
またお付き合い頂ければ幸いです。