鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
本日の語り手は、水柱・鱗滝左近次。
妻となった颯は四つ子を宿し、屋敷はますます賑やかになるばかり。
剣士として柱に上り、夫として父となる幸せのただ中で、しかし彼の胸には消えぬ泥が沈んでおりました。
かつて守れなかった男、葛城。
託された妻、颯。
幸せを噛み締めるほどに、罪は甘い菓子の底で苦く滲む。
これは、水柱が父となる前に己の業と向き合う一席にございます。
【水柱邸 縁側】
初夏の風が頬を撫でる。
庭からは千草と弥太郎の声が響いていた。
千草の甲高い声に弥太郎の気怠げな相槌が混ざる。
毎日繰り返される音律に呆れを覚えつつ俺は縁側に腰を下ろした。
膝に置いた刀を布で拭う。
木々の隙間から落ちる陽光をただ見つめていた。
颯が身籠っている。
俺の子供だ。
腹の中にいるのは一人ではない。
四人。
四つ子だという。
医師から報せを聞いた時の衝撃は今も頭の芯を痺れさせる。
これほどの奇跡がこの世に存在するのか。
天井を仰ぎ見たあの瞬間から俺は未だに夢境を彷徨っているような感覚に囚われていた。
時を同じくして俺は鬼殺隊の『水柱』の座を拝命した。
お館様である産屋敷顕正様から頂いた言葉は俺の身を引き締める。
先日の祝言も盛大なものだった。
颯の兄と名乗る松田月彦殿。
整った顔と得体の知れない気配を放つあの男からも杯を受けた。
大勢の隊士たちに囲まれ祝福の言葉を浴びた。
周囲から見れば俺は順風満帆だろう。
男として剣士として幸福の絶頂にいる。
俺自身も己を幸せ者だと思っている。
だが。
ふとした瞬間に水面を揺らす波紋のように黒い不安がよぎる。
業の深い俺がこれほどの幸せを対価なしに享受して良いのだろうか。
◇
【回想】
颯。
俺の妻。
美しく強引に己の歩調に巻き込みながらも俺の立つ瀬を作る女。
初めて会ったのは二年前。
鬼の噂を追って立ち寄った町でのことだ。
すれ違った瞬間俺は目を奪われた。
しかし彼女は初対面の俺に向かって『好みの男だ』と距離を詰めてきた。
あまつさえ『私は武士の妻なのだから敬いなさい』と宣う。
人妻である事実と己の好意を同時に突きつける破天荒さ。
目が離せなかった。
俺はいつしか彼女を欲していた。
葛城殿という夫がいることは知っていた。
医者として人を救う尊敬すべき人物だ。
それでも己の醜い心を律しきれなかった。
町から鬼の気配が消えた後も理由をつけて足を運んだ。
偶然を装って彼女と会い葛城殿を交えて酒を酌み交わした。
隊士たちから呆れられても痛くも痒くもない。
彼女が笑う顔を見るだけで俺の鉄と硝煙に塗れた日々が色づいていくのを感じていた。
◇
葛城殿が幕府軍の医師として戦場へ赴くことになった。
鳥羽・伏見の戦い。
出立の前颯は俺に『彼を守ってほしい』と頼んだ。
俺は頷いた。
愛する者の夫を守る。
それが彼女の幸せを守ることに繋がるのだと己に言い聞かせた。
だが。
硝煙と鉄の匂いが立ち込める戦火の只中。
俺の目の前で葛城殿は流れ弾に撃たれて倒れた。
彼を抱き起こす。
薄れゆく意識の中で彼は俺に颯を託した。
『颯を、頼む』
俺は『お任せください』と答えた。
嘘偽りのない本心だ。
彼を安心させたいと思った。
だが。
◇
刀を拭う手を止め己の手のひらを見つめる。
微かに震えていた。
拭いきれない疑念が心の奥底に沈殿している。
俺なら。
あの銃口にもっと早く気づけたのではないか。
『水の呼吸』の使い手であり柱にまで登り詰めた俺が。
あの程度の軌道を読めなかったというのか。
もしかしたら。
ほんの一瞬だけ。
俺の足が心がわざと遅れたのではないか。
彼がいなくなれば颯は俺のものになる。
そんなおぞましい願望が鎌首をもたげ俺の身体を縛り付けたのではないか。
結果的に彼を見殺しにしたのではないか。
水面は澄んで見えても底には泥濘が広がっている。
俺の心も同じだ。
戦いの後颯に夫の死を告げた。
泣き崩れた彼女は縋るように俺の身体を求めた。
あの日俺は喪に服すべき彼女を抱いた。
突き放すべきだった。
夫が死んだその日に別の男と肌を重ねるなど外道の所業だ。
だが俺は彼女を受け入れた。
肌の熱が背徳的な幸福感に満ちていたことは否定できない。
俺たちは共犯者だ。
いや違う。
罪があるのは俺だけだ。
彼女は喪失感を埋めようとしただけ。
俺は一番欲しい獲物が手に入ったことに安堵していたのだから。
背後の襖が開く音がした。
颯が顔を出す。
手にはカステーラが盛られた皿。
甘い匂いが縁側に漂う。
自己肯定感の高さと食欲は相変わらずだ。
「さっくん。何を難しい顔をしているの。眉間の皺が深くなるわよ」
「……颯。いや、すまない。少し昔のことを思い出していただけだ」
颯は俺の隣に腰を下ろした。
膨らんだ腹が目立つ。
庭からは相変わらず千草の高笑いと弥太郎の欠伸が響いていた。
「昔のこと?あら、私が吉原で一番の稼ぎを叩き出した時の伝説の話かしら。それとも、さっくんが私の色香に参ってしまった時のこと?」
からかうような視線に張り詰めていた空気が緩む。
「……ふっ。どちらも、お前にとっては良い思い出なのだろうな」
あれから今日まで激動の日々だった。
颯の知恵と行動力で鬼殺隊の帳簿や報奨の仕組みが変わり財政は強固になった。
彼女が『私も剣を握る』と言い出した時は肝を冷やした。
栄螺殿や鰹田殿という育手のもとで暴れ回り最終選別から無事に帰還した時の安堵感は今も忘れられない。
さらに千草や弥太郎という規格外の連中まで連れ帰ってきた。
光柱として騒がしい千草。
睡柱としてどこでも寝る弥太郎。
今ではこの屋敷に皆が居着いている。
毎晩のように宴が開かれ千草が舞い弥太郎が俺の夜着を奪って眠り颯が笑い転げる。
騒々しく静かに落ち着く暇などない。
けれど。
かつて冷え切っていたこの屋敷には今は確かな家族の体温が満ちている。
俺は颯の腹に手を伸ばす。
颯は目を細め俺の手の上に己の手を重ねた。
「……四つ子、か。騒がしいこの屋敷が、これからさらに賑やかになるな」
「ええ!私の才覚と美貌、そしてさっくんの生真面目さを受け継ぐ最高の子たちよ。四人まとめて、あっという間に天下を取れるわね。……ふふ、まずはこのカステーラを食べさせて、お腹の中で丈夫に育てなきゃ」
幸せだ。
身が竦むほどに幸せで。
同時に途方もなく罪深いと感じる。
地獄があるのなら俺は間違いなくそこに落ちる。
友を見殺しにし妻を奪った報いは受けねばならない。
だが。
もし罰が下るのなら俺一人だけにしてほしい。
愛する颯とこれから生まれてくる子供たちには陽の当たる道を歩かせてやってくれ。
守りきれなかった葛城殿の分まで。
己の命を懸け這いつくばってでも彼女たちを守り抜く。
それが俺にできる唯一の贖罪。
刃を振るい続ける意味だ。
「ほら、さっくん。考え事ばかりしてないで、カステーラ食べる?甘雷が焼き立てを持ってきたのよ。さっさと食べないと私が全部平らげちゃうわよ」
黄金色の菓子が目の前に差し出される。
俺は内に渦巻く罪悪感に蓋をし微笑みを浮かべた。
「……ああ、いただこう。お前が一人で全部食べてしまっては、腹の子たちが窮屈で困るだろうからな」
「まあ、失礼ね!私の胃袋と子宮はちゃんと別腹なんだから!」
差し出されたカステーラを一口かじる。
甘い。
舌が痺れるほどの甘さが広がる。
この温かく騒がしい日常が続く限り俺は前を向いて刀を振り続けよう。
泥に沈んだ罪を背負ったまま。
誰よりも強く優しい父となるために。
俺は今日もこの縁側で幸せの味を噛み締めている。
鱗滝左近次はこの頃、四つ子の父になる覚悟を静かに固めていたそうです。
なお颯はその横で、
「四人分だからカステーラも四倍必要ね」
と主張していました。
水柱の贖罪と父性は深く、妻の食欲はもっと深かったようです。