鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
鬼の始祖を前に、あろうことか「顔色悪いですよ?」の暴言連打。
普通なら即消滅ところ、なぜか生き延びた上に大量出血サービスを賜り、
気づけば鬼の仲間入りとなりましてございます。
本話では、
・人間の食べ物を失い絶望し、
・堕姫太夫に抱きつき怒られ、
・地下の食糧庫にて初めての「晩餐」に挑む、
そんな風音の鬼生初日をお届けします。
どうぞ、正気のままお読みください。
正気でいられたらの話ですが。
パン!
「さあさ毎度おなじみ、前回までのあらすじ!」
私は居住まいを正し、高座に座る噺家のような重々しい口調で語り出す。 目の前には、呆れ顔の白露太夫こと、堕姫姉さん。彼女の視線は氷点下だが、私の熱気は下がらない。
「鬼の始祖たるあの方、鬼舞辻無惨!その逆鱗に触れるどころか、その上で軽快にタップダンスを踊った我らが風音!顔色が悪いだの、貧血だの、栄養失調だのと好き放題に暴言を吐き、あわや処刑確定!」
調子が出てきた。私は扇子を振り上げ、熱弁を振るう。
「罰として血をふんだんに与えられ!致死量を超えた猛毒に、全身の細胞があわや破裂というその刹那!地獄の淵より降って湧いた救いの手は!なんと太夫の慈愛に満ちた、たわわなおっぱいでありました!!南無三!おっぱいこそが万病の薬!救世主!ビバ・豊満!」
「…………ふざけんじやないわよ!」
パシン!
鋭い音が炸裂する。姉さんの美しい手のひらが、私の後頭部を的確に捉えた音だ。良い音だ。スナップが効いている。
「講談にすらなっていないわ!なに美談にしてんのよ!ただの変態の奇行でしょうが! あの時、無惨様がドン引きして見逃してくれたから良かったものの、普通なら首が飛んでるところよ!」
姉さんは眉を吊り上げて怒鳴る。ごもっともだ。反論の余地がない。
「いや〜申し訳ない。鬼になったせいで、どうも舌が回らなくなったようで……つい、事実を脚色して英雄譚にしたくなるのです」
後頭部をさすりながら、言い訳を並べる。実際、体の中に溢れる力を持て余しているのは事実だ。何かこう、叫び出したいような、走り出したいような衝動が常に渦巻いている。
「はん。あんたの舌は、たとえ死んで骸になっても回り続けるでしょうよ。口から生まれた妖怪とはあんたのことね」
姉さんは鼻で笑い、煙管を手に取る。
「……で、体の具合はどうなの?痛みは引いた?」
その声色は、少しだけ優しい。やっぱりこの人、面倒見が良い。ツンケンしているけれど、身内と認めた相手には甘いのだ。チョロい。いや、慈悲深い。
「体は大丈夫です。痛みどころか、以前より軽いくらいです。肩こりも消えたし、冷え性も治ったし、肌のツヤも最高です。無惨様の血、高いだけあって効果覿面ですね。通販で売ったら儲かるんじゃないですか?」
「売れるわけないでしょ。飲んだら死ぬんだから」
姉さんは呆れながらも、安堵したように息を吐く。ここまでは、平和な日常の一コマだ。 そう、ここまでは。
急に表情を消す。能面のような真顔になり、懐に手を入れる。
「……ですが」
私の声のトーンが落ちる。姉さんが怪訝な顔をする。
「心が、死にました」
「は?」
「私の魂の一部が、欠落しました。生きる喜びの半分が、永遠に失われたのです」
懐から、包みを取り出す。油紙に包まれた、直方体の物体。そっと包みを開く。中から現れたのは、黄金色に輝く焼き菓子。
「これです」
「……何よそれ」
「加須底羅(かすていら)です。長崎伝来、南蛮渡来の秘宝。卵と砂糖と小麦粉が織りなす、奇跡のスポンジ。奮発して買ったんです。お小遣いを貯めて、清水の舞台から飛び降りるつもりで、最高級品を取り寄せたんです」
甘い香り……が、するはずだった。かつての私なら、この包みを開けただけで、甘い匂いに包まれて幸せな気分になれたはずだ。
でも、今は。
「……何の匂いもしません」
悲しげに菓子を見つめる。視覚的には美味しそうだ。ふわふわの生地。底に沈んだザラメの輝き。でも、嗅覚がそれを「食べ物」として認識していない。ただの物体。スポンジ。あるいは建築資材。
「お腹が空いたので、とっておきのこれを食べようとしたんです。鬼になっても、甘いものは別腹だと思って。自分へのご褒美に、パクッといったんです」
「……それで?」
「砂の味がしました」
遠い目をする。あの時の衝撃。口に入れた瞬間の、あの絶望感。
「甘くないんです。砂糖の甘さが、舌の上で『無』になるんです。食感も最悪でした。まるで、乾いた泥を固めて焼いたような。あるいは、何年も掃除していない屋根裏の埃を固めて食べているような。虚無の味がしました」
包みを閉じる。もう、これを見るのも辛い。初恋の相手が、実は指名手配犯だったと知った時のような喪失感だ(経験ないけど)。
「……当たり前でしょ」
姉さんは、至極当然のことのように言う。
「鬼になったら、人間の食べ物は受け付けなくなるの。栄養にならないどころか、体質に合わなくて吐き気がするだけよ。味覚が変わるの。私たちにとって、人間の飯なんて、路傍の石ころと同じよ」
「聞いていませんよ!!」
叫ぶ。我慢できない。これは詐欺だ。契約不履行だ。
「人を食べるとは聞きましたが、加須底羅が不味くなるとは聞いていない!白米が、味噌汁が、漬物が!全部、泥団子味になるなんて、そんな重要なこと、なんで事前に説明してくれないんですか!」
バン!と畳を叩く。
「そこまで詳細に説明する義理はないわよ!普通、人食い鬼になるって言ったら、人間の生活を捨てるってことくらい察しなさいよ!」
「察せません!私の想像力では、『おやつは今まで通り3時』という甘い見通ししか立っていませんでした!私の楽しみが……砂糖と卵の織りなす極楽浄土が……。これなら、死んだほうがマシだったのでは?」
ガックリと項垂れる。食への執着。それは私の生きる原動力だった。美味しいものを食べるために働き、美味しいものを食べるために出世する。そのサイクルが断たれた今、私は何のために生きればいいのか。人を襲って生き血をすする?そんな野蛮な食事、私の優雅なライフスタイルに合わない。
「(呆れ)……あんた、人の命より菓子が大事なの?」
姉さんの冷ややかな視線が刺さる。
「不老不死の力と、永遠の美貌を手に入れたのよ?たかが菓子の味一つで、そこまで絶望する?」
「しますよ!衣食足りて礼節を知る。食が死ねば、私はただの獣です。文化的な生活とは、美味しいお茶と甘いお菓子があってこそ成立するんです!」
力説する。永遠の命があっても、永遠に砂の味しかしないなら、それはただの長い長い罰ゲームだ。
「……もうなってるわよ、獣に」
姉さんは私の嘆きを一蹴する。
「諦めなさい。失った味覚は戻らないわ。その代わり、新しい味覚が目覚めているはずよ。人間の肉、そして血。それが私たちにとっての、極上の加須底羅になるの」
姉さんの目が、赤く光る。
「まあ良いわ。今日からあんたの食事は、私が面倒見てあげる。ちょうど、地下に『保存食』がたっぷりあるからね。食べ方、味わい方、そして骨の髄までしゃぶり尽くす作法。 一から叩き込んでやるから、ついてきなさい」
◆
「えっ!本当ですか!?」
私の声が裏返る。加須底羅の味を失った絶望の淵から、一気に天国への階段を駆け上がる気分だ。姉さんが、私の食事の管理をしてくれる。つまり、餌付けしてくれるということだ。
「血を分けたんだから、あんたは私の眷属みたいなものよ。腹を空かせて暴れられても迷惑だしね。管理責任ってやつよ」
姉さんは素っ気なく言うが、その言葉の端々には隠しきれない優しさが滲み出ている。責任感。包容力。そして経済力。完璧だ。私が求めていた理想の保護者像が、ここに完成した。
「やったー!お姉様……いいえ、お母様好きー!」
感情の赴くまま、姉さんに飛びかかる。正面からの抱擁だ。姉さんの細い腰に腕を回し、その体に密着する。柔らかい。温かい。そして何より、いい匂いがする。
私の手は、背中を撫でるだけでは飽き足らない。腰から背筋、そして帯の結び目あたりを、ねっとりと這い回る。指先で着物の生地の感触を確かめつつ、その下にある肢体の輪郭をなぞる。甘える子供の手つきではない。夜の街で数々の修羅場を潜り抜けてきた、熟練の手練手管だ。
「……ん?」
姉さんが眉をひそめる。私は構わず、顔を姉さんの首筋に埋める。そこは脈打つ血管の宝庫だ。吸い付きたい衝動を抑え、今は頬ずりで我慢する。
「ではお母様。親子の絆を深めるために、もっと深い場所へ……。今夜は胸だけでなく、その帯の下の……秘密の花園の味も確かめさせて……」
私の手が、帯の隙間から内側へと侵入しようとした、その瞬間。
ドゴッ!!
鈍い衝撃が、私の鳩尾を貫く。視界が揺れる。体が宙に浮く。重力が消える。
次の瞬間、私は部屋の反対側の壁に激突していた。障子が破れ、襖が外れる音がする。
「……寄るな変態!!」
姉さんの怒号が飛んでくる。見れば、姉さんは着物の裾を乱しながら、見事な蹴りのフォロースルーを決めている。美しい。蹴り上げる足の角度、つま先の伸び、そして鬼気迫る表情。すべてが芸術的だ。
「痛っ!なぜですか!親子のスキンシップでしょう!」
瓦礫の中から這い出し、抗議する。鬼になって頑丈になったおかげで、骨は折れていない。内臓が少し位置を変えた程度だ。
「あんた……もしかして女が好きなの?」
姉さんは汚らわしいものを見る目で私を睨む。軽蔑と警戒が入り混じった、ゾクゾクする視線だ。
「誤解しないでください。私は性別にこだわりはありません。私は『綺麗なもの』が好き!『強いもの』が好き!だから、その頂点にいる太夫が好きなんです!!」
立ち上がり、埃を払いながら力説する。そう、これは性欲ではない。信仰心だ。あるいは、極めて純粋な美的探究心だ。美しいものを愛で、触れ、味わい尽くしたい。その対象がたまたま姉さんだったというだけのこと。
「男だろうが女だろうが鬼だろうが、美しければ正義です。姉さんは美しい。そして強い。ならば、私が求愛行動に出るのは生物として当然の摂理でしょう?」
「……屈折しすぎてて理解できないわ」
姉さんは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる。理解されなくてもいい。愛とは一方通行でも成立するものだ。
「はあ……。もういいわ。行くわよ」
姉さんは諦めたように背を向ける。話題を変えるつもりらしい。
「どこへ?」
「食糧庫よ。あんたに『食事』の仕方を教えるんでしょ」
姉さんが部屋の隅にある姿見(鏡台)を動かす。すると、その床板が音もなくスライドし、暗い穴が口を開けた。隠し通路だ。忍者屋敷みたいで興奮する。
「ついてらっしゃい。迷子になったら、そのまま帯の養分にするからね」
「はい!お供します!地獄の果てまで!」
姉さんの後を追う。暗闇の中へ。そこは、京極屋の光り輝く表舞台とは対極の、ドス黒い闇の世界。私の胃袋を満たすための、素敵な晩餐会場だ。
◆
地下への階段は長い。湿った空気が肌にまとわりつく。カビの匂いと、土の匂い、そして微かに漂う血の匂い。
姉さんは明かりも持たずに進む。鬼の目は闇を見通す。私にも見える。壁のシミ一つ、床を這う虫一匹まで、鮮明に見える。夜目が利くというのは便利だ。これなら夜道で小銭を落としても安心だ。
やがて、階段が終わり、広い空間に出る。
「……ほほう」
思わず感嘆の声を上げる。
「これが噂の食糧庫ですか。壮観ですねえ」
そこは、巨大な地下空洞だった。京極屋の敷地の地下に、こんな広大な空間が広がっているとは。そして、その空間を埋め尽くすもの。
帯だ。無数の帯が、天井や壁を這い回り、うねり、絡み合っている。赤、青、金、銀。 色とりどりの美しい帯。だが、それはただの布ではない。生き物のように脈打ち、蠢いている。
そして、その帯の随所には、何やら膨らみがある。よく見れば、それは人間だ。帯に巻き取られ、繭のように拘束された人間たちが、天井からぶら下がっている。 女もいれば、少年もいる。皆、目を閉じ、眠っているようだ。
生きたままの保存。鮮度抜群だ。
「シュルル……」
頭上から、衣擦れのような音が降ってくる。見上げれば、一際太い帯が、鎌首をもたげるようにこちらを見下ろしている。その先端には、二つの目玉のような模様があり、ギョロリと私を睨んでいる。
「あ〜、帯鬼さんですね!初めまして、新参の風音です!」
元気よく手を振る。職場の先輩には挨拶。これ社会人の基本。
「太夫の一番のお気に入りにして、将来の幹部候補ですので、私を敬うように!仲良くしましょうね!お茶菓子とか持ってきますから!」
帯に向かってウィンクを飛ばす。帯は不快そうに身をよじり、シュルシュルと音を立てる。威嚇だろうか。まあ、新入りへの洗礼といったところか。
「……私の分身に何言ってんのよ」
姉さんが呆れた声で言う。
「それは私自身の意識でもあるの。私が離れている時は自律して動くけど、感覚は繋がっているわ。こいつに無礼を働くということは、私に喧嘩を売るのと同じよ」
「えっ、そうなんですか?じゃあ、この帯を撫で回したら、姉さんも感じちゃうんですか?」
「……殺すわよ」
姉さんの目が本気だ。冗談はほどほどにしておこう。
「帯」
姉さんが短く呼ぶと、帯鬼がズルリと降りてくる。私を無視して、姉さんの前に垂れ下がる。
「(ジロリと風音を見る)」
帯の模様が、私を睨んでいる気がする。いや、気のせいではない。明確な敵意だ。姉さんの分身という割には、本体よりも愛想が悪い。
「おっと失礼。……で、どれを食べるんです?」
周囲を見回す。どれもこれも、美味しそう……には見えない。まだ私の味覚と視覚が一致していないのだ。人間がぶら下がっている光景は、あくまで「不気味」であり、「食欲をそそる」ものではない。加須底羅の喪失感を引きずっているせいかもしれない。
「はー……」
姉さんはため息をつき、並んでいる人間たちを品定めする。
「あんたはまだ、味の良し悪しも分からないでしょうからね。最初は癖のない、若い女がいいわ。男は筋肉が硬いし」
姉さんが指差す。
「じゃあ、この娘にしなさい。まだ新しいし、肉付きもいい。吉原に売られてきたばかりで、絶望して泣き喚いていたところを保護したのよ」
保護、という言葉の使い方が独特だ。誘拐とも言う。
姉さんの指示を受け、帯がシュルリと動く。天井付近にあった一つの繭が解かれる。
ドサリ。
鈍い音と共に、一人の町娘が地面に落とされる。十代半ばくらいだろうか。粗末な着物を着た、田舎風の娘だ。突然の落下に目を覚ましたのか、娘はハッと息を呑み、周囲を見回す。
「ひっ……!?」
娘の目が、私と姉さん、そして蠢く帯を捉える。彼女の顔から血の気が引いていく。ガタガタと震え始め、歯の根が合わない音が響く。
「こ、こごは……?お、鬼……!?」
恐怖で声も出ないらしい。当然だ。ここは地獄の底。そして目の前にいるのは、世にも美しい二人の人食い鬼。
「さあ、風音」
姉さんが私の背中を押す。
「いただきなさい。それが、あんたの最初の晩餐よ」
娘を見る。震える肩。涙に濡れた瞳。脈打つ首筋。
お腹が、グウと鳴る。今までの「空腹」とは違う。もっと鋭く、もっと根源的な渇き。 私の本能が告げている。『アレは食べ物だ』と。『摂取しろ』と。
◆
「なるほど……。調理せず、生きたまま踊り食いというわけですか」
感心して呟く。魚の踊り食いというのは聞いたことがある。新鮮な白魚を、酢醤油でつるりといただく粋な食文化だ。まさか自分が、人間相手にそれをやることになるとは、人生(あるいは鬼生)とは分からないものだ。包丁も火も使わない。 究極の自然食だ。
「ひっ……ひいっ……! 助け……」
娘が、壊れた笛のような音を漏らす。顔色は白紙のように白く、唇は紫色に震えている。 涙がボロボロと溢れ、頬を伝って地面に落ちる。
ああ、もったいない。水分が流出してしまう。瑞々しさが損なわれてしまう。
「まあまあお嬢さん。別に取って食おうと……しているのですが、泣かないで」
優しく声をかけ、娘の涙を指で拭ってやる。
「い、いやぁ……!こないで……!」
娘が後ずさる。帯鬼が背後を塞いでいるから、逃げ場なんてどこにもないのに。
「取って食われるなら、普通は泣くでしょうよ」
背後から、姉さんの冷静なツッコミが飛んでくる。姉さんは腕を組み、私の食事風景を観察している。まるで、初めてのお使いを見守る母親のようだ。
「いやいや太夫。私としては、ぜひ『笑って』食べられてほしいんですよ」
真顔で振り返り、力説する。
「え……?」
娘が恐怖で引きつった顔のまま、固まる。私の言葉の意味が理解できないらしい。無理もない。私も人間だった頃なら、「こいつ頭がおかしい」と思ったことだろう。だが、今は違う。私は食通な鬼なのだ。
「だって、泣いて顔をぐしゃぐしゃにするより、笑っていたほうが筋肉が緩んで柔らかそうじゃないですか?」
娘の肩に手を置く。強張っている。カチカチだ。これでは、噛み千切る時に筋張ってしまい、歯触りが悪い。肩こりの酷い肉なんて、煮込み料理ならともかく、刺身には向かないのだ。
「それにね、どうせ死ぬんです。これは決定事項です。覆りません。明日のお天気が晴れか雨か、という確率の話ではなく、日が沈めば夜になるのと同じくらい、絶対的な事実なんです」
指を立てて、理路整然と説く。
「痛いのは一瞬……まあ、私が食べる速度にもよりますけど、概ね二時間から三時間くらいです。指先から順番にいきますから、脳に到達するまでは意識があるでしょうしね」
「(絶句と恐怖で失禁しそうになる)」
娘の股の間が、じわりと湿り気を帯びる。おっといけない。恐怖のあまり、味が落ちてしまう。
「でもね、考えてもみてください。貴女のその体、その血、その肉が、この世で最も美しい生き物の一部になるんですよ?貴女という存在が、私の細胞となって永遠に生き続けるんです。これって、凡庸な人生を送って土に還るより、よほど光栄なことだと思いませんか?」
両手を広げ、恍惚とした表情で語る。
「『ああ、私の命が美しい鬼の一部になるんだ』って思えば、恐怖なんて吹き飛ぶでしょう?むしろ、『選ばれてよかった!』って歓喜の涙を流すべき場面ですよ。さあ、笑って。最期の記念撮影だと思って、とびっきりの笑顔を見せて?」
「…………」
娘は、もはや悲鳴も上げられない。ただパクパクと口を開閉させ、酸素を求めている金魚のようだ。
「……」
姉さんも無言だ。ちらりと姉さんの方を見る。姉さんは、額に手を当て、何か深遠な思考の海に沈んでいるようだ。
(……こいつ、本気で言ってる)
姉さんの心の声が、表情から読み取れる。
(痛いのに笑えなんて、こいつくらいしか出来ない発想だわ。狂ってる。完全に思考回路が焼き切れてる。……もし、私がこいつを食べていたら)
姉さんの視線が、私に向けられる。その瞳の奥で、恐ろしい想像図が展開されているのが分かる。
(イメージ:姉さんの脳内)
『やったー!太夫の中に入れる!いただきまーす!』
私の生首が、満面の笑みを浮かべて、姉さんの口に自ら飛び込んでいく。咀嚼されながらも、『最高です!姉さんの胃酸、温かいです!』と万歳三唱している私。消化され、ドロドロになっても、『これで私は姉さんと一心同体!完全なる合体!愛の極致!』と叫び続けている私。
(終了)
「(……ゾッとした)」
姉さんが身震いする。美しい肩が、ブルリと震える。あ、寒いのかな。後で温めてあげなきゃ。
「……いや、あんたを食べなくてよかったかも」
姉さんがポツリと漏らす。その声には、心底からの安堵が含まれている。
「そうですか?私はいつでも身を捧げる覚悟ですよ?」
娘から視線を外し、姉さんに向かってニカっと笑う。
「姉さんが『小腹が空いたわ、風音の二の腕でもかじりたい』って言えば、すぐに袖をまくって差し出しますし、『風音の心臓の踊り食いがしたい』って言えば、自分で胸を切り開いて取り出しますよ。鮮度抜群、愛の詰まったハツ刺しです」
「気持ち悪いこと言うんじゃないわよ」
「まあ、ただ黙って食べられるのも癪ですからね。隙あらば、その秘所の中に指を入れるくらいの抵抗はしますけど!」
指をワキワキと動かす。姉さんの体内から、姉さんを愛でる。それはそれで、究極のスキンシップかもしれない。
「(やっぱり最悪だわ)」
姉さんは汚物を見るような目で私を見る。その蔑んだ目つき、ゾクゾクする。ご褒美だ。
「……まあ、そういうわけで」
再び、目の前の娘に向き直る。ごめんね、待たせちゃって。今、とびっきりのメインディッシュにしてあげるからね。
「お嬢さん、なるべく笑っていきましょう!辛い時こそ笑顔!悲しい時こそ口角を上げる!これが世を渡る秘訣であり、美味しく食べられるコツです!」
娘の頬を両手で挟み、無理やり口角を持ち上げる。ひきつった、不気味な笑い顔が出来上がる。うん、悪くない。恐怖と絶望が入り混じった、芸術的な表情だ。
「さあ、気合を入れて!私の血となり肉となる準備はいいですか?私は準備万端です。お腹の虫が、オーケストラを奏でています!」
グゥゥゥ……。腹の底から、雷鳴のような音が響く。空腹。渇望。私の本能が、理性の鎖を引きちぎる音がする。
「……いただきます!」
両手を合わせる。感謝の儀式。そして、口を大きく開ける。
メキメキメキ……。
顎の骨が外れる音がする。私の口が、人間の限界を超えて裂ける。耳元まで届く裂け目。 そこから覗くのは、鋭利な牙の列。サメのように、あるいは狼のように、肉を食らうためだけに特化した凶器たち。だらりと垂れる涎が、地面に落ちてジュッと音を立てる。
娘の目には、どう映っているだろうか。さっきまで優しく(?)語りかけていた美しい少女が、一瞬にしてこの世で最も恐ろしい化物に変貌する様は。それはきっと、絶望という名の絵画そのものだろう。
「いやあああああああーーーーッ!!」
娘の喉から、絹を引き裂くような絶叫が迸る。地下室の壁に反響し、鼓膜を劈く。いい声だ。肺活量がある。健康な証拠だ。
ガブリ。
躊躇いなく、娘の柔らかな二の腕に食いつく。
プツン。皮膚が破れる感触。ジュワッ。温かい液体が口の中に広がる感覚。
「!!!」
衝撃が走る。砂の味しかしなかった私の味覚中枢に、電流のような刺激が走る。
甘い。なんて甘いんだ。加須底羅?あんな砂糖の塊なんて目じゃない。これは、命の甘さだ。濃厚で、芳醇で、鉄の香りが鼻腔をくすぐり、脳髄を痺れさせる。
「ん〜〜〜っ!美味いっ!!」
口元を赤く染めながら、歓喜の声を上げる。
「何これ!最高!姉さん、これ凄いです!口の中でとろけます!筋肉の繊維一本一本が、舌の上で踊ってます!」
クチャ、クチャ、グチャ。
濡れた咀嚼音が、地下室に響き渡る。娘はまだ叫んでいる。痛いと喚いている。だが、その声も私にとっては極上のBGMだ。
「暴れないで!味わえないでしょう!」
娘を押さえつける。右手を食いちぎる。骨を噛み砕く。ボリボリという音が、スナック菓子のように軽快に響く。骨の髄から染み出すスープが、また格別だ。
「あはっ!あはははは!笑って!ほら、笑って!こんなに美味しいんだから!貴女は今、私の幸福になっているんですよ!」
私は狂ったように笑いながら、貪り食う。手足の指先から、じっくりと。恐怖に歪む顔を見ながら、その恐怖さえもスパイスに変えて。
姉さんは、少し離れた場所で、静かにそれを見ている。その表情には、微かな嫌悪と、それ以上の諦め、そして「立派な鬼になったわね」という奇妙な親心が混ざっている気がする。
「……行儀が悪いわね。もっと上品に食べなさい」
「無理です姉さん!箸が止まりません!いや、手が止まりません!おかわり!この娘、おかわりありますか!?」
「あるわけないでしょ。一人一食よ」
私の食事は続く。絶叫が途絶え、うめき声に変わり、やがて静寂が訪れるまで。地下室には、私の幸せそうな咀嚼音と、「美味い、美味い」という独り言だけが、いつまでも反響していた。
ああ、鬼になってよかった。人間をやめてよかった。こんなに美味しい世界が待っていたなんて。
ごちそうさまでした。私の新しい人生に、乾杯。……血で汚れた手で、空の杯を掲げるふりをする。その顔は、きっと誰よりも輝く笑顔だったに違いない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
風音、鬼としての初食事を無事完了しました。
食通系狂人の才能が完全開花し、
堕姫太夫の胃もたれと読者の情緒は壊滅状態です。
次回、
風音はさらに鬼としての能力を開花するのか?
太夫の精神はどこまで保つのか?
無惨様は次にどんな地雷を踏まされるのか?
どうぞ引き続き、京極屋の地下深くまでお付き合いください。
次の晩餐も、きっと美味しく狂っています。