鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
そんな場所にひとり、鬼になっても変わらない娘がいる。
食欲も、知性も、姉への執着も、すべてが常軌を逸している少女──風音。
初めての饗宴を終えた彼女は、満腹と幸福に浸りながら、
「太陽を克服する」という途方もない野望を抱き始める。
吉原の最深部で、変わり者の鬼が新たな一歩を踏み出す物語を、どうか見届けてほしい。
満腹だ。
これ以上ないほどに、満たされている。私の胃袋は今、歴史的な充足感に包まれている。 まるで、大黒様の袋のようにパンパンに膨れ上がり、幸福という名の中身が詰まっている状態だ。
人間の頃には味わったことのない、体の芯から湧き上がるような熱。指先まで力がみなぎり、視界はクリアで、世界が一段と輝いて見える。これが「食」の喜び。これが「生」の実感。ああ、あのお嬢さん、本当に美味しかった。爪の先まで、髪の毛一本まで、残さずいただいた。ごちそうさまでした。私の血肉となって、永遠に私の中で生きてください。 家賃は取りませんから。
「……で?」
姉さんが、呆れたように口を開く。煙管をくゆらせ、私の顔をじろりと見ている。
「いつもの講談もどきは、やらないの?『前回までの風音ちゃんは~!』とか何とか、やかましく騒ぎ立てないの?」
姉さんの問いかけに、私はゆっくりと視線を下ろす。そして、しおらしく伏し目がちになる。演技ではない。今の私は、とても神妙な面持ちだ。
「いやぁ~……姉さん。さっき食べた、あのお嬢さんのことを思いますとね……」
言葉を濁す。あんなに泣き叫んでいた娘。最後には私の胃袋に収まった、あの一つの命。 それを思うと、軽々しくふざける気にはなれないのです。
「(……おっ)」
姉さんの眉が、少しだけ動く。その瞳に、驚きと、ほんの少しの安堵の色が浮かぶ。
「(意外と、まともなところもあるのね。あんな風に狂った食べ方をしたけれど、食べた後には罪悪感くらいは感じるのかしら。まだ、人の心が残っているということね……)」
姉さんは、煙管を置き、優しく私に声をかけようとする。その口元が、「仕方ないわよ、生きるためだもの」という慰めの言葉を紡ごうとした、その時だ。
「お腹いっぱいで声を張り上げると、酸っぱいものが込み上げてきそうで」
「…………」
「あと、ゲップが出そうで」
「…………」
姉さんの動きが止まる。優しさの成分が、急速に冷却されていくのが分かる。
「やっぱりね。『うぷっ』なんて、太夫の禿上がりにあるまじき失態ですから。はしたない音を出して、姉さんの美顔に泥を塗るわけにはいきません。消化が落ち着くまでは、お口チャックです。あ、でも独り言は言いますけど」
真顔で説明する。満腹時に運動したり大声を出したりすると、胃の内容物が逆流するのは人体の構造上の欠陥だ。鬼になっても、その辺りの物理法則は変わらないらしい。胃の中で何かが発酵している感覚がある。
「……はあ」
姉さんが、深いため息をつく。その吐息で、部屋の温度が二度くらい下がった気がする。
「あんたは多分、私より鬼としての適性が高いわよ。肉体的な適合率の話じゃないわ。その図太い心根がね」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてないわよ。呆れてるの」
姉さんは再び煙管を口に含む。紫煙の向こうで、その赤い瞳が私を観察している。私はお腹をポンポンと叩く。いい音だ。スイカなら食べ頃だ。
◆
食休みもそこそこに、私は立ち上がる。 部屋の隅にある鏡台の前へ。そこには、見慣れた私の顔が映っている。 ……いや、少し違うか。
「さてさて」
鏡の中の自分に話しかける。
「とりあえず鬼になった私ですが、何がどう変わる?ってものでもございませんね」
鏡に映る私は、相変わらずの美少女だ(自称ではない、客観的事実だ)。肌の色つやは以前より良くなっているし、髪もツヤツヤだ。ただ、口を開けると、犬歯が鋭く尖っている。爪も、桜貝のように美しいが、猛獣のように鋭利だ。瞳の色も、興奮すると赤く変色するようになった。
「見た目は順調に『人外(じんがい)』へ移行中ですね。この牙なら、硬い煎餅もバリバリいけそうです」
「……普通はね」
姉さんが背後から声をかける。鏡越しに目が合う。
「鬼になると、記憶が混濁したり、自我が薄れたりするものなの。人間だった頃の記憶が抜け落ちて、ただの衝動的な獣になる奴も多いわ。名前すら忘れて、『あー』とか『うー』しか言えなくなる雑魚もいるのよ」
「へえ、それは不便ですね。家計簿がつけられないじゃないですか」
「あんた、自分の心配をしなさいよ。記憶はどうなの?抜け落ちてない?」
「記憶?」
首をかしげる。脳内の引き出しを開ける。そこには、膨大な量のファイルが整然と並んでいる。
「正常ですよ!むしろ、解像度が上がっています。二歳の時の天井の木目の数から、三歳の時に隣の家の犬に吠えられた回数、五歳の時に父上がヘソクリを隠した場所まで、一日も欠かさず鮮明に記録されています!」
胸を張る。私の記憶力は、自慢の一つだ。忘却とは、脳の甘えである。
「……それは『異常』と言うのよ」
姉さんが引いている。
「普通、人間はそんな昔のことまで覚えてないわ。あんた、人間時代から脳の造りが違ったのね。生まれつきの変異体か何か?」
「失礼な。天才と呼んでください。神童と呼ばれた私の頭脳は、鬼になっても健在です。 むしろ、処理速度が上がって、今は姉さんの着物の柄の数を一瞬で数え終わりました。 千二百三十四個ですね」
「……気持ち悪いわね」
姉さんが着物の袖を隠すように身を引く。照れ屋さんだ。
「それに、理性も失うと言われましたが、全く変わりません。食欲が増したくらい?人を食べたいなー、美味しそうだなー、と思う以外は、以前の松田颯そのままです。計算もできるし、敬語も使えるし、姉さんへの愛も不変です」
「あんたは最初から狂ってるもんね」
姉さんが冷たく言い放つ。
「失う理性が、端から無かったのよ。ゼロから何かを引いても、マイナスにはならない。 ただのゼロのままよ」
「ええい太夫!さっきから酷い言われよう!私が可愛くないの!?」
鏡台から離れ、姉さんに詰め寄る。座っている姉さんの膝元へ。犬のように這いつくばり、その膝にすがりつく。
「私ほど優秀で、私ほど従順で、私ほど姉さんを崇拝している部下はいませんよ!記憶力がいいのも、理性がぶっ飛んでいるのも、全ては姉さんのお役に立つためです!ほら、撫でてください!いい子だねって、頭を撫でて!」
自分の頭を、姉さんの太ももに擦り付ける。帯の下の感触を堪能しながら。これは甘えではない。確認作業だ。私が私のままであることの、そして姉さんが私の飼い主であることの。
「……はあ」
姉さんは、本日何度目か分からないため息をつく。そして、その白く細い手が、私の頭に伸びる。
ポン、ポン。
優しいリズム。冷たいけれど、温かい手。
「(頭を撫でながら)……顔は可愛いと思うわよ。私の好みに育てたんだから。肌も綺麗だし、目も大きいし、黙っていれば人形みたいだわ」
「でしょ?でしょ?」
「でも、中身が変態で狂人だとも思っているわ。あと、さっきから私の太ももを指でツンツンするのはやめなさい。爪が刺さって痛いのよ」
「あっ、バレました?筋肉の弾力を確かめていただけなんですが」
「嘘をお言い」
姉さんは私の頭を軽く小突く。でも、膝から退けようとはしない。許されている。この距離感が、たまらなく心地いい。
「ぬううう……!世界広しといえど、私ほどまともな人間……もとい鬼はいないというのに……!なぜこの高潔な精神性が伝わらないのか!」
「その自己認識が一番の病よ」
姉さんは私の髪を指で梳きながら、独り言のように呟く。
「まともな奴は、人を食べた直後に『ゲップが出るから静かにします』なんて言わないし、自分の記憶力を自慢したりしないの。……まあ、あんたがまともだったら、とっくに発狂して死んでるでしょうけど」
姉さんの手が止まる。その指先が、私の頬に触れる。
「狂っているからこそ、適合した。狂っているからこそ、生き残った。……皮肉なものね」
姉さんの声には、少しだけ哀れみのような響きがあった。でも、私はそんな同情なんて必要ない。私は幸せだ。満腹で、強くて、美しくて、そして大好きな姉さんの膝枕を独占しているのだから。
「姉さん」
顔を上げ、姉さんを見上げる。
「私は狂っていませんよ。ただ、世界の規格が私に追いついていないだけです。これから私たちが、世界を私たちの色に染め変えれば、私が『基準』になるんです。そうすれば、私は世界一まともな常識人になります」
「……すごい理屈ね。天地がひっくり返っても、あんたが常識人になる未来は見えないわ」
姉さんは苦笑する。その笑顔が見られただけで、私は満足だ。
「さあ、お腹も落ち着いてきました。そろそろお仕事の時間ですね。今夜も客から金を巻き上げ、吉原の頂点へ一歩近づきましょう!」
立ち上がり、拳を突き上げる。鬼になっても、やることは変わらない。稼ぐ。のし上がる。そして、姉さんと共に栄華を極める。
「はいはい。その前に、口の周りを拭きなさい。血がついているわよ」
姉さんが手ぬぐいを投げてくる。私はそれを受け取り、乱暴に口元を拭う。鉄の匂いがする。でも、もう不快ではない。これが、私の生きる匂いなのだ。
「行きましょう、姉さん!私の伝説の第二章、開幕です!」
「声が大きい!……全く、騒がしい夜になりそうだわ」
私たちは部屋を出る。廊下の向こうには、煌びやかな吉原の夜が広がっている。そこは、人間たちの欲望の海であり、私たち鬼にとっては、最高の狩り場だ。
天才と変態は紙一重。あるいは、鬼と人間も紙一重なのかもしれない。どちらにせよ、私は私だ。風のように自由に、音のように軽やかに。この夜を駆け抜けてやる。
(……あ、やばい。やっぱりゲップ出そう)
「うぷっ」
「……汚い!」
◆
不便だ。
実に不便極まりない。私は畳の上で、のたうち回りながら呻き声を上げる。別に腹痛ではない。怪我もしていない。ただ、世界の理不尽さに抗議しているだけだ。
昼下がりの京極屋。本来なら、日差しが差し込み、小鳥がさえずる爽やかな時間帯のはずだ。しかし、今の私の部屋は、雨戸が厳重に締め切られ、分厚い布で隙間まで塞がれている。まるで棺桶の中だ。薄暗い行灯の明かりだけが、私の不満げな顔を照らし出している。
「……何がよ」
部屋の隅で、姉さんが着物の手入れをしている。
「何がって、この環境ですよ!」
布団から上半身を起こし、力説する。
「日の光の下に行けないということは、昼間に買い食いができないということではありませんか!私の楽しみが!焼きたての加須底羅(かすていら)が買えないではありませんか!」
加須底羅。南蛮渡来の奇跡の菓子。先日は味がしなくて絶望したけれど、諦めきれない。 私の味覚がおかしいのではなく、あの日の加須底羅がたまたま不良品だった可能性も捨てきれないからだ(往生際が悪い)。
「使いをやりなさいよっていうか、どうせ食べられないでしょう。砂の味しかしないって、あんた自分で言ってたじゃない」
姉さんは手を止めずに言う。冷たい。相変わらず、私の乙女心に対する配慮が欠けている。
「焼きたてじゃないと意味がないんです!あの窯から出した瞬間の、湯気が立つほどの熱気!卵と砂糖の香りが爆発するあの一瞬!あれを逃して、何が加須底羅ですか!冷めたピザ……じゃなくて、冷めた味噌汁みたいなものです!」
拳を握りしめる。
「食べられなくても!いや、意地でも食べます。たとえ砂の味だとしても、焼きたての砂なら、きっと香ばしいはずです!!」
「……あんた、本当に食い意地だけで生きてるわね」
姉さんが呆れてため息をつく。呆れられても構わない。食への執着こそが、私のアイデンティティだ。
立ち上がる。ふらふらと、雨戸の方へ近づく。
「と言うわけで、ひとつ『試み』をしてみましょう」
「は?待ちなさい、何を……」
姉さんが顔を上げる。嫌な予感がしたのだろう。鋭い直感だ。
私は姉さんの制止を聞かずに、雨戸の錠に手をかける。少しだけ。ほんの数寸。隙間を開ける。
一筋の強烈な光が、暗い部屋に差し込む。太陽光。私たち鬼にとっての天敵。触れれば灰になり、塵になり、消滅する死の光線。
「……ふっ」
躊躇いなく、その光の筋の中に、右手を突き出す。
ジュッ!
嫌な音がする。肉が焼ける音だ。同時に、白い煙が上がり、焦げ臭い匂いが鼻をつく。
「ぎゃあああああああ!!痛い痛い痛い!!熱い!焼ける!!無理!これ無理なやつ!!」
絶叫する。想像以上の激痛だ。火傷なんてレベルではない。細胞の一つ一つが、光に触れた瞬間に崩壊し、蒸発していく感覚。骨まで熱い。
「馬鹿じゃないの!?死ぬわよ!?」
姉さんが血相を変えて飛びかかってくる。私を突き飛ばし、慌てて雨戸を閉める。部屋に再び闇が戻る。
畳の上で、右手を押さえて転げ回る。
「ううう……泣きました。あまりの痛さに涙が出ました……。加须底羅どころじゃありません。腕が炭になるところでした……」
「当たり前でしょ!!太陽光は毒なの!猛毒なの!少し浴びただけで死ぬって、あれほど言ったじゃない!」
姉さんが怒鳴る。本気で心配してくれている。優しい。でも、私は涙目のまま、自分の右手を見る。
煙が晴れる。焼け爛れた皮膚。炭化した肉。見るも無残な状態……のはずだった。
シュウウウ……。
小さな音と共に、傷口が泡立つ。新しい肉が盛り上がり、皮膚が再生し、爪が生える。 ものの数秒。私の右手は、何事もなかったかのように、白くなめらかな元の状態に戻っていた。
「でも見てください、もう治った」
右手をグーパーして見せる。痛みも消えた。新品同様だ。
「……はあ」
姉さんがその場にへたり込む。頭を抱えている。
「あんたの再生能力、異常よ……。普通、直射日光を浴びたら、再生が阻害されてしばらく治らないものなのに。……本当に、無駄に頑丈なんだから」
「頑丈なのは良いことです。これで分かりました。日傘をさせば、一分くらいなら外出できそうですね!」
「できるわけないでしょ!今度やったら、私がこの手で灰にしてやるから!」
姉さんの説教は、それから一時間ほど続いた。私は正座して聞き流していたけれど、やっぱり焼きたての加須底羅への未練は断ち切れない。いつか、太陽を克服してやる。そして、青空の下で堂々と買い食いをしてやるのだ。新たな野望が、私の胸に刻まれた瞬間だった。
◆
その日の夜。 京極屋はいつものように賑わいを見せている。私たちは仕事を終え(といっても私は姉さんの周りをウロチョロしていただけだが)、部屋に戻る。
すると。部屋の空気が、重く淀んでいた。
「……ッ!」
姉さんが息を呑み、即座に平伏する。私も慌ててそれに倣う。部屋の中央、上座に座っている人物。この世で最も顔色の悪い、そして最強の支配者。
あの方、鬼舞辻無惨様だ。
今夜の無惨様は、ご機嫌麗しくないご様子だ。眉間に深い皺刻まれ、その美しい顔が歪んでいる。呆れと、苛立ちと、そして「なぜ私はこんな馬鹿の相手をしなければならないのか」という疲労感が入り混じった表情だ。
「……私の血を無駄にするな」
低い声が響く。地を這うような重低音だ。
「日光に自ら手を突っ込むなど、貴様の頭蓋には脳みそが入っているのか?それとも、腐った豆腐でも詰まっているのか?」
バレていた。私の昼間の人体実験が、全て筒抜けだったらしい。姉さんの帯を通じて見ているのか、それとも千里眼でもあるのか。プライバシーの侵害だと言いたいところだが、命が惜しいので黙っておく。
「あります!豆腐ではありません!最高級の脳みそが、ぎっしりと詰まっております!」
顔を上げ、堂々と反論する。
「多分、無惨様より詰まってます!あ、いえ、太夫よりも!」
「(こいつ、どさくさに紛れて私を貶めたわね)」
姉さんが横でギリリと歯ぎしりする音が聞こえる。ごめんね姉さん。上司と比較するのは流石に不敬罪で首が飛びそうだったから、身内を犠牲にするしかなかったの。
「……申し訳ございません」
姉さんが助け舟を出す。
「こいつは少し、知識への欲求が暴走するきらいがありまして。未知の事象を確認せずにはいられない、損な性分なのです。決して、血を軽んじているわけでは……」
必死のフォローだ。姉さん、本当にいい人だ。あとでお礼に肩を揉んであげよう。
無惨様は、冷ややかな目で私を見下ろす。その瞳孔が、怪しく揺らめく。
「(……馬鹿に見えるが)」
無惨様の心の声が聞こえるようだ。
「(適応能力と回転は速い。日光による壊死からの再生速度も、通常の新種とは思えぬ速さだった。……こいつ、使えるのか?それともただの廃棄物か?)」
無惨様は懐に手を入れる。何かを取り出す。一巻の書物だ。古びた紙の束。それを無造作に、私の前へ放り投げる。
ドサッ。
埃っぽい匂いがする。
「面白い……ならばこれはどうだ?」
無惨様が口の端を歪める。
「平安の世の古い経典だ。崩し字も独特、言い回し難解。貴様ごとき、成り上がりの新造に読めるか?」
知能テストだ。私がただの馬鹿か、それとも利用価値のある馬鹿かを試そうとしている。
書物を手に取る。パラパラとめくる。紙が劣化していて、破れそうだ。文字はミミズがのたうち回ったような崩し字。漢字と万葉仮名が入り混じっている。
「……ああ、これですか」
一瞥しただけで、内容を把握する。没落武家の娘として、幼少期から書庫に籠もって乱読していた私にとって、この程度の崩し字は絵本のようなものだ。
「んんっ」
咳払いをする。そして、朗々と読み上げる。
「『……それ、人の世は泡沫の如く。縁は結ばれ、また解けるものなり。……故に、迷いこそが人の業なり』」
詰まることなく。淀みなく。まるで、昨日自分が書いた日記を読むかのような軽さで。
「ふむ」
読み終えて、パタンと書物を閉じる。そして、腕組みをして講評に入る。
「著者の論理構成が甘いですね。前半の無常観についての考察は悪くありませんが、後半の結論への導き方が雑です。ここの解釈は当時の流行りでしょうが、少々こじつけが過ぎる。権力者に配慮して、筆を曲げた形跡が見受けられますね。三流の文章です」
しーん。
部屋が静まり返る。姉さんが口をあんぐりと開けている。無惨様は……無表情だ。だが、その目が点になっている。
「……」
無惨様は、無言で私から書物を取り上げる。乱暴に奪い取るのではなく、そっと。まるで、変な生き物に触れた後かのように。
「……もういい」
無惨様が立ち上がる。
「あれ?感想戦は?私、ここの『業』の定義について、無惨様と朝まで討論したいのですが!無惨様はこの著者の甘えについてどう思われますか!?」
身を乗り出す。知識人同士の語らいを求めて。
「興が削がれた」
無惨様は吐き捨てるように言う。
「貴様には、畏敬の念というものがないのか。……励め」
それだけ言い残し、無惨様は背を向ける。その背中は、来た時よりも一回り小さく見えた。疲れている。明らかに、私との会話で精神力を消耗している。
「あ、無惨様!帰られるのですか!?お茶も出さずにすみません!次はいらした時は、もっと面白い本を用意しておきますね!枕草子の原文とかどうですか!」
「…………」
無惨様は振り返らない。霧のように姿が消えていく。最後に残ったのは、深いため息のような気配だけだった。
「……帰っちゃった」
残念そうに呟く。せっかくの知的な交流の機会だったのに。
「あんた……」
姉さんが、引きつった顔で私を見る。その顔には、恐怖を通り越して、感心すら浮かんでいる。
「あの方を、呆れさせて追い返すなんて……。ある意味、最強ね」
「そうですか?ただ、共通の話題で盛り上がりたかっただけなんですが」
「それが異常なのよ。普通は震えて声も出ないの」
姉さんはやれやれと首を振る。
「まあいいわ。気に入られたのか、見放されたのかは分からないけど……とりあえず殺されなくてよかったわね」
「はい!私の知性が証明されましたからね!これで無惨様も、私を一目置いてくれるでしょう!」
私の天才っぷりが、鬼の世界にも轟く日は近い。
「……そうね。『変な奴』として一目置かれたことは間違いないわ」
外は完全に夜だ。私の活動時間は、まだ始まったばかり。
「さあ姉さん!今夜は何をしますか?また地下で踊り食いですか?それとも、経典の解読会ですか?」
「仕事よ、仕事!客が待ってるの!」
◆
「なによ。まだ文句があるの?」
「ありますとも!お兄様がいらっしゃるなら、最初から紹介してください!水臭い!」
プンスカと怒る。姉さんにはお兄さんがいる。妓夫太郎という名の、姉さんの半身とも言える存在だ。なのに、一度も正式な挨拶をしていない。これは礼儀に欠ける。将来の義理の妹(予定)になる私としては、義兄上への挨拶は欠かせない儀式なのだ。
「お兄ちゃん?……ああ、私の体の中にいるから、人間には紹介できないわよ。普通の人間が見たら発狂するか、腰を抜かして死ぬからね」
姉さんは自分の背中あたりをポンと叩く。
「今はあんたも鬼だから分かるでしょうけど、いつも一緒にいるのよ。二心同体ってやつね」
「体の中にいる……?」
首を傾げる。カンガルーの袋みたいなものだろうか。それとも、背後霊のように憑りついているのか。
すると部屋の空気が、じとりと重くなる。姉さんの背後の影から、ぬるりと声が響く。
『……ケケッ、うるせえアアマだな』
しわがれた、金属を擦り合わせたような不快な声。でも、不思議と嫌悪感はない。姉さんの一部だと思えば、そのダミ声さえも美声に聞こえてくる(私の耳は姉さんフィルター搭載済みだ)。
「あ、お兄様!初めまして! 風音です!いつも姉さんがお世話になっております!」
影に向かって深々と頭を下げる。見えない相手にも礼を尽くす。これぞ武家の娘の嗜み。
『……へえ。挨拶のできるガキじゃねえか』
影が揺らめく。そこから、痩せこけた腕のようなものが一瞬見えた気がした。
「でも、体の中にいるってことは……」
ふと、ある事実に思い当たる。電流が走るような衝撃。顔から火が出る……ではなく、顔がニヤける予感がする。
「ということは、お兄様。私が太夫のおっぱいに顔を埋めて『お乳吸わせて~』とか甘えてる時も、見てたってことですか!?」
あの至福の時間。姉さんの豊満な双丘を独占し、母性を貪り尽くしていた時間。あれも、全て?
『……見てたなぁ。全部なぁ』
妓夫太郎様の声が、ニチャリと笑う。
『お前が涎垂らして……堕姫の胸を揉みしだいてるツラも、変な声出して甘えてるサマも、特等席で見物させてもらったぜぇ』
「なんと!!」
大声を上げる。驚愕ではない。歓喜だ。
「そこ!?恥じらう場所そこ!?」
姉さんが叫ぶ。顔を真っ赤にして、自分の胸元を隠す。
「嫌だ!お兄ちゃん変なこと言わないでよ!私が変態を飼ってること、バラさないで!」
「いえいえ姉さん、これは恥じることではありません。むしろ、興奮案件です」
鼻息を荒くする。
「それは興奮しますね……。美しき姉妹愛(?)を見守る兄……。妹が他の女(私)に愛されているのを、じっと体の中から覗き見る構図……。背徳的だ。実に背徳的で、耽美な世界観です!」
うっとりと頬に手を当てる。見られていた。私の痴態を、姉さんの半身に見られていた。 それはつまり、間接的に三人で愛を育んでいたも同然ではないか!
「(ドン引き)」
姉さんが白目を剥いている。引いている。完全に引いている。心の距離が五里(約二十キロメートル)くらい離れた気がする。
『……変わったガキだな。普通は泣いて恥ずかしがるところだろ』
妓夫太郎様も呆れているようだ。だが、その声には微かな面白がりが含まれている。脈ありだ。
「まあ、お兄様のことは今度ゆっくり語り合うとして」
パンと手を叩く。これ以上掘り下げると、姉さんが恥ずかしさで爆発してしまいそうなので、話題を変えることにする。気遣いのできる女、それが私だ。
「今は加須底羅です」
「まだ言うか」
姉さんが疲れたように突っ込む。先ほどの太陽光チャレンジでの火傷はもう治っているが、私の心の傷(加須底羅が食べられない悲しみ)は癒えていない。
「諦めませんよ。毒を以て毒を制す。体とは慣れるものです。人間だって、最初は苦いだけの酒を、飲み続けるうちに美味いと感じるようになるでしょう?それと同じです」
「全然違うわよ。太陽は毒じゃなくて、消滅の光なの。慣れる前に灰になるの」
「いいえ!さっきの実験で分かりました。いきなり腕一本出すから痛いんです。負荷が大きすぎたのです。筋トレといっしょです。いきなり百キロを持ち上げようとしたら腰を痛めますが、一キロから始めれば、いずれ百キロも持てるようになる!」
「嫌な予感がする」
姉さんが身構える。野生の勘だ。
「まずは小指!小指の先、爪の甘皮一枚から始めるのです!毎日少しずつ、一ミリずつ焼いていけば、再生能力が向上し、いずれ皮膚が太陽光への耐性を持つようになるはず!これぞ『日輪克服計画』!!」
私は高らかに宣言する。完璧な理論だ。免疫療法と筋力トレーニングの融合。私の天才的な頭脳が導き出した、太陽克服への最短ルート(かもしれない道)
「さあ、善は急げです!朝日が昇るまで待てません!今すぐ月の光で予行演習を……いや、月光じゃ弱い!やっぱり明日の朝を待って、決行します!」
立ち上がり、再び雨戸の方へ手を伸ばそうとする。まだ夜だけど、今のうちに建付けを確認しておこうと思って。
「やめろぉぉぉーーっ!!」
姉さんが絶叫しながらタックルしてくる。私を押し倒し、馬乗りになって羽交い締めにする。
「あんたが死んだら私が無惨様に殺されるのよ!!連帯責任なの!分かってる!?私の命を巻き込んで自殺志願するんじゃないわよ!」
「自殺じゃありません!科学実験です!進歩のための尊い犠牲(私の小指)です!」
「犠牲になるのは私の胃袋よ!ストレスで穴が開くわ!」
姉さんは必死だ。涙目になっている。可愛い。こんなに心配してくれるなんて、やっぱり愛されている。
『(こいつ……もしかして天才か?それともただの馬鹿か?)』
妓夫太郎様の困惑した声が聞こえる。どちらでもいい。結果を出せば官軍だ。
私が最強の鬼になるか、あるいは自滅して灰になるか。それはまだ、神のみぞ知る。いや、神様も見放して、仏様も呆れて見ていないだろう。見ているのは、私の体内を流れる無惨様の血と、呆れ果てた姉さんだけだ。
「姉さん、苦しい!胸が当たって苦しい!」
「黙りなさい!朝まで縛り付けておくからね!」
「ご褒美ですか!?」
「違うっ!!」
私の道行は、まだまだ続く。愉快に、賑やかに、そして何より強かに。
鬼になっても、私は私だ。松田颯あらため風音。吉原の夜に、変な花を咲かせてみせようじゃないか。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
もし「好きな場面」「印象に残った会話」「風音のここが面白かった!」
など感じていただけた点があれば、ぜひ感想をいただけると嬉しいです。