鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら   作:斉宮 柴野

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鬼になって一年。
夜に生きることにも慣れ、姉さんとの生活も板についた頃、
私は一つの大発明をしてしまいました。

鬼の弱点──太陽。
その絶対的な理を覆した瞬間、吉原の空気は静まり返り、
そして世界が動き出します。

鬼でありながら鬼を封じるという逆転の血鬼術、
そして無惨様すら動揺させた奇妙な進化。

吉原の夜に咲く変わり者・風音の物語は、ここからさらに騒がしくなります。


太陽を克服した日、あるいは加須底羅への執念

時が流れるのは早いもので。 私が人間を辞めて、鬼という名の愉快な夜の住人に転職してから、かれこれ一年という月日が流れた。

 

一年。桃栗三年柿八年と言うけれど、鬼の成長速度は植物の比ではない。

 

今の私は、もはや新人の域を脱していると言っても過言ではないだろう。京極屋での立ち振る舞いは板につき、客あしらいも完璧。そして何より、姉さん……白露太夫こと堕姫)姉さんとの連係は、熟年夫婦の域に達している。

 

「姉さん、朗報です」

 

京極屋の一室、姉さんの部屋の真ん中で、これ以上ないほど自信満々に仁王立ちする。 足幅は肩幅よりやや広く、胸を張り、顎を引く。完璧な立ち姿だ。銅像にして飾りたいくらいだ。

 

「……なによ、藪から棒に」

 

姉さんは鏡台の前で、熱心に眉を整えている。その手は止まらない。私への関心が薄いのではない。どうせまた、私がろくでもないことを言い出すと予想しているのだ。鋭い。さすが飼い主。

 

「私はいい話を聞きました。鬼の中には『血鬼術』という特殊な異能を使える者がいると!」

 

バッと両手を広げる。効果音をつけるなら「ジャジャーン!」だ。

 

姉さんの手がピタリと止まる。鏡越しに、呆れたような視線が私を射抜く。

 

「……いまさら?そんなの、鬼の常識でしょうが。あんた、一年間何してたの?寝てたの?」

 

「寝てませんよ。起きて、食べて、働いて、食べて、姉さんの胸で甘えて、食べてました」

 

「食べてばっかりね。で? 誰に聞いたのよ、そんな当たり前のこと」

 

「帯鬼(おびおに)さんです。彼女とは今や、杯を交わした義兄弟……いいえ、魂の友(マブダチ)になりました」

 

懐から、布切れを取り出す。帯鬼さんが先日、私のために切り落としてくれた切れ端だ。 友情の証である。

 

「……私の分身とマブダチにならないでくれる?あいつ、最近私の言うことよりあんたの命令を優先する時があるんだけど、どういう教育してるの?」

 

「教育だなんて。ただ、女同士の熱い語らいをしただけですよ。彼女も、本体である姉さんに頭が上がらない苦労があるようで」

 

「帯に性別はないわよ。それに、あいつは私自身よ。私が私に不満を持ってるってこと?」

 

「自己批判は成長の母です」

 

適当に煙に巻く。帯鬼さんとの密談の内容(主に姉さんの恥ずかしい寝相や、過去のドジっ子挿話の共有)は、墓場まで持っていく秘密だ。

 

「まあ、それは置いておいて」

 

話を戻す。重要なのはそこではない。

 

「つまり!その血鬼術とやら。己の血を媒介にし、常理を超えた現象を引き起こす異能!  帯鬼さんが帯を自在に操るように、姉さんが帯を体内に格納するように!この超絶天才にして、鬼としての才能の塊である私に、それが使えないはずがない!ということです!」

 

鼻息荒く宣言する。才能。それは私が最も愛する言葉の一つだ。加須底羅の次に好きかもしれない。

 

「……あんたのその根拠のない自信、時々羨ましくなるわ」

 

姉さんはため息をつき、ようやくこちらに向き直る。その顔には、「また始まった」という諦めと、ほんの少しの「お手並み拝見」という興味が混ざっている。

 

「で?使えるようになりたいから、修行をつけてくれって話?」

 

「ノンノンノン。姉さん、甘いです。私の才能を見くびらないでください」

 

人差し指を振り子のように振る。

 

「修行?そんな泥臭いことは凡人のすることです。天才は、閃きと直感で全てを解決するのです」

 

「……まさか」

 

姉さんが目を見開く。

 

「で、できました。血鬼術」

 

「は?」

 

姉さんの口がポカンと開く。美しい顔が台無しだが、それもまた愛嬌だ。

 

「できたの?まだ一年で?嘘でしょ?普通の鬼はもっと……人間をたくさん喰らって、血を濃くして、何年も何十年もかけて、ようやく発現するものなのよ?あんたみたいな新造鬼が、そんな簡単に……」

 

姉さんは信じられないという顔で私を凝視する。無理もない。これは鬼の歴史を覆す快挙だ。教科書に載るレベルだ。

 

だが、姉さんの顔色が、次第に別の色を帯びていく。驚きから、疑惑へ。そして、疑惑から、戦慄へ。

 

姉さんは、ゆっくりと視線を動かす。部屋の隅にある、姿見(鏡台)の方へ。その下にある、地下への隠し扉の方へ。

 

「……ねえ、風音」

 

姉さんの声が低い。地獄の底から響くような声だ。

 

「あんた、まさか……」

 

「ええ。太夫の食糧庫から、たーくさん頂きましたから!」

 

満面の笑みで答える。隠し事はしない。家族の間に秘密はなしだ。

 

「……は?」

 

「いやあ、やはり術の開発には莫大な活力が必要ですからね。試行錯誤するにも、腹が減っては戦はできぬと言いますし。ここ一ヶ月ほど、毎晩こっそりと地下にお邪魔して、食べ放題を開催しておりました!」

 

自分のお腹をポンと叩く。いい音だ。充実の音がする。

 

「……帯は?帯鬼は通したの?あいつは、私の許可なく誰も通さないはずよ」

 

「ああ、彼女ですか?帯鬼さんに、私が外で捕まえてきた活きのいい女の子を差し入れしたら、快く通してくれましたよ。『姉さんには内緒だぜ』ってアイコンタクトまでくれました」

 

「……」

 

姉さんが震えている。怒りで。

 

「……私の分身のくせに、買収されてんじゃないわよ!!賄賂で職務放棄!?私の規律はどうなってるの!?」

 

姉さんが絶叫する。ごもっともだ。己の分身が、他人に買収されて自分を裏切る。アイデンティティの崩壊だ。

 

「まあまあ、姉さん。彼女にも女の付き合いというものがあるのです。それに、姉さんの貯蓄は質が良い!さすが美食家!おかげで力がみなぎりました!肌ツヤも見てください、この通り!」

 

頬を指差してアピールする。

 

「って、半分くらい無くなってるじゃないの!?」

 

姉さんが隠し扉を開け、地下の惨状(空き具合)を確認したらしい。悲鳴が聞こえる。

 

「私の保存食!熟成させてたあの子も!来週食べようと思ってたあの男も!全部いない!!」

 

「必要経費です!先行投資です!私が強くなれば、新しい保存食なんていくらでも調達できますから!倍にして返しますよ! 出世払いで!」

 

「あんたの出世払い、いつ履行されるのよ!!」

 

姉さんが掴みかかってこようとする。おっと、ここで捕まったら折檻だ。今は、私の成果を見せるのが先決だ。

 

「さあ、細かいことは置いておいて!いきますよ!私の才能の結晶、とくとご覧あれ!」

 

私は姉さんの手をひらりと躱し、部屋の中央へ躍り出る。空気を変える。真剣な眼差

 

張り詰めた緊張感。これには姉さんも、怒りの矛先を一旦収めざるを得ない。

 

「……チッ。見せなさいよ。もし大したことなかったら、あんたを新しい保存食にするからね」

 

姉さんが腕を組んで仁王立ちする。怖い。でも、その期待値の高さが心地いい。

 

「ふう……」

 

息を吸い込む。丹田に力を込める。イメージする。私の中にある、鬼の血。食べた人間たちの命。それらを練り上げ、一つの形にする。

 

「兄上も、出てきてください。歴史的瞬間です」

 

私が呼びかけると、姉さんの背中がもぞりと動く。黒い影が滲み出し、そこから痩せこけた体躯が現れる。妓夫太郎兄様だ。

 

『……ケケッ。面白そうじゃねえか。一年で血鬼術だと?あの方様もお気に入りの俺たちですら、もっとかかったのによぉ』

 

兄様はガリガリと首を掻きながら、私を値踏みするように見る。その目は、疑い半分、期待半分といったところか。

 

「お待たせしました。では、発動します」

 

印を結ぶようなポーズを取る。なんとなくカッコイイからやってみただけで、特に意味はない。

 

「血鬼術!『封鬼化生(ふうきかしょう)』!!」

 

叫ぶ。言霊を乗せて。

 

ボワッ。

 

私の体から、微かな気流が巻き起こる。赤いオーラのようなものが、全身を包み込む。 血管がドクンと波打ち、心臓が早鐘を打つ。

 

来る。変革の時が。

 

……。

 

…………。

 

……………………。

 

「…………何も起こらねえなあ」

 

兄様が、気の抜けた声で呟く。

 

「そうね。ただ深呼吸しただけにしか見えないわ」

 

姉さんが冷ややかな目で突っ込む。

 

そう。見た目には、何も変化がない。角が生えるわけでもない。体が巨大化するわけでもない。ビームが出るわけでもない。ただ、私が変なポーズで立っているだけだ。

 

「ふっふっふ」

 

不敵に笑う。動揺などしない。これは想定内だ。

 

「見た目は何も変わらないと?そうでしょうとも!私の術は、そんな派手で野暮ったいものではありません。内なる変革。質の転換なのです」

 

「……言い訳にしか聞こえないんだけど」

 

「実はこの術の真価は『外』にあり!この狭い部屋の中では、その全貌をお見せすることができないのです!さあ兄上、姉上!私についてきなさい!その目で、私の偉業を見さらせ!」

 

窓に駆け寄る。雨戸を蹴破る勢いで開け放つ。

 

「ちょっ、何するの!」

 

姉さんの静止を振り切り、私は外へ飛び出す。屋根の上へ。瓦を踏みしめ、夜風を全身に浴びる。

 

「……たく、しょうがねえなぁ」

 

兄様が続き、姉さんも渋々ついてくる。

 

三人で、京極屋の屋根の上に並ぶ。眼下には、煌びやかな吉原の町並み。頭上には、広大な夜空。

 

「……外に来たけど、なんなの?」

 

姉さんが不機嫌そうに言う。夜風で髪が乱れるのが嫌らしい。

 

「…………」

 

空を見上げる。そして、周囲を見渡す。

 

「…………」

 

沈黙。

 

夜空には、美しい満月がぽっかりと浮かんでいる。星々が瞬いている。涼しい夜風が、私の頬を撫でていく。風流だ。実に風流だ。

 

でも、それだけだ。

 

私の体は、何も反応しない。痛みもなければ、熱さもない。ただ、夜風が心地いいだけ。

 

あれ?おかしいな。私の計算では、ここで劇的な反応があるはずなんだけど。

 

「……風音?」

 

姉さんが怪訝そうに私を覗き込む。

 

ゆっくりと、姉さんの方を向く。そして、真顔で告げる。

 

「……夜でした」

 

「……は?」

 

「いや、あのですね。私の術は、太陽光を無効化する……つまり、お天道様の下でも平気で歩けるようになる革命的な術なんですよ。だから、その効果を実証しようと思って外に出たんですが」

 

月を指差す。

 

「今、夜なんですよね。太陽、出てないんですよ。だから、術が効いてるのか効いてないのか、証明しようがないといいますか。比較対象がないといいますか」

 

つまり。 ただの夜の散歩になってしまったわけだ。

 

「…………」

 

姉さんの顔から、表情が消える。兄様が、天を仰ぐ。

 

「……帰って寝るか」

 

兄様がボソリと呟く。

 

「(無言で殴る)」

 

ドゴォッ!!

 

姉さんの拳が、私の顔面にめり込む。屋根瓦が砕ける音と共に、私は京極屋の中庭へと真っ逆さまに落下していく。

 

「いったぁぁぁぁ!!」

 

「当たり前でしょうが!!夜だから外に出られるのよ!!馬鹿なの!?私の食糧庫を空にしておいて、見せたかったのが『夜の散歩』!?」

 

姉さんが屋根の上から怒鳴り散らす。ごもっともだ。完全に私のミスだ。天才も時には凡ミスをする。弘法も筆の誤り、風音も時間の誤りだ。

 

「違います!明日の朝まで待てば証明できるんです!ちょっと気が逸っただけなんです!」

 

中庭の植え込みの中から叫ぶ。

 

「もういい!朝までそこで頭冷やしてなさい!中に入れたげないから!」

 

ピシャリ。窓が閉められる音がする。

 

「ええっ!?閉め出し!?姉さん、酷い!鬼の仕打ち……あ、鬼だから正解か!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東の空が白み始める。それは、闇に生きる者たちにとっての撤収合図であり、恐怖のカウントダウンでもある。夜の帳が上がり、太陽という名の絶対的な捕食者が顔を覗かせる時間帯。普通の鬼ならば、一目散に日陰へ、地下へ、あるいは分厚い布団の中へと逃げ込む刻限だ。

 

 

「風音、雨戸を閉めなさい。朝が来るわよ。早くこっちに来なさい。死にたいの?灰になりたいの?」

 

姉さんの声は震えている。布団を頭から被り、ダンゴムシのように丸まりながら、必死に私を呼んでいる。可愛い。普段は吉原の頂点に君臨し、男たちを足蹴にする女王様が、お天道様一つでここまで怯えるなんて。この可憐な姿を守るためなら、私は何だってできる気がする。

 

だが、私は動かない。雨戸の前、あと一押しで外の世界と繋がる境界線の上に、仁王立ちしている。

 

「姉さん、準備はいいですか?ここからが本番です。私の、そして私たちの運命が変わる瞬間です」

 

高らかに宣言する。手には昨夜の饅頭……ではなく、今日は気合を入れるための扇子(手ぬぐいを畳んだもの)が握られている。

 

「……何言ってるの?昨日の夜、散々失敗したじゃない。『夜でした』なんて間抜けなオチ、二度は通用しないわよ。お願いだからやめて。私の心臓に悪いのよ」

 

姉さんは涙目で訴える。昨夜の予行演習(という名の勘違い)で、姉さんの信頼残高は目減りしているらしい。名誉挽回の好機だ。

 

「失敗ではありません。あれは確認作業です。そして今こそ、証明の時。見ていてください、姉さん。私が新しい歴史の扉を蹴破るところを!」

 

肺の奥底まで空気を満たす。意識を内側へ。ドクン、ドクンと脈打つ、鬼としての心臓へ。そこには、あの方――鬼舞辻無惨様から頂いた濃厚な血が流れている。暴力的で、支配的で、そして強力な力。それを、私の意思で包み込む。

 

「血鬼術!『封鬼化生(ふうきかしょう)』!!」

 

カチリ。

 

心臓の鼓動が一瞬、止まる。そして、リズムが変わる。ドクン、ドクン……という重く冷たい鬼の鼓動から。トクトク、トクトク……という、軽やかで、温かく、そしてどこか頼りない人間の鼓動へ。

 

鏡を見なくても分かる。私の瞳孔。 鬼になってから猫のように縦長になっていたそれが、今は丸く、愛らしい人間の形に戻っているはずだ。牙が引っ込み、爪が丸くなる感覚。体から力が抜け、代わりに心地よい倦怠感と、空腹感が押し寄せてくる。

 

成功だ。体感で分かる。今の私は、鬼ではない。

 

「さあ、見さらせ!」

 

雨戸の向こうにいる太陽に向かって。そして、この世界の理不尽な理に向かって。

 

ドンッ!!

 

右足を振り上げ、雨戸を蹴り飛ばす。昨夜のような怪力はない。足の裏が痛い。雨戸も吹き飛ぶのではなく、ガタガタと外れて倒れるだけだ。だが、それで十分。

 

雨戸が倒れる。障子が破れる。そこから、怒涛のように押し寄せてくるもの。

 

光。圧倒的な、朝日の奔流。東の空から差し込む黄金色の光線が、一直線に私を射抜く。

 

「ひっ!?風音!!燃え……!!」

 

姉さんの悲鳴が聞こえる。姉さんは布団を頭から被り、耳を塞いでいる。私が火だるまになり、断末魔の叫びを上げるのを予期して。

 

ジュッ……という音が、するはずだった。私の皮膚が焼け爛れ、骨まで炭化し、風に舞う灰となるはずだった。

 

だが。

 

「…………」

 

目を開ける。眩しい。涙が出るほど眩しい。思わず手で顔を覆う。その手の甲に、朝日が当たっている。

 

熱い。ジリジリと焼けるような感覚。でも、それは細胞が崩壊する死の熱さではない。 ただの、日差しの暖かさだ。ポカポカとする、生きている証の熱だ。お天道様が、「おはよう」と挨拶してくれている熱だ。

 

「……ふあぁ」

 

大きく伸びをする。背骨がポキポキと鳴る。新鮮な朝の空気が、肺を満たす。美味しい。 カビ臭い地下室の空気とは違う、太陽の匂いがする空気だ。

 

燃えない。崩れない。私はここに、五体満足で立っている。着物の裾が朝風に揺れている。

 

「姉さん、見てください。おはようございます。今日も日本晴れですよ」

 

振り返り、姉さんに声をかける。

 

「……え?」

 

姉さんが恐る恐る、布団の隙間から顔を出す。その目が、私を捉える。朝日の逆光の中に立つ、私の影を。くっきりとした、人間の影を。

 

「あんた……日の光の下に……いるの?」

 

姉さんの声が震えている。信じられないものを見る目だ。鬼の常識が、音を立てて崩れ去る瞬間だ。

 

「そうです!日光克服です!いえい!」

 

私はVサインを作る。満面の笑みで。

 

「ほら、見てくださいこの肌!焼けるどころか、健康的な血色を帯びています!お日様の恵みが染み渡ります!これで洗濯物も干し放題!買い食いし放題です!」

 

調子に乗って、その場でスキップを踏む。痛かった足の指も、喜びで麻痺しているようだ。

 

「……嘘でしょ……?なんで?なんで燃えないの?あんた、何をしたの?本当に……克服したの?」

 

姉さんは布団から這い出し、日陰ギリギリのところまで来て私を凝視する。その顔は蒼白だ。私の成功を喜ぶよりも、事の重大さに戦慄している。

 

そして。姉さんはゆっくりと天井を仰いだ。大きく息を吸い込む。

 

「無惨様ーーーー!!!!一大事ぃぃぃぃ!!!!こいつが!風音の馬鹿が!太陽の中にいまぁぁぁす!!!」

 

姉さんの絶叫は、早朝の静寂を切り裂き、京極屋の屋根を震わせ、おそらく遠く離れた異空間(無限城)にまで届いたことだろう。私は耳を塞ぎながら、「あちゃー」と舌を出す。まあ、報告は義務だから仕方ない。でも、もう少し静かに報告してほしかった。近所迷惑で通報されたらどうするのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の夜。 予想通りというか、予想以上の事態になった。

 

 

「……どこだ。その娘はどこだ」

 

低い声。地獄の底から這い上がってきたような、渇望と焦燥に満ちた声。

 

部屋の中央に、黒い影が渦巻く。そこから現れたのは、あの方。鬼の始祖、鬼舞辻無惨様だ。

 

普段の無惨様は、冷徹で、無表情で、常に余裕を漂わせている。感情を表に出すことなど滅多にない、完璧な支配者だ。だが、今夜は違う。目が血走っている。額に青筋が浮いている。髪が少し乱れている。かつてないほどの必死な形相だ。

 

「こ、こちらに……」

 

姉さんが震えながら、私を指し示す。姉さんは床にひれ伏し、ガタガタと震えている。 私を見る目は「もう知らない、あんたのせいよ」と訴えている。

 

正座して、無惨様を見上げる。久しぶりの再会だ。相変わらず顔色は悪いが、今日は頬に紅潮が見られる。興奮しているのだろうか。

 

「日光を克服しただと!」

 

無惨様が叫ぶ。唾が飛んでくる勢いだ。瞬間移動のように私の目の前に現れ、私の肩を掴む。痛い。爪が食い込む。

 

「堕姫、お前の視覚を通じて見たが……信じられん!有り得ん!私が千年探し求めていた悲願!あの青い彼岸花すら見つからぬというのに、まさかこんな……拾われて一年足らずの新造ごときが……!」

 

無惨様の手が震えている。感動で?それとも嫉妬で?両方かもしれない。

 

「詳しく話せ!どうやった? 何をした?貴様の体はどうなっている?今すぐ貴様を喰らい、その能力を吸収してやる!そうすれば私は……私は完全なる生物、究極の存在になれるのだ!」

 

無惨様の爪が伸びる。私の肉を引き裂き、取り込もうとする捕食者の目だ。普通なら恐怖で失神するところだろう。だが、私の脳内回路は少し、いやだいぶズレている。

 

「吸収?……ああ、私の知識欲のようなものですか?無惨様も勉強熱心ですね。いいでしょう、私の世紀の大発明、特別にご教授いたしましょう!」

 

「(興奮で聞いていない)さあ言え!どのような理だ!体質か?変異か?それとも偶然の産物か!」

 

無惨様は私の言葉など聞いていない。自分の世界に入っている。

 

「まあ良いです!聞いてください無惨様!私の血鬼術『封鬼化生』は!鬼としての心臓、および血液の特性を、一時的に心臓の核へ封じ込めるのです!」

 

自分の胸に手を当てる。今は鬼の鼓動に戻っているが、術を使えば変わる。

 

「それにより、肉体を『人間そのもの』へと変化させます!擬態ではありません。生物学的な構造を、一時的に『人』へと戻すのです!完全なる逆転の発想!鬼の力を捨てることで、鬼の弱点を克服するのです!」

 

「……は?」

 

無惨様の動きが止まる。眉間に、深い皺が刻まれる。理解が追いついていないのではない。理解したくないのだ。そのあまりにも単純で、あまりにも「後ろ向き」な解決策を。

 

沈黙。部屋の空気が、凍りついたように静まり返る。

 

やがて、無惨様が口を開く。その声からは、先ほどの熱狂が消え失せている。

 

「……人間になる、だと?」

 

「はい!人間になることで、当然ながら日光の下には行けます。人間は太陽に焼かれませんからね。これは自然の摂理です。そしてなんと!……ここからが重要です、無惨様!」

 

懐に手を入れる。ゴソゴソと探る。無惨様が怪訝な顔をするが、構わない。私が取り出したのは、油紙に包まれた、愛おしい黄金色の塊。

 

「加須底羅が食べられるんですーー!!」

 

バァーン!!

 

包みを開き、無惨様の目の前に突き出す。南蛮渡来の秘宝だ。今朝、朝市が開くと同時に商店街へダッシュし、焼きたてをゲットしてきた戦利品だ。

 

「見てください、このキメの細かさ!漂う卵と砂糖の甘い香り!昼間に買いに行き、その場で焼きたてを食べました!鬼の味覚では砂の味しかしないあの物体が!人間になった瞬間、黄金の味に変わるのです!」

 

熱弁を振るう。思い出すだけで涙が出そうだ。

 

「卵の甘み!生地の弾力!底に沈んだ粗目糖の食感!まさに極上の悦び!生きててよかった!人間になってよかった!これぞ人生の至福!」

 

「…………」

 

無惨様は無言だ。私の手の中にある加須底羅を見つめている。いや、見つめているというよりは、「なんだこの汚物は」という目で見ている。

 

「……では、力は?」

 

低い声だ。温度のない声だ。

 

「再生力はどうなる?鬼特有の怪力は?不老不死の特性は?」

 

「もちろんなくなります!」

 

何を当たり前のことを聞いているのだろう。

 

「人間ですから!指を切れば赤い血が出ますし、痛いですし、治るのに数日はかかります!高い所から落ちれば骨折しますし、首を斬られれば死にます!寿命も縮みます!弱いです!か弱い乙女そのものです!」

 

胸を張って言い切る。弱さこそが、この術の代償であり、証なのだ。

 

「…………」

 

無惨様の目が、すぅっと細められる。その瞳の奥にある光が、急速に冷えていく。興味の火が消え、代わりに軽蔑の氷が張り詰めていくのが分かる。

 

(……人間になる、だと?)

 

無惨様の心の声が、どす黒いオーラとなって漏れ出している。

 

(私が求めているのは『完全な生物』だ。太陽を克服し、かつ不老不死の強靭な肉体を持つことだ。全ての弱点を排除し、神にも等しい存在となることだ。それなのに……)

 

無惨様の視線が、私を射抜く。

 

(わざわざ脆弱で、いつ死ぬとも知れぬ人間に戻ってどうする。それではただの『退化』ではないか。進化の袋小路。出来損ないの変異。……期待して損をした)

 

無惨様のため息が聞こえるようだ。彼は、私の加須底羅から興味を失い、私自身からも関心を失いつつある。

 

「……貴様」

 

無惨様が吐き捨てるように言う。

 

「素晴らしき欠陥品だな」

 

「はい!画期的でしょう!」

 

褒め言葉として受け取る。欠陥こそが個性。前向きな解釈は私の得意技だ。

 

「……無駄ではない……が。私がなりたくはないな……」

 

「えっ?加須底羅ですよ?食べたくないですか?無惨様も、たまには甘いもので糖分補給して、その青白い顔色を良くされた方が……」

 

「黙れ」

 

短い一言。殺気が飛んでくる。私は口を噤む。お勧めしただけなのに。親切心が通じない上司だ。

 

無惨様は立ち上がる。帰るつもりだ。この報告会を切り上げて、もっと有意義なこと(他の鬼へのパワハラとか)をしに行くつもりだ。

 

だが。その足が、ふと止まる。

 

「……だが」

 

無惨様が振り返る。その紅い瞳が、怪しく光る。何かを閃いた顔だ。経営者の顔だ。使えない部下を、どうにかして使い潰す方法を思いついた時の顔だ。

 

「その術……隠密には使えるかもしれん」

 

「は?」

 

私が首をかしげると、後ろで姉さんがハッとしたように顔を上げる。

 

「はっ、確かに!仰る通りでございます!鬼狩り……鬼殺隊の連中は、鼻が利いたり、気配を読んだりする厄介な手合いが多いと聞きます。ですが、完全に人間になってしまえば……」

 

「そうだ」

 

無惨様が頷く。

 

「完全に人間の気配になりますので、鬼狩りの鼻も誤魔化せるかと。奴らは鬼の気配には敏感ですが、人間に対しては無警戒。そこを突けば……」

 

「内部に入り込み、情報を盗み出し、寝首を掻くことも容易い」

 

無惨様の口元が、ニヤリと歪む。邪悪な笑みだ。

 

「風音」

 

無惨様が私を見る。さっきまでのゴミを見る目ではなく、便利な道具を見る目に変わっている。

 

「貴様には特別に、その術の使用を許可する。本来なら、鬼としての誇りを捨てた恥ずべき行為として処刑するところだが……。その『弱さ』を武器にしろ」

 

「えっ、公認ですか!?」

 

「昼間は人間として情報を集め、夜は鬼として活動せよ。鬼狩りの動向、青い彼岸花の所在、その他有益な情報を持ち帰れ。それが貴様の存在意義だ」

 

間者。響きはカッコイイ。要するに、昼間も働けということだ。でも、昼間に堂々と外に出られるお墨付きをもらったのは大きい。これで毎日、日替わりで甘味処を巡れる。

 

「はい!承知いたしました!この風音、昼は町娘、夜は美しき鬼として、二重生活を華麗にこなしてみせます!」

 

深く頭を下げる。商談成立だ。

 

「……ただし」

 

無惨様の声が低くなる。釘を刺す声だ。

 

無惨様の手が伸びる。その指先が、私が大事に持っていた加須底羅に向かう。

 

デコピン。いや、そんな可愛いものではない。音速の指弾だ。

 

パァン!!

 

乾いた破裂音と共に、私の手の中にあった加須底羅が弾け飛ぶ。粉々になって。黄金色の破片となって。部屋の壁にシミを作る。

 

「あっ……」

 

私の時間が止まる。スローモーションで飛び散る加須底羅の残骸。私の……私の、一年もの(気分的に)が……。

 

「次に、くだらぬ理由で私を呼び出してみろ」

 

無惨様は、私の悲しみなど意に介さず、冷酷に告げる。

 

「『加須底羅が食べられる』などという戯言で、私の貴重な時間を奪うな。その時は、二度と菓子など食えぬ体にしてやる。口を縫い合わせ、胃袋を摘出し、管で栄養を流し込むだけの肉塊にな」

 

具体的な脅しだ。想像しただけで食欲が減退する(しないけど)。

 

「(加須底羅を目で追いながら)……はい。承知……いたしました……」

 

壁にへばりついた加須底羅の残骸を見つめながら、力なく返事をする。心は泣いている。無惨様の脅しよりも、目の前の食品ロスの方が重大事案だ。

 

「ああっ!私のが!!まだ一口しか食べてないのに!!ザラメの部分が!!」

 

無惨様は、そんな私の嘆きを一瞥し、呆れ果てたように鼻を鳴らす。

 

「……励め」

 

いつもの捨て台詞を残し、無惨様の姿が揺らぐ。霧のように。煙のように。その圧倒的な気配が、部屋から消え失せる。

 

後に残されたのは、虚脱状態の私と、寿命が延びてホッとしている姉さん。そして、壁にへばりついた加須底羅の無残な姿だけ。

 

無惨様は呆れて帰っていった。しかし、私は手に入れたのだ。太陽の下を歩く自由と、甘味を味わう舌を。これが後に、鬼殺隊にとって最大の脅威……というか、最大の攪乱要因となることを、まだ誰も知らない。

 

「姉さん、掃除手伝ってください。蟻が来ちゃいます」

 

「自分でやりなさいよ!」

 

吉原の夜は、今日も騒がしく更けていく。

 




最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、風音というキャラクターの核心とも言える
「鬼であることを否定する進化」 を描きました。

彼女の発想、行動、そして異常な才能は、
物語の世界を少しずつ揺さぶり始めています。

特に

日光克服

無惨様の評価の変化

昼の潜伏任務

このあたりは今後の展開で重要な要素になります。

もし読んで感じたこと、好きなシーン、
「ここ笑った」「ここ衝撃だった」などあれば、
ぜひ感想で教えてください。
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