鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら   作:斉宮 柴野

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今回の風音は、吉原の地下で講談を開いたり、無惨様に圧迫面接されたり、
そしてまさかの「身請け話」を持ちかけられたりと……大忙しです。

天才で大天災で、姉さんの頭痛の種である風音が、人生の分岐点に立ちます。

彼女が鬼としての使命と人として向けられた愛を前に、
初めて本気で迷う瞬間を書きました。

どうか少しだけ、風音の揺れる心を覗いてあげてください。


天災鬼のプレゼンと、想定外の求婚

京極屋の地下深くに広がる、秘密の空間。天井には無数の帯が張り巡らされ、まるで巨大な蜘蛛の巣のようになっている。その中心で、私は優雅に高座を開いている。

 

座布団?そんなありきたりなものは使わない。私の尻の下に敷かれているのは、姉さんの分身であり、私のマブダチでもある帯鬼さんだ。彼(?)は不服そうにモゴモゴと動いているけれど、私は構わずその上で胡座をかき、即席の扇子――手ぬぐいを畳んだもの――をパンパンと鳴らす。

 

「さあて、語り明かそうぞ我らが主人公!吉原の闇を切り裂く一筋の流星!その名は風音、またの名を松田颯!この吉原に舞い降りた天才、いやさ大天災とは私のことよ!!」

 

地下室の壁に向かって、私の美声が朗々と響き渡る。観客は、壁にへばりついた帯たちと、呆れ顔で腕を組んでいる姉さん――白露太夫こと堕姫姉さんだけだ。聴衆の少なさは気にならない。私の演説は、世界に向けて発信しているつもりだからだ(気持ちだけは)

 

「聞いて驚け、見て笑え!わずか一年にして血鬼術を会得した、この恐るべき才能!鬼の歴史を塗り替える、前代未聞の快挙!その名も『封鬼化生』鬼の力を封じ、一時人に戻り、太陽の下を闊歩し、鬼狩りの目を欺く秘術中の秘術!どうだ怖いか!凄いだろう!」

 

身を乗り出し、熱弁を振るう。帯鬼さんが「重い」と言わんばかりに身をよじるが、バランス感覚抜群の私は体幹で耐える。

 

「そして!その術を開発した高尚なる目的とは!世界征服?否!不老不死?否!全ては……あ~、愛しの黄金色!卵と砂糖の奇跡の融合!加須底羅(かすていら)を美味しくいただくためであります~!!」

 

「やめい!!」

 

ドスッ!!

 

鋭い破裂音が、地下室に木霊する。姉さんの帯だ。私の講談のオチに合わせて、鞭のようにしなった帯の先端が、正確無比に私の脳天を捉える。

 

「あべしっ!?」

 

視界が揺れる。重力が仕事放棄する。私は帯鬼さんの上から弾き飛ばされ、放物線を描いて地下室の壁へと激突する。

 

ズドーン!

 

土煙が舞う。背中に走る激痛。壁にめり込んだまま、私はズルズルと地面に滑り落ちる。

 

「あ痛っ!?……太夫、酷いじゃないですか!ぶつなんて!しかも今、結構本気で、殺す気で打ちましたね!?殺意の波動を感じましたよ!?」

 

頭を押さえながら抗議する。タンコブができている。鬼の再生力ですぐに治るとはいえ、痛いものは痛いのだ。

 

「当たり前よ!あんたが私の食糧庫を荒らすからでしょうが!」

 

姉さんが仁王立ちで怒鳴る。その背後で、数本の帯が怒りのあまり逆立っている。まるでメドゥーサだ。美しいけれど怖い。

 

「おかげであんたが妙に頑丈になって、軽く打っても効かないじゃない!私の大事な保存食を食い散らかした挙句、図太くなりやがって!可愛げがないのよ、可愛げが!」

 

「それは私が天才だからです~!摂取した栄養を効率よく筋肉と力に変換しているのです!無駄がない!見ていてください、この成長速度!すぐに『上弦』の席に座ってみせますから~!姉さんを追い抜いて、私が京極屋の主になる日も近いです!」

 

立ち上がり、土埃を払いながら宣言する。野心は隠さない。大言壮語は私の栄養素だ。

 

すると。姉さんの背後の闇が、ぬるりと動く。

 

湿った、不快な音。カマキリが獲物を狙う時のような、冷たい殺気。

 

「……へえ。じゃあ、俺にも勝つって言うんだよなあ!」

 

しわがれた声と共に、痩せこけた影が現れる。妓夫太郎兄様だ。手には、血に塗れた鎌が握られている。その瞳は、濁っているようでいて、獲物の急所を正確に見極める鋭さを持っている。部屋の温度が一気に氷点下まで下がる。

 

「ヒッ……」

 

私の生存本能が、けたたましく警報を鳴らす。勝てない。逆立ちしても、宙返りしても、加須底羅を百個食べても、この人には勝てない。格が違う。修羅場の数が違う。

 

即座に、目にも留まらぬ速さで地面に頭を擦り付ける。美しい土下座。額が床にめり込む勢いだ。

 

「いえいえ!滅相もございません!冗談です!言葉のアヤです!お兄様には逆立ちしても勝てません~!私はただの生意気な新入り!姉さんと兄様の靴舐め係です!一生ついていきます兄貴ぃ!」

 

「……切り替えの早えヤツだな」

 

兄様が呆れたように鼻を鳴らす。殺気が霧散する。助かった。私の危機回避能力は、今日も絶好調だ。

 

「ケケッ。まあ、威勢がいいのは嫌いじゃねえがな。あんまり堕姫を困らせるんじゃねえぞ。俺の可愛い妹なんだからよぉ」

 

兄様はガリガリと首を掻きながら、姉さんの隣に並ぶ。二人並ぶと、絵になる。美と醜、光と闇のコントラスト。最強の兄妹だ。

 

「分かってますよ兄様。私も姉さんが大好きですから。困らせてるんじゃなくて、愛の鞭を受け止めてるだけです」

 

「……ドMかお前は」

 

姉さんが冷ややかな目で突っ込む。Mではない。ただ、打たれ強いだけだ。

 

 

 

 

 

騒動が一段落し、私たちは車座になって座る(帯鬼さんは座布団代わりのままだ)。話題は、今後の生活費……もとい、食費の問題に移る。

 

「……で、あんた」

 

姉さんが腕を組み、真剣な表情で切り出す。

 

「人間に戻れるなら、もう人間を食べなくても良いんじゃないの?日光の下に行けるってことは、普通の食事……米とか魚とかで栄養が摂れるんでしょ?だったら、私の食糧庫から人間をくすねるのは禁止よ。食費が浮いて助かるんだけど」

 

姉さんの言い分はもっともだ。人間になれば、人間の食べ物が美味しくなる。加須底羅も美味い。白米も美味い。だったら、わざわざ危険を冒して人間を襲う必要はないはずだ。

 

だが。首を激しく横に振る。

 

「それは駄目です!死活問題です!私の生命維持に関わる重大な危機なんです!」

 

「なんでよ。加須底羅食べてればいいじゃない」

 

「加須底羅は心の栄養です!体の燃料にはなりません!」

 

人差し指を立てて解説する。ここが私の術の、最大の落とし穴であり、最大のコストなのだ。

 

「いいですか姉さん、よく聞いてください。術を使って、鬼の細胞を無理やり『人間』の枠に押し込める。これには、凄まじい力を消費するのです。例えるなら、暴れる猛獣を小さな檻に閉じ込め続けているようなものです。常に力を使い続けていないと、檻が壊れてしまうのです」

 

「……ふんふん」

 

「つまり、燃費が最悪なんです!力が尽きれば術が解け、私は元の鬼に戻ってしまいます。もしそれが、真っ昼間の商店街のど真ん中だったらどうなります?」

 

両手を広げ、悲劇的な結末を演じて見せる。

 

「術が解けた瞬間、太陽の光を浴びて、私はジュッ!灰になってサヨウナラです!儚い! あまりにも儚い最期!」

 

「……なるほどね。人間に戻っている間こそ、一番エネルギーを使うわけか」

 

兄様が納得したように頷く。さすが兄様、理解が早い。

 

「その通りです!つまり、人間を食べないと血鬼術の精度が落ち、持続時間が短くなり、私は死にます!私の命を繋ぐには、食事……つまり人間の肉と血が不可欠なのです!そして私は大天才!これからの鬼界を背負って立つ逸材!そんな私を、エネルギー切れで死なせるには惜しいでしょう!?」

 

姉さんに詰め寄る。上目遣いで訴える。もっと餌をください、と。

 

「……大天災(災い)の間違いであろう」

 

頭上から。冷徹な、絶対零度の声が降ってくる。

 

心臓が跳ねる。空気が凍りつく。地下室の湿気が、一瞬にして重圧へと変わる。

 

いつの間にか。本当に、音もなく、気配もなく。私たちが座っている場所の少し奥、一段高くなっている場所に、あの方が座っていた。

 

黒い着物に、黒い羽織。青白い肌に、紅い瞳。鬼の始祖、鬼舞辻無惨様だ。

 

「!!」

 

私、姉さん、兄様。三人同時に、弾かれたように平伏する。条件反射だ。パブロフの犬ならぬ、無惨様の鬼だ。

 

「おや、無惨様。ご機嫌麗しく」

 

床に額をつけたまま、精一杯の愛想笑いを浮かべて挨拶する。顔は見えないけれど、声のトーンだけは明るく保つ。媚びるのではない。処世術だ。

 

「……貴様の思考は騒がしい」

 

無惨様の声には、隠しきれない苛立ちが含まれている。どうやら私の心の声(主に自画自賛)が、筒抜けだったらしい。

 

「天才だの、逸材だの。己を高く見積もるのも大概にせよ。聞いていて反吐が出る」

 

「申し訳ございません!自己肯定感が高いのが私の長所であり短所でして!」

 

「黙れ」

 

短い一言で、私の口は物理的に閉ざされる。見えない力で唇が接着されたかのようだ。

 

「……だが」

 

無惨様は、意外にも話を続ける。

 

「十二鬼月という序列を知ったからには、その向上心は評価してやろう」

 

「!」

 

私の耳がピクリと動く。十二鬼月。選ばれし十二体の最強の鬼たち。上弦と下弦に分かれ、無惨様の直属として力を振るうエリート集団。姉さんと兄様は、その「上弦の陸」に座している。私の目標地点だ。

 

「(ため息)……あんたは……本当に……」

 

姉さんが横で、消え入りそうな声で呟く。

 

「いや、顔は可愛いのだけど……中身が……。無惨様、申し訳ございません。こいつは口が減らないだけで、悪気はないのです。ただの馬鹿なのです」

 

「向上心があることは良いことだが……」

 

無惨様は姉さんの謝罪を無視し、私を見下ろす。その視線は、私の体の奥底、魂の構造まで見透かすようだ。

 

「貴様は具体的に、どうやって私の役に立つ気だ?ただ飯をぐらい、菓子を食うだけの穀潰しなら、今すぐ始末するが」

 

殺気。本気の殺気だ。冗談ではない。無惨様にとって、役に立たない部下はゴミ以下だ。即座に処分対象となる。

 

背筋に冷たい汗が流れるのを感じる。試されている。これは採用面接だ。圧迫面接なんてレベルではない。生死をかけたプレゼンテーションだ。

 

口の接着が解ける。無惨様の目を見る。紅い瞳が、私を射抜いている。

 

逃げちゃダメだ。ここで怯んだら、ただの餌に戻るだけだ。私は天才。私は風音。無惨様の血にも、太陽にも勝った女だ。

 

「ご説明いたします、無惨様!」

 

声を張り上げる。

 

「私はただの穀潰しではありません!ハイブリッドな穀潰しです!」

 

「……は?」

 

無惨様の眉がピクリと動く。

 

「私の術『封鬼化生』により、私は昼と夜、二つの顔を持つことができます。これは単にスパイ活動ができるというだけではありません。人間社会の深部、権力の中枢にまで入り込めるということです!」

 

「吉原は、情報の交差点です。商人、武士、役人、職人。様々な男たちが集まり、酒を飲み、女を抱き、そして口を滑らせます。ですが、彼らが本当に重要な密談をするのは、遊郭の座敷だけではありません。昼間の茶屋、役所、屋敷の奥……鬼が入っていけない場所でこそ、真の機密が語られるのです!」

 

「……ほう」

 

無惨様の目に、わずかな興味の色が宿る。

 

「私はそこに踏み込めます。加須底羅を差し入れに持っていけば、大抵の門番は通してくれます!そして、私のこの愛嬌と話術!相手の懐に入り込み、情報を引き出すことにかけては、誰にも負けません!」

 

胸を張る。胸の大きさは姉さんには負けるが、度胸なら負けない。

 

「……なるほど」

 

無惨様が、ゆっくりと頷く。

 

「悪くない着眼点だ。力押しの馬鹿どもが多い中、搦め手を使える手駒は貴重だからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

無惨様は、じっと私を見つめている。その視線は、もはや道具を見る目ではない。理解不能な、しかし有益な「異物」を見る目だ。

 

(……これで頭が良いのが不可解だ)

 

無惨様の心の声が、空気の振動として伝わってくるようだ。

 

(普段の奇行は演技か?いや、あれが素だ。あの加須底羅への執着、姉への異常な愛着、あれは演技でできるものではない。素で狂っている。狂っているが、理路整然としている。私の前に平伏しながら、心拍数一つ変えずに謀略を語るこの胆力。……益にはなる)

 

無惨様の口元が、わずかに歪む。それは、笑みだった。人間が見れば凍りつくような、邪悪で美しい笑み。

 

「……良いだろう」

 

無惨様が頷く。採用通知だ。

 

「貴様の提案、採用してやる。その二面性、存分に活かすがいい」

 

「ははっ。恐悦至極に存じます」

 

私は深く頭を下げる。

 

「ならば、最初の指令を与える」

 

無惨様の声が、一段と低くなる。ここからが本題だ。このお方が、千年もの間追い求めているという、幻の何か。

 

「『青い彼岸花(ひがんばな)』の情報を探せ」

 

「青い……彼岸花、でございますか」

 

私は復唱する。彼岸花。曼珠沙華。普通は赤だ。不吉な花として忌み嫌われることもあるが、その毒々しい美しさは吉原にも似合う。だが、青?聞いたことがない。植物学的にも、自然界に存在する青い色素を持つ彼岸花など、極めて稀……いや、存在しないはずだ。

 

「そうだ」

 

無惨様は立ち上がる。その背中から、黒いオーラが立ち昇る。

 

「私の悲願だ。薬学、本草学に精通した人間を当たれ。文献、伝承、あるいは栽培の記録。どんな些細な情報でも良い。『見た』という噂だけでも構わん。見つけ出せば、褒美をとらせる。貴様の望むだけの血をくれてやろう」

 

「……御意」

 

褒美をくれるなら、吉原の権利書か、一生分の高級菓子がいい。だが、そんなことを口に出せば首が飛ぶので、今は黙っておく。

 

「青い彼岸花……。承知いたしました。私の馴染み客の中に、まさにうってつけの人物がおります。本草学の大家にして、堅物の役人。彼ならば、あるいは何かを知っているやもしれません」

 

「……期待しているぞ」

 

無惨様は、それだけ言い残して背を向ける。用は済んだ。これ以上の長居は無用ということだ。

 

緊張の糸が、プツリと切れる。 私の「仕事モード」のスイッチが、カチリとオフになる音がする。

 

「……というわけで!」

 

ガバッと顔を上げる。先ほどまでの冷徹な表情はどこへやら、いつもの能天気な笑顔が炸裂する。

 

「無惨様公認のスパイ活動!国家公認の二重スパイみたいでカッコイイですね!よーし、色々頑張ろうと思います!まずは経費で新しい着物と、手土産のお菓子を買わなくちゃ!  いえい!」

 

座ったまま、両手でピースサインを作って掲げる。

 

「…………」

 

去り際の無惨様の足が、ピタリと止まる。背中から、殺気とも呆れともつかない重圧が放たれる。

 

(最後で台無しだ)

 

無惨様の心の声が、明確に聞こえた。姉さんが「あちゃー」と顔を覆うのが見える。

 

「あ、無惨様!帰りに美味しいお団子屋さんありますよ!お土産にどうですか?あ、いらない?そうですか……」

 

無惨様は振り返らない。逃げるように、いや、関わるのを拒絶するように、霧となって消え失せる。

 

後に残されたのは、やり遂げた達成感に浸る私と、寿命が縮んで白髪が増えそうな姉さん。 そして、カビ臭い地下室の静寂だけだった。

 

「……ふう」

 

大きく息を吐き、帯鬼さんの上にゴロリと寝転がる。

 

「完璧でしたね、姉さん。私の知的な一面と、愛らしい一面のハイブリッド攻撃。無惨様もメロメロだったに違いありません」

 

「……あんたの『メロメロ』の定義、辞書で引き直した方がいいわよ」

 

姉さんは深いため息をつき、私の頭を軽く小突く。

 

「でも、まあ……よくやったわ。青い彼岸花なんて、雲を掴むような話だけど……。  あんたなら、何か見つけてきそうな気がする」

 

「任せてください。私の嗅覚は、美味しいものと金目のもの、そして面白いネタには敏感なんです。きっと見つけ出してみせますよ。……たとえそれが、地獄の底に咲いていたとしてもね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後の夜。

 

 

私は今、上座敷と呼ばれる高級な部屋にいる。まだ新造の身でありながら、姉さんの威光と、私自身の天賦の才(愛想と口の上手さ)によって、特例で客を取らせてもらっているのだ。世間では私のことを「風音太夫」などと呼ぶ者もいるらしい。太夫というのは最高位の遊女の称号だが、まあ、未来の私を先取りした呼び名だと思えば、満更でもない。

 

「お客様~、今夜はこちらです!お待たせいたしました、吉原の至宝、風音でございます!」

 

襖を開け、満面の笑みで座敷に滑り込む。そこに座っているのは、一人の男性だ。他の客のように、酒を浴びるように飲んで騒いだり、遊女の体をいやらしく眺めたりはしない。 静かに、出された茶を啜りながら、床の間の掛け軸を眺めている。

 

葛城様。年齢は四十代半ば。派手さはないが、仕立ての良い着物を着こなし、穏やかで知的な風貌をした男性だ。大名屋敷の筆頭役人にして、本草学……つまり薬学や植物学の大家でもある。

 

「あら!葛城様、また来てくださったのですね!嬉しいです~!てっきり、新しい薬草の研究でお忙しいのかと思っておりましたわ」

 

彼の隣に座り、慣れた手つきで酒を注ぐ。葛城様は、私を見てふわりと微笑む。その笑顔は、春の日差しのように温厚で、この薄暗い欲望の街には似つかわしくないほど清廉だ。

 

「いやあ、風音太夫。君の顔を見ないと、どうも書物の文字が頭に入ってこなくてね。  根が詰まると、つい君の声を聴きたくなって足が向いてしまうんだ」

 

「まあ、お上手ですこと。学者様というのは、言葉選びも詩的で素敵ですわ。どこぞの成金旦那衆に、爪の垢でも煎じて飲ませたいくらい」

 

この人との会話は、実に心地よい。私の知性を隠さなくても良いからだ。普通の客なら「難しい話は分からないわ~」と馬鹿なふりをしなければならないが、葛城様は私の博識さを面白がってくれる。以前、彼が持ってきた珍しい薬草図鑑の間違いを指摘した時も、怒るどころか「君は本当に聡明だ」と目を輝かせて喜んでくれた。変わった人だ。そして、良い人だ。

 

「それで、今日はどのようなお話を?また珍しい毒草の話ですか?それとも、御屋敷での面白い噂話でも?」

 

身を乗り出す。情報収集。あの方……無惨様からの指令である「青い彼岸花」の手がかりを探るためにも、彼との会話は重要だ。彼ほど本草学に精通している人物は、そうそういない。

 

しかし。今夜の葛城様は、少し様子が違う。いつもなら目を輝かせて植物の話をするのに、今日は茶碗を見つめたまま、言い淀んでいる。その横顔には、深い思案と、ある種の決意が滲んでいるように見える。

 

「……実はね。今日は折り入って相談があるんだ」

 

葛城様が、意を決したように顔を上げる。その瞳は真剣そのものだ。

 

「相談?私で良ければ何なりと。お金の相談以外なら、どんな難問でも一緒に悩みますよ?」

 

軽く冗談めかして答える。だが、葛城様は笑わない。彼は静かに、私の手を取る。その手は大きく、温かく、そして少し震えている。

 

「風音」

 

私の源氏名を呼ぶ声が、熱を帯びる。

 

「……身請けをさせてくれないか」

 

「……え?」

 

時が止まる。思考回路が一瞬、ショートする。身請け。それは、遊女にとっての「上がり」であり、遊郭からの解放を意味する言葉だ。客が大金を支払い、遊女の借金を肩代わりし、妻や妾として引き取る制度。

 

「君を妻として迎えたい。妾ではない。正妻としてだ」

 

葛城様は、私の目を真っ直ぐに見つめて続ける。

 

「私は本草学の研究で、幕府からそれなりの禄を貰っている。大金持ちというわけではないし、贅沢はさせられないかもしれない。だが、こんな檻の中から君を救い出し、静かに暮らせるだけの蓄えはある」

 

彼の言葉に、嘘はない。真っ直ぐすぎるほどの誠実さが、言葉の一つ一つに込められている。

 

「君のような女性が、こんな場所で……酒と色の世界で、心をすり減らしているのが見ていられないんだ。君は賢い。もっと広い世界で、日の当たる場所で、その知性を活かして生きるべきだ」

 

「……」

 

言葉を失う。想定外だ。私の計算では、彼は「良き常連客」であり、「情報源」であり、「たまに美味しいお菓子をくれるおじ様」という位置付けだった。まさか、ここまで深く想われていたとは。私の演技(猫を被った姿)に惚れたのか、それとも時折見せる素の部分(生意気な知性)に惹かれたのか。

 

「身請け……ですか。あまりにも突然のことですから……。私、まだ新造ですし、姉さん……太夫への恩義もありますし……」

 

視線を泳がせる。動揺している。この私が、口達者な風音が、言葉に詰まっている。

 

「急がなくていい。すぐに返事が欲しいわけではないんだ。だが、君のような聡明な女性が、ここで徒花と散るのは忍びないのだ。どうか、考えてみてくれないか」

 

葛城様は、私の手を優しく包み込む。その温もりが、私の冷たい肌(鬼だから体温が低い)に伝わってくる。

 

「……はい。ありがとうございます、葛城様。真剣に、考えさせていただきます」

 

深々と頭を下げる。これは演技ではない。彼の一世一代の告白に対する、精一杯の敬意だ。

 

葛城様は安堵したように微笑み、それから「これを」と言って、懐から小さな包みを取り出す。いつもの手土産だ。その気遣いが、今は胸に痛いほど染みる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深夜。客たちが帰り、京極屋が静寂に包まれる刻限。私は自分の部屋……ではなく、姉さんの部屋の隅で、一人膝を抱えている。

 

行燈の明かりが、私の影を壁に映し出している。揺れる炎を見つめながら、私は先ほどの出来事を反芻する。

 

(相手は葛城様。大名付きの役人で、本草学の大家……)

 

冷静な分析を試みる。感情を排除し、損得勘定だけで状況を整理してみる。

 

(無惨様の探している『青い彼岸花』。その手がかりを得るには、これ以上ない、あつらえ向きの相手だわ。彼自身の知識はもちろん、彼が持つ書物、人脈、そして出入りする大名屋敷の宝物庫。全てに手が届くようになる)

 

身請けされれば、私は彼の妻となる。彼の書斎に入り浸り、膨大な蔵書を読み漁ることができる。昼間も堂々と、奥方として調査ができる。私の血鬼術『封鬼化生』を使えば、人間として暮らすことに支障はない。鬼としての任務を遂行するなら、受けるのが正解だ。 最適解だ。これ以上の近道はない。

 

無惨様に報告すれば、「でかした」と褒められるかもしれない。いや、褒められなくても、「使えない」と殺されることはないだろう。私の出世コースは確定だ。

 

(……でも)

 

膝に顔を埋める。理屈では分かっている。完璧な作戦だ。なのに、心が鉛のように重い。

 

隣の部屋……というか、襖一枚隔てた向こう側から、規則正しい寝息が聞こえてくる。 時折、「むにゃむにゃ……加須底羅は渡さないわよ……」とか、「殺すわよ……」とかいう物騒な寝言が混じる。姉さんだ。私の愛する飼い主、堕姫姉さんだ。

 

(ここを出るということは、太夫と離れ離れになるということ)

 

その事実が、鋭い棘のように胸に刺さる。

 

姉さんと、お兄様と過ごす日々。私がボケて、姉さんが怒り、兄様が呆れる。地下室で人間を踊り食いしたり、屋根の上で月を眺めたり、無惨様に怒られて二人で震えたり。あの騒がしくて、血生臭くて、でも底抜けに楽しい毎日。それらとお別れ?

 

(……寂しいな)

 

ポツリと、心の声が漏れる。私は鬼だ。家族なんていない。情なんて捨てたはずだ。でも、あの一年。私が鬼として生まれ変わってからの時間は、人間だった頃のどの時間よりも濃密で、鮮やかだった。姉さんは私の保護者で、師匠で、共犯者だ。彼女なしの生活なんて、想像できない。

 

それに。

 

(もし私が我慢できなくなって、葛城様を食べてしまったら?)

 

もう一つの懸念。それは、私自身の本能だ。

 

葛城様は良い人だ。優しくて、知的で、私を大切にしてくれる。そんな人を、私は「美味しそう」だと思ってしまう瞬間がある。ふとした拍子に見える首筋。脈打つ血管。そこから漂う生命の香り。

 

今は姉さんが食事(人間)を管理してくれているから、理性を保てている。でも、屋敷で二人きりになったら?もし、術が解けて鬼に戻ってしまったら?あるいは、空腹に耐えきれず、目の前の「ご馳走」に牙を立ててしまったら?

 

(あんなに良い人を、私が噛み砕く?……それは、あんまりだわ)

 

人を食べるのは平気だ。むしろ楽しい。でも、自分に愛を向けてくれる人を食べるのは……さすがに「美学」に反する。食後の後味が悪そうだ。

 

「……どうしよう?私にしては珍しく、迷う」

 

 




最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、風音の物語にとって大きな転機となる
「身請け」という選択肢を置いてみました。

葛城様の誠実さ、姉さんとの絆、鬼としての本能、
そして無惨様の冷たい期待。

どれを取っても間違いではなく、どれを捨てても傷が残る。
そんな綺麗ではない選択こそが、風音の魅力だと思っています。

「葛城様どう思った?」
「風音の迷いは伝わった?」
「姉さんとの関係はどうなる?」

などなど、感想をいただけると本当に励みになります。
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