鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら   作:斉宮 柴野

9 / 40
風音がついに京極屋を出ます。

姉さんとの別れ、無惨様との脳内通話、身請けの決意……
そして葛城様との初夜。

今回は、
ギャグ・狂気・恋愛・切なさ
を全部ひとつの話に詰め込みました。

風音というキャラクターの幅と危うさを、
いちばん感じていただける回だと思います。

どうぞ、京極屋に別れを告げる風音の姿をお楽しみください。


嫁入り前の食い溜め、そして初夜の猛攻

荷造りというのは、どうしてこうも心が湿気る作業なのだろうか。

 

京極屋の一室。 私の私室……ではなく、私が勝手に占拠している姉さん(白露太夫こと堕姫)の部屋の隅には、風呂敷に包まれた荷物が一つ、ぽつんと置かれている。

 

中身は大したものではない。着物が数枚、お気に入りの簪、くすねてきた小銭、そして非常食としての乾物(人間用)が少々。物理的な重さは知れている。けれど、私の心にのしかかる重石は、漬物石百個分にも匹敵する。

 

「……はあ」

 

深いため息をつく。部屋の空気まで重くなりそうだ。

 

「さて、身請けの話を頂く我らが風音……。吉原という泥沼から抜け出し、玉の輿に乗って屋敷へ。本来なら万歳三唱、赤飯を炊いて祝うところですが……」

 

独り言のように呟く。 いつもの扇子も、今日は手の中で頼りなく丸められたままだ。

 

「太夫のおっぱいから離れるのは寂しい……。あの弾力、あの温もり、あの香り。私の精神安定剤であり、至高の枕であり、明日への活力。あれ無しの生活なんて、味噌のない味噌汁、餡のない饅頭と同じです。さて、どうしよう……」

 

膝を抱える。切実だ。食欲と性欲と睡眠欲、その全てを満たしてくれる聖域を失う恐怖。

 

「あんたの講談もどき、随分と切れがないのね」

 

鏡台の前で、姉さんが呆れたようにこちらを見る。その手には紅筆が握られているが、化粧の手を止めて私を見ているあたり、やっぱり寂しいに違いない。素直じゃないんだから。

 

「相手は本草学の大家なんでしょ?葛城とかいう役人。無惨様の言いつけも守れるじゃない。『青い彼岸花』の情報、そこでなら手に入るかもしれないわよ」

 

姉さんは努めて冷静に言う。正論だ。任務のため、そして私自身の出世のためには、この縁談は千載一遇の好機だ。

 

「ええ、頭では分かっています。理性では、これ以上ない最適解だと理解しています。  ですが……心残りが」

 

「何よ。まだ加須底羅のこと根に持ってるの?」

 

「いいえ。食べ物の恨みは海より深いですが、それはまた別件です。私としては……まだ、一つだけ達成していない野望がありまして」

 

顔を上げる。真剣な眼差しで、姉さんを見つめる。

 

「太夫の『秘所』を舐めさせてもらっていないので……」

 

「…………」

 

姉さんの動きが止まる。時が止まる。部屋の空気が、一瞬にして真空状態になる。

 

ドガッ!!

 

「……何!!変態!?」

 

次の瞬間、私の体は宙を舞っていた。姉さんの美しい足が、着物の裾を翻して私の側頭部を捉えたのだ。見事な回し蹴りだ。

 

部屋の壁に激突し、飾り棚の花瓶と一緒に床に転がる。

 

「痛っ!なぜですか、純愛です!姉さんの全てを知りたいという、純粋な探究心です!」

 

頭を押さえながら抗議する。タンコブができている。鬼の再生力ですぐに治るけれど、心の傷は治らない。

 

「どこが純愛よ!ただの欲情でしょうが!出ていく間際に何を言い出すかと思えば……汚らわしい!」

 

姉さんは顔を真っ赤にして怒っている。恥じらう姿もまた一興。

 

「大丈夫ですよ?安心してください。最近は地下の食糧庫で、ご飯(捕食)の女の子を使って、舌使いの稽古をしてますから!どうせ食べるなら、美味しくいただこうと思って。恐怖を快楽に変える魔術師、それが私です。相当上手いはずです。あの子たちも泣いて喜んでましたし!」

 

自信満々に胸を張る。食事前の儀式として、獲物を愛撫する。そうすることで肉質が柔らかくなり、血行が良くなって味が増すのだ(当社比)

 

「……多分、怖くて泣いていただけだと思うわ。喜んでるんじゃないのよ。捕食者に全身を舐め回されるなんて、地獄の恐怖以外の何物でもないわ」

 

姉さんは心底引いている。汚物を見る目だ。

 

「分からない人だなあ。技術の向上は職人の誉れですよ?どんな道でも極めれば芸術になるんです」

 

「道を踏み外してるのよ!さっさと荷物まとめて出ていきなさい!これ以上ここにいたら、私が精神的に参ってしまうわ!」

 

姉さんは私を追い払うように手を振る。ツレないなあ。でもまあ、これ以上からかうと本気で帯に切断されそうなので、自重しておこう。

 

立ち上がり、着物の埃を払う。ふと、真顔になる。

 

「……まあ、太夫の下半身事情は今度、夜這いにて確認するとして」

 

「二度と来るな!」

 

姉さんの怒号を背中に受け流し、私は意識を切り替える。これから向かうのは敵地……ではないが、未知の領域だ。そして、その前に一つ、済ませておかなければならない重要な業務がある。

 

虚空を見つめる。瞳孔を開き、意識を内側へ、血の奥底へと潜らせる。

 

「とりあえず無惨様にご報告だ。……ツーツー、もしもし?無惨様?聞こえますかー?こちら風音ですー」

 

私の脳内に、見えない糸電話を繋げる感覚。本来なら、あの方からの一方的な通信しか許されない聖域。だが、天才である私にかかれば、回線の逆流など朝飯前だ。

 

【脳内空間】

 

ジジッ……というノイズのような感覚のあと、圧倒的な気配が脳髄に響く。

 

『…………貴様』

 

不快そうな、そして困惑を含んだ低い声。鬼の始祖、鬼舞辻無惨様の声だ。

 

『お前の方から繋げられるようにした覚えはないが……何の真似だ』

 

驚いている。無理もない。普通の鬼なら、無惨様の声を聴くだけで平伏し、自分から呼びかけるなどという不敬は思いつきもしないだろう。

 

「え?そんなもの、一度『念話』を飛ばしてもらえたら、回線の道筋も覚えますよぉ。来た道を戻るだけです。糸電話みたいなものでしょう?糸が繋がっていれば、こちらからも声は届く。物理の法則です」

 

あっけらかんと答える。脳内での会話なので、口は動かしていない。傍から見れば、虚空を見つめてニヤニヤしている危ない女だ。

 

『(……無意味に優秀な奴め)』

 

無惨様の心の声が漏れてくる。

 

『(私の支配領域を逆探知したというのか。数百年生きている上弦どもですら、そんな芸当はできぬというのに。……やはり、こいつの脳の構造は異常だ。危険だが……使い道はある)』

 

無惨様、褒めてるのか貶してるのか分かりませんが、評価されているようで光栄です。

 

『……で、何だ』

 

無惨様の声に、諦めのような色が混じる。

 

『まさか、また加須底羅の話ではあるまいな。もしそうなら、貴様の脳を遠隔操作で破壊するが』

 

「滅相もございません!お言いつけ通り、本草学の大家に身請けされることになりましたので、ご報告を。進捗状況の共有です」

 

報告する。葛城様のこと。身請けの話が出たこと。そして、これから屋敷へ向かうこと。

 

『……まだ何も分かっていないのに、報告のためだけに私の時間を無駄にしたのか?』

 

無惨様の不機嫌ゲージが上がるのが分かる。結果主義者の悪い癖だ。

 

「いえいえ!分かるための『前提条件』が整いましたので、行動の許可を頂きたいのです!勝手な行動をして『誰が許可した』と怒られるのは嫌ですからね。報・連・相は組織の基本!報告、連絡、相談です!無惨様も、もっと部下との風通しを良くした方が、組織運営が円滑になりますよ?」

 

『……………………』

 

沈黙。絶対的な沈黙。遠く離れた異空間で、無惨様がこめかみを押さえている姿が目に浮かぶようだ。

 

『(こいつと話すと頭痛がする)』

 

『(なぜ私は、こんな新造ごときに説教されているのだ。だが、言っていることは正論だ。独断専行する馬鹿よりは、逐一報告する馬鹿の方がマシか……?)』

 

無惨様の葛藤が伝わってくる。

 

『……私の命令だ。遂行しろ』

 

無惨様は、疲れたように告げる。

 

『その男の屋敷に入り込み、全てを探れ。青い彼岸花の手がかり。あるいは、それに類する情報。何一つ見逃すな』

 

声に圧力が戻る。支配者の威圧感だ。

 

『吉報が無ければ、嫁ぎ先ごと焼き払うぞ。貴様もろともな』

 

「承知しました!焼き払われる前に成果を出します!私の新婚生活がかかってますからね、必死さが違いますよ!」

 

元気よく答える。

 

『……切れ』

 

プツン。唐突に回線が切断される。一方的だ。もう少し雑談したかったのに。

 

「……ふう」

 

現実世界に意識を戻す。大きく息を吐く。脳みそを直接揉まれたような疲労感がある。 やっぱり、無惨様との会話はカロリーを使う。あとで葛城様に、高い羊羹でも買ってもらおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「許可は出たのね」

 

姉さんが、ため息交じりに確認してくる。

 

「はい!バッチリです!無惨様も、私の提案に膝を打って喜んでおられました!『でかした風音!お前こそ鬼の鑑だ!』と、心の中で絶賛していたに違いありません!」

 

「……絶対に言ってないわね。あの方の、あの嫌そうな気配だけで分かるわ。まあ、殺されなかっただけ儲けものだけど」

 

姉さんはやれやれと首を振る。そして、真剣な眼差しで私を見据える。

 

「……で、風音。いいこと?外に出るのは許可されたけど、調子に乗るんじゃないわよ。 特に食事」

 

「食事?」

 

「そうよ。外ではあんまり人間を食べるんじゃないわよ。大名屋敷の近くなら警備も厳しいし、何より騒ぎになれば『鬼狩り』が嗅ぎつけてくるわ」

 

鬼狩り。またその単語だ。無惨様も口にしていたし、姉さんも度々口にする。私たちの天敵。闇に潜む鬼を狩る、正義の味方気取りの連中。

 

「え?大丈夫ですよ」

 

手をひらひらと振る。心配性だなあ、姉さんは。

 

「私の血鬼術『封鬼化生』があれば、完全に人間に戻れます。人間になれば、普通のご飯も美味しく食べられますし、人間のふりをして買い食いもできます。怪しまれる要素なんて一つもありません」

 

胸を張る。完璧な偽装工作。スパイ活動において、これ以上の能力はないはずだ。

 

「それにですね、姉さん。その『鬼狩り』って、本当にいるんですか?私、鬼になって一年経ちますけど、見たことないですし。実は姉さんが私を怖がらせるために作った、作り話なんじゃないですか?悪い鬼が来るとナマハゲが来るぞー、みたいな」

 

「いるわよ!実在するの!」

 

姉さんが声を荒らげる。

 

「『きさつたい』ってのが!組織だって動いてるの!中には『柱』っていう凄腕もいるんだから!あいつら、本当にしつこいんだから!」

 

「……きさつたい?」

 

首をかしげる。耳慣れない響きだ。私の脳内辞書で検索をかける。

 

きさつたい。キサツタイ。木冊体?

 

「……木冊体(きさつたい)?随分と文学的な響きですね」

 

感心して頷く。

 

「木に文字を彫る集団ですか?それとも、書物を編纂する文豪の集まりでしょうか?なるほど、鬼の生態を記録して、後世に残そうという文化的サークル活動ですね?それなら話が合いそうです。私も読書は好きですから、今度おすすめの随筆でも紹介し合いましょうか」

 

「……はあ」

 

姉さんが、今日一番深いため息をつく。魂が口から抜け出そうなほど深い。

 

「それとも、木偶の坊の集まり?木の人形みたいに突っ立ってるだけなら、怖くもなんともありませんが」

 

「……鬼を殺す隊よ!鬼殺隊(きさつたい)!字面からして物騒でしょうが!なんであんたの脳内変換は、そうやって平和的な方向にばかり暴走するのよ!」

 

姉さんが私の肩を揺さぶる。脳が揺れる。

 

「いい?覚えておきなさい。彼らは日輪刀という特別な刀を持っているの。それで首を斬られたら、あんたみたいな再生お化けでも死ぬの。戦いになったら逃げるのよ。あんたの術は隠密特化で、戦闘向きじゃないんだから」

 

「戦う?嫌ですよそんな野蛮なこと!」

 

暴力反対。平和主義。それが私のモットーだ(食欲は除く)。

 

「私はか弱い少女……そんなことはできませんわ!爪が割れたらどうするんですか。着物が汚れたら洗濯代を請求しますよ?戦いは野蛮人のすることです。私は知性で勝負するタイプですから、出会ったら全力で媚びを売って見逃してもらいます」

 

「……あんたの媚びが通じる相手だといいけどね」

 

姉さんは諦めたように手を離す。

 

「まあいいわ。とにかく、屋敷に行ってもボロを出さないこと。葛城とかいう男に、正体がバレたら終わりよ。その時は、私が処理しに行く羽目になるんだから」

 

処理。怖い言葉だ。姉さんの手は煩わせたくない。

 

「分かっていますよ。葛城様は良い人です。私のことを大切にしてくれています。そんな人を悲しませるような真似はしません」

 

ニカっと笑う。

 

「……さて」

 

立ち上がり、窓の方へ歩み寄る。雨戸を少し開ける。外は夜だ。吉原の灯りが、星空の下で煌めいている。私の故郷。私の狩り場。

 

「とりあえず、お腹が空いたので。嫁入り前の腹ごしらえに行きましょうか」

 

舌なめずりをする。

 

「大名屋敷に行けば、しばらくは粗食……もとい、人間食はお預けです。術を維持するために、力を満タンにしておかなければなりません。いわゆる、食い溜めです」

 

「……あんた、さっき『外では食べるな』って言った私の話、聞いてた?」

 

「聞いてましたよ。だから、『ここ(吉原)』で食べるんです」

 

窓枠に足をかける。

 

「景気付けに、女共を三人ほど攫ってきましょう!若い娘の柔らかな肉!溢れる生き血! 独身最後の宴です!」

 

「……あんたねえ」

 

姉さんがこめかみを押さえる。

 

「『か弱い少女』は人攫いをしないのよ。それに三人って何よ。食べ過ぎでしょ」

 

「花嫁修業の一環です!精をつけて、元気な子供……じゃなくて、元気なスパイ活動をするためです!行ってきます!」

 

窓から飛び出す。夜風が心地よい。屋根から屋根へ。獲物を探す鬼の目と、美味しいものを探す乙女の心が、今夜も私を突き動かす。

 

待っててね、私の晩餐。今日は特別に、痛くしないで食べてあげるから。

 

 

 

 

 

 

翌朝。

 

空は快晴。雲ひとつない青空が、私の門出を祝福しているようだ。まあ、私は鬼だから、直射日光は肌にピリピリくるのだけれど。術『封鬼化生』のおかげで、灰にならずに済んでいる。

 

京極屋の大門の前には、立派な駕籠が停まっている。黒塗りの、見るからに高級そうな駕籠だ。周りには、紋付きの家臣たちが数名、警護のために控えている。物々しい雰囲気だが、それだけ葛城様が私を大切に思ってくれている証拠だろう。

 

私は今、白無垢……ではなく、新造としての最後の晴れ着に身を包んでいる。鮮やかな紅色の振袖。金糸で刺繍された牡丹の花。髪には、姉さんがくれた特注の鼈甲の簪が挿さっている。

 

「風音」

 

優しい声。葛城様だ。彼は今日も穏やかな笑顔で、私に手を差し伸べている。

 

「……待たせたね。さあ、行こうか。私の屋敷へ」

 

「はい、旦那様。……ふつつか者ですが、末永くよろしくお願いいたします」

 

しとやかに頭を下げる。その手を取り、駕籠へと歩を進める。

 

(葛城様の手、温かい)

 

触れた瞬間、その体温が伝わってくる。人間だ。 生きた、温かい血が通っている人間だ。

 

(……美味しそうだけど、今は我慢)

 

私の喉が、ゴクリと鳴るのを必死に抑える。昨夜、三人分の娘を平らげたおかげで、空腹感はない。これは食欲ではない。もっと別の、温もりへの渇望だ。

 

(うん、こういう穏やかな幸せというやつも、良いものだわ。姉さんの膝の上もいいけれど、この人の手のひらも悪くない)

 

葛城様の手を握り返す。強く。これから始まる新しい生活への、決意を込めて。

 

駕籠に乗る直前。私は一度だけ、振り返る。

 

京極屋の二階。格子の向こうに、一人の人影が見える。派手な着物を着た、この世で一番美しい女性。白露太夫こと、堕姫姉さんだ。

 

姉さんは、扇子で顔を半分隠している。その目は、少しだけ赤く腫れているように見える。泣いたのか?それとも、昨夜の私の食べっぷりに呆れて寝不足なのか?多分、両方だ。

 

姉さんが、パチリと扇子を閉じる。そして、小さく振る。別れの合図だ。

 

(姉さん、行ってきます)

 

心の中で語りかける。声に出さなくても、伝わると信じている。

 

(必ず青い彼岸花を見つけて、姉さんにもっと良い暮らしをさせてあげますからね。美味しいものを食べて、綺麗な着物を着て、無惨様に怒られないような、そんな楽園を作ってみせます。だから、待っていてください)

 

姉さんの口元が、わずかに動く。言葉は聞こえない。でも、私には読める。長年連れ添った相棒だもの。

 

『……せいぜいボロを出して殺されないようにしなさいよ。バカ風音』

 

愛のある罵倒だ。最高のはなむけの言葉だ。

 

ニッコリと微笑み、深々とお辞儀をする。そして、駕籠の中へと体を滑り込ませる。

 

「出立!」

 

家臣の掛け声と共に、駕籠が持ち上がる。ガタリと揺れる。動き出す景色。遠ざかる京極屋。

 

さようなら、私の生家(鬼としての)。さようなら、狂乱の夜。こんにちは、平穏な昼の世界。

 

駕籠の小窓から、流れる景色を見つめる。朝の光が眩しい。

 

「さて、まずは屋敷の台所事情の視察からですね。加須底羅はあるかな?羊羹はあるかな?……葛城様、おやつは三時ですか?」

 

「ははは、気が早いね風音。好きなだけ用意させるよ」

 

葛城様の笑い声が、駕籠の外から聞こえる。チョロい。いや、優しい旦那様だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

大名屋敷の夜というのは、どうしてこうも静かなのだろうか。

 

吉原の夜は、常に音で満ちていた。三味線の音、太鼓の響き、男たちの笑い声、女たちの嬌声、そして誰かが吐く音や、喧嘩の怒号。それら全てが渾然一体となって、夜という巨大な生き物の呼吸のように渦巻いていた。あれはあれで、活気があって嫌いではなかったけれど。

 

葛城様の屋敷は、それとは対極にある。静寂。ただひたすらに、静寂だ。庭の鹿威しが、カコン……と鳴る音が、やけに大きく響く。虫の声さえも、遠慮がちに聞こえる。

 

私たちは今、屋敷の奥にある寝所にいる。 八畳ほどの広さの部屋には、真新しい布団が二組、並べて敷かれている。 枕元には行燈が一つ、ゆらゆらと頼りない明かりを灯している。

 

「…………」

 

沈黙が痛い。物理的に痛いわけではないが、鼓膜がムズムズするような静けさだ。

 

私の目の前には、今日から私の正式な夫となった男性、葛城様が座っている。彼は緊張している。見て分かる。普段は冷静沈着で、本草学の難解な書物を読み解く知的な瞳が、今は所在なげに泳いでいる。膝の上に置かれた拳は、固く握りしめられ、微かに震えている。額には脂汗が滲んでいる。

 

可愛い。四十路を越えた分別ある大人が、小娘一人を前にして、まるで初陣の若武者のように強張っている。その純情さが、私の食欲……もとい、愛着を刺激する。

 

(ふふふ。旦那様ったら、借りてきた猫みたい)

 

今の私は、血鬼術『封鬼化生』の効果で、完全な人間となっている。鬼の怪力も再生力もない。ただの、か弱い乙女だ。だが、中身までは変わらない。私の精神構造は、依然として貪欲な捕食者のままである。

 

「……風音」

 

葛城様が、ようやく口を開く。その声は少し裏返っていた。彼は咳払いを一つして、居住まいを正す。

 

「嫌なら、無理はしなくていいんだよ」

 

「……え?」

 

小首をかしげる。何を言っているのだろう、この人は。

 

「君はまだ若い。それに、吉原という特殊な環境から、急にこんな武家屋敷に連れてこられて、戸惑っていることだろう。環境の変化だけでも大変なのに、夫婦の契りまで急かしてしまっては、君の負担になるかもしれない」

 

葛城様は、真剣な眼差しで私を見つめる。その瞳には、一点の曇りもない誠実さと、私への深い配慮が宿っている。

 

「私は、君を大切にしたいんだ。君が心から私を受け入れてくれるまで、私は待つ覚悟だ。今夜はただ、背中を合わせて眠るだけでも……」

 

ああ。なんて良い人なのだろう。遊郭から身請けした女に対して、ここまで紳士的に振る舞える男が、この世にどれほどいるだろうか。大抵の男は、「金を出したんだから俺のものだ」とばかりに、初夜から獣のように襲いかかってくるものだ。姉さん(堕姫)も言っていた。『男なんてのはね、皮を剥げばみんな狼よ』と。

 

でも、葛城様は違う。彼は狼ではない。草食動物だ。優しくて、穏やかで、そして致命的に「押し」が弱い、愛すべき草食獣だ。

 

(……駄目ですよ、旦那様)

 

扇子で口元を隠し、ニヤリと笑う。

 

(そんなに隙だらけで、無防備に腹を見せていては。貴方が狩る側にならなくても、相手が狩る側だったらどうするんです?)

 

待つ?何を待つというのです?料理が目の前にあるのに、箸をつけずに冷めるのを待つなんて、美食家である私の流儀に反します。それに、私は知っています。貴方のその着物の下にある体が、意外と引き締まっていて、学者にしては健康的な肉付きをしていることを。私の目は節穴ではありません。そして、私の胃袋……じゃなくて、乙女心は、今まさに最高潮に飢えているのです。

 

「旦那様」

 

しずしずと、膝行で彼に近づく。畳が擦れる音が、静寂の中に響く。

 

「……か、風音?」

 

葛城様が、ビクリと体を強張らせる。私は構わない。距離を詰める。あと三尺。あと二尺。そして、互いの吐息がかかる距離まで。

 

「待つ、とおっしゃいましたね?」

 

上目遣いで彼を見る。

 

「はい。君の心が……」

 

「私の心は、もう決まっていますよ?」

 

「え?」

 

次の瞬間。

 

畳を蹴る。人間としての脚力だが、吉原で鍛えた身のこなしは伊達ではない。しなやかに、そして敏捷に。猫が獲物に飛びかかるように。私は葛城様の胸元へと飛び込む。

 

「わっ!?」

 

葛城様が体勢を崩す。私たちはもつれ合うようにして、敷かれたばかりの布団の上へと倒れ込む。

 

ドン。

 

鈍い音がして、私の視界が反転する。いや、私が上だ。葛城様が下だ。いわゆる、押し倒した形になる。

 

「えっ、か、風音……?」

 

葛城様が、目を白黒させている。状況が理解できていないようだ。無理もない。か弱いと思っていた新妻が、いきなり自分を組み敷いているのだから。

 

彼の上から、顔を近づける。行燈の明かりが、私の顔を下から照らし出す。私の瞳には、今、どのような光が宿っているだろうか。慈愛に満ちた、貞淑な妻の目?いいえ。鏡を見なくても分かる。これは、獲物を狙う肉食獣の目だ。皿の上の極上肉を見つめる、飢えた美食家の目だ。

 

「ふふ。……旦那様」

 

彼の耳元に顔を寄せる。甘い声で、毒を含んだ蜜のように囁く。

 

「今夜は、可愛がってくださいね?……いいえ、私が貴方を可愛がって差し上げます」

 

「か、可愛がる……?」

 

葛城様の喉仏が、ゴクリと動く。美味しそうだ。噛み付きたい。でも、今はまだ我慢。楽しみは順序良く味わわなければ。

 

ゆっくりと、自分の帯に手をかける。新造時代から慣れ親しんだ、帯を解く手つき。 シュルリ、という衣擦れの音が、静かな部屋に扇情的に響く。

 

「待つ必要なんてありません。私は準備万端です。心も、体も、そして何より食欲も」

 

「しょ、食欲?」

 

「比喩ですよ、比喩。愛を食べるという意味です」

 

帯を放り投げる。着物の襟を寛げる。白い肌が、行燈の光に晒される。葛城様が、目のやり場に困って顔を赤らめる。初心だ。たまらなく初心だ。吉原の擦れっ枯らしの客たちとは違う、新鮮な反応。

 

「具体的には……」

 

指を一本立てる。葛城様の目の前で。

 

「『五回』いたすまで、寝かせませんから!」

 

「…………は?」

 

葛城様の目が点になる。耳を疑ったという顔だ。

 

「ご、五回!?」

 

声が裏返っている。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ風音。五回というのは、その……回数のことかい?いや、私はもう若くは……四十を過ぎているんだよ?体力だって、人並みかそれ以下で……」

 

葛城様が必死に命乞い……もとい、言い訳を始める。だが、私の辞書に「妥協」という文字はない。あるのは「完食」のみだ。

 

「問答無用!」

 

彼に抗議の隙を与えない。彼の手首を掴み、布団に押し付ける。

 

「さあ、夜はこれからです!吉原仕込みの底力、骨の髄まで味わっていただきます!私が手取り足取り、極楽浄土へ案内して差し上げますよ。  一の膳、二の膳までです!」

 

「ま、待っ……!」

 

「拒否権はありません。身請けされたその日から、私の体も心も貴方のものです。その代わり、貴方の全てお私のものです。精力の一滴まで、残さず搾り取らせていただきます!」

 

私の瞳孔が開く。本能が理性を凌駕する。鬼としての飢えが、人間としての情愛と混ざり合い、奇妙な熱となって全身を駆け巡る。

 

「いただきまーす!!」

 

高らかに宣言する。食事の前の挨拶は、基本中の基本だ。

 

顔を埋める。葛城様の胸元へ。その温かい体温、脈打つ心音、そして人間の匂い。それら全てを、五感で味わい尽くすために。

 

「ひぃぃぃぃぃ!?」

 

葛城様の悲鳴が上がる。それは恐怖の叫びか、それとも歓喜の絶叫か。あるいは、その両方が混ざり合った、未知の領域への突入合図か。

 

行燈の火が、ふっと揺れる。二人の影が重なり合い、一つになる。

 

もちろん、翌朝の葛城様が、腰を押さえながらやつれた顔で(しかし幸せそうに)起きてきたことは、言うまでもない。




最後までお読みいただきありがとうございます。

風音にとって、今回は大きな節目でした。
京極屋を出ること、姉さんと離れること、
そして愛される側に立つこと。

彼女は鬼であり、捕食者であり、
それでも誰かに愛してほしいと願う、一人の娘です。

葛城様を押し倒した風音を
「怖い」と感じた方も、
「可愛い」と感じた方も、
「最高」と笑った方も、
ぜひ感想を聞かせてください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。