“ありがとう”を信じられなくなった青年が、閉店前の静かな店内で、善意と対価のあいだに揺れる物語。

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閉店十五分前。

 

昼頃には鳴っていた館内BGMも鳴りを潜め、静寂が支配していた。

 

店内に人はほぼおらず、残ったのはもの寂しげなお惣菜と早めに閉店準備を始めた従業員の足跡だけ。

 

誰も来ないであろうレジ前に立って、静かにその残り火を感じていた。

 

今日のシフトも後一時間少々。

 

そろそろ店長から作業の連絡が来る頃合いであろう。

 

恐らく俺に飛んでくるのは、余った業務か面倒な雑務の二択であろう。

 

慣れている。

 

誰にでもできることは誰にもやりたくないこととはよく言ったものだ。

 

そんな作業は決まって俺のもとに回ってくる。

 

無駄に丁寧でまじめな性格がにじみ出ているのか、頼まれたら断られなさそうな空気をまとっているのか、ただ単になめられているのか。

 

これといった理由を断定することは難しいが、基本的に面倒な作業を「やってくれない」と自然と押し付けられるのは日常茶飯事であった。

 

この状況に今更何か文句を言う気はないし、現状を打破するために動く気もない。

 

ただ、そういう扱われ方に慣れた結果、役割になっただけである。

 

時刻も閉店時間となり、本格的な締め作業へと入り始めた。

 

店長の姿も見当たらないので、床の清掃作業に入ることにした。

 

モップの柄を握ると、手のひらには確かなざらつきが伝わってきた。

 

水を含んで気持ち重くなったそれを押し込みながら進む。

 

タイルの上を滑らせていくたびに、床のかすかな凹凸を広い、妙な音を立てる。

 

その規則的なようでいて不安定な音に耳を傾けていると、不思議と思考がぼやけていくような感覚がした。

 

モップの幅に合わせて、一定の力を込めて押し込む。

 

自分の体力と相談しながらその歩みを速めていくこの時間は、何も考えなくていい稀有な時間だ。

 

汚れが布へ吸い込まれるのを見るたび、俺の中にも、こんなふうに拭き取れればいいものが山ほどあるんだろうな、とどうでもいいことを思う。

 

でも、考えたところで答えが出るわけでもないから、俺はただ黙って、同じ動作を繰り返した。

 

タイル一枚、また一枚。

 

そうして床が少しずつ光を取り戻していくのを見ると、心の汚れもこんな感じに整えられればいいのに、と心が勝手に弱音をこぼしそうになるのを、ぐっと飲み込んだ。

 

たまに思う。

 

どうして人は、仕事でも学校でもコミュニティでも、あんなに簡単に他人に期待できるんだろう。

 

どうして対価もないのにたった一つの「感謝の言葉」で誰かのために働こうと思えるのだろう。

 

俺には理解ができない。

 

行動は評価に結びつき、善意は等価の何かとして戻ってくる。

 

世の中はそういうふうにできているのだと、疑いもなく思うような人も少なくはないだろう。

 

だが、本質はまったく違う。

 

誠意という善意は絶対的に評価の等価になりえず、誰かの利益に溶けて消える。

 

意図や献身は「その時の都合」で扱われ、必要がなくなれば簡単に切り捨てられる。

 

善意には重さがなく、だからこそ残らない。

 

感謝とは本質的に不確かで、持続しない感情であり、半永久的依存に耐えうるものではないということだ。

 

それはただの反応であり、場面に応じて発生したり消えたりする、一過性の揺らぎにすぎない。

 

ゆえに、感謝を信用するべきではない。

 

感情を基盤に期待を組み立てるべきではない。

 

人の行動に確実に報いることができるのは、唯一「対価」だけだ。

 

対価は感情ではなく構造であり、動いた分だけ確かに返ってくる。

 

その確実性だけが、世界の中で唯一裏切らない法則だった。

 

そんなくだらない戯言を考えていると、背後から店長が言った。

 

「引き続き掃除、お願いします」

 

無機質な声だ。

 

だが、これでいい。

 

店が閉まったからと言って変な雑談を振られると、こちらが勝手に気疲れする。

 

こんな仕事だけの関係が、俺にとってはちょうどいい。

 

時計を見る。

 

シフトの終わりまで後五十分。

 

先ほどと同様に、一定の力でモップを押し込んでいく。

 

誰かが見ているわけでもない。

 

賃金が上がるわけでもない。

 

だが、賃金が発生する時間だからやる。

 

感謝などという不安定なものではなく、賃金が報酬として支払われるからやる。

 

この世で数少ない、働きに値するものだから。

 

働きに対して、唯一信頼して受け取ることが出来るものだから。

 

それが、対価を貰い働く人間の責任というものだろう。

 

モップがタイルを通過すると、湿った布から水分が付着する。

 

そこに蛍光灯の光が反射して、少し汚れながらも光っていた。

 

そんな光景を目に移しながら、ふぅ、と静かに息を吐いた。

 

「先輩、もう片付け入ってるんすか?」

 

明るい声がふってきた。

 

背筋に確かな不快感が走る。

 

気のせいではない。

 

この後輩の声は、いつも空気を何段階も明るくする。

 

俺のような人間にとっては、それが拷問のように眩しい。

 

振り向く。

 

後輩は笑っていた。

 

ただ純粋に。

 

生きやすそうな顔をしている。

 

何かにおびえて生きている俺とはまるで違い、この世を善として信じてやまない、俺とは違う世界の住人とも思える。

 

「偉いっすね! ありがとうございます、助かりますよほんと」

 

その瞬間、俺の思考が止まった。

 

空気が固まる。

 

時間が歪み、俺だけが取り残されたような錯覚がする。

 

モップを握る手が少し汗ばむ。

 

何が。

 

何がありがとうなんだ。

 

俺は対価を貰って仕事をする。

 

対価という責任を果たすために仕事をする。

 

そこに何でそんな言葉が必要なのか。

 

こいつの声色的に何の疑いもなくこの言葉を発している。

 

形式的なものではない、この言葉に意味があり、人をつなげる力があるかのように振り上げる。

 

理解ができない。

 

理解をしようとしても、心が拒否する。

 

「ありがとう」、そんな言葉に何の意味がある。

 

「偉い」、対価に見合った働きをすることの何が偉いのか。

 

ただ俺は、働いているだけなのに。

 

ただ俺は、責任を果たそうとしているだけなのに。

 

なぜこの完結した構造に、善意を乗せてくるのか。

 

後輩がじっと俺を見ている。

 

期待でも疑問でもない、ただ純粋なまなざし。

 

そういう目つきが、俺の内側に燻るどす黒い何かを強く照らす。

 

返事が遅れる。

 

声が出ない。

 

喉が固まる。

 

場面がやけに静まり返る。

 

ようやく声が絞り出された。

 

「......あ、え? ああ。うん。どうも」

 

乾いた音みたいな声であった。

 

それは確かに自分の喉から発せられたはずなのに、他人の言葉のように聞こえた。

 

後輩は軽く微笑み、「よろしくお願いします!」と言い残し去っていく。

 

軽い足取り。

 

善意に何の疑いもない風貌。

 

その背中を見送りながら、俺の胸の中では別の歩みが始まっていた。

 

それは重く、沈むような歩みであった。

 

善意を信じない理由が、俺の足に重くのしかかる。

 

「ありがとう」は決して対価にはなりえない。

 

「偉い」は責任を果たせない屑の言い訳だ。

 

「優しさ」はその場限りの無価値なまやかしだ。

 

俺は、もうあの言葉を受け取れない。

 

改めてモップを握りなおそうとしたが、震えて力が入らない。

 

蛍光灯は無機質に光り、反射した光は先ほどより酷く濁っているように見えた。

 

***

 

後輩の「ありがとうございます」の余韻がまだ胸の奥で反響している。

 

震えていた手に力は入るようになったが、どこかぎこちない。

 

汚れと混ざった水が蒸発していく匂いが、やけに強く感じられた。

 

......どうして、こんな単純な言葉一つで、つまずくんだろう。

 

理由は、ずっと前から自分でもわかっている。

 

俺は、生まれてからずっと「役に立つ側」に置かれてきた。

 

子供の頃から、人のために動くことが当たり前だった。

 

頼まれれば断れず、やれば感謝され、そこで終わる、そこにそれ以上のものはない。

 

友人の輪の外に追いやられたわけじゃない。

 

ただ、輪の中心に触れることは一度たりともなかった。

 

みんなが俺抜きで遊びに行くこともよくあった。

 

気づけば関係の濃い部分は常に他の誰かが占めていて、俺はその外側の薄い部分の「便利な人」としてバランスを保っていた。

 

そんな関係に益はないのに。

 

それでも当時の俺は、どこか信じていた。

 

あの少年漫画みたいな、見えない絆とか、根拠のない仲間意識とか、対価の介さない関係とか。

 

父親の影響で読みふけったあの物語が、俺の価値観を形作った。

 

過去の積み重ねにより、キャラクターが救われたり、ピンチの時に駆けつけてくれたり、友情の力で危機を脱したり。

 

「誰かのために動けば、いつかその熱意は返って来る」、そんな純粋すぎる幻想を、ただずっと握りしめていた。

 

だからこそ、俺は人のために尽くした。

 

疑問を抱きながらも、憧れを裏切りたくなくて、その輝きを手にしたくて、続けた、続けるしかなかった。

 

「一見無意味のような善意であっても、いつか報われるに違いない」、と。

 

けれど、その考えを根本から揺るがす出来事が二つ、ほぼ同時期に起こった。

 

一つは、バイトだ。

 

行動に対して初めて「お金」という明確な対価が返ってきた。

 

それは「感謝」のような形の無いものではなく、普遍的で半永久的な価値を持つものであった。

 

働けば働くほど評価が上がり、時給も上がった。

 

そこに以前のような曖昧さはなかった。

 

成果には数字で返って来る世界。

 

決して感情で揺れ動くものではない。

 

構造としてこの存在を認識してはいたが、口座に振り込まれたお金を手にしたときには心で実感した。

 

「どうやら、俺の行動には価値があるらしい」と。

 

行動に対して明確に「価値」が返ってきた瞬間であった。

 

そしてもう一つは、コミュニティでの裏切りだ。

 

所属していたグループのために、あらゆるものを切り詰めて時間をひねり出し、人間関係の調整も、企画の進行も、システムの構築、騒動の後始末まで全部背負って動いた。

 

これ以上ないくらい成果も出した。

 

それを喜ぶ人の笑顔も、成功に安心しきったその姿も見た。

 

だからこそ、その後のことが余計に堪えた。

 

気づけば、俺以外のメンバーは何度もプライベートで遊びに行っていた。

 

俺だけ知らされず、俺だけ呼ばれず、俺の知らないところで関係は深まっていった。

 

最後には何も言わずに、まるで使い捨ての道具だったといわんばかりに、全員が俺のもとから離れていった。

 

残ったのは、仕事だけ押し付けられて終わったという現実と、学生の貴重な時間を無駄にしたという喪失感。

 

感謝の言葉だけ残して、肝心の「関係」は置いていかなかった。

 

どうやら俺は面倒な仕事を処理する都合のいい道具だったというわけである。

 

この二つが同時期に起きたから、価値観が歪んだ。

 

感謝という対価は、もう信用できなくなった。

 

人間という存在は、容易に温度を変えると知った。

 

自分勝手に利益だけを享受しようとして、感謝という暴力を振りかざすと。

 

そして代わりに、お金という普遍的で半永久的な対価だけが信じられるものとして心に強く根付いた。

 

そんな背景があるから、「ありがとうございます」という何気ない一言にすら躓いてしまう。

 

それがどれだけ純粋なものでも、心の奥底が拒んでしょうがない。

 

気づけばその歩みは止まっていた。

 

タイルに映る自分の影が、やけに暗く、恐ろしく見えた。

 

まるで、そこにあるのが俺ではなく、俺が積み重ねてきた疑念や冷えた思考そのものの形をしているように思えた。

 

影はただ黒いだけなのに、こちらをじっと見返してくるような気配があった。

 

それが自分自身だと思った瞬間、胸の奥でひやりと何かが沈む音がした。

 

俺だって昔は、あの少年漫画みたいな絆を信じていたはずなのに。

 

最近になって、そんな都合がいい虚構など最初から自分には用意されていなかっただけなんだと、ようやく受け入れている。

 

他人依存の憧れなど、所詮そんなものだ。

 

不確かな虚構にすがったのが間違いだったのだ。

 

歩みを始め、仕事に再度取り掛かろうとしたとき、背後で軽い足音が聞こえてきた。

 

気配が嫌に柔らかい。

 

無駄に無防備で、悪意の見えない足取りだ。

 

「先輩さ、今日で最後なんですよね?」

 

また後輩の声だ。

 

振り向かなくても、あの表情の輪郭が分かる。

 

きっと笑っている。

 

悪気の打算もなく、ただ純粋に、話しかけている顔だ。

 

その純粋さが、逆に胸を刺す。

 

「ああそうだな」

 

とりあえず返事だけして作業に意識を向ける。

 

タイルにこびりついた汚れがやけに目に付く。

 

擦っても擦っても消えない。

 

まるで俺の心そのものだ、とくだらない比喩が脳裏をよぎった。

 

「半年っすよね、一緒に働いたの。なんか早かったなあ......先輩、いっつも淡々としてるから、もうちょい話したかったんですけど」

 

淡々?

 

別にそんな気はない。

 

ただただ報酬に値する責任を果たそうとしか思っていないから。

 

唯一信じられる物のために働いているのに、なぜ嫌というほど分からされた手に入らない概念に手を伸ばそうとするのか。

 

ここにそんな繋がりを求める気はさらさらない。

 

その行動の無価値さを身を持って知っているから。

 

「......そうか」

 

短い返事をすると、後輩が少しだけ笑ったような気配がした。

 

それはただ単純に、会話が続いてうれしい、みたいな人畜無害な反応に見える。

 

「なんかさ、先輩って......真面目っていうより、律儀?いや、違うな。ちゃんとしてるっていうか......変に損しないように見えて、なんか損してる感じがあるんすよね」

 

またそういう妙な観察をしてくる。

 

胸が刺さる、なんて殊勝な話じゃない。

 

ただ、無防備に他人の領域へ手を伸ばしてくる感じが、薄ら寒く、不快なだけだ。

 

「今日もそうっすけど。頼んでないのに片付けやってたり......。もっと楽してもいいのにって思うんですよ」

 

「......暇だっただけだ」

 

とっさにそう返した。

 

理由を説明する気もさらさらない、当たり障りのないことを言っているに過ぎない。

 

勝手に善意で解釈され、会話が伸びることが、ただ面倒なだけだ。

 

後輩は首を傾げて、それからぽつりと呟いた。

 

「でも、やっぱすごいっすよ。今日だって助かりましたし。ほんと......ありがとうございます」

 

またその言葉だ。

 

胸に届くどころか、表面に落ちては弾かれるだけの、無価値でただただ不快な音。

 

意味が分からない。

 

もう理解したいとも思わない。

 

「......気にするな。仕事だ」

 

「仕事でも、ありがたいものはありがたいっすよ」

 

当たり前みたいな顔で笑う。

 

分かってはいたが、その当たり前が俺とは無関係な世界で成立しているらしいことが、はっきりしていく。

 

「......そういうもんか?」

 

「そういうもんですよ。だって、先輩がやってくれなかったら誰かがしんどいでしょうし。やってくれたなら、そりゃ感謝しますよ」

 

その言葉を聞いた瞬間、どこかで「思ったより世の中は善意で動いているらしい」といった、統計にもならない噂めいた幻想が頭をよぎった。

 

だが、そんなものを信じるほど純粋だった時期はとっくに終わっている。

 

善意が世界を回している、そんな話は、結局のところ都合のいい錯覚にすぎない。

 

誰かがそう信じているからって、自分もそこに含まれるわけじゃない。

 

俺にとっては、ただ距離のある言葉が空気の中を漂っただけだった。

 

その軽さが、かえって胸の奥をわずかに冷やした。

 

返す言葉がなくて黙るのではない。

 

返す必要がないから黙った。

 

タイルに映った自分の顔は、相変わらず濁ったままだ。

 

後輩には見えていないらしいが、それも当然だ。

 

住んでいる世界が違う。

 

「先輩、ほんとは優しいっすよね。なんか、距離あるけど......見てたら分かりますよ」

 

その「分かる」という言葉だけは、ひどく雑音に近い。

 

分かるわけがないのに、分かると言う。

 

その無邪気さだけが不快にひっかかった。

 

「......俺は優しくなんてない」

 

 言い切る前に、後輩が軽い笑い声をたてた。

 

「今日で最後なんで、言っとこうと思って。先輩、けっこう好きでしたよ。仕事しやすかったっす」

 

胸が揺れたわけではない。

 

ただ、その距離の詰め方が、あまりに自然で、あまりに明るくて、そういう世界に生きてきたのだろうなと直感した。

 

自分にはもう届かない場所の人間なのだと、そんなふうに感じた。

 

「......お前、なんでそんな簡単に言えるんだ」

 

静かな声音。

 

怒りでも困惑でもなく、ただ無意識にこぼれた問い。

 

自分が踏み外してきた場所を、何の負担もなさそうに歩いている相手を見たときに出てしまう、あの、どうしようもなくみっともない嫉妬のようなものだった。

 

「え? 何がです?」

 

「......感謝、とか。そういう......無償のやつだ。なんで、そんな自然に言えるんだよ」

 

胸の奥が締めつけられたわけじゃない。

 

ただ、自分とは別の地表に立っている生き物を前にして、「そりゃ分かり合えるはずないよな」、と遅れて理解しただけだった。

 

後輩は、不思議そうに首を傾げた。

 

「なんでそんな自然に言えるんだよ」

 

繰り返した言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。

 

感情と切り離された純粋な疑問、いや、正確には、疑問に形を借りた羨望だった。

 

後輩は目を丸くした。

 

「え? どういう......」

 

「お前のありがとうとか、好きでしたとか、そういう軽い善意だよ。俺には一生、ああいうのは身につかない。......いや、生まれつきの差か。育ちか。何でもいいけど」

 

後輩が少し困ったように眉を寄せた。

 

「でも......そんな人ばっかじゃないですよ。先輩が見てきた人がたまたま......」

 

「またか」

 

遮った自分の声が、冷えていた。

 

相手を責めているつもりはない。

 

ただ、そういう正しさを迷いなく口にできる後輩が、あまりに自分と対照的で、突き放したくなっただけだった。

 

「そんな人ばっかじゃない。......お前らは本当にそれが好きだな。万能薬みたいに言うけどよ」

 

後輩は口を閉じた。

 

沈黙の中で、彼の明るさと無邪気さが、皮肉にもいっそう際立った。

 

「悪いが、俺は賢者じゃない。人はこうあるべきだなんて高潔な思想で生きてねぇし、それを軸に生きることもできない。俺は愚者だ。経験でしか学べないタイプの、どうしようもないやつだ」

 

力強く握りしめる指先に、鈍い痛みだけが残る。

 

「だから俺は、自分が見てきた人間の質でしか判断できない。その結果が今の俺だ。で、あんたはどうだ? 幸せそうな過去持ってて、人に疑い向ける必要もない人生歩んできて......何も考えずそんな人ばっかじゃないですよなんて言いきれる」

 

嫉妬。

 

その正体を自覚したくなくて、あえて淡々と述べる。

 

後輩を責めたいわけではなく、自分を守るためだけの距離だった。

 

「......説教ありがとう。御大層で。でも、生憎な。俺の世界にはそうじゃない人が多いんだよ」

 

後輩は黙って俺を見つめていた。

 

その視線の奥には、たぶん気遣いがあったのだろう。

 

だが、そんなものは届かないし、届いたとしても受け取る器官がもう壊れている。

 

「いや、別にお前を責めてるわけじゃない。羨ましいだけだよ。無傷のまま育ったんだな、お前は、って思うだけだ」

 

その言葉を口にした瞬間、ようやく自分の感情の正体を認めた気がした。

 

ひどく見苦しくて、情けない嫉妬だった。

 

後輩は驚いたように目を瞬いた。

 

「無傷って......そんなこと、ないですよ」

 

「あるだろ。じゃなきゃ、お前みたいな言葉は出てこねぇよ」

 

反論する気力はもうなかった。

 

「......まあいい。仕事戻るぞ」

 

タイルを磨きながら、ふと、言葉が零れた。

 

「......俺だってさ」

 

後輩が小さく顔を向ける。

 

「昔は......ガキの頃は、少年漫画みたいなもんに憧れてたよ。仲間だの、絆だの、無条件に信頼し合える世界だの......。そんなもんがどっかにあるって、まあ......信じてた時期ぐらいはあった」

 

あの頃は、自分も後輩の側に立てるはずだと信じていた。

 

だからこそ、今の自分との差が余計に惨めに感じられる。

 

「あの頃は、きっと大人になったらそういう出会いがあって、自然と支え合える関係とか手に入るんだろうな、なんて......。馬鹿みたいに思ってた」

 

鼻で笑うように息が漏れた。

 

「結果、現実はこのザマだ。人間関係なんて、得た傷と経験の積み重ねでしか形にならない。俺はそこで何回も間違えて、何回も損して......今みたいな性格になっただけだ」

 

後輩の気遣うような視線が、むしろ遠く感じられる。

 

「だから、お前がそんな人ばっかじゃないですよ、って言えるのは、そう言える過去を持ってるからだ。無傷とは言わんが......少なくとも、俺とは別物の人生を歩んできたんだよ」

 

小さく、自嘲が漏れた。

 

「そういう意味では......羨ましいよ。まだ信じられる側の人間なんだなって。俺はもう、そっちじゃないだけだ」

 

汚れをひとつ落としながら締めくくる。

 

「......まあ、少年漫画みたいな世界観は、ガキの頃に置いてきた。いい加減な話だろ。でも、人間なんてそんなもんだ」

 

後輩は返事をしなかった。

 

その沈黙は、理解ではなく、距離の証だった。

 

それを感じ取ったのか、自分の口から、もうひとつ言葉がこぼれた。

 

「......でさ。分かってるんだよ、俺だって」

 

軽く息を吐き、つと視線を床に落とす。

 

「今の俺の考えなんて、世間的に見りゃ偏ってるし、間違ってるってこともな。感謝なんて信用できない、とか言いながらさ、仕事上でも何かしてもらったら、形だけでもありがとうございます、なんて言ってんだよ俺。理解はしてなくても、世間に合わせることぐらいはしてるんだ」

 

情けなさを押し隠すみたいに、モップの先を強く押し滑らせる。

 

「......こんな経験しておいてなんだけど、俺はそんなに強くない。絶望した世の中に反骨して生きてくほど立派でもない。普通に生きたいんだ。世間からはみ出したくなんかないんだよ」

 

後輩はただ、黙って聞いている。

 

「お前が正しいってことぐらい、最初から分かってる。それを前提に、みんな当たり前みたいに生きてるんだろ。......情けないよな。こんな大層なこと言っといて、世間からつまはじきにされるのは嫌だなんてさ」

 

苦笑が喉の奥でひっかかる。

 

「だから......今までのあれも、ただの八つ当たりだよ。気にすんな。俺のことは、忘れてくれていい」

 

その言葉は謝罪でもなく、救いを求めたわけでもなく。

 

ただ、長い独白の終わりに落ちた、重たい割り切りだった。

 

「......片付けろ。まだ終わってねぇ」

 

「......はい」

 

同じ場所で働いていても、生きている世界はまるで違う。

 

そんな確信だけが、静かに残った。

 

***

 

閉店作業はいつも通り淡々と進んだ。

 

蛍光灯の白さがむき出しの現実だけを照らす。

 

床を拭き、レジ締めをし、誰がやっても同じように終わっていく。

 

だが今日だけは、後輩が妙に静かだった。

 

必要な会話以外を挟まない。

 

気を遣っているのか、聞くべきではないと思ったのか、そんなものは知らないし知る必要もない。

 

「......終わりました」

 

後輩が報告する。

 

俺は頷くだけで返した。

 

ロッカールームに向かう途中、後輩がふと口を開いた。

 

「あの......今日で最後なんですよね」

 

「ああ」

 

「一応、半年くらい......いろいろ、ありがとうございました」

 

「そうか」

 

言葉は受け取ったが、心で受け取ったわけではない。

 

別に無下にする必要もないが、必要以上に重ねる気もない。

 

俺にとってここまでの関係がここで終わる。

 

それだけだ。

 

ロッカーの扉が金属的な音を立て、制服を畳み、鍵を閉める。

 

「......じゃあ」

 

短く言って出口に向かおうとしたとき、背後から声が飛んできた。

 

「あの! 最後に一つだけ」

 

振り返ると、後輩が珍しく真っ直ぐこちらを見ていた。

 

過剰な明るさではなく、ただ失われた何かを確かめるような眼だった。

 

「先輩の言ってたこと......全部じゃないですけど、なんとなく分かる気もします。でも......」

 

その「でも」で、彼は一瞬だけ息を呑んだ。

 

「でも......そんな人ばっかじゃないですよ。人って、そんな単純でもないし......完全に信用できなくても、少しぐらいは、誰かを信じてみても......いいんじゃないですか」

 

言葉の端々に、迷いと、それでも伝えようとする意志が混じっていた。

 

優しい言葉だ。

 

きっと、誰かには刺さるだろう。

 

誰かには救いになるだろう。

 

だけど、俺ではない。

 

「......悪いが」

 

俺は肩をすくめた。

 

「俺は賢者じゃない。お前みたいに信じる理由を自然と持てるほど、整った人生を歩んじゃいないんだよ。経験でしか学べない。学んだ経験がこうなんだから、仕方ないだろ」

 

後輩は言い返せなかった。

 

否定しようとする気配はあったが、論ではなく感情でぶつかるしかないことを理解したのだろう。

 

「......まあ、お前が幸せに生きれてるなら、それでいいんじゃないか」

 

それは嫌味ではなかった。

 

ただの事実であり、俺にとっては手の届かない側の感想。

 

「......」

 

後輩は俯いた。

 

俺にはその姿をどう受け取るべきかも分からない。

 

哀れみか、落胆か、失望か、どれでもいい。

 

どうせ俺は、誰とも向き合う資格なんて最初から無い。

 

出口に向かって歩き出す。

 

ガラスの扉を押すと、夜の冷たい風が顔に触れた。

 

その向こうに広がる通りはいつもと変わらない。

 

ただ、今日でここを出る俺とは、もう何の関係も持たない。

 

「......先輩!」

 

背中に声が刺さる。

 

振り返らないまま、足だけを止めた。

 

「先輩は......本当は、今でも誰かと繋がりたいんじゃないですか......?」

 

その声には、ただの善意だけではない何かが混じっていた。

 

俺の全否定でもなく、諦めでもなく、ただ「事実として気づいてしまった」者の重さだった。

 

そんな問いは、耳に入った瞬間に、胸の底のどこかが氷のように冷えた。

 

繋がり、ね。

 

かつて憧れたもの。

 

もう二度と届かないもの。

 

そして今となっては、記憶の端に埃を被っただけの幻想。

 

俺は短く、ただこう答えた。

 

「......ガキの頃の話だよ」

 

そして振り返らず、一歩踏み出した。

 

扉が閉まる音だけが背後に残った。

 

それ以降、後輩の声はもう聞こえなかった。

 

***

 

先輩の背中が夜の闇に紛れていくのを、しばらく見送っていた。

 

街灯の光が、わずかにその影を伸ばし、そして途切れる。

 

蛍光灯の白さだけが、取り残された空気を照らしていた。

 

「......はあ」

 

ため息をひとつ。

 

別に重たいため息ではない。

 

ただ、受け入れざるを得ない現実を、口から逃がしただけの呼吸。

 

「......あの人は救われないよな」

 

ぽつりと呟く。

 

誰に聞かせるでもなく、ただ事実を並べるように。

 

「あの人は......無償の利益を、受け取れないんだ。誰かが手を差し伸べても、どうにかして返さなきゃ、って思っちゃう。借りを作るのが怖いんじゃなくて......借りを作れるような関係性を、最初から信じてないんだ」

 

後輩は雑巾を握ったまま、ぽつりぽつりと言葉を落とす。

 

「死んでも、誰かの好意をそのまま飲み込めない。ただ受け取ればいいだけなのに......返そうとするし、返せないものはそもそも受け取れない」

 

雑巾を見つめる目は、哀れみでも同情でもない。

 

もっと乾いたものだ。

 

「......誰も信じられないんだろうな。そして、あの人自身も、そんな自分をもう変えられないって知ってる」

 

言葉ではなく、理解として染み込んでしまう事実。

 

「救えないよ。救われようとする意思はあっても......その余力は、もう残ってない」

 

静かで冷えた口調だった。

 

「......まあ、俺なんかに何ができたわけでもないけどさ」

 

そう言って、後輩は照明のスイッチに手を伸ばした。

 

カチッと音が鳴り、店内が暗く沈んだ。

 

「......お疲れさま、先輩」

 

もう、その言葉が届く相手はいない。

 

***

 

その後、先輩と会うことはなかった。

 

連絡先はとうに消えているし、こちらが探す理由もない。

 

他のバイト仲間の口から、名前が出ることもなかった。

 

まるで最初からそのためだけに現れた物のように、その存在は跡形もなく薄れていった。

 

噂を耳にすることすらなかった。

 

どこで働いているのか、今どうしているのか......。

 

そんなことは誰にも分からない。

 

ただ一つだけ分かるのは、

 

「あの人は、きっとこれからも......経験に縛られたまま、孤独に誰もいない場所を歩いていくんだろうな」

 

ということだけ。

 

それが、世間的に見て幸せか不幸かなんて、誰にも決められるものじゃない。

 

ただ、

 

「多分、それがあの人の生き方だ」

 

後輩は鍵を閉め、最後に店を振り返った。

 

外の世界に溶け込むように歩き出す。

 

もう、二度と交わることのない道を。

 


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