レンズ越しの君へ   作:怖いか?令和の時代のゆゆゆ二次が……

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ここすきめっちゃ見てるので気軽にしていってくれると嬉しい!




6-4

 

 始まりのBGMを鳴らす。

 

 ぽろん、ぽろん、と丸い音が遊戯室に転がった瞬間、子どもたちのざわめきが少しだけ変わった。

 

「はじまる?」

 

「はじまるー!」

 

「しーっ、しーだよ!」

 

「しー!」

 

 誰かが言った「しー」が、なぜか周囲に伝播していく。

 

 しー。

 しー。

 しー。

 

 ただし音量はまったくしーではない。

 自己主張の強い静粛要請である。

 

 とはいえ、子どもたちの意識はこちらに向いた。

 掴みは悪くない。

 

 俺はパソコンの画面を確認しながら、BGMの音量を少しだけ下げる。

 いけるぞ、風。

 

 幕の裏で、風が小さく頷いた。

 

「みんなー! 今日は勇者部の交通安全人形劇に来てくれてありがとー!」

 

 幕の向こうから、風のよく通る声が響く。

 

「はーい!」

 

「ゆうしゃぶー!」

 

「ありがとー!」

 

 何にだよ。

 小さい子供ってオウム返しをよくやるの何でなんだろうな。

 

「これから、うさぎさんたちが横断歩道の渡り方を教えてくれるわよ。みんな、ちゃんと聞けるかなー?」

 

「きけるー!」

 

「きけなーい!」

 

「聞けるって言って!?」

 

 風のツッコミが早速飛んだ。

 

 いいぞ。

 掴みは完璧だ。

 

 続いて、幕の隙間から結城さんが犬の人形をぴょこっと出した。

 

「こんにちはー! ぼく、いぬのユウくんだよ!」

 

「いぬー!」

 

「わんわん!」

 

「わんわんだー!」

 

 子どもたちの食いつきがいい。

 

 結城さんの声は強い。

 大きいとか、明るいとかだけではない。

 聞く側を巻き込む力がある。

 

 声に手が生えていて、聴いている人間の手を引っ張っていくような感じだ。

 

 その後ろから、東郷がたぬきの人形を動かす。

 

「私は、たぬきのミモリです。今日はみんなで安全に公園へ行きましょう」

 

「たぬきー!」

 

「かわいー!」

 

「みもりー!」

 

 東郷の人形の動きは妙に丁寧だった。

 

 首の傾げ方。

 手の振り方。

 足元の位置。

 

 なんというか、品がある。

 人形にすら大和撫子成分を注入するな。

 

「でもでもー!」

 

 結城さんの犬人形が、ぴょんぴょん跳ねる。

 

「公園に行くには、大きな道路を渡らないといけないんだ!」

 

「どーろー!」

 

「くるまー!」

 

「ぶーぶー!」

 

「そう! 車が走っている道路では、ちゃんとお約束を守らないと危ないんだよ!」

 

 この辺りは台本通り。

 

 風の進行。

 結城さんの元気な犬。

 東郷の落ち着いたたぬき。

 

 そして、ここで樹ちゃんのうさぎが出る。

 

 黄色い帽子を被った、小さなうさぎの人形。

 舞台の端から、そろそろと顔を出した。

 

「……こ、こんにちは。うさぎの、いつきです」

 

 声が、少しだけ小さい。

 

 俺は音量メーターを見る。

 拾えてはいる。

 けれど、子どもたちのざわめきに、少しだけ埋もれそうだった。

 

「うさぎー!」

 

「きいろいぼうし!」

 

「なんてー?」

 

「きこえなーい!」

 

 その一言で、樹ちゃんの手が止まった。

 

 うさぎの人形が、舞台の上で小さく固まる。

 

 幕の裏にいる風の肩が、ぴくりと動いた。

 助けに入ろうとしたのだろう。

 

 その風の動きを制するように、BGMを少しだけ下げる。

 

 木琴の音を、邪魔にならないところまで落とす。

 マイクのゲインを、ほんの少し上げる。

 樹ちゃんの声が通るだけの隙間を作る。

 

 でも、声を出すのは俺じゃない。

 

 樹ちゃんは一瞬だけこちらを見た。

 

 大丈夫。

 

 止まっても失敗じゃない。

 言ったろ。

 それに、何があっても俺がなんとかする。効果音の力を信じろ! 

 

 ……なんでそこで呆れた顔するんだよ風。

 

 樹ちゃんは、うさぎの人形を握り直した。

 

「えっと……じゃあ、みんなに手伝ってもらってもいいかな?」

 

 その声は、さっきよりも少し震えていた。

 けれど、ちゃんと聞こえる声だった。

 

「いいよー!」

 

「てつだうー!」

 

「なにするのー?」

 

 子どもたちが一斉に反応する。

 

 樹ちゃんの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「道路を渡るとき、最初に見るのは……どっちだったかな?」

 

「みぎー!」

 

「そう。右を見て」

 

「みぎー!」

 

「次は?」

 

「ひだりー!」

 

「うん。左を見て」

 

「ひだりー!」

 

「それから……もう一回?」

 

「みぎー!」

 

「そう。もう一回、右を見るんだよ」

 

 園児たちの声が、遊戯室いっぱいに跳ねた。

 

 よし! 

 思わず、机の下で拳を握ってしまう。やばい、感動で泣きそう。

 樹ちゃん、立派になって……! 

 

「そうそう!」

 

 結城さんの犬人形が、ぴょんと跳ねる。

 

「みんなすごいね! じゃあ、今度は歌でやってみよう!」

 

「うたうー!」

 

「うたうー!」

 

「しってるー!」

 

「まだ知らないでしょ」

 

 風の小声のツッコミが幕裏から聞こえた。

 

 分かる。

 俺も思った。

 

 だが、子どもたちは知らない歌でも知っている顔をする。

 若さとは無限の自信である。

 

「みんなも一緒に歌ってくれるかなー?」

 

「はーい!」

 

「うたうー!」

 

「おっきいこえでー!」

 

 ははっ、お前たち、頼もしいな。

 それじゃぁ、木琴の音に、軽い手拍子を混ぜてっと。

 

 ぽん、ぽん。

 ぽん、ぽん。

 

 単純なリズム。

 子どもたちが真似しやすい速さ。

 

 樹ちゃんが、うさぎの人形を胸の前に持ってくる。

 

 そして、息を吸った。

 

「右を見て、左を見て」

 

 柔らかい声だった。

 

「もう一度、右を見て」

 

 最初の一音だけ、少し震えていた。

 

 けれど、もう止まらなかった。

 

「赤なら止まろう」

 

「あかならとまろー!」

 

「青なら進もう」

 

「あおならすすもー!」

 

 音程はばらばらだ。

 リズムも合っているようで合っていない。

 誰かが半拍早く、誰かが一拍遅い。

 

 だが、楽しい。

 

 人形劇の歌としては、それで十分だ。

 

 樹ちゃんの声は、そのばらばらな声の真ん中にちゃんとある。

 

 強く引っ張る声じゃない。

 上から包み込む声でもない。

 

 横に並んで、一緒に歩いてくれる声だ。

 

「手を上げて、ゆっくり渡ろう」

 

「てをあげてー!」

 

「ゆっくりー!」

 

「みんなで守ろう」

 

「みんなでー!」

 

「交通安全」

 

「こうつうあんぜん!」

 

 最後の言葉が、遊戯室に大きく響いた。

 

 子どもたちが拍手する。

 先生たちも笑っている。

 

 樹ちゃんのうさぎが、舞台の上でぺこりと頭を下げた。

 

 その動きが、少しだけ照れているように見えた。

 

「できたじゃん」

 

 俺は小さく呟く。

 

 聞こえたのか、風がこちらを見た。

 

 得意げで。

 嬉しそうで。

 少しだけ泣きそうな顔。

 

 おい。

 早いぞ姉。

 まだ本番中だ。

 

 だが、気持ちは分かるよ。

 だって俺も泣きそうだもん。

 

 舞台の上では、劇が続いている。

 

 動物たちが横断歩道を渡る場面では、全員で右、左、右と首を動かす。

 手を上げるところでは、ほとんどの子が高く手を上げた。

 

 その中で、結城さんの犬人形が少しだけ大げさに転びかける。

 

「あぶなーい!」

 

「走っちゃだめー!」

 

「ゆっくりー!」

 

「そうだね! ユウくん、気をつけます!」

 

 結城さんが即座に返す。

 

 上手い。

 自然に失敗例を入れて、子どもたちに注意させている。

 

 東郷のたぬきは、その横で静かに頷いた。

 

「慌てず、周囲を見て、落ち着いて渡ることが大切です」

 

「おちついてー!」

 

「おちついてー!」

 

 子どもたちが繰り返す。

 

 いい流れだ。

 

 俺はカメラの画角を確認する。

 園児たちの顔は映していない。

 舞台側、勇者部側、人形の動き、手を上げる小さな腕の後ろ姿だけ。

 

 公開用としても使える。

 記録としても残せる。

 

 何より、良い場面だ。

 

 最後に、動物たちは無事に公園へたどり着いた。

 

 布で作られた小さな公園。

 紙の木。

 折り紙の花。

 ちょっと歪んだ滑り台。

 

 そこに、うさぎのいつきが立つ。

 

「みんなが教えてくれたから、ちゃんと渡れたよ」

 

 樹ちゃんの声が、さっきよりも自然に出ていた。

 

「ありがとう」

 

「どういたしましてー!」

 

「またねー!」

 

「うさぎさーん!」

 

 子どもたちが手を振る。

 

 うさぎの人形も、小さく手を振り返した。

 

 そして最後に、もう一度だけ歌う。

 

 結城さんも、風も、東郷も。

 園児たちも一緒になって歌う。

 

「右を見て、左を見て」

 

「もう一度、右を見て」

 

 ばらばらで。

 にぎやかで。

 少し音程が外れていて。

 

 けれど、ちゃんと一つの歌だった。

 

「みんなで守ろう、交通安全」

 

 最後の一音が、遊戯室に残る。

 

 一瞬の間。

 

 それから、子どもたちの拍手と歓声が弾けた。

 

「すごーい!」

 

「もういっかい!」

 

「うさぎさんかわいー!」

 

「ゆうしゃぶー!」

 

 幕の裏で、樹ちゃんがうさぎの人形を抱きしめる。

 

 顔を赤くして、でも、嬉しそうに。

 

「……できた」

 

 その小さな声を、マイクは拾わなかった。

 

 でも、俺には聞こえた。

 

 風にも、たぶん聞こえていた。

 

 だから風は、樹ちゃんの肩にそっと手を置いて、満面の笑みで言った。

 

「よくやったわね、樹」

 

 樹ちゃんは、少し泣きそうな顔で笑った。

 

「……うん」

 

 拍手はまだ続いている。

 

 俺は録音を止めずに、カメラも止めずに、その音を少しだけ長く残した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人形劇が終わった。

 幕を下ろした瞬間、舞台裏の空気が一気に弛緩する。

 

「ふぅー……!」

 

 風が台本を胸元に抱えたまま、大きく息を吐いた。

 

「なんとかなったわね!」

 

「なんとかどころか、大成功じゃないか?」

 

 俺は録画停止ボタンを押しながら答える。

 画面の中には、拍手する子どもたちの後ろ姿と、舞台の向こうで頭を下げる勇者部の面々が綺麗に収まっていた。

 

「みんな、すごく楽しそうでしたね!」

 

 結城さんは犬の人形を抱えたまま、満面の笑みを浮かべている。

 さっきまで舞台の裏にいたはずなのに、もう何人かの園児に手を振られていた。

 

「ゆうなおねーちゃーん!」

 

「またきてねー!」

 

「うん! またねー!」

 

 結城さんが手を振り返す。

 園児たちの反応が良すぎる。
 もしかして、結城さんは年齢問わず生命体への好感度補正でも持っているのだろうか。
 初期値が高すぎる。

 

「樹ちゃんもすごかったよ!」

 

 結城さんがくるりと振り返る。

 

「歌、すごくよかった!」

 

「えっ、あ、ありがとうございます……」

 

 樹ちゃんはうさぎの人形を胸に抱いたまま、頬を赤くした。

 まだ少し照れている。
 けれど、本番前の硬さはもうない。

 緊張が溶けた後の、少しふわふわした笑顔。

 

 あれは良いものだ。

 眼鏡をかけたらもっと良い。

 いや、今は言わない。
 俺も空気くらい読む。
 読んだ上で、心の中ではしっかり眼鏡をかけさせる。
 これが大人の配慮である。

 

「ほんと、よく声出てたわよ、樹」

 

 風が樹ちゃんの肩に手を置く。

 

「最初はちょっと緊張してたけど、歌い始めてからはちゃんと声出てたわね」

 

「お姉ちゃん……」

 

「アタシの自慢の妹だわ」

 

「も、もう……!」

 

 樹ちゃんがますます赤くなる。

 風はにやにやしながら、樹ちゃんの頭をわしゃわしゃ撫でた。

 

「わっ、ちょっと、お姉ちゃん!」

 

「いいじゃない。頑張ったご褒美よ」

 

「髪、乱れるよぉ……」

 

 そう言いながらも、樹ちゃんは嫌そうではなかった。

 姉妹だなあ。

 などと、俺が微笑ましい気持ちで見ていると、風がこちらを見た。

 

「オトもありがとね。音響、かなり助かったわ」

 

「ん? ああ、別に」

 

 俺はパソコンの画面に視線を戻しながら、軽く手を振る。

 

「俺は裏方やってただけだしな。主役は樹ちゃんと勇者部だろ」

 

「そういうとこ、ほんと素直じゃないわね」

 

「素直だが?」

 

「どこがよ」

 

「心が常に眼鏡に対して開かれている」

 

「閉じなさい」

 

「なんでだよ」

 

 ひどい。

 眼鏡に心を開くことは、世界の美しさに心を開くことと同義なのに。

 

「でも、本当にありがとう、オトくん」

 

 樹ちゃんが、こちらへ一歩近づいてくる。

 

「マイクとか、音楽とか……オトくんが調整してくれたから、安心できた」

 

「いや、樹ちゃんの声が良かったからだよ」

 

「えっ」

 

「音響は支えただけ。元の声が良くなきゃ、どうにもならん。ほれ、これ録音してた波形のデータ」

 

 俺は画面を樹ちゃんたちに見せる。

 

「これ、樹ちゃんの歌のところ。最初はちょっと小さいけど、ここから綺麗に伸びてる」

 

「わ、波形って、こうやって見るんですね」

 

 お、興味あるか。

 まあ、普通はあんまり見る機会もないだろうしな。

 

「そう。音ってのは目に見えないようで、こうすれば形として見える。で、これはちゃんと届いてる音だ」

 

「届いてる……」

 

「うん」

 

 俺は画面を指差す。

 

「樹ちゃんの声、ちゃんと届く綺麗な声だよ」

 

 樹ちゃんは、しばらくその波形を見つめていた。

 録音データに残った、自分の声。

 歌っている自分。
 子どもたちと一緒に声を合わせている自分。

 それをどう受け取ったのかは、俺には分からない。

 ただ、樹ちゃんはやがて、小さく笑った。

 

「……嬉しい」

 

「樹」

 

 風が少しだけ柔らかい声で呼ぶ。

 

「私、やっぱり歌うの好き」

 

 風の顔が、くしゃりと緩んだ。

 

 おい。
 姉。
 耐えろ。
 ここは保育園だぞ。
 いや、別に泣いてもいい場所ではあるが。

 

「そっか」

 

 風はそれだけ言って、樹ちゃんの肩を軽く抱いた。

 

「なら、もっと歌いなさいよ。樹の好きなことなんだから」

 

「……うん」

 

 樹ちゃんは照れくさそうに、でも嬉しそうに頷いた。

 いい場面だった。

 静かで。
 あたたかくて。
 ちゃんと残す価値のある場面。

 俺は録音データに仮名をつけて保存する。

 

 300_交通安全人形劇_樹歌唱_take1

 

 ファイル名が硬い? 
 うるせえ。
 管理しやすさが最優先だ。
 詩的なファイル名は後々分からなくなる。

 

 そうしている間に、保育園の先生がこちらへ歩いてきた。

 

「勇者部のみなさん、本当にありがとうございました。子どもたちもすごく楽しそうで」

 

「こちらこそ、ありがとうございました!」

 

 風が部長として頭を下げる。

 

「交通安全の内容も、とても分かりやすかったです。歌も子どもたちがすぐ覚えていて」

 

「よかったです!」

 

 結城さんが嬉しそうに笑う。

 

「帰りのお迎えの時に、保護者の方にも子どもたちから話してくれると思います」

 

「それなら大成功ですね」

 

 東郷が穏やかに微笑む。

 

「子どもたちが自分の言葉で伝えられるなら、交通安全の意識も根付きやすいと思います」

 

「そうですね」

 

 保育園の先生も頷いた。

 東郷がまともなことを言っている。

 いや、いつもまともではあるのだ。
 ただ時々、まともな道から国防方面へ急ハンドルを切るだけで。

 

「映像の方は、確認用に一度こちらへお送りします。公開する場合は、園児の顔が映らない形で編集しますので」

 

 俺がそう言うと、先生は安心したように頷いた。

 

「ありがとうございます。そこまで気を遣っていただけるなら助かります」

 

「いえ。そこはちゃんとしないとまずいので」

 

 子どもの映像を扱うのは慎重でなければならない。
 勇者部配信がいくら良い活動でも、善意だけで突っ走るのは危ない。

 人の善意を、ちゃんと守れる形に整える。
 それも裏方の仕事だ。

 

 ……まあ、俺が普段投稿している動画も、身バレだけは死ぬほど気をつけているからな。
 そこは実感込みである。

 

「ねーねー」

 

 ふいに、足元から声がした。

 見下ろすと、さっき俺のPCを狙っていた男の子がこちらを見上げていた。

 

「ん? どうした?」

 

「にーちゃん、さっきのぱそこん、またみせてー」

 

「お、いいぞ。ただし触るのは一回だけな。あと変なキーを押すなよ。俺の人生が終了する可能性がある」

 

「じんせい?」

 

「大人の積み木だ」

 

「よく分かんない!」

 

「俺も自分で言っててよく分かってない」

 

 男の子を膝の近くに座らせ、俺は画面の一部を見せる。

 もちろん、触られて困るデータは閉じておく。
 音見咲関連のフォルダは絶対に見せない。
 万が一、保育園児経由で俺の正体が世界に漏れるなど、あまりに情けない終焉である。

 

「これがさっきの音?」

 

「そう。声を録ったやつ。ここが歌ってるところ」

 

「へー。なみなみしてる!」

 

「そうそう。音のなみなみだ」

 

「うさぎさんのこえ?」

 

「そう。うさぎさんの声」

 

「うさぎさん、うたじょうずだった!」

 

 男の子が満面の笑みで言った。

 その声は、樹ちゃんにも聞こえたらしい。

 樹ちゃんは一瞬驚いて、それから嬉しそうに笑った。

 

「……ありがとう」

 

「またうたってねー!」

 

「うん。また、歌うね」

 

 おお。

 これはいい。

 非常にいい。

 今の一言、録音しておけばよかった。
 いや、録音はしている。
 マイク、まだ切ってない。
 よし。
 俺、有能。

 

「オトくん、今ちょっと悪い顔してるよ」

 

「樹ちゃんの成長記録を残すべきだと思って」

 

「言い方!」

 

 風は隣で笑っていた。

 

「いいじゃない。今日の樹はちゃんと残しときなさいよ」

 

「任せろ。ま、そのためにも……機材の収納も終わったしぼちぼち撤収を……」

 

 しようとした、その時。

 

「あー!」

 

 一人の女の子が、俺を指差した。

 嫌な予感がした。

 すごくした。

 

「どろんこせんぱいだ!」

 

 遊戯室の空気が止まった。

 俺の中の時間も止まった。

 

 どろんこ。

 せんぱい。

 

 なぜ。
 なぜその名を知っている。
 いや、答えは分かっている。
 花壇動画だ。
 勇者部配信だ。
 東郷が採用を強要した、あの忌まわしき泥まみれカットだ。

 俺はゆっくりと東郷を見た。

 東郷は、実に晴れやかな笑みを浮かべていた。

 

「有名人ですね、先輩」

 

「東郷、お前……!」

 

「必要な素材でしたので」

 

「その言葉で全部許されると思うなよ!」

 

「どろんこせんぱーい!」

 

「どろんこー!」

 

「どろんこにーちゃん!」

 

「やめろ増えるな! 俺の人生に変な二つ名を増やすな!」

 

 子どもたちがわらわらと寄ってくる。

 やめろやめろまとわりつくな! 

 

「どろんこせんぱい、またきてねー!」

 

「その名前で呼ばなかったら来る!」

 

「じゃあ、どろんこせんぱい!」

 

「交渉決裂!」

 

 結城さんが横で腹を抱えて笑っている。

 

「岬先輩、すごい人気ですね!」

 

「人気の方向性が不名誉なんだよ!」

 

 風も笑っていた。

 

「あははっ、よかったじゃない。子どもたちにも覚えてもらえて」

 

「覚え方!」

 

「親しみやすいんじゃない?」

 

「泥経由で親しまれたくねえ!」

 

 樹ちゃんも、口元を押さえて笑っている。

 

「で、でも……子どもたち、オトくんのことも覚えてくれてたんだね」

 

「樹ちゃん、その優しい解釈は嬉しいけど俺の尊厳は戻らない」

 

「ご、ごめんね」

 

「謝られると余計に惨め!」

 

 くそ。
 勇者部め。
 俺を素材にした結果、保育園児にまで変な二つ名が浸透している。

 このままではいけない。
 俺の名誉回復が急務である。

 具体的には、次の動画で知的でクールな映像担当としての俺を──

 

「どろんこせんぱい、めがねすきなのー?」

 

 別の子が聞いてきた。

 俺は膝をつき、その子の手を取った。

 

「好きだ」

 

「おお……」

 

「世界で一番好きだ」

 

「すごい!」

 

「いいか。眼鏡とはな、人の顔に寄り添い、輪郭を整え、その人の魅力を──」

 

「オト」

 

 風の低い声。

 振り向くと、風が笑顔でこちらを見ていた。

 目が笑っていない。

 

「保育園で布教しない」

 

「はい」

 

 俺は即座に正座した。

 

 最終的に、俺は保育園児たちから「どろんこせんぱい」として手を振られながら見送られることになった。

 

「またねー!」

 

「どろんこせんぱーい!」

 

「うさぎさんもまたうたってねー!」

 

「ゆうしゃぶー!」

 

 にぎやかな声が、保育園の門の内側から飛んでくる。

 樹ちゃんは少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに手を振り返していた。

 

「またね」

 

 風が隣を歩きながら言う。

 

「……ありがと」

 

「だから別に礼を言われることじゃないって」

 

「言いたいから言ってるのよ」

 

 風はそう言って、前を歩く樹ちゃんを見た。

 樹ちゃんは結城さんと並んで、今日の園児たちの話をしている。
 東郷は結城さんに車椅子を押されながら、友奈ちゃんの安全がどうとか言っている。

 

 いつもの勇者部。

 少し騒がしくて。
 少し変で。
 でも、ちゃんと誰かのために動ける連中。

 

 俺はカメラケースの重みを肩に感じながら、小さく息を吐いた。

 

 今日もまた、良い素材が増えた。

 編集でどう切るか。
 どこを残すか。
 どれを使うか。

 考えることは山ほどある。

 

 でも、少なくとも一つだけは決まっていた。

 

「勇者部の歌姫から四国の歌姫に……なんてな。気が早いか」

 

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