継ぐもの~クシノ理事の金継ぎ修繕録~   作:rairaibou(風)

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6:伝統の継ぎ方~二つの記録、一つの継ぎ目~

 日曜の朝は、ヤマブキシティの空気さえ、いつもより幾分か柔らかく感じられた。

 

 クシノの自宅マンション、リビング。朝食を終えたばかりのダイニングテーブルには、コーヒーの残り香だけが漂っている。窓の外では休日らしい緩慢な光が高層ビル群の谷間を滑り、床にまだらな陰影を描いていた。

 

 クシノは椅子に深く座り直し、端末の画面へ視線を落としている。今日のスケジュールを一つずつ確認していく手つきは、始動前のエンジンに計器を当てる整備士のそれによく似ていた。狂いがあってはならない。

 

 今日は、エンジュの蔵元へ初めて足を運ぶ日だ。

 きのみの果実酒を扱う自分の事業を、いよいよ清酒の蔵と組んで広げる。何年も寝かせてきた話が、ようやく仕込みに入る。手元の資料には、蔵の沿革と杜氏の経歴、仕込み水の硬度まで、細大漏らさず目を通してあった。

 

 抜かりはない。

 

 テーブルの端には、今朝届いたばかりの経済誌が置かれている。特集が組まれることは、以前から編集部を通じて聞かされていた。だが、目を通す暇がなかった。正確に言えば、後回しにしていた。この手の記事に構っている時間があるなら、蔵元の資料をもう一度読み込む方が、よほど実になる。

 

 そう、思っていた。

 

 向かいに座ったアヤカが、食後のコーヒーを片手にその雑誌を取り上げた。ぱらぱらと頁をめくる指が、あるところでぴたりと止まる。目当ての頁を見つけたのだろう。口の端が、悪戯を思いついた子供のように歪んだ。

 

「ちょっと、これ見た?」

 

 声に張りがある。面白いものを見つけた声だ。

 

「金髪碧眼のコガネ商人、ですって」

 

 わざとらしく抑揚をつけて読み上げる。

 

「『ビジネスに新たな風を吹かせる元リーグトレーナー』」

 

 にやにやと笑いを堪える気配が、声の端々に滲んでいた。

 

 クシノは端末から目を離さず、片手をひらひらと振った。

 

「ああ、それな。適当に書かれとるだけやろ」

 

 興味は薄い。経済誌の見出しなど、大抵はこの手の煽り文句で客を釣るものだ。何度も経験してきた。今更、驚きも苛立ちもしない。

 

 だが、アヤカは頁をめくる手を止めなかった。

 

「農園の話も一応載ってるわね。革靴のことも……あら」

 

 小さな声が漏れる。

 

「意外と少ないのね、そのへん」

 

 クシノの指先が、端末のスクロールを止める。

 

 記事の重心は、農園経営の実績にも、アパレルや革靴事業の数字にもない。丹精込めて仕込んだ中身より瓶のラベルばかりを語る酒評のように、大半の紙面が割かれていたのは、クシノの容姿と、名門クシノ家という出自、そして『元Bリーガー』という経歴だった。

 

「『名門クシノ家の異端児は、なぜトップトレーナーになれなかったのか』だって」

 

 アヤカが、その一節だけを特に面白がるような声で読み上げた。

 

 クシノの手が、止まった。

 

 沈黙。

 

 やがて、こめかみのあたりにじわりと熱が上る。表情から、先ほどまでの余裕が音もなく抜け落ちていった。

 

「なんでや」

 

 低い声だった。

 

「革靴の件かて、ちゃんと数字出しとるし、農園の拡張もこの一年で結果出しとるやろ。なんでそっちは扱い小さいねん」

 

 積み上げてきた数字が、数字として見られない。丁寧に引いた出汁の味より、盛り付けの見栄えばかりを褒められる料理人の気分だ。血統と過去の挫折の方が、よほど売れる記事になる。理屈では分かっている。分かっているからこそ、始末に負えない。

 

 こういう扱いには慣れているつもりだった。子供の頃から、ずっとそうだった。だが、慣れているということと、堪えないということは、まるで違う。今日もまた、古い傷の縁を指の腹でそっとなぞられたような、鈍い感触が残った。

 

「もうこの雑誌の取材は断るわ」

 

 きっぱりとした声だった。

 

「仕事に悪影響が出たらどうすんねん」

 

 単なる愚痴の延長ではない。今後の対応を、実際に変えると決めた者の声だった。

 

 断定。

 

 アヤカは面白がる表情を崩さないまま、少しだけ首を傾げた。それから、核心をひとつだけ、静かに置く。

 

「そんなに怒るってことは、それなりに気にしてるってことよね」

 

 図星だった。

 

 言い返す言葉が、喉の途中で行き場を失う。クシノはコーヒーカップを持ち上げ、とうに冷めた中身に口をつけた。誤魔化すための一口だ。味など、ほとんどしなかった。

 

 アヤカはそれ以上追い詰めることなく、あっさりと話題を切り替えた。

 

「それより、今日はエンジュだったわよね」

 

 その一言で、クシノの意識が仕事へと引き戻される。端末のスケジュールを、もう一度確認し直した。十時、蔵元到着。

 

「ああ」

 

 クシノは端末を閉じ、椅子から立ち上がった。

 

「初めて顔出すんや」

 

 

 瓦屋根と白壁が連なる、古い商家造りの建物。エンジュシティの目抜き通りから一本奥まった路地に、その蔵はひっそりと佇んでいた。

 

 クシノが車を降りると、蒸した米と麹の匂いが鼻先を掠める。仕込みの盛りにしか放たれない、あの独特の甘く重い匂いだ。良い蔵に共通する、最初の兆候だった。

 

 だが。

 

 敷地に足を踏み入れた瞬間、クシノの目が細くなる。

 

 この時期であれば、蔵は本来、ニャースの手も借りたいほどの繁忙を極めているはずだ。杜氏――蔵の酒造りを取り仕切る、いわば現場の総責任者――を筆頭に蔵人たちが立ち働き、活気で足の踏み場もない。それが業界の常識だった。

 しかし、目に入る人影はあまりにも少ない。使われていない一角には、蒸し米を作るための道具が埃をかぶって積まれ、外壁の一部は補修も後回しにされたまま、長年の風雨に晒されて塗装がめくれている。手入れを怠ったヴィンテージカーが、ボディだけ磨かれて足回りは錆びていくのに似ていた。

 

 事前に読み込んだ資料の数字が、頭の中で改めて像を結ぶ。

 負債。減り続ける出荷量。底をつきかけている運転資金。

 クシノの会社からの出資が入らなければ、この蔵は今期を越せない。目の前の光景は、その数字を裏付けているに過ぎない。

 

 抜かりはない。

 

 だからこそ、この訪問がただの視察ではないことを、クシノは改めて自覚する。

 

 

 

 

 母屋の玄関先には、すでに恰幅の良い初老の男が一人、出て待っていた。作務衣の袖から覗く腕は、長年の作業で節くれ立っている。

 クシノの姿を認めるなり、値踏みするような目つきではなく、むしろ客の機嫌を損ねまいと気を配っている様子を隠しきれないまま、深々と腰を折った。揉み手に近い仕草で、両手を擦り合わせる。

 

「わざわざご足労いただきまして。手前、この蔵の主をしとりますサガラと申します」

 

 差し出された名刺を、クシノは両手で受け取った。

 

「クシノです。急に押しかけて、すんませんな。よろしゅうお願いします」

 

 一礼を返す。社交辞令の応酬もそこそこに、サガラは続けて言葉を継いだ。

 

「いやあ、写真より凛々しいお方でいらっしゃる。あの雑誌、手前どもも拝読させてもろたんですわ」

 

 訛りを隠しきれないまま、それでも懸命に敬語を取り繕おうとする口調。さりげなく、しかし確実に、あの経済誌を読んだことをアピールしてくる。

 

 朝の一件が、脳裏をよぎった。だが、それを今ここで持ち出す義理はない。表情には出さず、クシノは一旦それを受け流した。

 

「そんなん、話半分に読んどいてください。今日は、ゆっくり蔵の中を見せてもらえたら思っとります」

 

 サガラに促され、蔵の内部を見て回る。

 薄暗い土間に足を踏み入れると、外の喧騒とは切り離された、ひんやりとした空気が肌を撫でた。木製の大桶がずらりと並び、麹の甘い香りを纏った醪――蒸米と水と麹を仕込んで発酵させている、酒になる前の白い粥のようなもの――が、ゆっくりと呼吸するように泡を立てている。

 

 その瞬間、サガラの背筋が、すっと伸びた。先ほどまでの揉み手混じりの卑屈さは、もうどこにもない。自分の結界に足を踏み入れた者だけが纏う、静かな威厳がそこにあった。

 

「うちはずっと、生酛造りを崩したことがおまへんのや」

 

 生酛――乳酸菌を薬品で足すことをせず、蔵に棲みついた野生の菌だけを頼りに育て上げる、最も手間のかかる昔ながらの造り方だという。桶の縁に手を掛け、中を覗き込みながらサガラは語り始めた。

 

「乳酸菌も、酵母も、外から足すことは一切せえしまへん。この蔵に棲みついとる菌だけを信じて、米を摺って、寝かせて、また摺って。手間も時間も、機械仕込みの十倍はかかりますけどな」

 

 仕込み水は裏山から染み出す伏流水だという。杜氏としての経験と勘だけを頼りに、毎年微妙に異なる米と水の性質を読み、狙った酒質へと着地させる。サガラは訥々と、しかし誇らしげに語り続けた。

 

「ええ仕事しとりますな」

 

 クシノは素直に漏らした。世辞ではない。数字だけを見て蔵の価値を測っていた自分の目が、少しだけ恥ずかしくなるほどの手仕事だった。

 

 言葉の端々に、揺るぎない誇りがにじむ。それは、先ほど目にした埃まみれの道具や崩れかけた外壁とは、あまりにも不釣り合いなほど確かなものだった。

 

「これだけの技術があって、なんでこないな状況になっとるんです」

 

 遠慮も気遣いもない、率直な問いだった。経営者として、聞かずにはいられなかった。

 

 サガラの表情が、微かに曇る。何かを言いかけて、一度、飲み込んだ。

 

 

 

 

 案内を終え、サガラは蔵の中央の小上がりへとクシノを促した。茶を淹れる手つきに、わずかな翳りが差す。先ほどまでの張りが、ふっと抜け落ちていた。

 

「せやけど」

 

 湯呑みを置きながら、サガラが切り出す。

 

「今どきこの商売、新しゅう興すいうことが、でけへんのですわ。お上の定めでして、清酒の免許いうんは、もう何十年も新しゅう下りてまへん。潰れたら潰れたきり。どなたかが継がはるか、そのまま無うなってしまうか、どっちかしかおまへんのや」

 

「継ぎたい言わはっても、今どき酒蔵継ぎとうなる若いお人も、なかなかおらしまへんしなあ」

 

「せやから、免許ごと蔵を継げる人間を探しとるいうことですか」

 

 クシノは静かに確認した。事務的な問いのようでいて、その声には、資料の数字だけでは掴めなかった重みへの理解が滲んでいる。

 

 サガラは小さく頷き、湯呑みの中の茶を見つめたまま、また息を吐いた。

 

 これは単なる経営難ではない。この蔵が畳まれれば、清酒の免許そのものが、この国から一つ消える。再発行の利かない資産を、この老いた男は一人で背負い続けているのだ。

 

 沈黙。

 

 サガラは湯呑みを両手で包み、初めてクシノの果実酒について口にした。

 

「クシノさんの酒、以前から存じ上げとります。飲ませてもろたこともおますよ。正直申し上げて、言いたいことがないわけやおまへん」

 

 口元に、微かな笑みが浮かぶ。皮肉ではない、職人としての率直さだった。

 

「せやけど、あれだけの本数を出しておられることを考えたら、十分すぎるほど大したもんですわ。あの味であの数を出せるいうんは、そらぁ売れる理由もようわかります」

 

「おおきに」

 

 クシノは短く返した。量産という前提を踏まえた上での、公正な評価だった。追従とは、明らかに質が違う。

 

 サガラは手元の猪口――小さな酒器――に視線を落とす。

 

「うちの酒はですな、味には自信がおます。昔は、それなりに高貴なお方に献上させていただいとった歴史もあるんですわ。せやけど」

 

 湯呑みを持つ手が、微かに強張った。

 

「それを世間さまにお見せする、伝える才覚いうんが、わしにはおまへんでした」

 

 謙遜ではない。事実として、そう認めている声だった。

 

「従業員を路頭に迷わせるわけには、いきまへんのや」

 

 その一言に、経営者としての苦悩の核心があった。技術への誇りと、それを守りきれなかった不甲斐なさ、自分一人の問題ではないという責任の重さが、同時ににじんでいる。

 

 サガラは一度言葉を切り、湯呑みの縁を指先でなぞった。迷うような間を置いてから、また口を開く。

 

「実を言いますとな。地元の銀行さんにも、コンサルの先生方にも、もう何遍も頭下げに回りましたんや。せやけど、どこも数字だけ見て『採算合いまへんな』の一言で終わりですわ。うちの酒、口にもしてもらえんとね」

 

 乾いた笑いが、一つこぼれた。自嘲でも卑下でもない、ただ疲れ果てた者だけが浮かべる類の笑みだった。

 

 サガラは湯呑みを置き、両手を膝の上で揃えると、居住まいを正した。

 まだクシノは、具体的な提案の一つも口にしていない。値段の話も、契約の細部も、これからだ。それなのに、老人は先回りするように頭を下げた。

 

「クシノさん。看板でも、造りでも、なんぼでも好きにしてもろて構わへん。うちの流儀に拘って、この蔵ごと潰すわけにはいかんのですわ」

 

 あまりに早すぎる、あまりに大きすぎる譲歩だった。

 条件も交渉も飛び越えて、まだ会ったばかりの相手に、蔵の看板から造りの中身まで、丸ごと差し出す。それは信頼というより、藁にもすがる者が、握った手を離せなくなっている姿に近かった。

 

 クシノの中で、小さな違和感が灯る。

 

 この人は今、何もかも手放す覚悟を、あっさりしすぎるほどあっさりと口にしとる。

 

「サガラさん」

 

 クシノは静かに口を開いた。

 

「才覚がないて仰いましたけど、俺の目から見たら、それは十分すぎるほどの経営判断ですわ。守りたいもんの順番、間違えてまへんで」

 

 飾らない、実務家としての評価だった。慰めではない。数字と現場、両方を見た上でのフラットな判断だ。

 

 サガラは一瞬、意表を突かれたような顔をして、それから深く頭を下げた。

 

 サガラに促され、クシノは利き酒――酒の色や香り、味を見極める鑑定の作業――に移った。白磁の猪口が五つ、盆の上に並ぶ。

 

 一つ目を手に取り、まず色を見る。わずかに黄みを帯びた透明。鼻を近づけ、立ち上る香りを吸い込んだ。米の甘みの奥に、乳酸由来の穏やかな酸が横たわっている。舌の上で転がし、喉へ送る速度も緩やかに保った。急いては、酒の輪郭を見誤る。

 

 二つ目、三つ目と、順に替えていく。

 

 どれも、造りは正しい。狙った酒質へ迷いなく着地している。米の旨みと酸のバランスは繊細で、後味の切れも申し分ない。サガラの言葉は、誇張ではなかった。

 

 技術的な質の高さと、それを届けきれていない歯痒さ。この酒は正しく仕込まれている。ただ、誰に、どう届けるかという部分だけが、決定的に欠けていた。丹精込めて挽いた豆を、淹れ方を誰にも教えないまま棚の奥に仕舞い込んでいるようなものだ。

 

「サガラさん」

 

 五つ目の猪口を置き、クシノは真っ直ぐにサガラを見た。

 

「これは、直せますわ」

 

 短い一言だったが、迷いのない声だった。

 

「技術は満点や。あとは、これをどう外に出すかいう設計の話だけです。うちの流通と、うちのブランドがあれば、この酒を寝かせとく理由はもうおまへん」

 

 サガラの目に、安堵とも希望ともつかない光が、初めて灯った。

 

 場の空気がわずかに緩む。その肩からも、多少の力が抜けていた。

 

 その時、懐で端末が短く震えた。

 

 予兆。

 

 クシノは断りを入れ、画面に視線を落とす。

 

 表示されていたのは、協会からの連絡だった。

 

 

 瓦屋根と白壁の記憶は、一晩明けてもまだ鼻の奥にわずかに残っている気がした。

 もちろん、そんなはずはない。エンジュから戻り、すでに一夜が明けている。クシノは今、ヤマブキシティの理事執務室にいた。整然と片付いたデスク、窓の外に広がる高層ビル群。あの蔵の湿った土間とは、何もかもが対極にある場所だ。

 

 ノックの音が、二度。

 返事を待つ間もなく、というほどではないが、いつもの折り目正しい歩調よりも幾分か性急な調子で、扉が開いた。

 

 入ってきたのは、ヒシダだった。

 片手に、小さな菓子折りを提げている。

 

 昨日、蔵元で猪口を置いた拍子に届いた、あの短い震え。画面に浮かんでいた差出人の名を、クシノは今になって思い出す。ヒシダだった。急ぎの用件があるとだけ記されていた、あの連絡の主が、今、目の前に立っている。

 

 クシノは一瞬、その手土産に目を留めた。

 この男が、私的な用件でもない限り、こういう気の遣い方をする人間ではないことを、クシノはよく知っている。あの一件――ゲンゾウのボールを直した、あの一連の出来事――以来、たまに見せるようになった、不器用な人間味の表れだった。エンジンの調子が変わったことに、乗り手だけが気づくようなものだ。

 

 ヒシダは椅子を勧められる前に、手短に要件を切り出した。無駄を嫌う男らしい入り方だった。

 

「単刀直入に申し上げます。フスベの件で、お力をお借りしたい」

 

 固い標準語。感情の抑揚を排した話し方は変わらない。だが、その内容自体が、この男にとって相当に踏み込んだ申し出であることは、声の硬さから伝わってきた。

 

 フスベ。ドラゴン使いの一族。

 

 クシノの頭の中で、以前資料室で読み込んだ記録が、瞬時によみがえった。人であってはならない、完全なる機構でなければならないと記された、古い調査報告書の一節。あの街の閉じた空気は、まだ記憶に新しい。

 

「協定更新の交渉です。議題は二つ」

 

 ヒシダが手元の資料を開く。

 

「一つはジム施設の改修。もう一つは、一族の伝統行事への協会側の公式参加です」

 

「伝統行事というのは、具体的には」

 

 クシノは尋ねた。ここから先は、クシノ自身も持ち合わせていない情報だ。

 

「年に一度、長であるイブキ氏が、その年の一族の出来事を始祖に報告する儀式だそうです。同時に、新たにドラゴンポケモンと共に生きることになった子供が、そのポケモンと誓いを交わす場でもあると」

 

 クシノの表情が、微かに強張った。

 

「子供、ですか」

 

「はい。一族の子は、生まれてしばらくすると、一頭のドラゴンポケモンと組を成すことになる。その最初の誓いを立てる夜だと聞いています。そしてその夜は、一族全体が外部との交信を一切断つと記録にありました」

 

 外部との交信を断つ。

 その一文だけで、これがどれほど閉じた領域の話か、クシノには察しがついた。

 

「そこに、協会の人間を送り込みたいと」

 

「安全管理の名目です」

 

「私が育てた部下を送りました。データに基づいた提案、安全管理の観点からの論理立て。準備に抜かりはなかったはずです」

 

「それで、あかんかったと」

 

「両方とも、実質的に進んでいません。特に伝統行事の件は、初回の面会で、ほぼ取り付く島もない状態だったと」

 

 クシノは黙って聞きながら、内心で計算していた。

 ヒシダの交渉能力は、決して低くない。むしろ組織内でも指折りだということを、クシノ自身がよく知っている。データを武装させ、隙のない論理を組み立てさせることにかけて、この男に抜かりはない。仕立ての狂いなど一寸もない、極上のスーツのような仕事をする。

 

 だが、その部下が完全に手詰まりになったということは、単なる準備不足の問題ではない。保守派の中でも特に頑ななドラゴン使いの一族、それも長であるイブキが相手だ。ロジックの外側にあるものを読めなければ、どれだけ優秀な人間でも入り口にすら立てない。

 

「その後、先方から名指しの要請がありました。クシノ理事に代わってほしい、と」

 

 ヒシダの声に、隠しきれない困惑が滲む。

 

「理由は明かされていません。私なりに調べましたが、要領を得ない。あなたと先方の間に、何か接点があるのですか」

 

「さあ。心当たりはありませんね」

 

 正直な答えだった。この時点でクシノの頭に浮かんでいたのは、以前フスベの資料を人並み以上に洗った経験があるという事実くらいのもので、それ以上の推測は及んでいない。

 

 疑問。

 

 ヒシダはそれ以上追及しなかった。追及したところで出てくる答えではないと、その表情が語っている。

 

「なぜ、これほど反発が強くても、この議題を降ろせないのか。先に説明させてください」

 

「一つは、スポンサーの意向です。以前から、フスベを将来的な観光資源として開拓したいという思惑をお持ちの方がいる。伝統行事への公式参加は、その足掛かりとして望まれています」

 

「協会上層部の話やないんですか」

 

「いいえ。協会としては本来、そこまで踏み込む理由がありません。ですが、そのスポンサーが取っ掛かりとして『安全管理』を掲げてきた。ドラゴンタイプという危険度の高い存在を扱う儀式である以上、安全管理を理由にされると、協会としては無下に断れない。結果として、協会がその意向に押し切られる形になっています」

 

 クシノは、思わず本音がこぼれた。

 

「シンプルに失礼やろ」

 

 一族が一年でもっとも神聖に扱う夜を、他人の懐具合の取っ掛かりに使う。どれだけ官僚的な言葉で包んでも、やっていることの中身は変わらない。誰かの祈りの場を、誰かの商売の踏み台にしているだけだ。

 

「加えて、これは昨今の流れとも関係しています」

 

 ヒシダが続ける。ドラゴン使いという立場そのものが、閉鎖的で危険な一族という偏見を持たれがちだった。行事を開き、外部の理解を得ることで、その偏見を薄めていくべきだという議論が、近年協会内でも強まっている。人道的にも、正しい方向とされている理屈だ。

 

「そして安全管理という切り口は、その両方にとって非常に都合がいい」

 

 スポンサーにとっては開拓の足掛かりとして、協会内の推進派にとっては偏見払拭の名分として。どちらの側から見ても、表立って「安全管理はいらない」とは誰も言えない。倫理的にも反対しにくい、極めて強い建前だった。

 

「感傷や伝統への配慮だけでは、この議題を止められません。組織として、止める理由がないんです」

 

 三つ目の理由を聞きながら、クシノの中である名前が浮かんだ。

 

「偏見を薄めるというなら」

 

 クシノは静かに問うた。

 

「ワタルさんは、なんと言っていますか」

 

 ドラゴン使いの一族から出て、頂点に立った男。偏見を払拭する象徴として担ぎ出すなら、これ以上ない適任者のはずだ。その本人の意向を確認せずに進めているとは考えにくい。

 

 ヒシダが頷く。

 

「すでに確認は取ってあります。『フスベのことはイブキに任せる』とのことでした」

 

 短い返答だったが、クシノの中に小さく引っかかるものがあった。

 

 自分が変えた側の人間でありながら、変えなかった側の判断に、一切口を挟まない。それがワタルなりの筋の通し方なのか、それとも別の何かなのか、今のクシノにはまだ判断がつかない。

 

 保留。

 

 ヒシダは一度、言葉を切った。手にしていた菓子折りを、デスクの端にそっと置く。

 

「これは、私の領分ではないのだと、ようやく理解しました」

 

 彼はクシノの目を見据えた。

 

「あなたの言葉を借りるなら――『あやふやな領域』の話だと思います。老いや、情や、憧れ。あの時、あなたが言ったことです」

 

 クシノは一瞬、意表を突かれた。自分がかつて放った言葉を、こうして正確に引かれる日が来るとは思っていなかった。

 

 苦笑に近い笑みが、口の端に浮かぶ。

 

「よく覚えていましたね」

 

「忘れるはずがありません。私の考え方が、根底から揺さぶられた言葉です」

 

 ヒシダが深く一礼する。

 

「判断の材料は共有します。ですが、この件については、あなたの裁量に任せたい」

 

 クシノは短く頷いた。

 

「分かりました。まずは、直接会ってみます」

 

 ヒシダが退室した後、クシノはデスクの上の菓子折りに目をやった。律儀な男だと、小さく息を吐く。

 

 材料は揃った。ジム改修と、伝統行事への参加。二つの議題と、解けない小さな謎。

 

 そして、まだ言葉にならない小さな引っかかりが、もう一つ。

 

 なぜ、イブキは自分を名指ししたのか。

 

 その答えは、フスベへ向かう道のりの中に持ち越される。

 

 

 フスベシティは、地図の上では一つの街として塗り分けられている。だが、車を降りたクシノの目に映ったのは、そんな均質さとはほど遠い、いびつな街並みだった。

 

 苔むした石垣と瓦屋根が連なる旧市街の奥に、真新しいアスファルトの道路と、無機質なガラス張りのポケモンセンターが唐突に顔を出す。古い神社のような社の隣には、衛星アンテナが突き出た民家が並んでいた。近代化を拒む部分と、すでに受け入れてしまった部分が、地図の線引きのようにくっきり分かれているのではなく、まだら模様のまま混じり合い、止まっている。

 

 まるで、脱ぎかけた古い皮を、途中で脱ぎ止めた生き物のようだった。

 

 観光地としての賑わいはない。すれ違う住人の視線が一瞬こちらで止まり、すぐに逸れていく。歓迎されていないことは、言葉を交わす前から明らかだった。

 

 

 案内された先は、ジムの奥、板張りの一室だった。

 通されたクシノを、一人の女性が待っていた。

 

 歳の頃は、まだ妙齢と呼んで差し支えない。だが、彼女が動く前から、部屋の空気そのものが彼女を中心に据えて張っていることが分かった。控えていた数名のジムトレーナーたちが、彼女の視線一つで音もなく下がっていく。フスベという街そのものが、この一人の女に向けて収束しているような気配があった。

 

「ようこそ、フスベへ。イブキだ」

 

 礼は、寸分違わぬ角度で一度だけ。名乗りに敬称も謙譲もない。協会の理事だろうが誰だろうが、態度を変えるつもりはないという意思が、その短い一言だけで伝わってくる。誰かに任命されて座に着いた支配者ではない。ここでは自分こそが法であり、境界線そのものなのだという主張が、言葉よりも先に、存在そのものから滲み出ていた。

 

 差し出した名刺を、イブキは両手で受け取りはしたが、視線をすぐには落とさなかった。クシノの顔から、手元へ、そしてもう一度顔へ。値踏みというよりは、精密に採寸するような視線の動きだった。

 

「掛けろ」

 

 言葉少なに椅子を示す仕草にも、無駄がない。茶は出されなかった。

 

 クシノは資料を広げながら、自分が名刺交換の直後から意識して標準語を選んでいることに気づいた。ヤマブキの経営者にも、蔵元の主にも、素の関西弁のまま踏み込んできた。それが自分の流儀だった。だが、目の前のこの女にそれをやれば、馴れ馴れしさとして弾かれるだけだ。説明のつかない勘が、そう告げていた。

 

「本日は、ジム施設の改修案についてご相談に上がりました」

 

 クシノは図面の束をテーブルに広げた。

 

「安全基準の見直し、避難導線の確保、非常用設備の増設。協会が定める最新の基準に沿って、こちらの三点を中心に進めさせていただきたいと考えています」

 

 イブキは資料に目を通しながら、ふっと鼻を鳴らした。

 

「私たちからすれば、いささか過保護すぎるように思うがな」

 

 嘲笑とまではいかないが、明確な温度差を含んだ声だった。

 

「日常的に竜と対峙する者からすれば、この程度の備えは無いに等しい。それでも、必要だと言うなら構わん」

 

 拒絶ではなく、皮肉に近い容認だった。レシピ本を読んだだけの料理人と、修羅場の厨房で何千皿も捌いてきた料理人との差に似ていた。ドラゴンという存在の危険度を、身をもって知る者と、書類の上でしか知らない者との間にある、埋めがたい隔たりが、その一言に滲んでいた。

 

 クシノはその温度差を静かに受け止めながら、改修の必要性を、あくまで淡々と説明し直した。

 

「その工期で、道場の稽古に支障は出ないだろうな」

 

 確認は端的で、無駄がない。改修の必要性自体は認めており、細部の条件をいくつか確認する程度で、話は比較的スムーズに進んだ。

 

 この時点でのやり取りには、緊張感こそあれ、決定的な摩擦はない。

 

 むしろ、拍子抜けするほど素直だった。これだけの規模の改修案なら、予算や工期を巡って一悶着あってもおかしくない。だが、イブキの反応はどこか型通りで、深く踏み込んでくる気配がなかった。

 

 小さな違和感が、頭の隅をかすめる。だが、話が円滑に進むこと自体に文句をつける理由はない。わざわざ波風を立てるほどの話でもなかった。クシノはその違和感を、ひとまず脇に置いた。

 

 改修案が一段落したところで、クシノはもう一つの議題を切り出した。

 

「もう一点、一族の伝統行事への協会側の公式参加について、ご相談させてください」

 

 その一言を境に、イブキの背筋が、それまで以上にわずかに伸びた。すでに真っ直ぐだった姿勢が、さらに一段、硬質なものへと変わる。

 

 先ほどの「過保護」への皮肉とは、明らかに質の違う硬さだった。

 

「断る」

 

 即答だった。手元の書類を一枚も動かさぬまま、視線だけをクシノに据えて放たれた言葉。検討の余地を挟む隙が、どこにもなかった。

 

 拒絶。

 

 クシノは、安全管理という名目、経済筋の思惑、偏見払拭という近年の流れを、順を追って丁寧に提示した。

 

 イブキは最後まで表情を変えなかった。答えも変わらなかった。

 

「あの夜は、我々だけのものだ」

 

 無理もない、とクシノは思う。

 保守派の長として、外部の介入を拒む。理屈としては単純明快だ。ヒシダの部下が門前払いに近い扱いを受けた理由も、これで説明がつく。

 

 クシノは頷き、努めて理解を示す口調で言葉を継いだ。

 

「分かります。土足で踏み込むような真似は、誰にとっても歓迎できることではないでしょう」

 

 同調のつもりだった。交渉相手への、ごく自然な配慮のつもりだった。

 

「何とか、お互いが納得できる妥協点を探しましょう」

 

 クシノは言葉を継いだ。歩み寄りの姿勢を示せば、相手も態度を軟化させる。これまでの交渉で幾度となく機能してきた、実務家としての定石だった。

 

 だが、イブキの目が、わずかに細くなった。

 

「理解などいらぬ」

 

 温度のない声だった。

 

「ただ、断るだけのことだ」

 

 クシノの言葉は、理解ではなく、上滑りな相槌として突き返された。分かった顔をされることの方が、正面から拒絶されるよりも不快だとでも言うような、静かな刃だった。

 

 クシノは一瞬、言葉を継げなかった。何かを見誤った、という感触だけが残る。

 

 誤算。

 

 クシノは無理に押さず、静かに引いた。

 

「今日のところは、持ち帰って検討させてください。改修の件は、この方向で進めます」

 

 一つを通し、一つを保留にする。実務家としての、冷静な区切り方だった。

 

 イブキは短く顎を引く。それ以上の言葉はない。

 

 面会が終わり、クシノが辞去しようと腰を上げたところで、イブキが静かに口を開いた。

 

「ワタルのボールを直したそうだな」

 

 クシノの動きが、一瞬止まった。

 

 交渉とはまるで違う文脈から放たれた言葉だった。誰から聞いたのか、なぜこのタイミングで聞くのか。値踏みするような、先ほどまでとは違う質の視線が、初めてクシノに正面から向けられる。

 

 動揺は表に出さず、クシノは静かに答えた。

 

「ええ、少し前に」

 

 それ以上は語らない。イブキもそれ以上は聞かなかった。

 

 短い間があってから、イブキが小さく「そうか」とだけ返す。表情に大きな変化はない。だが、先ほどの拒絶とは、わずかに温度の違う一言だった。

 

 

 ジムを出て、フスベの街を後にする。

 

「理解などいらぬ」という一言と、「過保護すぎる」という嘲笑にも似た一言。二つが、耳の奥に並んで残っていた。

 

 保守派だから拒む。その読みは、おそらく間違ってはいない。だが、それだけでは説明のつかない何かが、あの拒絶の底にある。自分はまだ、この女性の表面しか見ていない。そう思い知らされた訪問だった。

 

 伝統行事という議題の重さと、あの「ワタルのボールを直したそうだな」という一言の重さ。二つがどこかで繋がっている予感だけを抱えたまま、クシノはヤマブキへの帰路についた。

 

 

 薄暗い照明の落ちた個室に、クシノは先に着いていた。

 グラスの中で氷が溶け、角の丸くなっていく音だけを聞きながら待っていると、やがて扉が開き、ワタルが姿を現した。

 

 殿堂入りトレーナーという肩書きと、その存在感そのものは変わらない。だが、フスベで感じたイブキの張り詰めた気配とは、明らかに質が違った。ソファに腰を下ろすなり、ネクタイの結び目を少し緩めたその姿には、公の場では見せない緩みがある。角の取れた、人懐こい雰囲気だった。

 

「久しぶりだな、クシノ君」

 

 軽く手を上げて挨拶をするワタルに、かつての緊張しきった殿堂入りトレーナーの面影は、もうない。

 

 声をかけたのはクシノの方だった。用件として選んだのは、修繕したハイパーボールのその後の調子を見せてほしいというもの。実戦で酷使されたボールの継ぎ目に負荷がかかっていないか確かめておきたい、という理由をつけた。

 

 嘘ではない。職人として、多少の気がかりは本当にある。だが、それが今この瞬間にわざわざ時間を取る理由になるかと言えば、否だ。急ぐ話ではない。数ヶ月放っておいても、なんら問題のない用件だった。

 

 つまりこれは口実だ。

 

 自分でもそれをはっきりと自覚した上で、クシノはこの席を設けていた。本当に確かめたいのは、ボールの継ぎ目の強度などではない。ワタルという男が、あの一族の伝統について、外の人間である自分たちの介入をどう見ているのか。それを聞き出すための、体のいい入り口に過ぎない。

 

 場所を人目につかない個室に取ったのも、公務の延長のような場所でワタルと向き合いたくなかったからだ。

 

「例のボール、経過を見せてもらえますか」

 

 ワタルが素直にボールを外し、テーブルに置く。クシノはルーペを当て、金継ぎの継ぎ目を丹念に検分した。

 

 口実で始めた確認作業だったが、いざ手に取ると、職人としての意識が自然と前に出る。継ぎ目に緩みはない。むしろ実戦での摩耗が、金の輝きに一段と深みを与えている。

 

「よう保っとります。むしろ、ええ具合に育ってますわ」

 

 これだけは、紛れもない本音だった。口実の中に紛れ込んだ、偽りのない満足感。

 

 クシノは持参した瓶を取り出し、二つのグラスに注いだ。

 

「土産です。エンジュの蔵元から、まだ世に出しとらん試作品を分けてもらいました」

 

 ワタルが受け取り、一口含む。しばらく口の中で転がすように味わってから、軽く目を見開いた。

 

「これは良いな。米の甘みの奥に、酸がしっかり立っている」

 

 世辞ではない、素直な感嘆だった。殿堂入りトレーナーという肩書きに似合わず、素朴に美味いものを喜ぶ人懐こさが、その表情に滲む。テイスティングノートを諳んじるソムリエではなく、ただ純粋に舌の上の発見を喜ぶ、一人の酒好きの顔だった。

 

「気に入ってもらえたなら、蔵元も喜びますわ」

 

 場が和んだところで、そろそろ本題を切り出そうかとクシノが言葉を選んでいると、先にワタルの方が口を開いた。

 

 ワタルはグラスを傾ける手を止め、静かにクシノを見た。

 

「君は、ボールを見るために来たわけじゃないだろう」

 

 責めるでも、笑い飛ばすでもない。ただ淡々と、事実を言い当てる声だった。柔らかな空気の中に、一瞬だけ、かつての殿堂入りトレーナーの鋭さが覗く。

 

 クシノは一瞬、言葉に詰まった。自分でも自覚していた建前を、あっさりと見抜かれた。誤魔化しても意味がないことを、その静かな視線がすでに告げていた。

 

 クシノは小さく息を吐き、観念したように切り出す。

 

「そういえば、最近フスベの仕事も抱えとりましてね」

 

「伝統行事への協会の参加、あなたはどう思われます。偏見払拭のためやいう建前は分かりますが、あなた自身は、あの夜に協会の人間が立ち会うことに、賛成なんですか。反対なんですか」

 

 直接的な問いだった。ドラゴン使いの一族の出身でありながら、外の世界で頂点に立った男の意見は、この交渉における一つの重要な指標になるはずだった。

 

「フスベのことなら」

 

 ワタルはグラスを置き、視線をわずかに落とす。

 

「イブキに任せている。それは以前にも、協会の者に伝えたはずだ」

 

「それは聞いてます。ですが、これはイブキさんへの評価やのうて、あなた自身の考えを聞いとるんです。協会があの夜に立ち会うことに、賛成か反対か。それくらいは、あなた個人の意見として聞かせてもらえませんか」

 

 食い下がるクシノに、ワタルは首を横に振った。

 

「悪いが、それも話せない。私に賛成、反対を言う資格はない。あの一族の中で何を守り、何を変えるか。それを決めるのは、今そこに立っている者の役目だ」

 

 きっぱりとした拒絶だったが、そこに突き放すような冷たさはなかった。むしろ、自分に課した一線を、静かに守っているだけのようだった。

 

 クシノが諦めてグラスを傾けかけたその時、ワタルが続けた。

 

「一つだけ言えるとすれば」

 

 声のトーンが、わずかに変わる。

 

「イブキの考えていることは、私にも分かる」

 

 短い一言だった。だがそこには、これまでクシノが聞いたどんなワタルの言葉より、微かな重みが滲んでいた。

 

「分かる、というのは」

 

「言葉にはしない。私が言うべきことでもない」

 

 ワタルは一拍置いて、付け加えた。

 

「申し訳ないが」

 

 その一言に、拒絶を突き通すことへの、微かな心苦しさが滲んでいた。彼はそれ以上を語らなかった。ただ、グラスの中の清酒に視線を落とし、静かに口へ運んだ。

 

 

 個室を出たクシノは、帰りの道すがら、今聞いた言葉を反芻していた。

 

 近道は得られなかった。情報らしい情報も、結局は何一つ引き出せなかった。建前を見抜かれた挙句、手ぶらで帰る羽目になった。

 

 だが、収穫がなかったわけではない。

 

 ワタルは、イブキを理解できていないわけではない。むしろ理解した上で、あえて踏み込まないという選択をしている。フスベのことは、イブキに任せる。それは放棄でも無関心でもなく、信頼だ。

 

 そのことに、クシノは今更ながら気づく。

 

 思想の系譜で言えば、二人は本来、正反対の位置にいるはずだった。ワタルは伝統を捨て、外の世界を選んだ男だ。イブキは伝統に留まり、外を拒み続けている女だ。互いの選んだ道は、交わることのない両極にある。それでもなお、ワタルはイブキの判断を、一片の疑いもなく委ねている。

 

 理解できないという一点で結びついているはずのこの二人が、なぜこれほど強い信頼で繋がっていられるのか。

 

 その違和感が、クシノの中に小さな棘のように残った。次にフスベを訪れる時、何を見るべきなのか。その輪郭が、少しだけ明確になった気がした。

 

 

 改修案の実務的な詰めは、その後もメールと書面のやり取りで淡々と進んでいた。大きな衝突もなく、むしろ拍子抜けするほど円滑に。

 

 クシノは今回、改修案の最終確認という名目でフスベを再訪する。だが頭の中を占めているのは、改修の話ではない。

 

 思想の系譜で言えば、あの二人は本来、正反対の位置にいるはずだ。ワタルの個室で残った棘は、まだ抜けていなかった。伝統を捨てた男と、伝統に留まる女。互いに相容れないはずの二人が、なぜ疑いのない信頼で繋がっていられるのか。その答えを探しにきたわけではない。だが、フスベの門をくぐる足取りに、前回とは違う緊張が混じっていることを、クシノ自身が自覚していた。

 

 

 板張りの一室。イブキは前回と変わらぬ姿勢で待っていた。

 

 改修の最終条件をいくつか確認し合う。工期、予算配分、稽古への影響。イブキの受け答えは相変わらず端的で、迷いがない。

 

 数分で片がついた。

 

 前回感じた小さな違和感が、また頭をもたげる。これだけの規模の改修に、彼女はほとんど関心を払っていない。一言一句、寸分違わぬレシピを暗唱するように答えていくだけだ。少なくとも、伝統行事の話をする時とは、明らかに温度が違う。

 

 イブキにとって、施設の形がどうなろうと、大した問題ではないのだ。彼女が本当に守っているものは、別のところにある。

 

「もう一点、伝統行事の件です」

 

 クシノは今回、前回とは違う切り口を用意していた。

 

「前回のお話を受けて、こちらでも案を練り直しました。全面的な参加ではなく、立ち会うのは最小限の人数に絞ります。記録も残しません。口頭での報告のみで結構です」

 

 イブキは何も言わず、続きを促すように視線だけを向けた。

 

「儀式の中核、誓いの瞬間には一切近づきません。それ以外の部分についても、どこまで見せるかは、そちらの裁量に委ねます」

 

 できる限り歩み寄ったつもりの提案だった。人数、記録、距離。譲れる部分はすべて譲った。

 

 イブキは資料に目を通した。

 

「断る」

 

 同じ即答だった。だが、拒絶の質はわずかに違った。数を減らそうと、記録を控えようと、それは本質を変えない。誰か一人でも、あの夜によそ者が息をしているという事実そのものが、彼女にとっては受け入れがたいのだと、クシノは今、理解した。

 

「あの夜は、我々だけのものだ。何度言わせる」

 

「そうですか。無理を承知でのご相談でした。今日のところは、これ以上お時間を取らせません」

 

 クシノは短く引いた。歩み寄りの提案そのものが的外れだったと悟った以上、ここで粘っても得るものはない。せめて、交渉の窓口としての体裁だけは保っておく。実務家としての、最低限の後始末だった。

 

 膠着。クシノは今回も、それ以上は押さなかった。

 

 クシノが資料を鞄に戻し始めたところで、イブキが口を開いた。

 

 前回のように、辞去の間際ではない。話が一区切りついた、その静けさの中でだった。

 

「なぜ、ワタルはハイパーボールを直した」

 

 事実確認ではなかった。前回の「直したそうだな」とは、明らかに違う質の言葉だった。答えを求める問いだ。

 

 その瞬間、クシノの中で、一つの推測が形を持った。この人は、この問いを聞くためだけに、自分を名指ししたのかもしれない。前任の職員では届かなかった理由。ワタルのボールを直した人間だという、ただそれだけの噂を頼りに、名指しで呼び寄せた理由。すべてが、この一言のためだったのかもしれない。

 

 腑には落ちた。だが、同時に分からなくもなった。なぜそこまでして、この問いを自分にぶつける必要があったのか。交渉相手でしかない、初対面の男に。

 

 クシノの手が、鞄の留め具の上で止まる。

 

 答えは知っている。人間になりたかった男の話。システムとして生きることを強いられた者が、初めて敗北を通して人間になった、その内側の物語。

 

 だがそれを語ることは、依頼人との間にあった信頼を、勝手に切り売りすることに等しい。修理台の上で交わされた言葉は、修理台の上に留め置かれるべきものだ。

 

「さあ、私には分かりかねますね」

 

 クシノは静かに答えた。

 

「本人に聞いてみてはどうですか」

 

 嘘ではない。だが、答えでもなかった。

 

 イブキはしばらく、クシノの顔を見ていた。値踏みでも、失望でもない、もっと静かな色の視線だった。

 

 やがて、独り言のように呟いた。

 

「ワタルの考えることは、わからん」

 

 視線が、手元の何もないテーブルの一点に落ちる。

 

「壊れたら、新しいものにすればいい。そういうものだろう、ボールというのは」

 

 至極まっとうな言葉だった。合理的で、誰もが頷く常識。だからこそ、その口から出た瞬間、それがどれほど彼女を苦しめてきた常識であるかが、クシノには伝わった。

 

 クシノは、少しの間を置いてから答えた。

 

「守りたかったものがあるんやないですか。あなたのように」

 

 慰めのつもりでも、迎合のつもりでもなかった。ただ、目の前の女性の中にあるものと、ワタルの中にあったはずのものが、同じ種類のものに見えたからだ。

 

 イブキの目が、すっと細くなった。

 

「知ったようなことを言うな」

 

 温度が一段、下がる。

 

 不機嫌。

 

「……すんません。出過ぎたことを言いました」

 

 クシノは短く詫びた。取り繕うためではない。踏み込みすぎた自覚が、素直に口をついて出ただけだった。

 

 先ほどまでの静かな独白とは違う、明確な拒絶だった。理解者のふりをして踏み込んでくる者への、拒絶。クシノの言葉は、慰めとして届く前に、無遠慮な決めつけとして跳ね返された。

 

 クシノは口をつぐんだ。何かを間違えた、という感触だけが残る。だが、今のは間違いなく、彼女の柔らかい部分に触れた手応えでもあった。

 

 イブキは何事もなかったように居住まいを正し、話を切り上げた。

 

「今日のところは、以上だ」

 

 クシノは短く頭を下げ、辞去する。前回のような「ワタルのボールを直したそうだな」の一言はない。今回は、それ以上の言葉を、イブキは口にしなかった。

 

 

 ジムを出て、フスベの街を後にする。

 

「知ったようなことを言うな」

 

 その一言の刺々しさが、耳の奥に残っていた。だが同時に、クシノの中には、ある確信も残っていた。

 

 イブキは、自分がこの問いを聞くためにクシノを名指ししたことを、隠すつもりがなかった。そしてクシノが「守りたかったものがある」と口にした瞬間、彼女は苛立った。図星を突かれた人間だけが見せる、あの種の苛立ちだった。

 

 保守派の長として、決断そのものを批判しているわけではない。イブキはただ、理解できずにいる。ワタルという、自分が誰よりも認めている男の選択が、どうしても腑に落ちないまま、何年も抱え続けている。

 

 そしてワタルは、その理解できないイブキを、なお信頼している。

 

 二つの事実が、クシノの中で並んで置かれる。理解できないことと、信頼していること。この二つは、本来なら矛盾するはずだ。だがこの一族の間では、その矛盾がそのまま平然と成立している。

 

 なぜそんなことが可能なのか。その答えの手前で、クシノの足はまだ止まったままだった。

 

 

 会員制バー『ナイト・シェイド』のカウンターの隅で、クシノはモモナリのグラスにエンジュの清酒を注いでいた。

 

 合わせて用意したのは、モモンとカイスの実を使った特製のスイーツだった。ほろ苦い清酒の余韻に、甘酸っぱさで輪郭をつける。バーテンダーと相談を重ね、清酒の味を殺さぬよう調整した、ちょっとした自信作だった。

 

 だが、モモナリはそれを味わうというより、ただ次々と口へ運んでいく。咀嚼の合間に酒を呷り、また次の一つへ手を伸ばす。組み合わせの妙も、余韻も、彼の意識には引っかかっていないらしい。

 

「うまいうまい」

 

 味の解説を求める前に、皿はすでに半分ほど減っている。

 

 その落差に、クシノは今更ながら苦笑した。

 

「せめて、ひと口ごとに感想くらい挟んでくれや」

 

「食べてる時に喋ると味わからなくなるだろ」

 

 理屈は通っているようで、ただ食い意地が張っているだけだ。クシノは呆れ半分に酒を口に運んだ。

 

「そういえば、この間poketuberと戦ったらしいな」

 

 クシノが切り出すと、モモナリは首を傾げた。

 

「ええ、誰のことだい」

 

 覚えていない。悪気なく、本当に記憶にないという顔だった。

 

「あまり素人相手に問題起こすなよ。最近はうるさいからな、かばいきれんこともある」

 

「世知辛いね。まあ、何とかするよ」

 

「だから、それを辞めろと言うてるんや」

 

 軽くいなされる。クシノは深く息を吐き、猪口を呷った。これ以上言っても暖簾に腕押しだと、経験上よく分かっている。

 

「はぁ……ま、ええわ」

 

 クシノは一度、気を取り直すように猪口を置いた。

 

「それより、聞きたいことがあるんやが」

 

「何?」

 

「お前、あちこちのドラゴン使いとやり合ってきたやろ」

 

 モモナリは各地のドラゴン使いの一族と、これまで幾度となく対戦してきた実績がある。その度に発生する現地との摩擦や後始末を、オークボやクシノが始末書として処理してきた、いわば因縁の相手だ。

 

「ああ、あるよ。何度も」

 

 軽い調子で、モモナリが答える。

 

「どんな感じや、あの連中は」

 

 クシノが尋ねると、モモナリは新しいスイーツを頬張りながら、目を輝かせた。

 

「勇猛だよ。近代的な意味での『強さ』とは、ちょっと違う物差しで動いてる」

 

 珍しく、興味を隠さない口調だった。

 

「勝ち負けの前に、まず誇りがある。竜と対峙する覚悟が、そもそも桁違いなんだ。あれは、ただ強くなりたいってだけじゃ辿り着けない領域だと思うよ」

 

 強さを競う世界を生きてきた男が、素直に称賛する相手というのは珍しい。クシノにとっても、意外な反応だった。

 

「まあ、そういう一族やからな」

 

 クシノは軽く相槌を打ち、猪口を傾けた。

 

 だが、モモナリはグラスの氷を鳴らしながら、ふと付け加えた。

 

「いや、向いていない子もいるよ」

 

 さっきまでの称賛と地続きの、ごく軽い調子だった。

 

「怖がってるのが伝わってくる子とかね。竜と組まされて、逃げ場もなくて。ああいうのを相手にすると、なんというか、溺れてる人間を沖に投げ込むような感じがする」

 

 そこまでは、いつもの乾いた観察だった。だが、モモナリは珍しく、言葉を継いだ。

 

「だから、何とかしたいと思う時もあるんだ。だけど彼らの『誇り』は重いんだ、何よりもね」

 

 さらに続けて、独り言のように付け加える。

 

「ワタルさんやイブキさん、シロナみたいなバケモンばかりだけじゃないってことだよ」

 

 軽口の延長のような口調だったが、その一言には、普段のこの男からは滲み出ない種類の重さがあった。強さだけを尺度に生きてきた男が、自分の物差しでは救えない何かがあることを、はっきりと認めている。

 

 クシノは黙って、その言葉を受け取った。

 

 軽口の延長で放たれた一言だったからこそ、余計に重く響いた。

 

 自分にも覚えがある。バトルの才能がないことは、早い段階で嫌というほど思い知らされていた。それでも、隣に座るこの男と、いつか対等な人間でいたくて、がむしゃらに食らいついた時期があった。負けて、また立って、また負けて。惨めさも、悔しさも、身体の芯まで刻み込むほど味わった。あの道がどういうものかを、クシノは誰よりもよく知っている。

 

 そして、その全てをやり切った先に、今の自分がいる。裏方として、職人として、この場所に立っている自分がいる。

 

 だが、フスベの子供たちは、同じようにはなれないのかもしれない。

 

 自分には、少なくとも足掻く自由があった。負け続けた末に、別の道を選び取る自由があった。だが彼らには、生まれた瞬間から一頭の竜が隣にいる。逃げる自由も、諦める自由も、与えられていない。

 

 それは、才能などではなかった。

 

 呪い。

 

 クシノの思考が、さらに奥へと進む。

 

 資料室で読んだ、あの一節が蘇る。

 

『彼らは人であってはならない。災害を御する者は、慈悲も、恐怖も、心の揺らぎも持たぬ、完全なる機構でなければならない』

 

 そんな重圧の中で生き延びるには、方法は限られる。恐怖や迷いを感じる「人間」のままではいられない。だから、自分たちは人間ではない、特別な器なのだと、信じ込むしかない者がいる。

 

 ワタルはその呪縛から抜け出し、敗北を通して人間になった。

 

 だがイブキは、その信念の中に留まっている。抜け出さなかったのではない。抜け出せなかった者たちを守るために、留まり続けることを選んだのだ。

 

 モモナリの言った「誇りは重い」という一言が、今、別の輪郭を伴って蘇る。

 

 そこまで考えて、クシノの中で、伝統行事という議題の本質がようやく像を結んだ。

 

 あの夜は、単なる儀式ではない。人間ではない特別な存在であると信じることでしか耐えられない者たちが、その信念を保つための、最後の聖域だ。

 

 外部の人間が一人でもそこに立ち会えば、彼らは「見られている」ことを意識せざるを得なくなる。見世物にされた瞬間、その夜は「異形の一族の神秘的な儀式」という、外側からの物語に成り下がる。信じることでしか保てなかった何かが、その場で崩れる。

 

 安全管理という建前も、観光資源という思惑も、偏見払拭という理屈も、すべてがこの一点の前では意味を失う。

 

 恩恵だけを、外側からかすめ取るべきやない。

 

 見送りの判断が、クシノの中で静かに固まった。

 

 クシノは長く息を吐き、猪口の中身を飲み干した。

 

「デカい仕事ができてもうたな」

 

 独り言のような、モモナリへの零しのような、どちらともつかない声だった。

 

 モモナリはちょうど空になった皿を見て、店員にもう一皿追加を頼んでいるところだった。今しがた自分が語った言葉が、クシノの中でこれほどの重みを持ったことに、当の本人はまるで気づいていない。

 

「で、何、フスベで揉めてんの?」

 

 軽い問いだった。

 

「いや」

 

 クシノは短く答える。

 

「ちょうど、答えが出たとこや」

 

「へえ、良かったね」

 

 モモナリは運ばれてきた新しい皿に、早速手を伸ばす。深刻な顔をした友人の隣で、あくまで自分のペースを崩さない。

 

 その気安さが、今のクシノには、ありがたかった。

 

 

 フスベの街並みが見えてくる頃には、日はすでに傾き始めていた。三度目ともなると、あの奇妙な、近代と伝統が混ざり合わずに層を成す街並みにも、多少は目が慣れてくる。石垣の隙間から漏れる夕陽の色、瓦屋根の稜線に絡みつく電線の影。それでも、境界線の曖昧さそのものは、来るたびに新しく異物として映った。この街は、変わろうとして変わりきれない者の、体温のようなものを纏っていた。

 

 ジムへと続く石畳を歩く途中、以前は素通りだった顔なじみの門番が、今回は小さく会釈を寄越した。歓迎ではない。だが、警戒の質が、初回とは明らかに違っていた。何度も通ってくる余所者を、一つの現象として認識し始めている、その程度の変化だ。

 

 門をくぐり、案内された廊下を進む。板張りの床が軋む音の間隔まで、もう覚えてしまっていた。

 

 案内役の若いジムトレーナーが襖の前で一礼し、静かに下がっていく。クシノは一呼吸置いてから、襖に手をかけた。

 

 板張りの一室。イブキはいつもと変わらぬ姿勢で待っていた。

 

 前回の「知ったようなことを言うな」という一言以来、初めての対面だった。互いに、それを蒸し返す気配はない。ただ、部屋の空気にはわずかに、前二回とは違う張りがあった。茶はやはり出されなかったが、クシノを見上げる視線には、初回にあった値踏みの色が、ずいぶんと薄れていることに気づく。

 

「伝統行事への参加は、見送りで話をつけました」

 

 前置きも、経緯の説明もなかった。数日前まで固く閉ざされていたはずの議題が、一言で決着している。その唐突さこそが、この男がどれだけの力技でここに辿り着いたかを、何よりも雄弁に語っていた。協会内の推進派を黙らせ、スポンサー筋の顔も立てる。そのための駒を、一つ一つ、静かに並べ直す日々だった。

 

「代わりに、安全管理の代案として、一族の方々に協会主催の安全対策講習を受けていただく形にします」

 

 クシノは資料を一枚、テーブルに滑らせた。避難経路の確認、応急手当の基礎、火気の取り扱い。ごく一般的な、市民向けの講習内容が並んでいる。

 

 日常的に竜と対峙し、命のやり取りを重ねてきた一族にとって、その中身はほとんど無いに等しいものだった。だが、それでいい。これは実質を求める提案ではない。安全管理という建前を掲げてきたスポンサー筋と、協会内の推進派、その両方の口を、「安全対策は講じた」という事実一つで塞ぐための代物だった。

 

 儀式には誰も立ち会わせない。だが、書類の上では、協会は安全管理の責務を果たしたことになる。それこそが、クシノが持ち出した唯一の切り札だった。

 

 イブキは資料に目を通し、その仕組みを正確に理解した様子だった。しばらく黙って見つめてから、顔を上げる。

 

 そして、静かに頭を下げた。

 

 深くはない。だが、明らかに意図のこもった一礼だった。この女が、初対面から一度も見せたことのない所作だった。

 

「世話になった」

 

 短い一言だったが、そこに込められた重みは、これまでのどの言葉よりも大きかった。誰かに頭を下げるということが、この女にとってどれほど稀な行為なのか、クシノにはその一礼だけで察しがついた。

 

 重み。

 

「ありがたい話ですわ」

 

 クシノは短く応じた。世辞ではない、素直な返答だった。

 

 だが、イブキの視線はそこで終わらなかった。値踏みするような沈黙が、また戻ってくる。

 

「なぜだ」

 

 短い問いだった。感謝の後に来る、より深い探りだった。

 

「協会として、これ以上お宅の負担を強いる理由がないと判断しました。それだけです」

 

 無難な答えだった。分かった顔をすることの方が、時に拒絶より鋭い刃になる。それを、前回身をもって学んだばかりだった。だから、あえて踏み込まない答えを選んだ。

 

 だが、イブキはそれで納得した様子を見せなかった。ただ黙って、クシノを見返している。表向きの言葉では動かない、という視線だった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 クシノは一度、手元の書類に視線を落とし、それからまた顔を上げた。ここで引くこともできる。だが、それでは前回と同じことの繰り返しになる。

 

「気を悪くしたら申し訳ないが」

 

 前置きを一つ挟んで、クシノは言葉を継いだ。

 

「あなた達にとってその夜は、『呪い』でもあるのではないかと、ふと思ったからです」

 

 賭けだった。

 

 理解者のふりをして踏み込んだ前回の一言は、跳ね返された。だが今回は、言葉だけではない。すでに行動で、代償を払った上での一言だった。

 

 イブキの表情が、一瞬強張った。

 

 反射的な怒りが、目の奥を過ぎる。だが、それは声にはならなかった。今度は、跳ね返す言葉が出てこないようだった。

 

 長い沈黙の後、イブキは視線を落とした。

 

「我々は」

 

 言葉を選ぶような、珍しい間があった。

 

「ワタルほど、強くはない」

 

 独白に近い声だった。交渉相手への説明ではない。長年抱えてきた何かが、初めて誰かの前で形を持った瞬間だった。

 

 クシノは黙って受け取った。その言葉の意味を、モモナリとの会話を経た今、完全に理解した上で。

 

 理解。

 

 しばらくの沈黙の後、イブキが静かに立ち上がり、奥の間へと消えた。

 

 戻ってきた彼女の手には、古い木箱があった。

 

「見てもらいたいものがある」

 

 木箱がテーブルに置かれる。蓋を持ち上げるイブキの指先が、微かに震えていた。

 

 その震えを見た瞬間、クシノは悟った。これがただの道具でないことを。

 

 蓋の下に収まっていたのは、一つのボングリボールだった。

 

 植物由来の素材ゆえ、酸化や紫外線による劣化はほとんど見られない。だが、長い年月をかけて水分が抜け、殻全体がわずかに縮んでいる。割れ口の断面すらも、心なしか痩せて見えた。

 

「触れても」

 

 クシノが短く尋ねると、イブキは一拍置いてから、小さく顎を引いた。

 

 許しを得て、クシノは指先で割れ口の稜線をそっとなぞる。刃物で断ち切られたような鋭さはない。乾燥と収縮がとうに限界へ達し、内側から己の重みに耐えかねて裂けた、そんな痕跡だった。

 

「これは」

 

「ワタルが最後に手にしていた、我々の伝統だ」

 

 イブキが静かに言葉を継ぐ。

 

「かつて、あやつの相棒が入っていたボールだ。リーグに参戦する少し前、これが割れた。ボングリの実くらい、この土地ではいくらでも実る。壊れれば、また作ればいい。それだけの話のはずだった」

 

 そこで一度、言葉を切る。

 

「だが、ワタルは換えなかった。新しいボングリを拒み、ハイパーボールを選んだ」

 

「そこまでは、私にも分かる」

 

 イブキは静かに続けた。

 

「人里に下りる覚悟を決めた。そういうことなのだろう、と。だが」

 

 視線が、ボールの表面をなぞる。

 

「分からないのは、なぜそれを、お前に直させたかだ」

 

 その問いには、これまでとは違う切実さがあった。

 

「換えの利くものを選んだ男が、なぜ過去の残骸に手間をかけた。伝統を捨てたのなら、それも一緒に捨てればいいものを。筋が通らない」

 

 ずっと一人で抱えてきた矛盾だった。答えの出ないまま、何年も。

 

「里には、これを直せる者がいない」

 

 イブキが付け加える。それは、里の職人が挑んで失敗したという話ではなかった。

 

「ボングリは、この土地にいくらでも実る。壊れれば、また作ればいい。そういう土地だ。誰かが直そうなどと考えたことも、おそらく一度もない」

 

 修繕という発想そのものが、この一族の生活の中には存在しなかった。壊れることは、終わりではなく、始まりの合図に過ぎない。だからこそ、直すための技術も、道具も、里のどこにも育っていなかった。

 

「だから、お前に見せる気になった」

 

 その一言で、クシノは自分がなぜ名指しされたのか、ようやく完全な形で理解した。ワタルのボールを直した人間だから、ではない。伝統の外側にいながら、伝統を軽んじない人間かどうかを、この数ヶ月かけて見極められていたのだ。

 

 イブキの言葉が落ちた後、クシノはすぐには何も言わなかった。

 

 掌の中の殻を、もう一度見つめる。

 

 これまで預かってきたどの器とも、重さの質が違った。ゲンゾウの器は、一人の男の消えかけた記憶を背負っていた。ワタルの器は、一人の人間としての再生を背負っていた。だが、この殻が背負っているのは、個人の物語だけではない。生まれながらに選べない道を歩まされる、一族の子供たち全員の、これから先の何十年分もだ。

 

 しくじれば、直らないのは殻だけではないかもしれない。ワタルとイブキという、互いに背を向け合ったまま、それでも繋がっている二人の間の、あやふやな均衡そのものかもしれない。

 

 それでも。

 

 こういう場所にこそ、自分の手が要るのだと、クシノは思う。正論でも、力でもなく、ただ壊れたものに向き合う手だけが、埋められる隙間がある。

 

「なぜワタルさんがそれを直させたか」

 

 クシノは静かに言った。

 

「それは、私の口からは言えません」

 

 イブキの目に、微かな失望がよぎる。だがクシノは続けた。

 

「ただ、直せるかどうかで言えば、直せます」

 

 イブキが顔を上げる。

 

「乾いて縮んでいるので、元の形には戻りません。継ぎ目のパテも、思っている以上に厚くなります。完璧な復元は、約束できません」

 

 事実だけを、正直に告げる。

 

「それでも構わない」

 

 イブキは間を置かず答えた。少し間を置いて、続ける。

 

「報酬は、言い値でいい」

 

 思いがけない申し出だった。金額の交渉も、相場の確認もない。ただ、望むだけ払うという、白紙の約束だった。

 

 これほどの価値を、このボールに置いているということだ。

 

 クシノは小さく頷いた。

 

「後日、請求書をお送りします。材料費と技術料、特急料金も込みで、そこそこの額になりますが」

 

 軽い調子で告げる。無理に固辞するでもなく、かといって足元を見るでもない、いつも通りの実務家としての受け方だった。

 

「構わない」

 

 イブキは即答した。

 

 金額の話は、それで終わりだった。だが、クシノの中には、小さな確信が残っていた。これほど躊躇なく「言い値で」と口にできる人間は、そう多くない。それだけの重さを、この一件に懸けているということだ。

 

 クシノは頷き、いつもの三つの条件を提示する。

 

「一つ、一切の保証はしません。二つ、作業の過程はお見せできません。三つ、数ヶ月はかかります」

 

「構わない」

 

 イブキは繰り返した。

 

 

 木箱を丁重に受け取り、クシノはジムを辞す。

 

 腕の中の重みは、すでに分かっていた通りのものだった。これまで預かってきたどのボールよりも重い、意味の重量。

 

 ワタルが最後に選び取らなかった伝統。イブキが何年も理解できずにいた、たった一つの謎。その両方が、今、自分の手の中にある。

 

 答えは、まだ誰にも語っていない。語る時が来るとすれば、それはこのボールが元の姿を取り戻した時だろう。

 

 

 深夜の書斎。誰もいない工房の静けさの中で、クシノはイブキから預かった木箱を、作業机の上でそっと開けた。

 

 改めて見る割れ口は、思っていた以上に複雑だった。乾燥による収縮は、単に殻を縮めただけではない。断面同士の間に、もはや埋まらない隙間を作り出している。

 

「思うとった以上に、パテの厚みがいるな」

 

 独り言が、静かな部屋に落ちる。イブキに告げた通りの見立てだったが、実物を前にすると、その厚みの意味がより具体的な重さを持って迫ってきた。

 

 クシノはボングリの断面にルーペを当てる。

 

 これは樹脂でも金属でもない。木の実の殻、それも長い年月を経て内側から乾ききった天然素材だ。漆はもともと木工と相性がいい。だが、これほど水分を失った古い殻に、漆がどこまで食いつくか。接着の相性を見誤れば、固まった後にまた同じ場所から裂ける。

 

 クシノは断面の端に、試しに薄く生漆を一塗りしてみた。染み込みは悪くない。むしろ、乾いた殻が水分を求めるように、じわりと漆を吸い込んでいく。革に油を差した瞬間、乾いた繊維がすっと熱を吸い込むあの感触に近い。素材が今、確かに何かを欲している。

 

「よし。飲み込みはええ」

 

 安堵に近い呟きだった。

 

 安堵。

 

 素材そのものは、まだ迎え入れる余地を残している。

 

 麦漆を練りながら、クシノの思考は自然と、この一個の殻が背負っているものへと向かう。

 

 ワタルにとって、今の腰にあるハイパーボールは「人間になった記録」だ。敗北を通して、システムとしての完璧さから解き放たれた瞬間の証。それはワタル自身が、自らの意思で刻ませた歴史だった。

 

 だが、この殻は違う。

 

 このボングリボールは、イブキにとって、「ワタルがドラゴン使いであった記録」だ。かつて確かに、この一族の一員として、竜と共に生きていた男が、そこにいたという証。ワタルが振り返りもせず置いていったものを、イブキだけが拾い、抱え続けてきた。

 

 フスベに残り、伝統に寄り添う道を選んだイブキにとって、人であることを選び取ったワタルの生き方は、頭では理解できても、心の底では受け入れがたいものなのかもしれない。それは、裏切りにも似た何かとして、彼女の中に残り続けている。

 

 一つの殻が割れたという、同じ出来事から始まったはずなのに。片方は「人間になった記録」として大切にされ、もう片方は「一族であった記録」として、置き去りにされた側に残された。

 

 クシノはヘラを置き、練り上がった麦漆の粘度を指先で確かめた。

 

 その答えを、自分が語る必要はない。だが、この手で示すことはできる。

 

 接合の工程を思い描きながら、クシノは道具箱の奥にある金粉の小瓶に手を伸ばした。

 

 この殻に刻まれた亀裂は、単なる経年劣化の傷ではない。一族としての道と、人間としての道が分かれた、まさにその分岐点そのものだ。ワタルはそこで枝分かれし、イブキはそこに立ち止まったまま、何年も同じ場所を見つめ続けてきた。

 

 これほどの意味を背負った亀裂を、地味な色で覆い隠してしまうのは、職人としての怠慢だ。この分岐点は、隠すべき恥ではない。これまで直してきたどのボールとも同じように、正面から見据え、価値あるものとして昇華させるべきものだ。

 

「ちゃんと、金で継いだる」

 

 静かな決意だった。

 

 練り上げた麦漆を、断面へ丁寧に塗っていく。

 

 思っていた以上に厚く盛る必要があった。乾燥で縮んだ分だけ、断面同士の間には隙間が生まれている。単純に押し付けて合わせるだけでは、歪みが残る。クシノは失われた体積を見極めながら、パテの厚みを慎重に調整していった。

 

 これは、元の形に戻す作業ではない。

 

 戻らないと分かっている形を、それでも一つの完成形として受け入れさせるための作業だ。継ぎ目は、これまでのどの依頼よりも太く、目立つものになるだろう。だが、それでいい。縮んでしまった事実を、隠す必要はない。

 

 接合を終えたボールを、湿度管理された木箱、室へと納める。

 

 クシノはしばらく、閉じた蓋の前に立ち尽くした。

 

 室に納めるという行為は、樽の中で若い酒を寝かせるのに似ている。人為的にできることは、もう何もない。あとは時間という職人に任せるしかない。

 

 これから数週間、漆が芯まで硬化するのを待つ時間が始まる。その間に、金を纏うべき継ぎ目が、静かにこの殻の一部として同化していくはずだ。

 

 一族であった証と、人間になった記録。その間に横たわる亀裂を、金で結ぶ。

 

 それが、このボールに相応しい景色だと、クシノは確信していた。

 

 工房の明かりを落としながら、クシノはふと考えた。

 

 ワタルはこの答えを、どう受け止めるだろうか。あの男に語るつもりはない。ただ、いつかこの殻がイブキの手に戻り、その継ぎ目を通してワタルの目にも触れる日が来るとすれば――その時初めて、言葉にせずとも伝わるものがあるかもしれない。

 

 一族であった記録と、人間になった記録。相容れないはずの二つの道が刻んだ亀裂を、同じ金で継ぐ。それが今、自分にできる、唯一の答え方だった。

 

 まだ、言葉にする段階ではない。イブキがこの殻を受け取り、その手に確かな重みを感じた時――その時に初めて、伝えるべき言葉が像を結ぶはずだった。

 

 

 ボングリボールを室に納めてから数日後、クシノは再びエンジュシティの蔵を訪れていた。

 

 前回訪れた時よりも、敷地の空気にわずかな活気が戻っている。埃をかぶっていた一角には手が入り始め、外壁の補修も足場が組まれていた。投資の話が動き出したことの、目に見える証だった。

 

 母屋の小上がりで向き合うなり、クシノは本題を切り出した。

 

「ワタルさんにも飲んでもろたんですが、えらい気に入っとりました。『米の甘みの奥に、酸がしっかり立っている』言うてましたわ」

 

 サガラの顔に、抑えきれない喜びが浮かぶ。目元が緩み、口元が持ち上がる。長年、誰かに正しく評価されることに飢えていた職人の反応だった。数字では測れない称賛が、何よりも雄弁にこの男を潤していく。

 

「殿堂入りの、あのワタルさんが……」

 

 言葉の続きが出てこないまま、サガラは湯呑みを両手で包んだ。その仕草だけで、十分だった。

 

 喜びが一段落したところで、クシノは事務的な話へと切り替えた。パッケージデザイン、初回出荷数、卸先の候補。テーブルに広げた資料には、数字と横文字が並んでいる。クシノの流通網を使えば、これまで地元でしか流通していなかった酒に、新しい販路が開ける。

 

「パッケージは、蔵の名前より先に、清酒そのものの個性が伝わるデザインにしたい思います。ラベルの字体は、こっちで職人を手配しますわ」

 

 サガラはこの手の話にも、以前より抵抗を見せなくなっていた。数字や横文字の並ぶ提案書にも、素直に耳を傾ける。まるで、味の設計図を読むように。

 

 蔵の案内の途中、サガラが自ら申し出た。

 

「そういえば、あっちの古い甑、もう使うてまへんのや。場所ふさぎになっとるだけですし、いつでも処分してもろて構いまへん」

 

 甑――蒸米を仕込む際に使う、大きな蒸し器のことだ。聞かれてもいないのに、自分から古い道具を差し出す。以前の全面譲歩の延長線上にある態度だった。もはや、何を残し何を捨てるかという判断そのものを、サガラは半ば放棄しているようにも見える。

 

 クシノはその申し出を、ひとまず受け流した。

 

「まあ、そのへんはおいおい詰めましょう」

 

 急いで判断する必要のない話だった。

 

 蔵を歩きながら、クシノはサガラの変化を静かに観察していた。

 

 初対面の時の必死さは、今も変わらず根底にある。だが、その必死さの質が少し変わってきている。あの時は「なんでも差し出す」という言葉が、藁にもすがるような悲壮感を伴っていた。今は、それが一種の諦観と、開き直りに近い落ち着きに変わりつつある。ちょうど、渋みの強すぎたワインが、時間を経て角を失い、飲みやすい丸みへと変わっていくのに似ていた。だが、丸くなったことが、必ずしも良いことだとは限らない。

 

 覚悟が決まっていくというのは、こういうことなのかもしれない。クシノはそう思いながらも、どこかで小さな違和感を覚えていた。本当に、何もかもを手放せる人間などいるものだろうか。

 

 疑問。

 

 その正体が何なのか、この日はまだ分からないままだった。

 

 その日の視察を終え、クシノはエンジュを後にする。

 

 事業としては、順調に進んでいる。サガラも、以前より遥かに前向きに、変化を受け入れようとしている。

 

 だが、クシノの中に残ったあの小さな違和感だけが、静かに次の訪問への伏線として残された。

 

 

 ノックの音。今度は菓子折りを提げていない、いつも通りの折り目正しいヒシダが姿を現した。

 

 見送りの一件は、クシノからヒシダへ直接連絡を入れ、協会内部の調整に協力を仰いだ経緯があった。ヒシダにとっても、他人事ではない案件だった。

 

「先日は世話になった。フスベの件、無事に片付いたと聞いている」

 

 済んだ話への、事後の確認だった。だが、その声にはまだ、完全には晴れない疑問の色が残っている。

 

「スポンサー筋も、推進派も、あの安全対策講習という代案が、実質的に彼らの目的を潰すものだと理解していないわけがない」

 

 ヒシダが静かに切り出す。

 

「観光開発の足掛かりにもならない。偏見払拭の実績にもならない。ただの形だけの講習だ。彼らは、あなたが自分たちの意図を握り潰したことに、当然気づいている」

 

「ええ、気づいていますよ」

 

 クシノはあっさりと認めた。誤魔化す気は最初からない。

 

「それでも、通した」

 

「ええ」

 

「どうやったんです」

 

 ヒシダの問いに、クシノは少し間を置いてから答えた。

 

「私たちが何者か、という話ですよ」

 

 短い言葉だった。

 

「ドラゴン使いの一族を、本気で敵に回すつもりなら止めません。ですが、その時、実際に矢面に立つのは誰なんです」

 

 クシノは一拍置いて、続けた。

 

「フスベが臍を曲げて、竜を御しきれない事態にでもなったら、現場に送り込まれるのはリーグトレーナーです。ドラゴン使いとリーグトレーナー、両方を同時に敵に回す。その覚悟が、あなたにありますか。私はそう問うて回っただけです」

 

 理屈の中身を変えたわけではない。ただ、この計画を推し進めた先に、誰が実際の代償を払うことになるのかという一点だけを、静かに突きつけて回ったということだった。

 

 ヒシダはしばらく沈黙してから、口を開いた。

 

「あなたは今回の件で、敵を増やした。スポンサー筋にも、内部の推進派にも、良く思われていないだろう」

 

 忠告に近い響きだった。組織人として、ヒシダなりの気遣いでもあった。

 

「まあ、そんなもんでしょう」

 

 クシノは肩をすくめる。

 

「なんてことないわ。俺が今まで、誰と戦ってきたと思てんねん」

 

 思わず、訛りが出た。

 

 その一言に、ヒシダは一瞬、言葉を失った。

 

 理事の椅子に座り、革靴を履き、清酒の交渉をこなす、洗練された実業家の顔。だがその奥に、モモナリという災害と、シゲルという頂点と、ワタルという伝説と、日常的に対峙してきた人間の芯があることを、ヒシダは今、改めて思い知らされる。

 

 スポンサーの機嫌や、上層部の顔色など、この男にとってはとうに慣れた種類の脅威でしかない。リーグトレーナーという生き物が背負う覚悟の総量を、ヒシダは静かに、そして少しだけ怖気立つ思いで理解した。

 

 畏怖。

 

「……そうですか」

 

 それだけを言うのが、精一杯だった。

 

 ヒシダは一礼して席を立つ。

 

「また何か、あなたの領分の仕事があれば、頼らせてもらう」

 

 その言葉に、以前のような硬さはない。

 

 一人になった執務室で、クシノは椅子に深く座り直した。

 

 政治的な決着はついた。だが、フスベで預かったあの殻は、まだ室の中で静かに時を待っている。

 

 政治の駆け引きも、酒の仕込みも、金継ぎの漆も、結局はすべて同じだ。急いては、何も熟さない。

 

 

 これまでの訪問とは、空気の質が違っていた。交渉も、駆け引きもない。ただ、預かったものを返しに来ただけの訪問だ。

 

 クシノは木箱を抱え、板張りの廊下を歩く。板の軋む音の間隔さえ、もう体に馴染んでいた。

 

 イブキは、いつもの場所で待っていた。だが、その姿勢には、これまでのどの回とも違う静けさがあった。

 

 クシノは木箱をテーブルに置き、無言で蓋を開ける。

 

 現れたのは、金色の稲妻を纏ったボングリの殻だった。

 

 継ぎ目は太い。乾燥で縮んだ分だけ、パテの厚みがそのまま景色として残っている。全体の形も、かつての流麗な曲線からは、わずかに歪んでいた。完璧な復元ではない。事前に告げた通りの姿だった。

 

 だが、金の線は迷いなく、殻の全体を貫いている。

 

 イブキはしばらく、それを見つめたまま動かなかった。

 

 やがて、両手でそっと持ち上げる。重さを確かめるように、掌の中でゆっくりと傾ける。指先が、太い継ぎ目の一つをなぞった。

 

「縮んだな」

 

 自嘲めいた呟きだった。ボールの、あるいはこの一族の、どちらを指しているとも取れる言葉だった。

 

「軽くはないな」

 

 続けて、そう漏らす。

 

「乾いて縮んだ分、中身は詰まっています。見た目より、ずっしりきますよ」

 

 クシノが応じる。

 

「元の形には、戻せませんでした」

 

 クシノは静かに続けた。

 

「ですが、直すということは、元通りにすることやないと、私は思うとります」

 

 イブキが顔を上げる。

 

「壊れる前の形を守ることやのうて、壊れた後も、そこにあったもんの値打ちを守ること。私が金継ぎでやっとるんは、結局、そういうことです」

 

 一拍置いて、クシノは言葉を継いだ。

 

「伝統いうんも、たぶん同じですやろ。形を継ぐことやない。その精神を継ぐことです」

 

 イブキは何も言わず、金の線を指先でなぞっていた。

 

 その静けさの中で、クシノは、ずっと胸に留めていた問いを口にする。

 

「あなたからすれば、フスベにジムがあることも、好ましくはないでしょう」

 

 イブキの手が、わずかに止まる。

 

「協会と繋がり、外から挑戦者を迎え入れる。近代化そのものの窓口や。あなたの信念からすれば、本来は真っ先に拒みたい存在のはずです」

 

 クシノは、イブキの目を見た。

 

「ではなぜ、あなたはフスベのジムリーダーになったんです」

 

 長い沈黙があった。

 

「ワタルは、天才だ」

 

 ようやく、イブキが口を開いた。

 

「ドラゴン使いの歴史をもってしても、あれほどの器は、そういない」

 

 視線が、手の中の殻に落ちる。

 

「そんな男が、融和を目指し、外に可能性を求めた」

 

 一拍置いて、続ける。

 

「私は、奴に比べればいくらか才覚に劣るだろう」

 

 謙遜ではなかった。事実を、淡々と述べているだけの声だった。

 

「だが、このフスベの実質的なトップを、他の者に譲ることはできなかった。たとえそれが、伝統の外の形であろうと」

 

 その言葉を聞いた瞬間、クシノの中で、すとんと落ちるものがあった。

 

 得心。

 

 ワタルが言った「フスベのことは、イブキに任せる」という一言。あれは、放棄でも、無関心でもなかった。

 

 ワタルは、イブキを信頼しているのだ。自分が外へ出て、融和という道を選んだ後も、フスベという場所を、この女なら守り抜くと知っている。だからこそ、一切の口を挟まない。

 

 そしてそれは、ワタル自身が外の世界で生きていくための、覚悟の裏返しでもあった。故郷を、信頼できる者に託せたからこそ、彼は迷いなく前を向いていられる。

 

 さらに、クシノの中でもう一つの事実が繋がっていく。

 

 イブキほどの能力があれば、ワタルのように、外で生きることもできたはずだ。だが、彼女はそうしなかった。

 

 伝統を捨てきれない者たち、呪いのような信念の中でしか生きられない者たち。その最後の希望であり続けることを、イブキは自ら選び取ったのだ。

 

 強さの種類が違うだけで、その覚悟の重さは、ワタルのそれと、なんら変わらない。

 

「……優しい人や、あんたは」

 

 考えるより先に、言葉がこぼれていた。誰かに聞かせるためというより、自分の中で像を結んだ理解に、思わず声が追いついてしまったような呟きだった。

 

 イブキは何も言わなかった。咎めもせず、否定もせず、ただ一瞬だけ、その言葉を宙に置いたまま、視線を殻へと戻した。前回のような刺々しさは、そこにはなかった。

 

 イブキは、殻を両手でしっかりと包み込んだまま、誰に向けるでもなく呟いた。

 

「なぜ、ワタルはボールを直したのだろうな」

 

 答えを期待した声ではなかった。繰り返し自分に投げかけてきた問いを、もう一度、虚空に放っただけのようだった。

 

 クシノは、一瞬だけ迷った。

 

 これに答えることは、依頼人であるワタルとの間にあった信頼を、勝手に切り売りすることに等しい。修理台の上で交わされた言葉は、修理台の上に留め置くべきものだと、自分に何度も言い聞かせてきたはずだった。

 

 だが、ここまでの道のりを共に歩いてきた今、これ以上黙っていることの方が、何か別の不誠実に思えた。

 

「人間に、なれた記録だと言うとりましたよ」

 

 短い答えだった。ワタル自身の言葉として、あくまで引用の形を取る。せめてもの、義理立てだった。

 

 不義理だという自覚はあった。それでも、口にした。

 

 イブキは、その言葉をしばらく噛み締めるように、沈黙していた。

 

 事実は、今、確かに手に入った。だが、それで納得できたわけではなかった。

 

「ワタルの考えは、今も分からない」

 

 ようやく、彼女が口を開く。

 

「あれが正しかったのかどうか、私には判断がつかない。これからも、つかないだろう」

 

 視線が、殻の金色に落ちる。

 

「だが」

 

 言葉を選ぶように、間を置く。

 

「あれが外に、可能性を求めた男だと言うのなら」

 

 イブキは殻を、両手でしっかりと包み込んだ。

 

「私は、中に求める。それだけのことだ」

 

 イブキの唇が、ごく小さく動いた。

 

「このボールは、奴が伝統の中から生まれた証明なんだ」

 

 誰に語るでもない、自分自身への呟きだった。ワタルがどこへ行き、何を選び取ろうとも、この一族の土から生まれ落ちたという事実だけは、決して消えない。

 

「世話になった」

 

 イブキが、二度目の礼を口にする。前回よりも、深い一礼だった。

 

 クシノは短く頭を下げ、部屋を辞す。

 

 板張りの廊下を歩きながら、クシノはもう振り返らなかった。

 

 フスベの街を後にする。

 

 いびつな街並みは、相変わらず近代と伝統の間で、まだら模様のまま止まっている。だが、その景色が、来た時とは少しだけ違って見えた。

 

 止まっているのではなく、ゆっくりと、それぞれのやり方で、前に進もうとしている途中なのかもしれない。

 

 クシノはそう思いながら、ヤマブキへの帰路についた。

 

 

 フスベへの返却から数日後、クシノは再びエンジュシティへと車を走らせていた。板張りの一室に残してきたはずの重い静けさが、ヤマブキを経由し、エンジュの空気に触れた途端、少しずつ薄れていく。同じ「伝統」という言葉を背負った土地でも、匂いも温度も、まるで違う。

 

 蔵の敷地は、前回訪れた時よりもさらに活気を取り戻していた。足場は外れ、外壁の補修も終わっている。従業員の数も、心なしか増えたように見えた。

 

 母屋の小上がりで、クシノとサガラは契約の最終段階に差し掛かった書類を前にしている。ブランド名、パッケージ、初回出荷の規模。数字の面では、もう詰めの段階だった。

 

「最後に、施設全体の改修についてです」

 

 クシノは新しい資料を広げる。

 

「醸造設備の更新、衛生基準への適合、動線の見直し。老朽化した木造の仕込み蔵についても、壁と床を含めて、内装を一新します」

 

 一つ目。物理的な提案だった。

 

 サガラは、これまで通り大きく頷きかけた。だが、クシノは続けた。

 

「それと、造り方についても、一つご提案があります」

 

 クシノは資料の別の頁を開く。

 

「全国流通に耐えうる、安定した品質管理のためです。生酛造りから、乳酸を添加する速醸法への切り替えを検討していただけませんか。手間も時間も、大幅に短縮できます」

 

 二つ目。物理的な壁だけでなく、造りそのものへの提案だった。

 

 サガラの頷きが、途中で止まった。

 

 まず、速醸法への切り替えという一言に、表情が硬くなる。長年、蔵に棲みつく菌だけを信じて造ってきた製法を、手放せというに等しい提案だった。

 

「それは」

 

 言いかけて、口をつぐむ。

 

 クシノはそれを見届けてから、もう一つの提案に話を戻した。

 

「それと、先ほどの内装刷新の件ですが。仕込み蔵の壁も、床も、一度きれいに造り替えます」

 

「内装、いうんは、あの仕込み蔵の壁も、ですか」

 

 声のトーンが、また一段、沈む。

 

 二つの提案。片方は造り方そのもの、もう片方は建物そのもの。精神と、物質。どちらも、これまでサガラが「なんぼでも好きにしてもろて構わへん」と言い切ってきたはずの領域だった。

 

 だが、いざ両方を目の前に突きつけられると、彼の口は、どちらの話題でも重くなった。

 

 クシノはその二重の沈黙を、見逃さなかった。

 

 道具でも、看板でも、これほどの躊躇を見せたことはなかった男だ。効率だけを求めるなら、迷う理由のない二つの提案のはずだった。それなのに、両方とも、同じ質の重さで、この男を黙らせている。ワインの熟成に、あえて機械の温度管理を導入するかと問われた老舗の蔵元が見せる顔に、よく似ていた。

 

 説明を求めるまでもなかった。

 

「サガラさん」

 

 クシノは静かに、しかし迷いのない声で告げた。

 

「あなたが躊躇したそれを、守っていきましょう」

 

 一拍置いて、続ける。

 

「私たちが欲しているのは、その伝統と、歴史です」

 

 数字でも、ブランド名でも、流通網でもない。この蔵がこれまで積み重ねてきた時間そのものこそが、クシノにとっての本当の目当てだった。

 

 サガラは、しばらく声を出せずにいた。

 

 驚きと、安堵と、もう一つ別の感情が、皺の深い顔の上で入り混じっている。長年、なんぼでも差し出す覚悟でいたはずのものを、差し出す前に取り上げられた。そんな顔だった。

 

 クシノには、説明されるまでもなく分かっていた。

 

 生酛造りは、手間ばかりかかって割に合わない造り方だ。サガラ自身、それは百も承知だろう。だが、それは何十年もかけて、この男が体で覚えてきたやり方だ。効率を優先して速醸法に切り替えれば、造る手間は減る。だが、それはもう、サガラの酒ではなく、どこにでもある酒になる。

 

 そして、あの仕込み蔵の壁と柱には、何代もかけて棲みついた菌がいる。削り取って新しい建材に張り替えれば、その菌は二度と戻らない。金を積んでも買い戻せない、蔵そのものに刻まれた時間だ。

 

 体に染み込んだ技と、建物に棲みついた時間。数字には現れない、この二つこそが、サガラの酒をサガラの酒たらしめている核だった。

 

 看板を変えることも、造り方に口を出されることも、従業員を守るためならすべて差し出すつもりでいた。サガラ自身、そう信じ切っていたはずだった。

 

 だが、クシノに先回りされて初めて分かった。自分でも気づかないまま、絶対に手放せないものが、二つとも、そこにあった。

 

 クシノは資料の該当箇所に、静かにペンを走らせる。

 

「造り方は、生酛のままで結構です。壁と柱にも、手を付けません。設備は最新にしますが、あなたの体に染み込んだやり方と、あの菌が棲む場所だけは、そのまま残しましょう」

 

 サガラが顔を上げる。

 

 その目に、これまでとは違う色が宿った。

 

 安堵でも、感謝でもない。もっと静かな、確かな信頼の色だった。

 

 従業員を守るためだけの決断だったはずだった。だが今、自分自身の技も、誇りも、両方とも守られる道があるのだと、初めて気づいた顔だった。

 

「あんたに任せて、良かったですわ」

 

 サガラは深く頭を下げた。

 

 蔵を後にしたクシノは、エンジュの夕暮れの中を歩く。

 

 フスベでは、伝統の外にいる者が踏み込むべきではない領域を見極め、あえて手を引いた。ここエンジュでは、伝統の中にいる者自身が気づいていなかった領域を、外から気づかせることになった。

 

 守るべきものの正体は、いつも、それを失いかけて初めて像を結ぶ。

 

 イブキも、サガラも、自分が本当は何を手放せないのかを、最後まで分かっていなかった。分かっていたのは、いつも、その傍らに立つ者だけだった。

 

 クシノは小さく息を吐き、夕暮れのエンジュを後にした。

 

 

 クシノが帰宅すると、リビングにはすでに小さな盆が用意されていた。

 

 猪口が二つ、小皿には彩り豊かな一品が並んでいる。生地にも餡にも、きのみがふんだんに使われていた。果肉の粒がそのまま覗く断面は、見るからに瑞々しい。

 

「持ち帰った清酒、美味しそうだったから。ついでに、私も何か作りたくなって」

 

 深い理由はない。ただ、美味い酒を、より美味く飲みたい。それだけの、単純な動機だった。

 

 クシノは一つ手に取り、口に運ぶ。

 

 きのみの甘酸っぱさが、口の中にじわりと広がる。計算され尽くした一皿ではない。ただ、アヤカが「美味しい」と思うものを、素直に形にしただけの菓子だった。

 

 だが、それが清酒の余韻と、思いのほか良く馴染む。狙って合わせたものではないからこその、飾らない相性の良さだった。

 

「これ、美味いな」

 

「でしょう。きのみ、多めに入れてみたの」

 

 満足げな声だった。誰かに評価されるためではなく、ただ自分が食べたいものを作った、という気安さがそこにある。

 

 クシノは持ち帰ったエンジュの清酒を、猪口に注ぐ。

 

 二人でしばらく、無言で酒と菓子を味わう。今日の仕事の詳細を、アヤカは聞かない。クシノも、詳しくは語らない。ただ、隣に座り、同じ酒を飲んでいるという事実だけで、十分だった。

 

「今日で、一区切りついたの?」

 

「ああ。大きい山を、二つ」

 

 それだけで、アヤカは十分だというように頷いた。

 

 しばらくして、アヤカが思い出したように口を開く。

 

「そういえば、あの雑誌の編集部から、また連絡来てたわよ」

 

 クシノの眉が、わずかに動く。

 

「次号で、フォロー記事を組みたいんですって。革靴の件と、農園の拡張、それから今回の清酒事業のことも、ちゃんと数字付きで扱いたいって」

 

「……ふうん」

 

 素っ気ない返事だったが、その口元には、隠しきれない満足が浮かんでいた。

 

「で、取材、受けるの?」

 

「さあ、どうしょうかな」

 

 即答は避けたが、拒む気配はない。あの日の「もう断る」という啖呵は、いつの間にか、有耶無耶になっていた。

 

 アヤカはそれを見て、くすりと笑う。

 

「あんなに怒ってたくせに」

 

「うるさいわ」

 

 二人分の猪口が、静かに触れ合う。

 

 硬質な音が、リビングに小さく響いた。

 

 窓の外には、ヤマブキシティの夜景が、いつも通りの光を灯している。フスベの重い静けさも、エンジュの湿った土間の匂いも、ここにはない。ただ、いつもの夜が、いつも通りに続いているだけだった。

 

 クシノは猪口を傾け、きのみの甘みが効いた菓子にもう一つ手を伸ばした。




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